薬指のメレダイヤ


 成人したら時間が過ぎるのはあっという間だよ、と社会人になった先輩に言われた事ですらつい最近のように思える。当時まだ大学生だった私にはたった2つしか歳の変わらないその先輩が身に纏う新品のスーツが随分と大人っぽく感じられた。成人したばかりの大学生というのは、所詮はモラトリアムを漂う子どもの延長線上にいるようなものだ。けれどもそれも束の間で、就活という人生のターニングポイントとも呼べる壁が立ちはだかり、何とか新卒で内定を決めた会社での配属先は北海道だった。生まれてからこれまでずっと稲妻町にある実家に住んでいた私だが、大学の卒業式を経て初めての一人暮らしを北海道で迎えることになった。


「キミが北海道に来てもう2年?早いなあ」
 夜景が綺麗に見えるレストランでグラスを揺らす彼は映画のワンシーンのように様になっている。まるでその夜景も、小洒落たレストランも、ワイングラスの内側で悩ましげに揺れる透き通った白ワインでさえも、すべてが彼を演出する為に存在しているのではないかと思わされるくらいなのだ。そんな彼と目を合わせてしまえば視界がくらくらとして倒れ込んでしまいそうで、私は誤魔化すようにして自分のワイングラスに視線を落とした。
「早いよねえ。私、こっちでの生活にもすっかり慣れてきた気がする」
「あ、でもホームシックになってた頃のなまえちゃんは可愛かったよ」
「…そういう意地悪なことを言う吹雪くんは全然可愛くない」
「僕は男だから良いんだよ」
 その甘いルックスで散々異性を虜にしてきた癖によく言うものだと言ってやりたかったが、こういう時の彼には何を言っても言い負かされるだけだ。私は経験上これ以上言い返すことは得策ではないと早々に反撃を諦めて食べかけのパスタを丁寧にフォークに巻き付ける。今日のパスタはクリームとレモンのタッリアテッレ。銀のフォークに少しずつ絡ませて口へ運んでいく。濃厚だけどレモンの風味のおかげですっきりした味わいで美味しい。吹雪くんが選ぶお店はいつもセンスが良いと思う。少し価格帯は高いけれども相応のもてなしが保証されているし、それに社会人にはいくらご褒美があっても良いのだと私はこの数年で学んだ。
「これ、すごく美味しい」
「よかった。なまえちゃんは本当に美味しそうに食べるね」
 咀嚼し終えたら再びくるくるとパスタを巻き付けて口へ運ぶ。それを繰り返している私を吹雪くんは満足そうに見ているから、つくづく良い性格をしていると思う。私からしてみれば食べ辛い事この上ないと言うのに、それをわかってやっている。
「円堂くんと夏未さんの結婚式、もうすぐだね。飛行機とホテルはなまえちゃんが取ってくれたんだよね?ありがとう」
「気にしないで、吹雪くんは忙しいもの。こうして一緒に食事ができることが貴重なくらい。…それに結婚式に呼ばれるなんて初めてだから凄く緊張しちゃいそうだけど、吹雪くんがいるなら安心だし」
「結婚式なら僕だって初めてさ。まさか円堂くん達が一番乗りなんてね」
「…びっくりしたけど、でもあの2人ならきっと上手くやれそう」
 電話越しに夏未ちゃんから報告を受けたときの事を思い出す。彼女の声は落ち着いているようでもどこかに穏やかな幸福が滲んでいた。

 この歳になると自ずとそういった話題が知人の間でも飛び交うようになってくる。誰と誰が結婚するだとか、式はいつ挙げるのだとか、はたまた子どもが産まれるだとか。近頃は晩婚化が進んでいるとニュースでも目にするしそもそも結婚を選ばない人だって増えている。結婚が女の幸せであるなんていうのはとうの昔の話なのだ。だからそういう話題を耳にするたびに純粋におめでたいと思う気持ちはあれど焦るようなことはなかった。けれども思い出すのはまだあどけなく笑う少年少女そのものだった友人達の姿で、ただ過ぎていく時間の早さを突き付けられるような気がした。長く親交がある友人はサッカー関係者が多い。彼らは現役のプロサッカー選手として活躍していたり、サッカー関連の団体に勤めていたり、或いは若くして財閥の社長になっていたり。とんでもない人達と関わってきたものだと我ながら関心するくらい。たった今私の目の前で微笑んでいる彼もそのうちの1人だ。私はといえば一般企業に入社してようやく新人感の抜けてきたごく普通の会社員といったところで、後輩ができて仕事もなんとか板についてきた程度だ。考えすぎだと思っていても自分だけがあまりに平凡でありきたりで、大人になっても何も変わっていないような気がしていた。それは私が慣れ親しんだ土地を離れて吹雪くんしか知り合いのいない北海道まで来たことも原因のひとつかもしれない。

「なまえちゃん、いつもお疲れさま。疲れてない?」
「…突然どうしたの?私は吹雪くんにそう言って貰えるほどのことはしてないわ」
「そんなことないよ。なまえちゃんはいつも頑張ってるじゃないか。一人で北海道まで来て、ずっと」
「そんなの…大人になったんだから当たり前よ。それを言うなら私だって吹雪くんに沢山お疲れさまって言いたいし」
「あはは。それじゃお互いにお疲れさま、だね」
 吹雪くんは笑いながらまたグラスに口を付ける。私もつられるようにワインを一口飲んだ。
「それともうひとつ言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なあに、吹雪くん」
「その吹雪くんって呼び方、そろそろやめて欲しいなあ」
 いつの間にかパスタは食べ終わっていて、フォークを手に取ってどうにかしてはぐらかそうとした私の手は行き場を失ってそのままテーブルの下に落ち着いた。彼と目を合わせるべきなのに、自分でも理由がわからないまま何故か私は逃げるように目を伏せることしか出来なかった。
「…なまえちゃん、」
「わ、分かってる」
「分かってるって、本当に?僕達も結婚したらなまえちゃんも吹雪になるんだよ」
 僕がなまえちゃんの名字になるかもしれないけどね。軽い口調で言うと彼は何事もなかったかのように店員を呼び止めてあらかじめコースで注文されていたデザートを運んで貰うように頼んだ。私は、その鮮やかなまでの一連の所作をただじっと見ているだけ。結婚、とか。何だか他人事のようだった。同い年の友人が結婚をしてもどこか自分には縁のない話だと決め付けていた。けれども確かに私と吹雪くんの恋愛としての付き合いは長く、そもそも私が仕事で北海道に配属されたことをすんなり受け入れられたのも彼の存在が大きい。一緒にいたい、彼に近づきたい。気付いていないふりをしても、燻るその気持ちは明白だった。吹雪くんも同じように思ってくれているのならそういう事を考え始めても何もおかしくない時期なのだと思う。彼が私に愛想を尽かす、なんてことがない限り別れることはないだろうし、私だってこの歳になって他に好きな人ができることはもうないと言いきれる。それくらい、いつしか私の持つ時間や思考や感情はすべて吹雪くんに委ねられていたから。
「……士郎くん?」
「うん」
「…不思議な感じ」
「慣れたら普通になるよ。ちょっとずつね」
「えぇ…。じゃあ、慣れたら士郎くんがプロポーズしてくれるの?」
「あはは、良いね。そうしよう」
 押されっぱなしでいるのはなんだか悔しくて、せめてものプライドで固めた私の言葉を彼は容易く解くのではなく丸ごと包むように受け入れてくれる。きっと私はそういうところが好きなのだと思う。
「頑張ってね。僕はいつまで待ってあげられるか分からないから」
「え?」
 それは、どういう意味なんだろう。聞き返そうとすればちょうどデザートがテーブルに運ばれてきて開きかけた口を咄嗟に閉じた。真っ白なお皿に映えるそれはまさしく私の大好きなティラミスで、とりあえず今は目の前のことに徹してしまおうとフォークを手に取った私を士郎くんはまた満足そうに見ていた。