わん



 夜10時。今日のシフトを終えてオペレーター室を出ると人気のない通路の先に人影が見えて私は思わず溜息を吐いた。歩幅もスピードも変えることなくその人影の方へ歩いて行くと思った通り、制服姿の犬飼くんが立っていた。私が通っていた普通校とは違う進学校の制服は、よく見慣れていたそれよりも随分洗練されているように見える。言い過ぎかもしれないけれど、進学校の子達はその風貌からいかにも都会の高校生という感じがする。この時間にそんな高校生が仕事場に居残っているのは些か問題ではあるのだが、それを彼に言ったところで上手く躱されてどうせ効果がないことを分かりきっているので無駄に訴えることはやめた。
「なまえさん、お疲れさま。なまえさんの好きなコーヒーってこれで合ってた?」
「そうだけど…くれるの?」
「いやいや、今の流れでおれがこれ飲んだら性格悪すぎない?それにおれはこっちあるから」
「ごめん、ちょっとからかってみただけ。ありがと」
「ひどいなー」
 彼は当たり前のように私の隣に並びようやく帰路に着くようだ。よく見ると彼は缶コーヒーを持っている方とは反対の手にぶどうジュースの缶を持っていた。本部の中はともかく今日は一日中冷え込むから暖かくしましょうとSNSのニュースで目にしたけれど、その缶は見るからに冷え切っている。季節に関わらず犬飼くんがそのジュースを飲んでいるのをよく目にするからきっとお気に入りなのだろう。これまた当たり前のように手渡されたコーヒーも確かに最近の私のお気に入りの銘柄で、寒くなってきたこの時期にぴったりの温かいタイプだ。早速缶のフタを開けてコーヒーを一口飲むと、買ったばかりだったのかまだ熱い液体が体温を内側から上げてくれるようでほっとする。犬飼くんとは家の方角は同じだけれども本来わざわざ一緒に帰る必要なんてないし私達は甘ったるさを纏った関係でもない。けれどもこうして飲み物を片手に一緒に本部から帰ることはこれが初めてではない。

 犬飼くんはコミュ力の化身なのではないかというほどに巧みに人の心に入り込む。その人懐っこい性格で年下も年上も関係なく自分のペースに巻き込んでいく、暴力的にフレンドリーな男の子だ。それでも後輩からは慕われ、同級生とは気安く、そして先輩には可愛がられている、彼は世渡り上手なのだと思う。
 私はそんな犬飼くんより一つ上の先輩という立場だ。春に高校を卒業してからは大学に通いつつ、その傍らでボーダーの隊付きオペレーターから本部オペレーターに転属しこれまでより本格的にボーダーでの仕事に打ち込むようになった。昨年まで同級生と組んでいた隊はそれぞれの受験を理由に解体し、私のようにボーダーに残る者と辞める者で分かれた。高校卒業というのはちょうどそういうタイミングだった。隊付きのオペレーターの頃から犬飼くんとは交流がありランク戦や戦術についてお互いの意見を言い合ったり、全く関係のないドラマや漫画の話で盛り上がったりすることもあった。私はてっきりそれは犬飼くんなりのコミュニケーションツールのひとつで、私以外の隊員やオペレーター達にもそうしているのだと思っていた。事実、自分が所属する隊以外の人の意見というのは客観的に良い点や悪い点を洗い出せるからボーダー隊員にとっては珍しいことではない。けれども大学生活が馴染んできた頃から一変して私たちの距離感はいつの間にかボーダーの先輩後輩の関係と呼ぶには些か首を傾げてしまうようなものになっていた。自意識過剰かもしれないということを差し引いても犬飼くんは私に特別構っていると思う。気が付いた時には既に名前で呼ばれるようになっていたし、敬語も外れていた。現に二宮さんには私が犬飼くんと付き合っているのだと思われていたようで、否定はしたものの疑っているようだった。二宮さん以外にも同級生の柿崎くんに同じようなことを言われた。本部内で一緒にいることが多くなっていた所為であらぬ誤解が広がっていたのかもしれない。だから私はその誤解を解きつつ不必要にオペレーター室の外を歩き回ることをやめた。その結果が今に至るわけで、彼は私のシフトが終わるのを時たま待ち伏せるようになった。

「なまえさん、明日もボーダー来る?」
「来ないよ。明日実家に帰って、月曜までは戻らない予定」
「ふうん。またあのわんちゃん達?」
「…悪い?」
「悪くはないけどつまんないなー」
 私の実家は一人暮らしをしているこの家から電車で20分程度の近場にある。大学やボーダー本部に近いからという理由で実家を出て今の家に住むようになってからも実家で可愛がっていた犬に無性に会いたくなる時があって、そんな動機でちょくちょく実家に帰っている。両親には呆れた顔をされるけれど、私はそんなものが気にならないくらいに溺愛しているのだ。
「ねえ、おれもよく犬みたいって言われるんだけど。荒船とかに」
「荒船くんって犬嫌いじゃなかった?きみら実は仲悪いの?」
「話逸らさないでよ。なまえさんは犬好きでしょ?あと荒船とは仲良いから」
 犬飼くんの目が真っ直ぐに私を捉えた。その楽しそうに細められた目が苦手だ。彼はもうとっくに何もかも分かっているくせに、それでもわざわざ私の口から私の胸の内を晒そうとする。
「…犬飼くんは全然犬っぽくないよ。人懐っこいしいい子だけど飼い主の言うことなんてこれっぽっちも聞かなそう」
「そんなことないよ?なまえさんの言うことならちゃんと聞くのに」
「どの口が言ってんの」
 えーとかひどいとか不満そうな台詞を口にしながらもやっぱり犬飼くんは楽しそうだ。犬飼くんが本当に犬だったとしたら散歩の時とか大変だろうな。リードを持っているこっちが引っ張られて連れ回されて、その癖ご近所さんなんかには大人しく甘えて可愛がられていそう。そんなくだらない妄想が浮かんで思わず口元が緩んだ。大変そうだけど、悪くはないだろう。
「まあ、でも犬飼くんなんだから、どっちかと言うと犬を飼う側なんじゃない?」
 これは私がずっと思っていたことだ。彼はどちらかと言うと犬ではなく、すぐに噛み付くような犬すらも懐柔させている飼い主の方が似合っている気がする。簡単に手懐けられて、甘やかされて愛されて、きっと犬飼くんなしでは生きていけなくなってしまうのだ。
「ふぅん。じゃあなまえさんがわんちゃんだ」
「そうは言ってないでしょ」
「わんって言ってみて」
「絶対に嫌」
「なまえさ〜ん、おねがい」
「…………わん」
「はは、やった」
「馬鹿じゃないの」
 目を光らせる後輩に上手いように扱われているのは重々分かっているけれど、犬飼くんは私が嫌がれば嫌がるほどに面白がるに違いない。そっちの方がよっぽど面倒だ。
「なまえさん、ちょっとおれに甘すぎじゃない?他の人にもそうなの?心配になるなー」
「……」
 犬飼くんにだけだよとでも言えばこの男は満足するのだろうか。現にそれは間違いでもないから納得がいかない。私があからさまに苦虫を噛み潰したような顔をしてみせると彼は言わなくても分かるけどね、とあえて私の感情を逆撫でするようなことを言う。
「ねえ、今日なまえさんの家行って良い?」
「…私は明日実家に帰るって言った」
「拗ねないでよ。っていうか今日は帰るんでしょ?」
「親御さんが心配するよ」
「今日はボーダーに泊まるって言ってあるから大丈夫」
 にっと笑う目の前の男に私は大きな溜息を吐いた。ホットコーヒーを飲んで温まった身体と夜の冷え込んだ空気がせめぎ合って息が白く色付いた。呆れる私の手を引っ張って帰るのは私の家。やっぱり犬飼くんは、まるで犬とは程遠い。