帰る場所



 私は王帝月ノ宮サッカー部のマネージャーをしていた。マネージャーと言っても選手である彼らを直接的にサポートするというよりは他のチームの情報収集やデータ分析がメインで、その合間を縫って選手達の身の回りの雑務をこなしていた。アレスの天秤による教育を受けているアレスクラスターの中でも特に身体能力の優れた者達で作られたサッカー部はフットボールフロンティアで優勝しアレスの天秤の功績をその身を以って大々的に証明する為に負けることは許されなかった。故に彼らは好きでサッカーをする為に集まったのではなく、あくまでプログラムのPRの一環としてボールを蹴り続けているだけだ。そんな境遇を抱えながらも絶対的な強さを持っていたように思われた王帝月ノ宮サッカー部も、ついには当初の目的を果たすことなくフットボールフロンティアでは準優勝という形で幕を閉じた。それでも彼らは身体や精神を蝕むプログラムの柵からは完全に解放され、サッカー部もその日限りで解散することとなった。
 マネージャーという立場であれど私にとって当たり前だった部活がぱったりとなくなって、御堂院の失脚とアレスシステムの廃止によって王帝月ノ宮中を取り巻く環境は目まぐるしく変わろうとしていた。そんなさなかに野坂くんと西蔭くんはフットボールフロンティア世界大会の日本代表選手に選ばれて学校を離れることになった。世界の舞台へ向かう彼らを見た王帝月ノ宮の選手達は、アレスに囚われない純粋なサッカーをする為にサッカー部を正式な部活動として存続させることを決めた。彼らは好きで始めたわけではないサッカーを今度は自分たちで選び、自由にボールを蹴ることができる喜びを感じているようだった。その時に私もマネージャーに復帰してほしいと声をかけて貰ったが、私はそれを決めかねていた。私がマネージャーとして選手達に認められ、必要としてくれたことはとても嬉しかった。けれどもそもそも私がマネージャーをしていたのもアレスの天秤による適性を見出されたからであってそこに自分の意思はない。プログラムを受けることがなくなった今、私には自分の意思がどこにあるのかまだ分からないでいた。サッカーに対して思い入れのない私がサッカーを純粋に好きになり本気で打ち込もうとしている彼らの輪に入ることは、なんだか水を差してしまうようで気が引けた。皆が徐々に取り戻し始めた人間らしい本来の感情を、私だけがまだどこか遠くに置き去りにしたままでいるような気がするのだ。そんな私を見た彼らはそれ以上何かを言うことはなく、気が向いたら声を掛けてほしいとだけ言ってまたボールを追いかけて行った。大人の汚い都合に利用されて酷い目に遭っていたというのに、それでもサッカー部のみんなは優しかった。

 連日、テレビではFFIアジア予選の試合の様子が中継されている。現代におけるサッカーがもたらす世間への影響は大きく、サッカーと関わりのない一般人でもその大会のことくらいは誰でも知っている。部活もなく勉強にも飽きてきた頃に私は寮に設置されたテレビでそれを見ていた。画面に映る元チームメイトの野坂くんや西蔭くんは私が知る姿よりも随分と生き生きしているように見える。淡々と指示を出し勝つためだけにプレーする姿はもうない。それは今の王帝月ノ宮サッカー部の彼らから感じるものによく似ている。特に野坂くんは日本代表チームの中でも頭ひとつ抜けた優秀なプレイヤーとしてかなり注目されているようで、テレビ中継でも彼が切り抜かれることが多かった。
 …遠くなったな。
 口に出したわけではないのに、私はふと溢れた心の声に思わず手で口を塞いだ。テレビに映る彼を見て私は今、何を考えたのだろうか。羨望、懐古、焦燥。突然湧き出てくる感情たちにどくどくと鼓動が早くなる。それらの正体を知っている気がするけれど、思い出すことも気が遠くなるくらい久しぶりすぎて私の身には余る感情だ。いよいよ気分が悪くなってくると震える手でリモコンを手繰り寄せてなんとかテレビの電源を消した。最後に画面に映っていたのは、やはり野坂くんだった。


 なんとなくサッカー部のみんなの事が気になって毎日の練習場であるグラウンドをこっそりと覗きに行くようになった。以前は毎日顔を合わせていた彼らも私が部活に復帰しないことによって接触する機会が極端に減った。学年が同じメンバーは言葉を交わすこともあったが学年が異なるメンバーに関しては殆どすれ違う事すらなかった。久しぶりにサッカーをする彼らを見ていると、FFIの中継を見たときのような胸を締め付けられる苦しさを感じた。けれども気が付けばボールを追う彼らから目が離せなくなっていた。
 その日の放課後も、自分の時間潰しも兼ねて友人の日直の仕事を手伝ってからグラウンドへ向かった。しかし珍しくこの日はスタメンである部員達はその場に居ないらしく、私の知らない選手達が声を掛け合いパス練習をしているだけだった。サッカー部が今の姿になってから入部希望者が増えたのだと葉音くんや谷崎くんが教えてくれたっけ。
「君はサッカー部に戻らなかったんだ」
「わっ…!」
 ここには自分しかいないと油断しきっていたところに突然背後から声をかけられて、私は情けない声をあげて手に持っていたスクールバックを落としてしまった。
「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」
「私こそ…突然声出してごめん。久しぶりだね、野坂くん」
「うん。久しぶり、みょうじさん」
 見慣れないジャージを着た野坂くんは私のそばまでやってくると落とされたままのスクールバッグを拾い上げてくれた。慌ててお礼を言ってバッグを受け取った時に、久しぶりに野坂くんと真っ直ぐ目が合った。どこか未来を見据えているような達観した瞳は私のよく知るそれと何ら変わりないように見える。
「…帰ってきてたんだ。おかえりなさい」
「ありがとう。これからイナズマジャパンとしてロシアに発つから、その前に皆に挨拶をしに来たんだよ」
「ロシア…そっか。西蔭くんも一緒?」
「西蔭ならみんなと部室にいるよ。ああそうだ、河口湖のお土産があるからみょうじさんも後で取りに来てくれるかな」
「え?わ、私はそんな…」
「みんながいる部室は入りづらい?」
 私が考えていることを何もかも見透かしているような聡い野坂くんについ視線を逸らしてしまった。わかっているのなら、そうやって足を踏み入れて来ないで欲しい。このままではそんな八つ当たりのようなやるせない気持ちまで、私がどんなに抵抗しても彼には丸裸にされてしまいそうだ。
「それより…アジア予選テレビで観てたよ。野坂くん達が日本代表として活躍してるの、凄くかっこよかった。またきな臭いことに巻き込まれてるみたいだけど大丈夫?」
「あはは、やっぱり君にはお見通しだったんだね。本戦の相手は今までよりもっと手強くなるだろうけど、勝ち抜いて正しいサッカーを守ってみせるよ」
「…気を付けてね。応援してる」
 彼にはとっくにバレているだろうけど何とか話題を逸らすことに成功した私はほっと息を吐いた。グラウンドではさっきまでパス練をしていた部員達が今度はドリブルの練習を始めていた。それをぼんやりと眺めながら私と野坂くんの間にはただ沈黙が流れる。
「みょうじさんは、サッカー好きじゃない?」
「…分からない。嫌いではないよ」
「ふうん。僕は君はサッカーが好きなんだと思ってたけど」
 …どういう意味だろう。私は野坂くんの方を見たけれど、彼は変わらずグランドにいる部員たちを見ている。
「君は今みたいに、僕たちの試合や練習の様子をよく見ていたよね」
「それは選手のデータ分析が私の仕事だったから」
「そうだね。けど、そうだとしても毎日のようにそうしていた。君なら基礎練ひとつにそこまで目を配らなくとも選手のコンディションを分かっていたはずだよ」
「それは…」
 まるで喉に何かがつっかえたかのように言葉が出てこない。確かに私はみんながボールを蹴る姿を見ることは気に入っていたしその時間は居心地が良かった。サッカーはチームプレーだ。個々のデータだけでは予測しきれないことが試合で発揮されるというのを何度も目にして来たからそれが面白いと思う。そして何より11人全員でボールを繋ぎ点を獲る彼らを見ていると不思議と胸が熱くなれるのだ。
「君は選手の癖やプレースタイルの分析に長けているだろう?一星くん…イナズマジャパンにもそういう選手がいるんだ。でも彼は優秀なフィールドプレーヤーでもあるから、試合中に分析に集中して貰うことはその間にチームがリスクを背負うことになる。そこで君のようなマネージャーがいれば、その負担を軽減することが出来る」
「えっと、光栄だけども流石に買い被りすぎだと思う…」
「…回りくどい言い方はやめようか。僕は君がまた王帝月ノ宮サッカー部に入ってくれたら嬉しい。この世界大会の後に僕達はまたここに帰ってくる。そこに君がいて欲しいんだ」
 私の真正面に立った野坂くんは片手を私に差し出した。その時私の右手がまるで彼の手を取れとでも言うかのようにじんわりと熱くなった。否、本当の私の心はとっくに答えを決めている。
「僕の帰る場所になって。そうしたら僕も、君が帰る場所になるから」
「…なんだか告白されてるみたい。誰かに見られたら勘違いされちゃうかも」
 痒くなるような台詞をさらっと言ってみせても、彼にはそれが様になっているのだからずるいと思う。こっちが恥ずかしくて堪らなくなってきて私は茶化すように笑うことしか出来なかった。それでも野坂くんは私を真っ直ぐに見つめたまま表情を崩さない。
「勘違いされてもいいよ。まあ、一番勘違いして欲しい人には冗談だと受け取られてるみたいだけど」
 野坂くんが少し笑って、ようやくぴんと張り詰めた糸のようだった空気が和らいだ。けれども今度はその解けた糸が私の身体中に絡みついて、もう一歩たりともその場から動くことを許されない。思わずごくんと唾を呑み込んだ。
「野坂、くん……」
「うん?部に戻る気になった?」
「……うん」
「あはは、それはよかった。早くみんなにも伝えに行こうか」
 こんなんじゃ彼の掌の上で転がされているだけだ。そうは思っても私は野坂くんに与えられる言葉ひとつにしてもいとも簡単に踊らされてしまう。けれども今はまだ、それに気付かないふりをしていよう。いつか私のこの気持ちを彼に伝えられるようになるまで。