恋愛って人生の大半を占めていると思う。特に女にとっては。
私を例にするなら、記憶でいちばん古い恋愛は幼稚園の年長さんのとき。当時隣に住んでいたつばさくんというひとつ年上の男の子。
つばさくんは優しかった。かわいいトイプードルを飼っていて、いつも散歩を一緒にさせてくれた。
足が早くてリレーの選手で、地元で少し有名なサッカークラブに入っていて、クラスでも人気だったらしい。
当時、幼稚園と小学校は天と地ほどの差があって、私は少しでもつばさくんによく見られたくて仕方がなかった。朝早く起きて、普通にふたつ結びをしようとする母に「もっとかわいくして」とせがんだ覚えがある。
結局働きながら家事をこなしていた母に可愛い髪型のレパートリーなどあるはずもなかったし、昔は今みたいに5分で簡単アレンジなんて紹介してくれるネットなんかなかったから三つ編みにしてもらうのが精一杯。
可愛く編み込みをして、制服じゃない、可愛いデニムのスカート、赤いランドセルを背負う女の子たちに叶うはずもない。
私はそのときから、女の子は誰よりも可愛くいないとダメだと知ったのだ。小学生でメイクなんかできないので、可愛い髪型は自分で雑誌を見て練習をした。
洋服も、他の子がゲームだ、漫画だと楽しんでいる間、私はそれを我慢するからと可愛い服を買ってもらったり。それは他の子の認識も学年が上がるほど、当たり前になった。
中学校では他の子より太い足が気になってストレッチを始めてみたり、休みの日は母の目を盗んで色鮮やかなリップを塗ってみたりもした。
とにかく、可愛くなりたくて必死だったように思える。それが功を奏したのか、その時にできた初めての彼氏は、私を他の子より可愛いと言ってくれた。
でもすぐ大人っぽくて可愛い女の子を見つけると私はすぐに振られた。私と別れた、という噂はすぐに広まったけど、その次の日には元彼となったその人と新しい彼女が公園でキスをしていた、という噂に掻き消された。
見た目だけじゃ足りないと気付いたのは高校生になってからだった。男の子から可愛い、という一言をもらうためだけに女の子がしなければならない努力は数え切れないほどある。
カーディガンの袖丈、スカートの丈。友だちがどこのカーストなのか。SNSをやっているか。そこに更に、女の子は少し抜けている方がいいのだと知った。
みんなが回し読みをしている流行りの少女漫画のヒロインはみんな天然で、でも曲がったことが嫌いな勇気のある女の子ばかりなのに、現実は養殖ばかりだったし、多少の曲がったことは許さないと爪弾きにされてしまう。
現実は世知辛いものだった。でも努力の甲斐があったからなのか、恋愛には困らなかったように思う。
彼氏は1年に1度変わった。ひとりめは部活に集中したいから、と訳の分からない理由で振られ、ふたりめは束縛が激しくて私から別れを告げた。さんにんめはバイト先の先輩で、同じバイトのもっと可愛くて明るくて、よくお皿を割る私よりひとつ年下の子にとられた。
ごめんなさい、私そんなつもりなくて。いや、好きになったのは俺なんだ、俺が全部悪い。
なんて茶番劇を見せられた私の身にもなって欲しい。その日私は転んだ振りをしてバイト中だと言うのにイチャつく2人の背中にお客さんが食べ残したピザをぶちまけてやった。少しも気分は晴れなかったけれど。
大学ではもうこの人以外いないと思えるようないい人と出会った。見た目は冴えなかったけど、そんなことは関係ない。見た目で選ぶとどうしようもない男ばかり、と身をもって知っていたからだ。
だからどんなに服装がダサくても、どんなに頭がボサボサでも、私はそれでよかった。彼に似合う服を一緒に探すのも、私の通っていた美容院に彼を連れていくのも全部新鮮で楽しかったから。
彼は私にいつもありがとう、と感謝をしてくれて、私はそんな彼が大好きだった。
彼となら、これから先どんなことがあっても大丈夫。私は本当に心からそう、信じていた。3ヶ月前までは。
書類のミスが多すぎる、それじゃ事務にも通せないレベル。そう突き返された稟議書を私はかれこれ2時間ほど見つめている。現在時刻は20時を軽く過ぎたところ。定時は18時。残業見込を含めた給料だけれど、私はこの銀行に勤めて2年目、この3ヶ月定時で帰れた記憶が無い。
仕事があるだけありがたいと思えよ、と1年目の私の指導についてくれた先輩は言った。そう、ありがたいと思わなければいけない。銀行員は仕事を取ってきてなんぼなのだから。わかっている。それは、わかっている。
「お前最近集中してないだろ。何があったかは知らないけど、仕事には出すな。お客様には関係ないだろ」
「は、はい、すみません」
私の書類やスケジュールを見ながら、国見さんが言ったひとことが突き刺さっていた。国見さんの言う通り。私生活で何があろうとも、仕事はもちろんお客様にはひとつも関係がない。無関係なことを仕事に持ち込んではいけない。その通りだ。
それも、わかっている。
でも、3ヶ月前のことが頭を過ぎると、私は息の仕方を忘れてしまうし、指が震えてタイピングもままならなくなってしまう。
3ヶ月前、私は彼氏に浮気をされたことを知った。
予感はあった。そういうときほど鈍感になりたいのに、女の勘は鋭い。
元々携帯電話に執着する人ではなかったのに突然どこにでも携帯電話を持っていくようになったとか、帰宅時間に辻褄が合わない日が増えたとか、週末の飲み会が増えたとか。
確信を得たのは、その予感を感じてから1ヶ月後。一人暮らしの彼の家に、明らかに女物のピアスが落ちていた。
これ、なあに。私が努めて明るい声で聞くと、彼は私が何も言っていないのに、違うんだ、と言い訳から始める。
曰く、先週末の飲み会の後同期の男女数名で飲み直すことになったと。店で飲むと高くつくし、そのまま泊まれるからと自分の家になったのだと。
嘘が、下手な人だ。明らかに動揺を隠せていない顔が今目の前のことを真実だと物語っていた。
そうなんだ、じゃあ渡してあげないとね。私が彼から目を背けながらそう言うと、彼は安心したようにそうするよ、と答える。
彼は知らない。先週末の飲み会は会社の人とではなく、高校の同級生だと自分で言っていたことも、女がピアスを忘れる意味も。強かな女に好かれる人なのだ。だって優しくて、真面目で、公務員。女なら誰でも、彼みたいな、少し垢抜けない悪く言えば、童貞臭い男が狙い目だと知っている。
そして彼はその1ヶ月後、連絡も入れずに自宅へと訪れてきたピアスの持ち主と私を鉢合わせたのだ。
その女は玄関を開けた私ににっこりと笑う。あ、彼女さんですか?すみません、私ピアスをここに忘れたと思って。白々しくそう言った。あの女の言ったことは、一言一句覚えている。
固まっている私の背後から、彼が何も知らない顔で出てきて、なんで、と焦っていた。
だから、代わりに答えてあげた。ピアス忘れたんだって、私の言葉に、彼はそれはこの間渡しただろ、と叫ぶように言う。
女はそうだったっけ、と首を傾げた。明るく染められた髪は、私の黒髪とは大違いだった。ああ、そうなのね。彼女と同じ色にしたんだ。
彼の最近明るくなった髪の毛は、私と同じ美容院ではなく、自分で新しく見つけた美容院でカラーリングしたらしく、全く似合っていない。
「この間、ここに泊まって、ピアス落としちゃったんです。彼がどうしても家に来てって言うから。彼女さんいるのにいいの?って聞いたんですけど」
「構わないです。こちらこそ、今どき彼女持ちの男の家に言いくるめられて上がり込んだ挙句、ピアスをわざと落として存在をアピールしないといけないような意地汚い女に騙されてしまうような男なんて、差し上げます。いりません」
「は?」
別れるので、大丈夫です。私はそう言って部屋に置いていたものの中から必要なものだけを手に持った。さようなら。5年も付き合ったのに、終わりは呆気ないものだった。
5年付き合った彼氏には浮気をされるし、下らない言い間違えをして危うく全社共有のコンプライアンス案件になるところだったし、目の前の稟議書はなにがだめなのかまったくわからない。もうお先真っ暗。外も真っ暗。
切り上げて帰ってもいいけれど、それは私と同じく残業をしている国見さんに申し訳ない。というか、私より余程成績もよくミスもない国見さんでさえ残業をしているのに、私が帰る訳には、という日本の悪しき慣習のせいだ。
稟議書が終わって、国見さんに週明けでもいいから、と渡せれば、私は帰れるのに。
はあ、と大きくため息が出た。聞こえただろうか。いや、机3つも離れてるんだから大丈夫だろう。
国見さん、完璧だなあ。同期の中でも国見さんは有名だ。背が高くてかっこよくて、さらに仕事もできる。同じ支店に配属されたとき、彼氏がいた私でも少し喜んだくらい。
国見さん、彼女いるのかな。国見さんの彼女ポジなんて前世でどんな徳を積んだのだろう。きっと美人で明るくて優しくて、少し抜けているところが可愛い漫画のヒロインみたいな人なんだ。
私がもっと可愛かったら、美人だったら、底抜けに明るい人柄だったら、銀行の営業なんてバリキャリではなく、普通の事務員とか受付だったら。彼は浮気などせずに私の隣にいたのだろうか。
別にあんな浮気男、未練がある訳では無い。むしろ恨んでいるくらいだ。
でも、傷付けられた自尊心は、もう取り戻せない、と思ってしまうほどに地面に落ち、薄汚れてしまった。
私がこれまでの人生で培ってきた可愛くなる方法も、愛される女になる方法も、この会社では全く役に立たない。知識がなければ口を開くことも許されない世界で、生きていくことを選んでしまったから。
私って、なにがしたかったんだろう。
気を緩めれば涙がじわりと浮かびそうになって私は頭を振った。やめよう。国見さんにこの稟議書の何がダメなのかを聞いて、早く帰って、今日はもう寝てしまいたい。
私は睨み合っていたタブレットを手に立ち上がり、国見さんの座るデスクへと迷わずに向かった。そしてそこで、目を疑ってしまう。
「あの」
「……やっとかよ」
「え、あの、国見さん、残業してたんじゃ」
「俺が残業するように見えた?」
「み、見えません」
「それはそれで……いいや。で、なにがわからないんだよ?」
国見さんの机はとても綺麗で書類もなければタブレットも、いつも使っている分厚い手帳すらなかったのだ。国見さんはただずっとメールチェックを社内PCでしていただけのようで、なにがなんだかわからなくなってしまう。
え、やっとって言った?この人、もしかして私を待ってたの?なんで?
そんな顔をしていたのだろう。国見さんはまた軽く笑い声を漏らして、答えてくれた。
「ミスがないお前がミスばっかりしてて、普段なら悩む時間がもったいないっていの一番に聞きに来るのに最近はなくなったから、なにかあったのかって思って」
「えーっと……それ、国見さんと残業になんの関係が、あります、か」
「相談、しにくいわけ?俺って」
「そ、そんなことない、です」
そんなこと、ない。私はもう一度途切れ途切れだけれど呟く。
この人は最初からそうだった。最低限の労力で最高のパフォーマンスをする人。無駄を嫌う人。だから、女が女の武器を使うことに意義を見出さない。女だからと見下さない。綺麗だからと特別扱いなどしない。
私は、この人みたいになりたくて、ここにいる。ぽたり、と水音が鳴ってぎょっとした顔で私を見上げた国見さん。
かれしに、うわきされました。
たどたどしくつぶやくように言った私の言葉に国見さんはひくり、と口を引きつらせる。それを見ても私の口は止まらなかった。
5年も付き合った彼氏です。大学の時に出会ってメガネにボサボサ頭私服は真っ黒。だけど優しくて真面目なところが大好きでした。それを、女らしく生きてるだけの女に取られました。
努力はしてきたつもりでした。馬鹿にされたくなかったし、見下されたくもなかった。女は容姿で決まるってわかっていたから、色恋でなにもかもが左右されるって知っていたから頑張ってきたのに。
信じてたのに。信じてたのに。
嘘が吐けない人だと思っていた。だから好きだった訳ではない。ただ、それは彼を信用するに足る理由の一つだった。
嘘をつくならもっとうまく、取り繕ってくれればよかった。他の女の人を家に呼んだなら、その形跡さえ残さないほど掃除をして、私を気遣ってほしかった。
そもそも浮気なんて、してほしくなかったのに。色々な思いや感情が湧き出て涙が止まらない。ぼたぼたと流れる涙は私のタブレットを容赦なく濡らした。
「えー……っと、お疲れ様」
「……はい」
「まあ、なんて言うか、稟議書は週明けでいいと思うし今日はやめといたら、いいと思う」
「はい、すみません……」
「あと、元彼のこと悪く言うようで申し訳ないけど」
見る目ないよ、お前を捨てて新しい女に行くって。国見さんはそう言った。
お前はいい女だよ。幻聴も聞こえてきた。私はいよいよおかしくなってしまったようだ。国見さんというハイスペックを捕まえ、自分の都合のいい台詞を吐かせてしまっている。
口があんぐり開いて、涙が止まった。
止まったな、と国見さんは軽く微笑んで、私の肩に手を置く。すぐにそれは離れて、冗談っぽく「セクハラじゃない」と言うので私は声を出して笑ってしまった。
国見さんは安心したように肩を落とす。きっと、心配してくれていたのだろう。厳しいのに優しい人だ。
この人の彼女になる人、きっと幸せなんだろうな。私は頬に残った涙のあとを拭いながら、今日はすみません、と頭を下げた。
「いいよ、どうせ帰っても寝るだけだし」
「……デートの予定とか」
「ない」
「あはは、すみません」
「……あのさ、飲みに行く?」
え、と思わず呟いてしまった。私は立っていて、国見さんは座ってしかも俯いてしまったので、その顔がどんな顔をしているのか見ることが出来ない。
返事のない私に、国見さんは罰が悪そうな声で続けた。
愚痴があれば聞くし、話した方がスッキリするんだろ。
まるで女を知り尽くしたかのような口振りだ。姉貴が言ってた、と付け加えられなければ私は国見さんを誤解したままだったに違いない。
「いいんですか?」
「嫌なら誘わない。……それに、お前、誕生日だろ、今日」
「な、え、あ……忘れてた」
「忘れるなよ」
国見さんは立ち上がってカバンを持ってさっさと歩いていってしまう。置いてくぞ、と言われてしまったらついて行くしかないのは女の性というものなのだろうか。
でも、だって。こんな人に慰められて、自分でも忘れていた誕生日のことまで言われて、いい女、なんて言われて。
大急ぎで自分のデスクのトートバッグを取ってその大きな背中を追いかけた。だめだよ。好きになったら後悔するかも。モテそうだし。私なんか。そう思いつつも、私の心は次の展開を思って踊っていた。
こんな特別扱い、期待しない女が、どこにいる。