5月を思い浮かべてしまうような色の瞳に映る世界はどれだけ美しいのだろう。私はそんなことばかり気になってしまって、先生が話す新学期のあれやこれなんて右から左へと聞き流し、彼の瞳ばかりを見てしまった。
どうしたの、と声を潜めて私を心配そうに見る彼、時枝くんの優しさが嬉しくてにんまりと唇が弧を描く。
新緑の色だね、と呟くと時枝くんはなにが、と聞いてきた。君の目の色の話だよと答えると、擽ったそうに彼が笑う。
新緑なんてはじめて言われたよ。そう答えるので首を傾げてしまった。私はあの季節が好き。たとえ梅雨が訪れる季節で、みんなが口を揃えて憂鬱だと言っても。私は緑の葉を落ちていく雫の美しさも、雨上がりのキラキラした世界も知っている。だから、私は彼の瞳が大好きだ。
時枝くんは私の数少ない男友達の中でもダントツに仲のいい、と私は思っている。彼の柔らかそうな髪の毛や優しいグリーンの瞳から感じる印象に違わず、物腰の柔らかな話し方、だけれど、きちんとやらなければならないことをやる、という姿勢は好感しか感じない。
それはボーダー隊員だから、と時枝くんはよく分からない謙遜をする。そのボーダーに入るのですら普通の人は出来ないのに。
だけれど驕り高ぶらない彼の謙遜は美しいとすら思った。私は、彼が友達として大好きだった。
いつだったか、時枝くんがその緑の美しい瞳を大きく開いたのを見た事がある。雨の日だった。いつも忙しそうにしている彼が私の日直の仕事を非番だからと手伝ってくれたのだ。
土砂降りではなくしとしととゆっくり降る雨が窓を叩く音、シャーペンの芯が一定の速度で紙を滑る音。そして時枝くんが私のつまらない話に相槌を打つ声。
昨日のご飯が美味しかったこと、今日の雨はあまり好まないこと、明日放送するドラマが楽しみだということ。本当に取りとめもなく話をした。
時枝くんはいつも私の話を楽しそうに聞く。いつも笑っているのが不思議で私は、そんなに私の話が面白いか、と聞いたことがあった。
私の突拍子のない問いかけに時枝くんはまた笑いながら、君の話は普通で面白い、と答える。普通で面白い。
馬鹿にされているのだろうか。一瞬そんなことが頭をよぎった。でも目の前の彼の顔からはそんな侮蔑の感情などひとつも感じ取れない。普通。
きっと彼はこの普通を、大切にしたいのだ。私はそう自分に言い聞かせる。何かを守るために身を賭して生きたことのない私が彼を理解しよう、理解ができる、だなんて毛頭思っていない。
書いていた日誌がひと段落終えたので、私は持っていたシャーペンを置いた。ことり、と軽い音に顔を伏せていた時枝くんの緑の目がこちらを見つめる。
相変わらず綺麗な目だった。私は彼と出会った、数年前を振り返る。たしか、この綺麗な目がとても気になって私から話しかけたのだ。懐かしい。自然と目尻が下がるのを感じて、彼の目を見つめていた視線を不自然でない程度に下げる。
ふ、と見つめた時枝くんの肩に糸くずが付いていた。彼のようにきちんとしている人にでも、こんなものがつくのかと思って私はなんの気もなしに、それに手を伸ばす。
「あ」
「え、ごめん、糸くずが」
「いや、ありがとう」
私の手の気配を感じた時枝くんが、勢いよくこちらを向いたので肩に着地する予定だった私の指先が彼の耳と頬を掠めた。柔らかいとばかり思っていた時枝くんの頬は男性らしく硬くて、息を呑む。
時枝くんは目を丸く見開き、驚いた顔をしたあと、まじまじと私の手を見つめた。手になにか付いていたのだろうか。だとしたら申し訳ない。
そう思って私も自分の手を見つめる。特に気になるような点はない。いつも通りの自分の手だ。
「なあに?」
「いや……なんでもないよ。これで取れた?」
「あぁ、うん、とれた」
「……良い香りがするね」
「香り?」
時枝くんは軽く肩をはたき、自分の腿に落ちた糸くずをポケットに入れる。床に捨ててもいいだろうに。そんなところにも彼の優しさに似たなにかを垣間見た気がして少し嬉しくなった。
時枝くんは、良い香り、と私の手元を指さす。匂い。なんだろう。特に何もつけていないけれど。
そんなことを呟くと時枝くんはそうなんだ、と頷いた。たぶん、きっとそれが合図だったのかもしれない。
その日以来、時枝くんは少し変わった。少しというか、かなり。元々優しい人であったけれどさらに優しい。というか、特別扱いに近い。あからさまに。気が付けば絶対に私の隣にいて、彼が近くにいると私は全く困らなかった。
シャーペンの芯がなくなったり、消しゴムを落としたり、ルーズリーフを忘れたり。そんなことばかりだった私の日常を可笑しそうに笑って、でも、最後は助けてくれる。そんな時枝くんだったのに。
私が「あ」と声を漏らすより早く、どうぞ、と言って私が欲しているものを渡してくれる。消しゴムは落ちるより早く拾ってくれる。どうして、そんなことをするんだろう。いつものように笑ってくれていいのに。だって友達なのだから。
少し寂しく思って、私が時枝くんにどうしたの、いつもと違うね、と訊ねると時枝くんは少し眉毛を下げて困ったように笑った。
僕は君が困らない方がいいって気付いたんだ。優しい声でそう言うので、私の眉毛も下がってしまう。どうして、そんなふうに思ったのだろうか。
「時枝くん、私はあなたをそういう風に扱うために話していたわけじゃないし、仲良くさせてもらっていたわけじゃないよ」
「わかってるよ」
「じゃあ」
「僕は……君が特別だって分かったから、もう少し付き合ってくれないかな?」
もう少しって、なあに。私たちには終わりがあるの?と私が小さい子どものように問うと時枝くんはさっきとは違って、至極楽しそうな顔で笑った。緑の瞳が細くなって弓形になっているところを見たのが随分と久し振りのように感じて、今日のところは誤魔化されてあげよう。
時枝くんがそう言うなら。気が付けば私の口はそんなことを紡いでいた。単純だ、と思われたに違いない。だって本人の私が1番そう感じているから。
ぺら、と乾いた音とともにページを捲る。
友達に終わりなんてない、と目に入ってきたその言葉に滞りなく動いてきた指が止まった。大好きな漫画の1ページ。
親友同士の女の子がふたり、同時に同じ人を好きになってしまって、結局主人公の女の子に好きな人は惹かれていくのだけれど。親友を思って一歩を踏み出せない主人公に向かって言ったひとこと。
本当に?ギクリとした指が、本から離れる。あの日、あの時、私は明確な終わりを見た気がしたからだ。時枝くんと友達ではなくなってしまう。そんな予感めいたなにかが私の心に燻っていた。
ぱちぱちと火が弾けるように、至る所に広がっていくそれに苦しくなる。
言わなきゃ。そう思った。なぜなら私は彼、時枝充という大切な友達を失いたくない。出来るならこれから先、なにかあったとき、私は彼に1番に話したいから。
今日見た花の色が綺麗だったこと。雨は憂鬱だけれど、雨上がりの道路には空が反射してキラキラしていること。目の前を黒猫が横切って不安を感じていること。1日を通して消しゴムを使わなかった報告も。
どれだけくだらないと言われようとも、私が嬉しい、楽しい、と心を揺らされたことを彼に話して、それを笑って聞いてほしいのだ。
「それは出来ないよ」
そう言った時枝くんの顔は困りきっていた。困らせたいつもりで、私は話したわけじゃないので私の眉も下がっていく。
私はずっと時枝くんの友達でいたいの。
私のささやかなお願いは、彼にとって無理難題であったらしい。誰もいない放課後の教室で彼を捕まえたのは失敗だったかもしれない。震える息をかき消す物音はなにもなかったので、きっと私の情けない息遣いは彼の耳にたしかに届いただろう。
それを聞いてなのか、そもそもこの状況に困っているのか。時枝くんは悲しそうにその綺麗な瞳を歪ませる。
どうしてあなたがそんな顔をするの。私が泣きたいくらいなのに。
私あなたを異性で1番仲のいい人だと思っていた。いや、もう異性も同性も関係ない世界であなたが1番だったし、あなたもそうかも、なんて思っていた。
勘違いも甚だしいとはこのことだ。悔しい、怒りたい。そんなことよりも、もっとずっと胸が苦しくて悲しい。
じんわりと熱くなる目頭を隠したくて、私は俯いた。
「そっか、わかった」
「なにもわかってないよ」
「なにも、って……なにが?私とは、ずっと友達でいられないんでしょう。だったら、もう、いい。今まで、ごめ」
「ほら、わかってない」
時枝くんはそう言うと私のこめかみの辺りに手を伸ばす。ひんやりとした手のひらが私の髪の表面を撫でた。
まるでガラス細工に触れるような手つきで私に触れるのだから、訳が分からなくて涙が止まる。心臓が大きく鼓動を打った。まるで全身が心臓になってしまったかのように大きく揺れるので、私は触れたところからそれが時枝くんに伝わってしまうのではと思って気が気でない。
そのまま私の髪を撫でる彼の手。そこから心地よい香りを感じた。ずっと触れていて欲しいのに、離れてほしくもある。
「と、時枝くん」
「僕が君をどんな存在として考えていて、これからどうなりたいのか、わかる?」
「……ど、うって」
「僕は君の話をいつまでも聞いていたいけど、君が誰を好きだとか、誰と付き合って、別れて、そして結婚をするだとか、そういう話を友達として聞きたいんじゃないよ」
僕は君と付き合いたいし、付き合うなら別れたくはないし、気が早いと言われても君の1番綺麗な姿をその隣で見ていたいんだ、意味分かる?
時枝くんはそう言うと両の手で私の顔を包み込む。すくいあげるように上を向かされて、時枝くんの緑の目と私の目がかち合った。その緑の目には、真っ赤な顔をした私がしっかりと映っている。
困る姿は見たくない。君の歩く道に石が落ちているなら君が転ばないように拾い上げて、君には綺麗な道を歩いて欲しい。時枝くんは私の目を見てそう続けた。
両頬の辺りから伝わる彼の体温は冷たいとばかり思っていたけれど、じんじんと熱を持ち始める。
友達ではいられないって、そういうことなの。私がやっとのことでそう口からこぼすと、時枝くんは少しだけ悲しそうな顔で笑った。
うん。君のいちばんじゃないと意味がないから。そう言うので私は彼の言葉を一旦飲み込むことしか出来なかった。
いつから、どうして、なんで。そう聞きたいけれど、聞くことが正しいのか間違っているのか私には分からない。どうしたらいいのだろう。身動ぎすると上履きのゴムが床に擦れた音がした。
「だからもう少し、付き合って。君が、僕をそういう意味で好きになるまで」
「好きになるの、決まってるの?」
「うん、決まっているよ」
「……どうして?」
だって僕から見える君は、いつだって可愛い女の子だから。時枝くんが何を思ってそう言ったのかは、私には分からないけれど、何となく意味はわかった気がする。
時枝くんの綺麗な瞳に映る私は、いつもよりほんの少しだけ女の子らしく見えた。まるで漫画の女の子みたいに、恋を知った顔をして。途端に彼に触れられているのが恥ずかしくて、照れ臭くなって、離して、と彼の目から目をそらす。
「僕の気持ちがほんの少しでも伝わったら、とりあえず第1歩かな」
時枝くんはそう言って悪戯っぽく笑ってみせた。この人は、私が好き。そう意識してしまったからなのか、それとも、私の中には元からその気持ちが芽生えていたのか。今の私にはわからないけれど、なぜだか、時枝くんがこの世で1番素敵な人だと思ってしまう。
送るよ、という言葉のあとに時枝くんは私の頭を撫でた。今まで当たり前だと思って感じていなかった、彼自身の匂いが心地よくて、いい香りがする、と思わず口から飛び出す。
ああ、そうか。私が自覚するより早く時枝くんは笑った。君の匂いだから、良い香りなんだね。