02

 ブレザーのポケットが震えた。時刻は12時30分、ちょうど昼休みということもあって千鶴はお箸を置いて携帯を見た。折りたたみ式のそれには小学校とある。千鶴は弾かれたように席を立つと廊下に出た。

「はい、依田です」
「笹塚小学校 養護教諭の田代と申します」
「薙羽哉がいつもお世話になっております。あの、なにか?」
「実は…薙羽哉くん、熱があるみたいで…。今は37度くらいなんですけど、たぶんこれから上がると思うんです。お迎えに来られますか?」
「…ッ 今からそちらに向かいます」
「いえ、一応教師なので依田さんのおうちの事情は存じております。依田さんも高校生なんですし、私も今日は出張もないので、来れるのなら放課後で大丈夫ですよ」
「そんな、申し訳ないです」
「良いんですよ。学生の本分は勉強ですから」
「あの、本当にありがとうございます。授業が終わったらすぐに向かいますので、それまでよろしくお願いします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 甘えさせてもらった親切な養護教諭には何度も頭を下げて謝罪と感謝の言葉を贈った。薙羽哉の熱は千鶴が小学校に着いた頃には38度6分もあり、うなされていた。眠ったままの薙羽哉を背負い、彼のランドセルと自分のスクールバッグは前に無理やり背負った。
 薙羽哉の担任や養護教諭は車で出勤していないので、車がなくて申し訳ないです、と口をそろえて言った。けれど千鶴としてもさすがにそこまで甘えるつもりはなかったので、大丈夫ですよと答えておいた。
 慌てて駆け込んだ近所のクリニックで風邪だと診断されて意外にたくさんの薬をもらった。解熱剤だけ薬局で飲ませてもらって、残りは薙羽哉を背負うために後ろに回した手に持った。
 ぽたり、と千鶴に雫が一つ落ちた。春先で着込んでいると暑いし薄手だと肌寒い陽気が続いているので、千鶴は始め自分の汗かと思った。けれどそれがぽたぽたと続くと千鶴はやっと雨が降り出したことに気がついた。仕方なしにコンビニに立ち寄った。
 コンビニに入ると他のお客さんからぎょっと見られた。まあ、確かにすごい荷物ではある。目当てのレインコートを見つけて少しの間薙羽哉に立っていてもらう。ブレザーは濡れると面倒なので脱いでランドセルに入れさせてもらった。レインコートを買って薙羽哉に着せると、千鶴を心配する声がか細く聞こえた。

「どうもおへんよ。薙羽哉は風邪引いとるんやから、ちゃんと着いや」

 薙羽哉は元々限界だった。だからか言い返すことはなく大人しくいうことを聞いた。再びよいせと薙羽哉を背負って、先ほどより強くなった雨の中に飛び込んだ。髪の毛は表面だけお風呂上がりのように濡れた。カーディガンやワイシャツも同様で、肌に張り付いて、ベタベタして不快だった。早足で帰りたいところだが、20数キロもある薙羽哉を背負ってではノロノロのヨロヨロが関の山だ。
 10分ほど歩いた時、一際雨が打つ音が大きくなった。けれど髪や肩を打っていた雨の小さな衝撃は感じない。千鶴は後ろを振り返った。北央学園の制服を着ている青年が千鶴に傘を差し出していた。

「ご厚意は嬉しいのですが、私にはもう傘を持つ手がないので、すみません」

 丁重にお断りしようとすると、せめて荷物を持つと言われてしまった。彼らは学生であるし、変なことはしないと思う。現に今、とても親切な顔をしてくれている。

「じゃあ、お言葉にあまえて、笹原までお願いします」
「あ、須藤先輩もその辺りじゃないですか?」

 須藤と呼ばれた先輩は短く肯定した。千鶴はというと、須藤、と頭の中で考えていた。千鶴は大人に好かれることが多い。目上の人なので敬意を払って接しているし、祖父母をよく手伝っていた姿を見てきているからだと思う。なので千鶴はご近所付き合いはしっかりしている。同じ町内会なら、もしや、と思ったのだ。

「あの、須藤さんのお宅って白い壁にレンガ色のタイルの屋根のおうちですか?お庭にカモミールが咲いてる…」
「多分そうだと思いますよ。花の名前までは知りませんけど、白い花なら母が育てています」
「やっぱり、私は依田千鶴、こっちは弟の薙羽哉です。私たち、須藤さんちの隣の伊織と表札にある家に住んでいるんです」

 大きな通りや駅の辺りで別れた。今はお隣さんの須藤さんだけだ。須藤さんは自分のスクールバッグを千鶴のより外側にかけて、濡れないようにしてくれている。それに傘だって千鶴に傾けてくれている。彼の何も言わない優しさがしみた。
 家の前まで来ると、ちょうど須藤さんの家のドアが開いた。

「おかえりなさい」
「こんにちは、須藤さんの奥様」
「あらあら、ずぶ濡れじゃないの。それに薙羽哉くん、熱があるんじゃないの?顔が真っ赤よ」
「はい、今病院の帰りで。雨が降ってきてしまって、仕方なく濡れて帰っていたら、途中で息子さんに助けられました」
「暁人もガラじゃないことするわね。立ち話して体冷やしちゃうといけないから、とりあえずうちに上がって行きなさい」
「いえ、奥様。すぐ隣ですから、大丈夫ですよ」
「そんな格好のままおうちへ帰っても薙羽哉くんのお布団引いたりなんなりしてる間に体が冷えちゃうわ。まだ春なんだし、あなたが風邪をひいたら大変よ?上がっていって、うちでお風呂はいっていって。その間薙羽哉くんは私がみるから」
「でも…」
「母さんもそう言ってる事だし、上がれば?」

 奥様だけでなく須藤さんにまで言われてしまった。眉尻を大げさに下げて千鶴はお願いします、と一礼した。それに奥様は満足そうに頷く。
 私の服は水を吸っていて、とても家には上がれないのでひとまず靴下とカーディガンを脱いでドアの外で絞った。百合子さん(奥様は堅苦しいと言われた)はカゴを持ってきてくれて、その中に入れさせてもらった。須藤さんは靴下だけ脱いで家に上がると着替えるためか二階へ行ってしまった。千鶴は百合子さんに案内されて風呂場に行く。道中では須藤さんが先に入るべきだと言ったが、千鶴のほうが濡れているしお客様なのだから。と却下されてしまった。百合子さんは軽く風呂場の使い方を教えてから、着替えは用意しておくけど下着は自分のをつけて欲しいと言った。それに返事をすると百合子さんは薙羽哉を抱えて風呂場を後にする。
 千鶴は濡れたスカートやワイシャツを脱いだ。下に着ていたキャミソールを脱いだ時、トントンとノックの音が聞こえた。開けるぞ、と須藤さんの声が聞こえて千鶴はパニックを起こした。待ってがどもって、「待っ…!」としか言えなかった。少しだけ横開きのドアが開いて、その隙間からにゅっと白い腕が入る。その手にはTシャツやジャージなど、着替えが握られている。洗面台の上にそれを置いた時、はたと気がついた。

「…わるい」
「っっ…!」

 彼と鏡越しに目があった。反射で手に持っていた濡れたキャミソールを胸のあたりに押し当てつつ、しゃがみこんで鏡から姿を消した。静かにドアを閉まり、足音が遠ざかっていく。

「鏡はノーマークだった…」

 千鶴は赤みが引かない頬のまま、熱めのシャワーに当たった。
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