「……俺と、付き合って欲しいんだけど、」
それは、高専に入学して数ヶ月が経過した頃の事だった。
放課後を迎えても未だに肌を指す様な日差しが降り注ぐ中、火照った頬でそう告げた五条くんの照れた様な仕草は、昨日のことの様に思い出せる。それほどまでにこの日の彼との記憶は、今もまだ私だけの夜空の中で一等輝く星のように鮮やかな色彩を放っていた。
【僕らの愛は人類にはまだ早い】
「いいよ」
告白する時でさえ「好き」という言葉を織り交ぜようとしなかった五条くんの事を「彼らしいなぁ」と思いつつ、彼に倣う様に短く返事を返した。すると五条くんは、てっきり断られるとばかり思っていたのか、夏の雲ひとつない昼空を思わせる青い瞳を見開いて、弾かれた様にその整った顔を上げて見せた。
桜色の血色の良い唇が音を紡ぐよりも早く、先ほどからいくつかの視線を感じていた高専内の二階の窓辺から「返事は〜?」という夏油くんの声高らかな問いかけが聞こえてきて、二人してそちらの方へと視線を投げる。「アイツ…、」と憎たらしげに小さく唸った五条くんは、夏油くんを静かに睨みつけ反応を返そうとはしていないようだった。そんな彼の様子を見かねて、いや、少しの意地悪をするつもりで、私は夏油くんの方へ体を向けて「まるー!!」と両手で大きな円を作り、声を張って見せた。
それは空気を震わせて夏油くんや硝子に届き、ヒューヒューと賑やかしの指笛でもって冷やかしを受ける。それは主に五条くんへと向けられた物なのだろうなと察しつつも「ありがと〜」と笑って返せば、すぐ横で「お前なぁ、」と呆れた様な、焦った様な声音で咎められた。怒らせちゃったかな。と一抹の不安を抱えながら五条くんの方へと視線を向ければ、彼の頬と耳がまるで夕日に照らされているかの様に真っ赤に彩られていた。
「これからよろしくね、五条くん」
見せ物じゃねぇんだよ。と未だにこちらの様子を見守っている同級生達を追い払う様に「しっしっ」と手を振っている五条くんに、微笑みながら声を掛ける。すると彼は、困った様な表情を見せた後、彼にしては珍しく言葉少なに「…ん、よろしく」と歯切れの悪い返事を返したのだった。
―――――――――――
「お前さ、何で俺と付き合おうと思ったの」
あれから数日後の放課後。私は半ば五条くんを引っ張る様にして、アイスが入ったクレープを食べたいと都内の街中に繰り出していた。
二人で並んで歩いているとき、五条くんと私との間にはまるで彼の術式で無限が広がっているかの様に、一定の距離が生まれていた。その距離は決して遠いものではないけれど、恋人同士の距離としては、少しだけ壁を感じる距離感の様に思えてしまう。私がそんなふうに思っていることなど露知らず、五条くんはお目当てのクレープに齧り付いていた。
「何でって、五条くんのことが好きだったからだよ」
「…お前、今までそんな仕草見せたことなかっただろ」
「…そうかな?でも、ちゃんと意識はしてたんだよ」
何でもないことのように告げて、「私のも食べてみる?」とまだ数口しか口をつけていなかったクレープを彼の前へと差し出した。すると五条くんは「じゃあ俺のもやる」と言って、私の手元のクレープを受け取る代わりに自分が手にしていたクレープを手渡して来た。そして、先ほどまで私が口にしていたクレープに躊躇うことなく口を付ける。その流れるまでの動作に目を奪われていれば、熱を乗せたその視線に気付いたのか、五条くんの視線が私のそれと重なった。
「食べねぇの?」
「…食べるよ」
私が選んだ物とは異なる味のそれを、一口齧る。すでに溶け始めている苺味のアイスと生クリーム、チョコレートを口に含めば、途端に広がる甘さとこの夢の様な時間が重なって混じり合う。やがてそれは、暮相に飲み込まれる様に溶けていった。
その日を境に、私は五条くんに時間がありそうな時を見計らって色々な場所に彼を連れ出すようになった。元々東京生まれで東京育ちの為、中学生の頃によく友達と遊びに行った場所や、男の子でも楽しめそうな場所などは知っているつもりだった。
場所によっては二人で行くこともあれば、夏油くんや硝子を誘って遊びに出かけることもあった。きっと二人よりも、四人で遊びに出掛けることの方が回数としては多かっただろう。だってその方が、五条くんは楽しいだろうと思ったから。実際に夏油くんとふざけて笑い合っている彼は一等楽しそうだったし、その姿を見ているだけで心が満たされる思いがした。だから、これからもこういう日々が続けばいいと、心から願っていた。その気持ちに、偽りはない。
「五条くん」
私がそう呼ぶと、最初は気まずそうに眉を寄せられた。けれど、彼と恋人という仲になってから1ヶ月が過ぎる頃には、五条くんは名前を呼ぶとちゃんと返事を返してくれる様になって、「なぁ、この間駅前に出来たスイーツブッフェやってるとこ知ってる?」などと言って彼から私のことを誘ってくれる様になっていた。
五条くんから声が掛かる時は大抵スイーツ巡りが目的なため、きっと甘いものに目がない私のことを利用してのことだとはわかっている。けれど、それでも彼の方から誘ってくれることは心が弾むほどに嬉しくて、「彼に本気で惚れてはいけない」という自分への戒めにも似た鎖が緩んでしまう危うさを感じていた。
「五条くん、」
彼の名前を口にするたびに、少しではあるけど、私たちの間に流れる雰囲気や空気感が変化していくような、そんな違和感を確かに感じ取っていた。
前までは二人で並んで歩いていても私たちの間には確かに踏み込むことの出来ない無限が拡がっていたのに、今では互いの手がまるで引き寄せられるかの様に重なり合うことも、珍しくはない。私の体温がそっと彼に移るたび、五条くんの表情を盗み見る。その度に、期待に高鳴るこの胸を何度止めたくなったかわからない。なんで、どうして、という言葉を飲み込んでは、踏み込んでは行けない泥濘へと体が沈み込んでいく感覚を確かに感じ取っていた。
「ごじょう、くん、」
静かな夏の夜、私達二人以外誰もいない寮の薄暗い部屋で、私は五条くんに縫い止められるが如く狭いベッドの上に組み敷かれていた。
お盆の期間に差し掛かり、皆が帰省しているために静まり返ったこの寮内に、私達の所在を気にする人はいない。その事実が故か、もしくは室内をほんのりと照らす満月の朧げな光の妖しさに充てられたのか、暗い室内でもありありと分かるほどに、五条くんの瞳には煌々と情欲の色が滲んでいた。
「ん…っ、ぁ!ゃ、だ、…っ、ふ、ぁ…!」
お願いだから、もうこれ以上私に触れないで欲しい。
お願いだから、そんな顔で私のことを見ないで欲しい。
嫌、やめてよ。そう弱々しく彼を拒否する浅ましく何処までも愚かなおんなの声が、彼の口の中で音を成さず泡沫が如く消えていく。
「ごじょうくん…っ」
「…何?」
明確な意思を持って彼の名前を呼べば、甘やかな声と口付けでもって応えてくれる。その行為が、優しさが、私をひどく陶酔させた。
貴方のことを想う気持ちくらい、貴方も私の事を好きになって欲しい。もしそれが出来ないのであれば、一度でいいから貴方の口から「好きだ」という言の葉を貰いたい。
心の奥底に繋ぎ止め、重い錨で沈めていたはずのそれが箍を外し、馬鹿になった頭でひたすらに「好き」「大好き」と言いたくもない彼への想いが唇から溢れ出てしまう。そんなことをしても自分が傷付くだけだと知りながら紡ぐ言葉の数々は、私の心を少しずつ蝕んで行った。
******
「夏休みはあの子と何処かに出掛けたの?」
「あー、まぁ何回かな。いつものスイーツ巡りだけど」
「ふぅん。何だ、案外上手くいってるんじゃないか」
それは、新学期を迎えてすぐのことだった。
昼休みが終わる為、硝子と教室に戻ろうとしたところで聞こえて来た二人の話し声に、思わず硝子の手を引いて足を止める。
「上手くっつーか…。元はと言えばお前のせいだろ?」
「私の?彼女が欲しいって言ってたのは悟だろ」
「…確かに言ったけど、何でよりにもよって二人しかいない内の一人に告白させんだよ」
これは聞いてはいけない話だと、瞬時に理解した。
続く言葉を聞かない様に、動揺から強張る体を叱責して、足を後方へと引きずる。
「お前のせいで別れ時が分かんなくて付き合ってるだけだから、勘違いすんなよ。つーか、これいつまで続ければ良い訳?もう十分やっただろ」
まだ記憶に新しい夏の夜に確かに彼の意志でもって組み敷かれた体が、あの時の痛みを思い出す様に悲鳴を上げた。
いつか、彼との関係に終わりが来ることは分かっていた。けれどこんな形で唐突に終わりが来ることなど望んでいなかったし、こんな終わり方を想像することすら出来ていなかった。
正しい始まり方をしなかった私達が、正しい終わり方なんて迎えられるはずがないのに、どうして今頃になってそれに気づいてしまったのだろう。
「っ、」
滲んだ視界をそのままに、宛もなく足を動かす。
何処でも良い。誰も知らない、誰もいない場所に行ければ、それで良かった。
「おい!待てよ…ッ!!」
自分の足音に混ざって、後方から彼の声と地面を蹴る音が聞こえてくる。
何で、どうして。そんな思いが、胸の中を駆け巡る。私のことなんてどうでもいいのなら、もうこのまま放っておいてくれればいいのに。肺がひゅうひゅうと焼ける様に痛み、酸素をひどく求める様になった頃、後方へと振りかぶった腕が強く引かれ、体が大きく傾いた。
「…何で逃げるんだよ」
そんなこと、聞かなくてもわかるくせに。
涙で濡れる顔を見られない様に下を向き、強く掴まれている手首を自分の方へと引き寄せる。けれど彼の力に適うはずもなく引き返されて、半ば諦める様に口を開いた。
「五条くんが、追いかけてくるからだよ」
「…お前、さっきの話どこまで聞いてた?」
ため息混じりの問いに、また涙が溢れてくる。私の心はこんなにも傷ついていて胸が痛くて堪らないのに、零れ落ちてくるのはただの透明な雫だけで、どう足掻いても彼にこの胸の痛みを伝えることはできない。分かってなど貰えない。それがとても、悔しかった。
「…別れよう」
涙声で、けれどはっきりとした口調で告げれば、いつもよりも幾らか低い声で彼が「は?」と音を紡ぐ。ずっと下を向いたままでいるから彼の表情を窺い知ることはできないけれど、それでいいと思った。だって、もう、終わりなのだから。これ以上彼のことを知る必要も、ないのだから。
「本当はね、五条くんは私の事なんて好きじゃないって、気付いてたの。きっと、夏油くんと賭けでもして、負けたんでしょ?」
「…それは、」
「いいの。気付いた上で、どんな反応するのかなって気になって、「いいよ」って言った私も悪いから、それについては怒ってないよ」
少しだけ言葉と言葉の間を設けて五条くんの反応を窺う。けれど、基本的には器用なくせに、こういった事に関しては途端に不器用になる彼は、私に掛けるべき適切な言葉が見つからないのか、口を開く事はなかった。そしてその彼の行動が、私の中の「五条くんがここまで私を追いかけてきてくれた」という最後の期待を打ち砕いたのだった。
「…私は、五条くんの事が好きだったから、付き合ってくれるなら少しでも私の事を好きになってくれたら良いなって思ってた。だから、頑張ってデートにも誘ってた。でも、いつ振られるか分からなかったから、怖くて、これ以上五条くんのことを好きにならない様に一生懸命我慢してたの」
私の言葉に、何を言おうとしているのか気付いたのらしい五条くんが、私の手を引く。
けれど私は、彼のことを拒絶する様にその手を振り払った。
「…最初からね、どう頑張っても五条くんは私の事を好きになってくれないんだなって分かったら、ちゃんと私から終わらせようって決めてたの」
「っ、さっきのは、」
「だから、さようなら。五条くん」
再び歩き出した時には、もう五条くんが私の後を追ってくることはなかった。
きっと五条くんも今頃私と別れることが出来て、念願叶ったくらいの清々しい気持ちでいるのだろう。
そんな事を考えながら再び堰を切ったように流れてくる涙をそのままに、一度も後ろを振り返る事なく高専内の敷地を後にする。勝手にこんなことをして、きっと後でとても怒られることだろう。けれど今回は、私のなけなしの理性でもってしてもこの場に留まることはできなかった。だってそんな事をしたら、きっと私の心は後戻り出来ないくらいにひび割れてしまっていただろうから。
その夜は、まるで私の心のかたちを投影したかのように下弦の月が頼りない光を放っていた。
――――――――――――
あの後、確かに私の心は何度も引き裂かれ、癒えない傷を負った。けれど、だからと言って京都校に転校するなんていう大袈裟な事はしなかったし、この身が引き裂かれそうなほどの心の傷を負ったとしても、世界は関係なく一定の時を刻んでいく。それに、五条くんへのあてつけのためだけに悲劇のヒロインを気取るなど馬鹿らしいと思い、前よりも薄っぺらい笑みを浮かべる様にはなってしまったなという自覚は抱きつつも、いつも通りに学び舎に通い、勉学に励んでいた。けれど、私がこうして日常を取り戻せたのも、ひとえに夏油くんの存在があったからこそだと思う。
あの後五条くんは、私に何か言いたいことがあるのか事あるごとに話しかけてきて、「話がある」と言って来た。けれど私は今更彼と話す事なんて何もないからと断り続けていれば、夏油くんがそんな私達の様子を見かねたのか、それとも少なからずこうなる原因を作ってしまった事についての贖罪のつもりなのか、五条くんとの間に入って私たちが一定の距離を保ち、今まで通りの「同級生」に戻れる様に仲を取り持ってくれていた。だから、夏油くんに対して嫌な気持ちは一切抱いていないし、寧ろ私が本来夏油くんが意図した形での罰ゲームに乗っからなかった為に起こった、謂わば自業自得な出来事だったのだと、夏油くんに謝りもした。当然のように朗らかに笑って受け止めてくれる夏油くんは優しくて、最初から夏油くんのことを好きになっていればあんな事にはならなかったんだろうなと、胸の内で後悔したことは、冗談でも彼に告げることが出来ずにいた。
「任務で美術館とか個展を見られるっていうのは、数少ない術師の利点だよね」
人気のない静まり返った美術館で、夏油くんと肩を並べて目の前の壁一面に描かれた大きな絵画をぼんやりと眺める。任務でもない限り自らこういった場所に足を運んだりはしないけれど、よく見てみればたまにはこういうところに来て自分には持ちえない感性を感じるというのも悪くないと思った。
「隣にいる相手が私でもか?」
「だからこそでしょ。硝子の次に夏油くんの隣が落ち着くもん」
「私は随分君の中で高い位置にいるんだね」
楽しそうに、嬉しそうに笑って見せた夏油くんは、最近疲れた表情を見せる様になっていた。階級が特級に上がってからというものの、当然のことではあるけれど彼は単独任務が増えていった。任務から帰るたびに表情に色がなく、感情が見えない様子に心が落ち着かない思いがする。私は、あの表情の意味を、知っている。だからこそ、夏油くんのことが気になって仕方がなかった。あれは、そんな時に起こった出来事だった。
数日後、任務のため夏油くんと二人で訪れた場所は、人里離れた小さな集落だった。
集落に入ってすぐに、事前に窓から報告を受けていた呪霊の存在が確認できた為に祓除を済ませ、事後報告という形で村の責任者らしき人に話をすれば、此度の怪奇現象の原因を捕らえていると告げられた。既に問題の呪霊は祓っているし、何かの間違いだろうとは思いつつも村人の後をついて行った。もしかしたら呪具か何かがあるのかもしれないと思ってのことだったが、それであればこちらで回収してしまえば良いだけの問題であるし、態々夏油くんに対応して貰う必要もない。だから、この時私は彼にそう伝えて、先に戻るよう伝えるべきだったのだと、後の祭りだとは理解しつつも、何度も何度もこの時の事を悔やみ続けていた。
村人の後に続き辿り着いた先では、まるで動物を囲うかの様な木製の檻の中に、痩せ細った子供が怯えるように、けれど確かな憎悪の眼差しをこちらに向けながら身を寄せ合っていた。
私達の背後では、呪いの何たるかを知らない人間たちが、この村で起こる出来事の元凶はこの子供達のせいなのだと、あらぬ妄想を捲し立ててくる。何を根拠にそんなことを言うのだと真っ向から否定したくなる気持ちを抱くも、横から感じる威圧感に肺が押し潰されるような感覚を抱き、上手く言葉を発することができない。
「黙って。もういいから、黙ってよ…!」
必死の思いで紡いだ言葉は彼らに届くことはなく、隣に立つ夏油くんの怒りに火を焼べていく。その火花が散ってしまう前に、私は夏油くんへと手を伸ばした。
「夏油くん。この先は私でも対応できるから、貴方は先に高専に戻ってて」
ぎゅう、と強く彼の服の裾を握り、切に訴えかける。見上げた先に映った彼の唇は音もなく「ごめん」という言葉を象っていたように見えた。
「っ、…」
次に目を開けた時、私は血の海の中に横たわっていた。鈍痛は感じるが腹が裂かれたような鋭い痛みも、強い痛みも感じない。べっとりと体に纏わり付く血液は全て返り血だと気付いた時、私は考えるよりも先に鈍い痛みを訴える体を引き摺るようにして、建物の外へと飛び出していた。
村の至る所に残された彼の残穢に惑わされながらも、より気配の強いそれを辿って、必死に足を動かし彼へと繋がる糸を手繰り寄せていく。
「夏油くんッ!!」
先ほど檻の中にいた女の子達の手を引いて歩く彼の姿を見つけ、私はありったけの声を張り上げて、彼を引き止める。何度も足を縺れさせながら彼の前へと辿り着けば、夏油くんは帰り血で濡れた端正な顔に、苦痛の色を乗せていた。何で来たんだよ。暗にそう言われたようで、彼の苦痛の色が私へと塗り重ねられていく。
「何処に行くつもりなの…?」
「君の知らないところだよ」
「…嫌だ。一緒に高専に帰ろうよ、夏油くん」
背中と右肩から感じる鈍痛が、胸の奥まで突き刺すような痛みを与えてくる。呼吸もままならないくらいに息が乱れて、視界が何度も滲んでは彼の姿を捉え、熱い雫が流れる度に頬についた鮮血を落としていった。
「君ももう分かっているはずだろ?私はもう、君と同じ場所には帰れないんだよ」
「っ、わかんない、わかんないよ…!だって私、何も見てないし、何も知らない…!私が気付けてないだけで、きっと何かあったんでしょ…?」
「…残念だけど、君が見た残穢の通りさ。馬鹿な猿どもに心底腹が立った。だから、一人残らず私が殺したんだ」
夏油くんの独白に、言葉を失う。
この場で弁明なり、言い訳なりを並べてくれれば、一緒になって必死に上層部を納得させられるように二人で偽装工作をしようと考えていた。それによって私がどんな処遇を受ける事になったとしても、それでもいいとさえ思っていた。甘んじて受け入れようと思っていた。それなのに。
「…夏油くんがいなくなっちゃったら、残された私たちは、どうなるの?」
「心配せずとも、君達には今まで通りの明日がやってくるじゃないか」
「…そんな訳ないじゃない。夏油くんは、夏油くんがいなくなった世界がどれほど寂しくて、悲しいかわかってない。夏油くんがいてくれるから、今息ができてる人も、いるんだよ」
ざり、と嫌に耳に響く足音を立てながら、夏油くんが一歩ずつ近付いてくる。その口元は緩く弧を描いているけれど、それに反して彼の端正な顔の上には、何の感情の色も浮かべられてはいかなかった。
距離が近づくに連れ、彼の体内で錬れられる呪力の質量が増していく。
「…ねぇ、お願いだよ、夏油くん」
一緒に、帰ろうよ。
恐怖に震えながらも必死で紡いだ私の声と記憶は、彼によって喉元をきつく締められた光景を最後に途絶えていた。
******
頬を撫ぜる優しい風に乗って、緑のほのかな香りが鼻腔をくすぐった。
沈んでいた意識が浮上する感覚に瞼を開ければ、木の目が細かく見える天井が視界を彩っていた。見覚えがあるかといわれれば馴染みはない天井だったけれど、何となく高専内の一室なんだろうなと感じながら視線を彷徨わせれば、傍に見慣れた白藍がシーツに溶け込んでいるのが目に映る。
窓辺へと目を向ければ窓が少しだけ開かれていて、外気を取り込んでいる。黄昏時の木枯らしが彼の髪を揺らす様を見て、このままでは彼が風邪をひいてしまうと思い、最後にいつ触れたのかも思い出せないほど久方ぶりに彼の肩に触れ、「五条くん」と声を掛けた。
「ん…、」と愚図るような低い声を小さく上げた後、彼は疲れた様子で顔をあげ、やがて水を頭から被せられたが如く目を見開いた。意識がはっきりしたらしい五条くんは私の身体の真横へと手をつき、近い距離で様子を窺うように覗き込んでくる。彼の緊迫感に気圧されながらも視線を合わせれば、やがて彼の髪と同色の白藍に縁取られた青がぎゅっと苦しげに細められた。
「…身体は平気?痛いとこはない?」
「…大丈夫だよ」
自分から発せられたひどく掠れた声に驚いて、自らの喉元に手を当てる。どうしてだろうと疑問に思ったが、ここに来る前の記憶をまるで夢でも見ていたかのように朧げに思い出し、「あぁそうか」と合点がいった。
「…よかった。硝子呼んで来るから、ちょっと待ってろ」
心からの安堵の息を吐き、けれど私に気を遣ったのか席を立とうとした五条くんの腕を掴み、引き止める。私を気遣ってくれる気持ちは嬉しかったけれど、今はそれよりも、彼に謝りたい気持ちの方がずっとずっと強かったのだ。
「夏油くんのこと、止められなくてごめんなさい」
「…お前は何も悪くないだろ」
まるで「見て来た」ような物言いに、彼の真意が窺えず言葉に詰まる。けれどあの場所はきっと調査や諸々の作業を行うためすでに封鎖されているだろうし、今回の件に関してはいくら五条くんの目を持ってしても、全てを知ることはできなかっただろう。
「…どうして、そう言い切れるの?」
「…此処に運ばれて来た時、首絞められた痕が残ってたから」
血に濡れて、首を絞められた痕が残っていたという私の姿は、きっと彼に嫌な思い出を植えつけてしまったのだろう。まるで自分のことのように苦痛の表情を浮かべながら私の首筋に触れる五条くんの指に触れながら、彼の名前をそっとなぞるように口にする。すると、それに応えるように暖かな温もりが私の体を覆い隠した。
「…五条くん?」
まるで私の体温を確かめるように、ぐり、と頭に頬を寄せられる。今の彼に何と声を掛ければいいか分からず視線を所在なさげに彷徨わせていれば、やがて五条くんは声にならない声を上げて、私という存在をこの世に繋ぎ止めるかのように、私の身体をつよくつよく抱き締めてきた。
「…生きて帰って来てくれて、ありがとう」
そっと手のひらに触れられて、まるで恋焦がれる相手にそうするかのように指を一本一本絡め取られていく。言外に、もう離さないと言われているように感じられる彼の行動に、ぎゅう、と強く胸が締め付けられる思いがする。
五条くんが私に弱った姿を見せたのは後にも先にもこの時だけだったけれど、私はそんな五条くんの姿を見て、「五条くんを置いてはいけない」と強く思ってしまった。夏油くんに続いて私まで失うことになってしまったのならば、彼の中の何かが瓦解して彼が彼ではなくなってしまうかのような、そんな危うさを抱えているように見えたのだ。
*******
夏油くんが私達の日常からいなくなってしまってから、五条くんは毎日を忙しなく過ごしていた。
後進を育てると言って小学生の男の子を連れてきたり、高専の教師になるために学ぶべき事を学んだりと、目標に向かって真っ直ぐに突き進んで行く五条くんは、しっかりと前を向いているように見えた。
五条くんにとって夏油くんは、たった一人のかけがえのない親友だったはずなのに、ただの仲のいい同級生だった私の方が、相当彼の事を引き摺っているように思えた。
「お前、傑と仲良かったもんな」
寂しいよな。そう言って、偶に彼の事を思い出しては、彼を引き止められなかった事について後悔の念から涙を流す私を慰めてくれる五条くんは、優しいけれど、どこか彼らしくないように思えた。
私の知っている五条くんは、夏油くんの隣でふざけて笑いあって、年相応の悪戯っぽい無邪気な笑みを浮かべている。それこそが、彼の本来の姿だと私は思う。私が恋焦がれ、好きで堪らなかった五条くんの笑顔。今ではその片鱗を、前よりも穏やかになった笑顔の下に隠してしまっていた。それが、何よりも辛かった。見ていられなかったのだ。
「夏油くん…ッ!!」
いつかの時のように心臓が早鐘を打ち、ひゅうひゅうと肺が苦しげに音を立てて軋んでいる。
強く地面を蹴りすぎた事により足裏に鋭い痛みを感じながら、掴んだ手の先にいる旧友の名前を悲痛な思いで呼び止める。すると彼は、「しょうがないな」という感情を滲ませた優しげな表情で私を見下ろしたのだった。その懐かしい表情に、まるでそうすることを許されたかのように涙が堰を切って零れ落ちてくる。
あれから私は、「君の知らないところ」という言葉を頼りに、毎日のように宛もなく都内を歩き回っていた。けれど、来る日も明くる日も、夏油くんの存在を感じる事は出来なかった。もうダメかもしれない。夏油くんは、私とは会ってくれる気がないのかもしれない。何度もそう思った。けれど、一抹の望みに賭けて「私は此処にいるよ」と、彼に気づいて貰えるように呪力を調整し、歩いていた。無理をしているから長くは続けることは出来なかったけれど、それでも、今日やっと夏油くんを見つける事が出来た。
一瞬だけ感じた夏油くんの気配を追うように必死に足を動かしていれば、見えたそれ。人目も憚らず大声を張り上げて彼の名前を叫べば、夏油くんは苦しそうな、ともすれば「私に会いに来てくれてありがとう」と言うかのような笑みを浮かべたのだった。
「首、痛かっただろう。痛い思いをさせてごめんね」
かつて彼にきつく締められた首筋を、するりと撫でられる。
見上げた先の彼の瞳には、しっかりと感情の灯火が宿っていた。それだけで、今夏油くんは彼が彼らしくいられる場所で過ごしているだろう事が窺えて、複雑な思いが胸中を占領していく。
「…ごめんって言うなら、戻ってきてよ」
「それはもう無理だって、前にも言っただろ」
もう、今更後戻りなど出来ないことは当然分かっていた。理解していた。けれど、それでも。私は、私達は、夏油くんと一緒にいたかった。また、四人で肩を並べて歩いたあの夏の中へと、帰りたかったのだ。
「君さえ良ければ、私と一緒に来ないか」
私達を苦しめる元凶も、私達が離れ離れにならなければいけなくなった原因も、私と一緒に来れば終わらせることが出来る。
そう言って差し伸ばされた彼の手は、まるで地獄の底に伝う蜘蛛の糸のようだと思った。細くて、頼りなくて、それでいて、ひとたび切れてしまえば次は無い。私はその糸を、じっと眺めた。
「…私は、五条くんを置いては行けないよ」
夏油くんの手を取ってしまいたくなる弱々しい心に鞭を打って、静かに言葉を返す。今此処で五条くんの名前を出すのはずるいだろうかと夏油くんの反応を窺うように静かに見上げれば、彼は意外にも特に表情に変化を見せることなくその均整の取れた顔に薄く笑みを乗せていた。
「…夏油くんが居なくなったあと、五条くんは変わったよ。夏油くんの影を踏んで歩いてるみたいにちゃんとしてる。…夏油くんがいなくなった途端そうなるなんて、おかしいでしょ?」
「…私がいなくなったことをきっかけに、大人になっただけだろう。良い変化じゃないか」
「…確かにそうかもしれないけど、私には、五条くんが無理をしてるようにしか見えないの」
私達の間に、沈黙が訪れる。
あんなに仲の良かった五条くんの名前を出しても、夏油くんは決して私の手を取ろうとはしなかった。
でも、彼の気持ちは痛いほど分かる。だって、どっちの手を取ったとしても、互いに待ち受けているのは互いにとっての地獄でしかないのだから。
それが分かっていても私は、彼をこのまま帰すことは出来なかった。
「…ねぇ、夏油くん。お願いだから、戻ってきてよ。高専に戻って来てとは言わないから、それは無理だってことは、わかってるから」
「…」
「五条くんには、夏油くんがいないとダメなんだよ。…私なんて居ても居なくても何にも変わらないだろうけど、夏油くんは、違う。五条くんにとって、夏油くんはたった一人の親友なんだよ」
あの時のように涙を幾重にも流しながら、体温に乗せて彼に思いを伝えるように掴んでいた夏油くんの掌を両の手で包み込んだ。ぴくりと震えた指先は、やがて私からゆっくりと離れていく。分かっていた事だけど、やっぱり私では彼を止めることは出来ないのかと、悔しさから唇を噛み締めた。
「…ごめん。私はあの場所では、生きた心地がしないんだ」
「…ごめんね。夏油くんがずっと辛かったの、気付いてあげられなくて。…なにも、できなくて」
「どうして君が謝るのさ」
涙が流れる頬を、そっと指で撫でられる。
それに促されるように滲む視界の中彼を見上げれば、優しく頭を撫でられた。きっともう最後であろうその温もりに、再び涙と嗚咽が漏れる。胸が苦しくて苦しくて、堪らなかった。
寂しい。寂しいよ、夏油くん。
「…君は居ても居なくても変わらないなんて言っていたけど、そんなことはないよ。君は悟にとって、きっと私よりも大切な存在だ。だから…、」
ゆっくりと、夏油くんの腕が私の方へと伸びてくる。その光景に、いつかの日の彼と、目の前の彼とが重なり合うような強い既視感を覚えた。
『君は、悟と幸せにならないと駄目だよ』
*****
「起きた?」
ひらひらと目の前で手を振られ、いきなり水面下から身体を引き上げられたかのように意識が浮上した。
気付けば高専内の寮の一室にいる状況に目を丸くしつつ、「五条くん、」と私の前に座り込みこちらの顔色を窺っている彼と目を合わせる。
「何で…、私さっきまで…、」
「傑から、お前の事迎えに来いって連絡があったんだよ」
「え、」
「お前の携帯からだったけどな」
またしても夏油くんに何かをされて意識を失っていたらしいことに気付き、はぁ。と深く溜息を吐きながら身体を丸め頭を抱えた。
きっとあれが夏油くんと話が出来る最後の機会だったと思うと、もっと他に掛けるべき言葉があったのではないかなど、後悔が絶えなかった。
「…夏油くんとは、話せた?」
「俺が着いた頃にはもう居なかったよ」
そっか。という私の震えた声音は、あまりにも小さくてちゃんと目の前にいる彼まで届いたか分からない。
自責の念に囚われている私を見かねてか、五条くんがそっと私の隣に腰を落ち着かせる。何度か手のひらが空を切り、やがてそっと、遠慮がちに私の頭を撫でていく。きっと前までの私だったならば、柔くその手を押し退けていたことだろう。けれど今はもうそんな気力も起きなくて、寧ろ温かな彼の体温が心地よいとさえ思ってしまっているのだから、私の心は限界寸前なのだろう。痛みを感じすぎて、傷口から大切な何かが零れ落ちて行ってしまったような、そんな空っぽな心の器を、彼の温かな体温が抱きしめてくれていた。
「…あいつ、何か言ってた?」
「最後に、何か言ってたと思うんだけど…。ごめん、よく思い出せない」
夏油くんが、最後に私に掛けた言葉。確かそれは五条くんに関する事だった気がする為、何とか思い出そうとするも頭に霧が掛かったようにその時の記憶は朧げで、思い出そうと必死になるほどに、体が、頭が思考を拒絶するように不快感が襲い来る。普通ではない感覚に違和感を感じつつも眩暈がする頭を抑えていれば、「もういい」と言うように、そっと五条くんの腕の中に閉じ込められた。
決して同級生の距離感とは言い難いそれに、何で。どうして。と、そんな思いが駆け巡る。けれど同時に、自分よりも体躯の大きい彼の腕や温もりに包まれてひどく安心してしまう自分がいて、あまりにも弱くて単純な自分の心に嫌気が差す。彼とはもう終わった仲なのだと、もう彼のことなんて好きじゃないと言い聞かせたあの日々は何だったのだろうと思うほどに、心が、体が、五条くんの事を欲してしまっている。浅ましくて、誰かに頼っていないと生きられない自分の弱さに、心底腹が立った。
「…少しは落ち着いた?」
自分への嫌悪感や、悔しさ、そして体の内側を何かが駆け巡るかのような不快感から彼に縋り付き静かに涙を流していれば、暫くして耳元で優しく囁くように声を掛けられる。彼のこんな声音を聞くのはいつぶりだろうと考えて、体が小さな燻りを覚えた。そんな思いを霧散させるように頷けば、そっと肩を押され距離を取られる。涙に濡れて泣き腫らした目元など見られたくないと顔を背けようとするも、彼の指で顎を固定されてしまい、身動きが取れなくなる。
「…っ、」
視線だけは合わさないように目線を彼から逸らしていれば、そっと体温を分け合うように唇を重ねられた。そのあまりの優しさに、今まで彼に背を向け続けていた私の心が肩越しに彼を振り返る。繰り返し私の心に触れようとするような口付けに、ぐっと腕を引かれる思いがした。
何で。どうして。
そんな疑問が、一つずつ唇を伝い彼へと吸い込まれていく。
やがて唇を割って入ってきた彼の熱い舌に捕らわれ、何も考えられないほどぐずぐずに思考が溶けていってしまう。それから程なくして、私の体は五条くんによって組み敷かれていた。
五条くんと別れてから、彼に「好き」という想いを向けた事はなかったし、五条くんは今まで一度だってその言葉を私にくれる事はなかった。だからきっと、今も彼はそういった思いで私に触れているわけではないのだと思う。
突然親友を失った事に対する寂しさや悲しさを、私と触れ合い、体温を分け合うかのように溶け合う事で忘れようとしているのだろうか。
もしそうだったなら、その気持ちは分からないでもない。灰原くんがいなくなって、夏油くんまでもが私達の前から姿を消してしまった。私達は、あまりにも多くのものを失ってしまったのだと思う。
ぽっかりと空いてしまった心の溝を埋めるかのように、互いの傷を舐めるように求め合う。
大丈夫だよ。私がいるよ。そう言外に伝えるように彼を優しく抱きしめ、彼から与えられる全てを受け入れた。
そうして気づけば私達は、体だけの関係とは言い難い、言葉として表すにはあまりにも複雑すぎる関係となってしまっていた。
きっと人はこれを、共依存と呼ぶのだろう。
――――――――――――
あれから五条くんは高専で一年生を担当する教師となり、私は彼の圧の掛かった助言により補助監督となる道を選んでいた。
主に五条くんの補佐は伊地知くんが務めていたけれど、最低でも週に一度は彼の送迎係として勝手にスケジュールを変更されてしまうのが常だった。それでなくとも五条くんは定期的に私の住まいであるマンションに転がり込んで来ていたし、任務終わりに夕食を食べに行こうと半ば強制的に連れていかれることも多々あった。つまり、大人になってからも相変わらず私達の言葉では言い表せない関係は続いている。
けれど最近の五条くんは余程忙しいらしく、私のスケジュールが勝手に変更されることもなければ、彼と顔を合わせる機会も著しく減ってしまっていた。そんなある日の事だった。
「…38度か。辛いだろ」
段々とではあるけれど、風邪ともホルモンバランスの乱れとも言い難い倦怠感と発熱の症状が錘となって私の体に纏わりついているような、そんな不快感を伴う何かが私の体を支配していく感覚に侵されていた。最初は気力で何とか出来る程度の怠さだったけれど、熱が上がるにつれ倦怠感は増し、遂には体を動かす事も辛くなってきた為に、こうして硝子の元を訪ねていた。測定完了を告げる電子音が鳴るなり彼女の手によって引き抜かれた体温計には比較的高い体温が表示されていたらしく、それを聞いた途端に身体がまた幾らか重くなったかのような錯覚を覚える。
「五条には私から連絡しておくから、先に五条の部屋で休んでいなよ」
私の額に手を当てた硝子は、私の身体の様子を診る訳でも無く何故か五条くんの名前を口にした。熱の所為か上手く働かない頭で硝子の言葉を繰り返し再生してみるも、何故今ここで彼の名前が出てくるのか理解が及ばなかった。
「…どうして五条くんの部屋なの?」
休むなら、此処でも、私の家でもいいと思うんだけど…。そう思いながら硝子を見上げれば、視線の先にいた彼女は呆れたような、ともすれば驚いたような表情を浮かべていた。
「五条から何も聞いてないのか?」
「…うん。何も聞いてない」
私の返答を聞いた硝子は、眉間に指を押し当てて深く溜息を吐く。その様子から察するに、五条くんはきっと、硝子が「何で言ってないんだよ」と思うような事を、今の今まで私に内緒にしてきたのだろう。
思えばこの体の気怠さや発熱は、ここまで酷くなった事が初めてだというだけで、これまでにも軽度の症状は定期的に起きていた。そしてそれらの症状は、必ず五条くんと会った翌日には綺麗さっぱりなくなっていた。その後また五条くんと会えない日々が続いていくと、熱を持った鉛が身体の中に蓄積していくような感覚に襲われる。その繰り返しだった。そしてこれらの連鎖は、最後に夏油くんと会ったあの日から続いている。
一番の当事者である私が、事の発端や原因に気付かない筈がない。それなのに、見えているであろう事を敢えて言わず、そうする事が当たり前だと言うように私に寄り添い続ける彼は、その胸の内に一体何を抱えているのだろう。ここ数年で縮まったように思えていた彼との距離が、今回の一件でまた遠のいたように感じられた。
「遅くなってごめんね」
硝子に言われた通りに五条くんの部屋で彼の帰りを待っていれば、数刻もしない内に部屋の扉が開かれた。今日も彼のスケジュールはびっしりと埋まっていたはずなのに、忙しい合間を縫って駆け付けてくれたであろう彼に罪悪感を覚える。
せめてちゃんと彼を出迎えるくらいの事はしたいからと、ベッドに横たえていた身体をゆっくりと起こし五条くんと顔を合わせようとすれば、「そのままでいいよ」と優しく頭を撫でられた。高い熱と倦怠感のせいで身体を動かす事が辛かった為、申し訳なく思いつつも彼の言葉に頷いて、室内に置いてあった為に勝手に拝借していた彼の服をぎゅうと胸に抱えながら、布団の中で身体を丸める。
五条くんを視界に捉えた途端に上がり始めた息が、次第に苦しさを増していた。それに加え、熱に浮かされた身体がまるで彼を求めるようにじくじくと疼いている。今までにない強すぎる欲求に、自分が自分でなくなってしまうかのような恐怖を感じていた。
「…五条くん、」
縋るように彼の名前を呼べば、まるで「分かってるよ」と言うかのようにその青い目で見つめられ、微笑まれる。五条くんは昔からかっこよかったけれど、大人になった今ではその色気も相俟って、彼の元々の顔立ちの良さを更に引き立てている。私が五条くんの事を好きになったきっかけは外見だけではないけれど、その整った顔に甘い笑みを浮かべる様には、未だに慣れることができなかった。
五条くんが私の身体を優しく組み敷き、まるで初めてそうするかのように大切に唇を重ねられる。初めは軽く触れ合うだけの口付けが、角度を変えて何度も重なり合う度に深さを増していく。下唇を軽く食まれ無意識の内に緩く唇を開けば、彼の熱く分厚い舌でもって割り開かれる。高い発熱により触れ合う部分から溶けてひとつに混じりあってしまうのではないかという錯覚を覚えながら、例えそうなってしまっても本望だと彼の事を必死で求めてしまう。昔、元々男性と女性はひとつの個体として存在していて、ある日突然半分の存在へと引き離されてしまったが為に自分の半身を求めているのだという物語を読んだことがあった。それを目にした当時はそういう解釈もあるのだなとしか感じていなかったけれど、いざ自分以上に大切だと思える存在が出来た今、あれは実際にあった話なのではないかと馬鹿げたことを考えてしまう。それほどに私は、五条悟という存在に助けられ、そして、生かされていた。
「…五条くん、もう、いいから、」
肌に愛液が伝い落ちる感覚を感じ取りながら、時間をかけて優しく愛撫してくれている彼の手に触れ、その先を強請る。そうすれば、胸の先端に舌を這わせていた五条くんは顔を上げて、少しだけ汗ばんだ私の肌にその端正な顔を寄せ、甘えるように視線を送ってくる。
「そろそろ僕の事、名前で呼んでくれてもいいんじゃない?」
お前から五条くんって呼ばれるの好きだけどさ、やっぱシてる時くらい名前で呼ばれたいよ。
そう言われ、ぐ、と柔く唇を噛み締める。
彼の言い分は理解出来る。けれど、身体は許してもどうしても彼の呼び方だけは素直に変えられる気がせず、私は気まずげに視線を彷徨わせた。
「…今の呼び方のままじゃダメ?」
「どうして?」
どうして。と言われると、中々言葉にして言い表すことが難しく言葉に詰まってしまう。
正直に言えば、彼に抱かれている最中に彼の事を名前で呼ぼうものなら、途端に彼への想いが溢れて止まらず、まるで自分が彼の恋人であるかのように錯覚してしまうことが怖かった。私達はそんなに綺麗な関係では無いはずなのに、あたかもそうであるかのように錯覚してしまう。陶酔してしまう。そうなってしまう事が、ただひたすらに怖かったのだ。
「…だって私達、恋人じゃないでしょ?」
震えそうな声音で紡いだ言葉が彼の耳に届いた後の数秒間、まるで音のない世界に迷いこんでしまったかのような静寂が二人を包み込んだ。それは帳が降りるが如く空気を冷ややかな物へと変化させ、思わずその気まずさや恐怖から逃げるように小さく身動ぎする。すると、何を思ったのか五条くんが私の両手首を掴み、肌触りの良いシーツへと固く縫い付けられた。
「お前さぁ、もう何年もお互いの部屋行き来してヤることもやってんのに、ずっとただの同期か何かだと思ってた訳?」
まるで氷を思わせるほどの冷たく鋭い声音に視線を持ち上げれば、彼の青い瞳が冷ややかに私を見下ろしていた。そのあまりの温度のなさに、ひゅ、と息を呑む。
「…だって、」
「もういいよ。ちょっと黙ってて」
言うが早いか、先程とは打って変わって乱暴に唇を奪われる。まるで噛み付くかのような口付けをされ、思わず逃げるように顔を動かせば、顎を掴まれ顔を固定されてしまう。体勢も相まって彼に支配され無理やり犯されているような状況に、初めて彼に対して恐怖に近い感情を抱いた。
「っ、…や、だ…っ!」
与えられる口付けに気を取られていれば、熱く昂った屹立が泥濘に宛てがわれ、抵抗したい意思に反して十分に蜜で満たされた中は、彼を招き入れるかのように難なく再奥までその熱を受け入れてしまう。こんな雰囲気の中したくなんてないというのに、熱に浮かされた身体はきゅうきゅうと彼の事を締め付け、まるで逃がさないというかのように収縮を繰り返している。五条くんとの間に流れる空気は気まずくて仕方がないというのに、場違いに疼く腹の奥が酷く憎らしかった。
「今日は嫌だって言ってもやめてあげないよ」
「っ、」
五条くんの口から放たれた言葉に抵抗の意思を示そうとした時、無慈悲にもその意志を折るかのように蜜口付近の浅い所から子宮口へと深く、そして激しく抽挿を始められ、悲鳴にも近い喘ぎ声が漏れた。
手首を抑えるように組み敷かれ、お腹側の内壁を擦り付けるように何度も奥を穿たれる。それが堪らなく気持ちよくて、でもそれと同じくらいやめて欲しいとも思ってしまい、心がぐちゃぐちゃに掻き乱される。やめて欲しい、やめて欲しくない。もっとして欲しい。段々と思考と共に理性が溶けて崩れ落ちていく様を感じ取りながら、彼に与えられるがまま快感を享受し、上擦った声で啼き続けた。
「っ…!や、ぁ…っ!それ、らめ…っ、やだ…!」
私が抵抗出来なくなった事を察したのか、五条くんは私の手首を拘束していた手を離し、そのまま私の片足を肩に担ぐように掛けて、ぐっ、とまた更に奥深くにその熱くて硬い男根を押し込んでくる。かと思えば先程と打って変わってぐりぐりと腰を押し付けられた。律動が緩くなった代わりに今度は指で花芽を擦られ、思わず一際大きな反応を示してしまう。そうすれば「これ、好きだよね」と機嫌良さげに笑われ、的確に私の弱い所を刺激される。強過ぎる快感から頬に涙が伝う感触を感じ取りながら、少しでも快感を逃がすように枕を手で握りしめる。それでも意識的に逃がす物よりも与えられる快感の方が圧倒的に強く、腹の奥に疼く熱は高まるばかりで、ぎゅう、と足の指先でシーツにさざ波を立てた。
「ほら、イけよ」
「ぁあ…っ!?や、ぁ…っ、〜〜っ!」
グンッと腰を一際強く打ち付けられ、きゅ、と花芽を刺激されれば襲い来る快感の波にいとも容易く呑まれてしまう。まるで彼にそう言われたから果てたような状況になってしまった事を恥じながら、達したばかりでびくびくと震える身体を落ち着かせるように力を抜いて息を吐く。けれど今日の彼は息をつく暇すら与えてくれる気はないのか、もう抵抗する気力すらないというのに両脚を抱えられ、激しく腰を打ち付けられた。
「〜〜〜っ!ら、め…っ、いった、ばっか…だから、…っ!」
やだやだと首を左右に振っても、五条くんは一向に動きを止めてくれる気配を見せない。今日は本当に彼の宣言通り、嫌だと言っても止めてくれる気はないんだろうなと諦めにも似た感情を抱きながら、ただひたすらに五条くんの熱が収まるのを待ち、彼から与えられる強過ぎる快感を必死に受け止めていた。
「ぁ…っ!?ゃ、だ…っ、もぅ、それ、だめ…っ!」
子宮口にとんとんと押し当てるような深い抽挿が緩められ、かと思えばまた花芽をくり、と指で擦るように刺激される。言外に果てろと言われているかのようなその容赦のない行為に、身体が悲鳴をあげるかのように腹の奥が酷く疼いた。
「ん、…ふ、ぁ…っ!い、っちゃ、…ぁあっ…!」
強過ぎる快感から逃げようと無意識の内に腰が浮き、びくびくと身体が震える。その様を見た五条くんは満足気に笑って見せ、私の両脚に手をかけてろくに力も入らないそれを左右に開き、私の体に覆い被さってくる。快感から涙を流しぐずぐずになってしまっている私を見下ろし、まるで愛しいものを見るかのように眦を下げ綺麗な笑みを浮かべてみせる五条くんの姿に、馬鹿みたいに高鳴る自分の心臓を憎らしく思った。
「まだ名前呼んでくれる気にならない?」
「…どうして、そんなに呼び方に拘るの?」
「お前にちゃんと名前で呼ばれたい気持ち半分、あとは…お前に掛けられてる呪いに関係してそうだから、ってとこかな」
私に掛けられてる、呪い。
五条くんが何を見てそう言っているのかは分からなかったけれど、何となく、この身体を蝕む熱の正体には、気付いていた。そしてその原因にも、心当たりがある。
「…五条くんの名前を呼んだだけで解呪できるような呪いじゃないでしょ?」
「僕が目をつけてるのはそこじゃないよ。要は、お前の気持ち次第ってこと」
私の、気持ち次第…?
彼の意図する事が掴めず五条くんの事を見上げれば、彼は何を思ったのか、高専時代の五条くんを思わせるような悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「ぁ…っ?!や、だ…っ!まだ、はなし、おわってない…っ!」
「話の続きは、お前が僕の名前呼んでくれたら、ねッ!」
かつて恋焦がれていた彼の面影に気を取られていれば、ぐっと強く腰を掴まれ再奥まで熱を穿たれた。子宮口に亀頭があたり、痛みにも似た強い快感が襲い来る。逃げるように身体を捩ろうとするも、腰を掴まれているせいでそれも叶わない。「どうすればいいか、分かるでしょ?」そう言いたげな瞳でもって見下ろされ、その底意地の悪さにまた涙が滲んだ。
「ぁっ、ぁ…っ、ん、…!ゃ、あ…っ!」
「お前も大概、意地っ張りだよな。まぁ、お前のそういうとこも好きなんだけど」
彼から唐突に言われた「好き」という言葉に、腹の奥が無意識に反応する。それにより腟内も締めてしまっていたのか、五条くんが「ん、」と眉根を寄せて苦しげな表情を見せた。その余りにも艶のある姿に目を奪われていれば、「今、何に反応した?」と耳元にその端正な顔を寄せられ、耳の縁をなぞるように彼の熱い舌が這っていく。その間にも変わらず的確に弱い所を突かれて、耳元からも下腹部からも耳を塞ぎたくなるほどの水音が鳴り響く。それらから逃げるように顔を逸らせば、五条くんの低く甘い響きを持った声音が私の耳朶を打った。
「好きだよ、なまえ」
五条くんは、狡い人だ。
私がこんなにも蕩け切って、理性なんて欠片ほどしか残っていない時にそうやって私を堕とす為の言葉を囁いてくるのだから。
「…さ、とる…っ、…すき…、だいすき、…っ」
五条くんが、私に掛けられている呪いに関係する事だと言ったから。
五条くんが、私が喉から手が出るほどに欲しかった言葉を初めて言ってくれたから。
こうして理由を作らないと一歩を踏み出すことすら出来ない自分に心底嫌気が差しながら、ずっとそんな私の事を見捨てることなく傍に居てくれて、遅過ぎるとは思ったけれど待ち望んでいた言葉をくれた五条くんに応えるように彼の名前を呼び、抱き着きながら必死に彼の事を求め、その熱を受け止める。
もう数え切れないほどに身体を重ねてきたというのに、彼と身体だけでなく心まで通じ合うことができたのは、今回が初めてだった。
「熱、もう下がってるね」
事後の倦怠感からベッドに身を預けて居れば、私の額よりも温かい掌を押し当てられ微笑まれる。このまま彼のペースに身を任せてしまえば何もかもが有耶無耶にされてしまう気がして、五条くんの手を逃がさないと告げるように取り、指を絡めた。
「さっきの話の続き、聞かせてくれる?」
「僕から話す前に一つ確認なんだけど、呪いに関する事で思い出した事はある?例えば、いつ呪いを掛けられたか、とか」
「…夏油くんから最後に言われた言葉が何か、思い出したよ」
「やっぱりね。あいつ、お前に何て言ったの?」
今まで、夏油くんと最後に話した時の事を思い出そうとすると急に頭の中が霞で包まれ、決して彼に掛けられた言葉を思い出す事は出来なかった。けれど、先ほど五条くんが言っていたように、彼の名前を呼んだことがきっかけとなったのか、突然頭の中を覆い隠していた霧が晴れたかのように、夏油くんから掛けられた言葉が何だったのか、思い出すことが出来たのだ。
「『君は、悟と幸せにならないと駄目だよ』って言われたの」
「…あいつ、」
はぁ。と深く溜息を吐きながら、五条くんが私のすぐ真横に寝転がった。
近い距離にある彼の整った顔を窺うように見つめてみれば、五条くんは珍しく何かを思い悩むように眉を寄せて、髪と同色の白藍の下に蒼を隠してしまっていた。
きっと夏油くんから掛けられた呪いの言葉を聞き、今まで彼が私の中に見てきたそれとの答え合わせが出来たために納得したり、親友に対して呆れにも似た思いを抱いているだろう事が何となく伝わってくる。その為に静かに彼の言葉を待っていれば、程なくして五条くんが少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「…高一の夏に、お前に告白したことがあったでしょ」
「…うん」
「あれ、傑からお前に告白しろって言われたんだ」
「…そうだったんだ」
「後から聞いたら、お前が僕の事意識してることに気づいて、僕もお前のこと好きになるだろうって思ったからけしかけたんだって」
…そうだったんだ。先ほど口にしたものと同じ言葉を心の中で囁いて、瞼の裏で揶揄うような笑みを浮かべている夏油くんに、思いを馳せる。
五条くんとこうして夏油くんの話をするのは、私が夏油くんに最後に逢ったあの日以来の事だった。だから、こうして他でもない五条くんから夏油くんについての話を聞かせて貰える事を、とても嬉しく思う。
「…で、付き合った後、お前にとっくに惚れてるくせに自覚しようとしない僕を見兼ねて問い詰めようとしたらお前にその話聞かれて別れることになったから、あれは自分のせいだって謝られてさ。責任とってどうにか仲を取り持つから今はお前と距離置いて我慢してろって言われたから、大人しくしてた訳。そしたらあいつ勝手に一人で突っ走って、挙句の果てにお前の事呪って、あとは二人でどうにかしろって投げて寄越してきてさ。勝手すぎるにも程があるだろ」
つらつらと夏油くんへの文句を語った五条くんは、不満そうな、ともすれば不機嫌そうな様子こそ見せているけれど、彼の中には夏油くんという親友に対しての後悔にも似た行き場のない思いが大切に抱えられているように思えた。
きっと私が夏油くんに対し、彼を引き留められなかった事への後悔を抱き続けているように、五条くんもそれに近い思いをその胸の内に抱えているのだろう。そしてそれは、きっと私なんかの思いよりも、ずっとずっと強いはずだ。だって夏油くんは、五条にとってたった一人の親友なのだから。
「…夏油くんの呪いって、解呪出来そうなの?」
「あいつ本人が解呪するか、お前が僕と幸せになるっていう条件さえ満たせれば出来るんじゃない?」
「私が五条くんと幸せになるって、具体的にはどういう事?」
「それは、お前の認識によるんだろうな。お前が思う「幸せになる」って、何をゴールとしてんの?」
「…普通に考えれば、結婚して幸せになるってことかな」
「じゃあそれが解呪の条件だ」
至極あっさりと伝えられた解呪の条件に、私は思わず抱いてしまった感情を隠すことなく顔に出してしまっていたらしく、無意識の内に寄ってしまっていた眉間の皺を五条くんによってぐりぐりと揉まれることとなった。
「何その顔?そんなに僕と結婚するのが嫌って事?」
「痛い痛いっ!そうじゃなくて…、夏油くん、勝手すぎない?って思っただけだよ」
「はっ、そんなの今更だろ?あいつは昔から勝手な奴だったよ」
「ふふ、…うん。確かにそうだね。夏油くんは昔からそうだった」
夏油くんの事を話して、尚且つ笑みを浮かべることが出来たのはいつ以来なのだろう。
彼の事を懐かしく思いながら、そっとアルバムを1枚ずつ丁寧に時間を掛けて捲っていくように、彼から掛けられた呪いのこと、そして、これから私達が選択すべき未来について思いを馳せる。
「…こんなこと、あんまり聞きたくはないんだけどさ。五条くんは、私と結婚したいかしたくないかで言ったら、どっち?」
彼に気持ちを聞いておきながらどちらか一方の選択を強請るようで悪いなと思いつつ、五条くんの手のひらに自らのそれを重ね、指を絡めていく。
そうすれば、あの頃と変わらない夏空を閉じ込めたまろみを帯びた瞳で、そっと見つめられる。その瞳の中ではまだ、あの頃の青い季節が続いているような気がした。
「俺は…、もしお前に呪いが掛けられてなかったとしても、それでも、お前と結婚したいよ」
五条くんが後進を育てると決め、教師になってから早数年。初めのうちは私を含め、硝子達など親しい間柄の人の前では「俺」という一人称だったそれも、今ではすっかり「僕」と言い慣れてしまったのか、久しく聞くことが出来なかった呼称に、じわりと目頭が熱くなる。
まるで、あの頃の五条くんから数年越しに欲しかった言葉を言って貰えたような気がして、苦しいほどに心が満たされる思いがした。
「…そっか。その言葉が聞けただけで、満足かも」
出来れば、あの頃に聞きたかったけどね。
そう心に浮かび上がってきた言葉を掻き消すように飲み込んで、一筋の涙と共に吐き出した。
一度別れを告げてしまった数年前のあの時に、お互いに歩み寄ることはもう出来ないのだと諦めてしまっていた時点でおあいこなのだから、元より彼の事を責めるつもりはなかった。だからもう、あの頃の自分を含め、全てを許して先に進む事が出来るように未だに思い出という名のアルバムに挟んだままにしていた栞を、取り外してしまうことにした。
「…もし解呪できたら、夏油くんも気付くのかな」
「傑なら、気付くだろ」
五条くんの言う通りに、気付いてくれるかな。気付いてくれるといいな。
だって、私達の幸せを一番に願っているのは、他でもない夏油くんなのだから。
【僕らの愛は人類にはまだ早い】
fin
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