4歳なんてほぼ大人みたいなものだ。ただ大人になってしまうとその頃の記憶なんて忘れ去られてしまうだけで。
実際もうアラサーもアラサーである私はもう高校時代のことさえ曖昧になってしまっているほどだ。知人関係でさえも高校の同級生だったのか、それとも中学の同級生だったのか、わからなくなっている。
今なんでそんな話をしているかと言うと、私の目の前にはその今現在、4歳を謳歌している子どもたちがきゃっきゃっと高い子ども特有の声ではしゃいでいるからだ。
子どもは可愛い。親御さんたちが天使のように可愛がるのも頷ける。だって血の繋がっていない私から見ても、みんな等しく愛らしく可愛く見えるのだ。
そして特に可愛らしい見目をした子どもが、ふたり。私が担任を務めるクラスにいる。今日はそのふたりについて、話していきたい。
1人目は女の子。ミョウジナマエちゃん。子どもらしい柔らかい毛質がふわふわで、愛らしい。口数は多いほうではないけれど、他の子を気遣える優しい女の子。他の子が日曜日の世界を救う女の子の話で盛り上がるのを微笑んで見つめる姿は4歳にしてもう出来上がっていた。
みんなに平等に優しく、更にせんせい、と呼ばれる私にすら「せんせい、大丈夫?むりしてなぁい?」と気を遣うこの子が唯一心を許している、と言っても過言ではない子がもう1人。
くにみあきらくん。国を見ると書いて国見。英雄の英と書いて英くん。さらさらの黒髪に涼し気な顔立ちは齢4歳にしてもう美形だ。先日お母さんと連れ立ってお迎えに顔を出したお姉ちゃんもまだ小学生だというのにかなりの美少女であったからご両親の遺伝子の優秀さなのだろう。
いいなあこんなに整って生まれてきて、これからの人生は得をする方が多いのだろう。聖職者とは思えない思考を持ってしまった。頭を振ってそれをどこか遠くに吹っ飛ばす。話は逸れたけれど、彼女たちはそれはそれは仲がいい。
あきらくんも口数が多いほうではない。むしろヒーローごっこと称してプロレスを怒られても尚続ける同級生を冷ややかな目て見つめていた。本当に4歳?と思うような言動も垣間見ることがある。
せんせいはこんなにたいへんだってわかっていて、せんせいになったの、なんて聞かれた日の夜は自問自答で眠れなかった。残業、持ち帰り、御局様達と保護者とで板挟みによるストレスフルな毎日。こんなに大変だってわかっていても、なぜせんせいは先生になったのか。私にもわからない。これは人生での課題になった。
そんな話はさておき。
このふたりの関係は、どうやら幼馴染、というものに分類されるようだった。おうちが近所でお母さん同士も年齢が近く、馬が合う様子でお休みの日もよく会っているらしい。
月曜日、お互いの連絡帳にはお互いの名前が頻繁に登場するあたり当人たちも仲が良いのが伺える。
そして今日は件の月曜日だ。
今日も今日とて、登園時刻に余裕を持ち、優雅に現れたナマエちゃんとナマエちゃんママ。おはようございます、という笑顔が月曜日に似つかわしくない晴れやかさだった。
「せんせい、おはよ」
「はい、おはよう。今日も可愛い髪型だね、ナマエちゃん」
「うん、きょうはね、とくべつにかわいくしてってママにたのんだんだよ」
「特別なの?」
「そうみたいなんです。私にも何が特別なのかは教えてくれなくって」
ナマエちゃんママは眉を下げながら笑みを浮かべる。何が特別なんだろう。でもいちにちのほとんどをこの保育園で過ごす彼女の特別、なんてここで起こることのはずだ。
だけれども今日はなんてことのないいつもの月曜日。せんせいは昨日飲み会で羽目を外したからか少しだけ頭が痛いけど。
私とお母さんが首を傾げていてもナマエちゃんは相も変わらず楽しそうにニコニコと笑っていた。じゅんびするね、と自分のさくらんぼの絵柄が可愛いらしいリュックを揺らして教室の棚へと駆けていく。
ママ、ばいばい。おしごとがんばってね。そう娘に言われてしまうとそれ以上何も聞けないのか、ナマエちゃんママは名残惜しそうにも「よろしくお願いします」と言って教室を後にした。
特別かあ。頭の中でそう考えつつ、私は他の子と一緒に準備をする背中を見つめる。他の子が困っているのをいつも通り世話を焼きつつも、ナマエちゃんはいつもより少しだけ浮き足立っているように見えた。
登園ギリギリで駆け込んでくる、と思われたあきらくん親子はいつもより余裕を持った時間に現れた。いつもは登園最終時刻より3分前に来るのが日常なのに。
その理由はあきらくんのスイッチが入るのが遅いからだそうだ。彼がこの園に通い始めたころ、あまりにも毎日ギリギリで駆け込んでくるので不思議に思った園長が尋ねると困りきった顔であきらくんママはこう言ったらしい。
「あきらってば、スイッチが入るまで動かないんです」
なんでも起きるのは他の子と変わらず、というより誰よりも早いのだと。のそのそと起きてのそのそとソファに寝転び、二度寝かと思いきやただぼーっと流れるテレビを見ている。朝ごはんも無理やり食べさそうにも口を頑なに開けない。まるで石だ、と。
どうやらそれは未だ健在のようで、4歳クラスに上がってからもあきらくんは寝癖ひとつない姿で登園ギリギリに現れる。
だというのに。
「今日いつもより早いですね?」
「私もびっくりです。あきら、今日は寝起きからシャキシャキ動いてて……熱でもあるのかと思ったんですけど」
「あはは、なんだろう。あきらくん、今日はなにかあるの?」
「きょうはとくべつだから」
とくべつ。どこかで聞いたなあ。ああ、そういえばナマエちゃんも今日は特別って言ってたよ。私がそうなんの気もなしに言うとあきらくんはバツが悪そうな顔で私を見上げ、そしてブスっとした様子であきらくんママに「はやくしごといきなよ」とこれまた不機嫌な声で言った。
あら、私ってばなにか地雷を踏んだかも。ごめんなさい、とあきらくんママに頭を下げる。あきらくんママはいえいえ、と手を振った。その顔はなんだか嬉しそうに、悪く言えば、にやにやとしているように見える。
「あきら、ナマエちゃんとなにか約束してるの?」
「うるさい」
「帰ってきたら教えてね。あ、少し遅めに迎えに来ようか?ナマエちゃんママにも伝える?」
「せんせいたちにめーわくだろ、はやくいって、じゃあね」
はいはい、と楽しそうな声であきらくんママは去っていく。あきらくんはそれを本当に嫌そうな顔で見送ったあと、のそりのそりと教室の棚へ向かっていった。
ナマエちゃんとあきらくんの今日が特別なことはよくわかったけれど、何がそんなに特別なのかよくわからないので、私は一日彼らに密着しよう。そう心で誓いながら、今日の打ち合わせをすべく、副担任の方へと向かった。
今日は特別、の意味が何となくわかった気がしたのはわりとすぐのことである。午前中の外遊び。彼らは仲睦まじくヒソヒソと内緒話をしながら連れ立って外へ行ったのだ。
なんだなんだ。目の届かないところに引っ込んでなにかあってからでは遅い、と尤もらしいことを心で唱え、私はその小さなふたつの背中を追う。
ナマエちゃんの手を引いて歩いているあきらくんはアラサーの私から見ても紳士的に映った。きっと将来素敵な男の子になるんだろう。いや、お母さんやお姉さんの教育の賜物?でも家ではナマケモノのように転がっているだけなんです、と聞いたこともあったし。
私があきらくんについての知識をあれじゃないこれじゃないと見ていると、2人はいつの間にやら園庭から少し外れたところにある花壇に辿り着いていた。
「おはなきれいだね」
「ナマエはおはながすきって言ってたから」
「おぼえててくれたの?うれしい」
「おぼえてるにきまってるじゃん」
「どうして?」
そうだね、あきらくん。お花綺麗だね。ありがとう。今日先生がお花に水をあげました。私が彼らからは死角になる位置で見守っていることなんて気付いていないのだろう。
可愛すぎる会話に上がる口角は隠さずに悶えた。かわいいな。これが初恋というのだろうか。ナマエちゃん、あなたが好きって言ったものを覚えていてくれることが何を示すのか、きっとまだわからないのかしら。
先生が教えてあげたい。もうこの年齢になってくると、私の好きな物を覚えて、目の前まで持ってきてくれるようなひとはなかなか現れないの。大事にしてね、なんて。
顔を赤らめて、顰め面をしているあきらくんにナマエちゃんは「なんで?」「どうして?」と繰り返す。子どもの必殺技、なんでなんで攻撃だ。なんでだろうね、どうしてだろうね。先生ならわかるのに。
あきらくんは、あ、う、と見ているこちらが気の毒になってしまうほど困った顔をしている。でもそれもつかの間、すぐにいつもの顔に戻ると諦めたように長く息を吐いた。溜め息だ。
「そんなの、わざわざおれにきくなよ」
「きかなきゃわからないよ?」
「……ナマエがとくべつだからだよ」
「……そうなの?」
うん、と頷くあきらくんにナマエちゃんはぱぁ、と嬉しそうに笑うと「ほんとのほんとう?あきらくん、ナマエがとくべつなの?いちばん?」と問い続けた。かわいい。
あきらくんは、もうどうにでもなれ、という気持ちなのかナマエちゃんの問い掛け全てに、うん、そうだよ、と頷いている。投げやりなように感じるその受け答えだけど、恥ずかしそうに眉をしかめていた。
ナマエちゃんは本当に嬉しそうにあきらくんの手を握ってくるくる楽しそうに回っている。ナマエがとくべつなんだ、と歌うように話す様はまるで御伽噺のお姫様のようだった。
「……ねぇ、ナマエはおれのこととくべつじゃないの」
「……どうだとおもう?」
「わ、かんない」
「とくべつになりたい?」
「できれば」
きゃーきゃーきゃーと頭の中の私が叫ぶ。なにこのドラマみたいな駆け引き。彼らの手に汗握るようなやり取りに、何故か私の心臓が高鳴った。
ぎゅ、とナマエちゃんの手を握るあきらくん。ナマエちゃんはそんなあきらくんをにこにこと楽しそうな笑顔で見つめる。なにを、答えるんだろう。じゃあね、とゆっくり口を開いたナマエちゃんの次の言葉を待つ私とあきらくんが息を呑んだ。
するとナマエちゃんはちろり、と私の方へ目を向ける。あ、どうしよう。水を差してしまったかも、と私が目を逸らすより早くナマエちゃんはまるで大人の女性のように、悪戯っぽく微笑む。そして、私に見せつけるかのようにあきらくんの柔らかそうな白い頬に、これまた小さく可愛らしい唇を寄せた。ほ、ほっぺちゅー……。高等技術にもう私の頭はついていけていない。
私ももちろんだけど当人であるあきらくんは口をぱくぱくとさせ、いつもは眠そうな瞳を見開いている。それを楽しそうに高い笑い声を上げて見つめたナマエちゃんはあきらくんに囁いた。
「わたしのこと、ずーっととくべつにしてくれたら、いいよ」
だれですか?この天使みたいな小悪魔を作りあげたのは。親御さんですか?ぜひ私にも教えてください。私は天を仰いだ。
せんせい、と可愛らしい声が私を呼んでくいくいと下からエプロンの端を掴まれる。ナマエちゃんだ。
私はにやけきった口元を抑えながら、なあに、と彼女を振り返る。小さなふたりがしっかりと手を繋いで私を見上げていた。
「わたしとあきらくん、しょうらいけっこんするの。せんせいがしょうにんになって」
「え……う、うん。もちろん、なるよ。いいなあ楽しみだなあ」
「けっこんしきにはせんせいをよぶね、ね、あきらくん」
「……うん」
幸せはここにあったのだ。私が、せんせいになった理由はきっとこれなんだ。天使がふたり目を見合せて笑っているのを見ながらそう思った。
その20年後、本当に結婚式の招待状が届くことを、この時の私は知る由もないし、さらに披露宴で彼らの馴初めを招待客の前で話すことになることも、勿論、知らない。