嫌いが積み重なる


「社畜ちゃんはさ、いつになったら名前教えてくれんの?」

私の前で立ち止まって汗を拭うキラキラ輝くその人はそう言った。口元をタオルで押さえているからかもごもごと籠る声はどこか不機嫌そうで、そのタオルの下はきっと形のいい唇を尖らせているはず。そう思うとなんだか自分が彼に望まれているのでは、と勘違いしそうになって私は俯いた。
うーん、えっと、早起きが安定して出来て自炊をきちんとして、自分の本当に、やりたいことを見つけたら、ですかね。
問い掛けられたのは私なのに、何故か問い返すような響きを持った返答。気がつくとそんなことを口走る口を押さえたが遅かったようで彼は片眉を吊り上げて、俺が聞いてるのに、とさっきよりはっきりと大きな声で言う。それはいつなんだって話、とさっきよりも不機嫌そうな声にぎゅ、と目を瞑ると、ごめん、と聞こえた。

木兎光太郎に魅了されてからと言うもの、ものの見事にバレーの試合観戦にハマってしまった私は休みを見つけては顔を出すようになった。同僚曰く認知をもらえるなんて滅多にないらしいけれど、私はその滅多にないことの恩恵を受けているようで、苦し紛れに呟いた、社畜ちゃんという愛称で呼ばれている。
最初こそきっと意味さえわからなかったのか変なイントネーションでシャチク、と言われたけれど私はもちろんチームの人にも指導を受けたのか、今ではきちんと社畜、と発音するまでに変わった。時の流れとは早い。
彼に自分の名前を覚えてもらうのは、自分の生活を整えてからと心に誓ってしまったので、どれだけ彼から聞かれようと答えることは出来なかった。なけなしのプライドどいうものである。
だけれど、彼と出会ったからといって仕事の忙しさや不規則な生活時間に変化があるのかと言えばそんなことあるはずもなく。まぁ、変化と言えばほんの少し食べ物に気を使うようになったとか、お酒を飲む機会を減らしたとかそれだけのもので。なんだかどんどん自分で自分の首を絞めているような、そんな感覚に襲われる。もうすぐシーズン終わるよ、なんて言われてしまうとあまりの自分への甘さに頭を抱えたくなるのだ。

「まぁさー……社畜ちゃんが言いたくねぇってのは理由があるんだろうケド。俺のことすごいすごいって言ってくれる子の名前くらい俺は知りたいワケ。俺が代わりに頑張って済むならいくらでもやるけど、社畜ちゃんのことは社畜ちゃんにしか出来ないからなぁ……」
「す、すいません」
「イーヨー」

またな、といつもより少しだけ元気がない様子の木兎さんは肩にタオルをかけて関係者のドアの方へと向かっていく。心なしか逆立っている筈の毛先がへにょり、と下を向いているようなそんな気がして、私は彼の背中にもう一度、ありがとうございました、と声をかけた。それに片手をひらひらと振ることで返事をしてくれた木兎さんは振り返らない。ファンとサポーターなんてそんなものだろう。
帰ろう、と踵を返した。時刻はまだ夕方、買い物をして今日は自炊にチャレンジしたい。あと早く寝よう。そう思いながら自分の最寄駅へ帰る電車を調べた。

私が木兎さんのファンになってから彼が東京で試合を行うのは今回を含めて3回目である。私は毎回観戦にいっていて、彼はその都度嬉しそうに声をかけてきてくれるのだ。社畜ちゃんと呼ばれるのにも結構慣れてきている。今回は一人で観戦に行ったけれど、前回前々回は職場の同僚と行った。彼女は私の全く名乗る気配がないのを感じて呆れている。もういい加減名前言いなよ。下の名前くらいどうってことないし、と言われたけれどやっぱり私のなけなしのプライドが邪魔をする。

流れる景色を見つつ、今日は何を作ろうかと有名なレシピアプリを立ち上げた。このアプリは彼の試合を見たその日にダウンロードしたもので、これを利用して自炊をするのは多分片手で事足りるほどの回数しかない。それも恥ずかしくて、彼に最近はどうなの、と聞かれても中々いい返事が出来ないでいる。年数を積み重ねて自分に刻み込んできた怠惰は、どうしても抜けきらない。気持ちは、前向きではあるけど、行動が伴わないのだ。
今日だってキラキラと輝いている彼を見たから、それに触発されただけ。きっと明後日にはそれも無くなっていると思う。指をスワイプして、出来るだけ簡単な料理を探し出す作業を続けていると慣れ親しんだ最寄駅への到着を知らせる車内アナウンスが聞こえて慌てて立ち上がった。

「あ……っと」
「すみません、大丈夫ですか?」

降りなければ、という気持ちが先走り、前方への注意が散漫になっていた。私は自分の前方に立っていた男性にほぼ体当たりに近い勢いで当たってしまい、そのまま座席へと舞い戻る。一応クッション性は微かにあるけれど、電車の座席に快適性なんてほぼない。口から漏れ出た、いたた、という言葉に前の男性が屈んで私に大丈夫か、と問い掛けてくる。
この場合周りを見ていない私が悪いのは明らかであるのに、優しい人だ。打ちつけた腰に手をやりつつも、すみません、と謝罪を述べ顔を上げる。
見上げたその人はほんの少しだけ眉を下げて、申し訳なさそうにこちらを伺っていた。同じ歳くらいだろうか。眼鏡がとても理知的に見えるし、着ているビジネスカジュアル風な服もよく似合っている。柔らかい雰囲気のその人に私は少しだけ安心した。すると彼の背後で、空気の抜けるような音を立てながら電車の扉が閉じる。

「あ」

私の間抜けな声が響いて、彼は背後を振り返る。ピッタリと閉じた扉、横へと流れ始めた景色に、もしかして、と小さく呟いたその人はもう一度私に向き直るとすみません、と苦笑いをした。

私がぶち当たったのにも関わらずその人は、赤葦です、と名乗ってくれたので、私も自分の苗字を伝える。彼は学生時代ずっとスポーツを続けていたそうで、他の同世代よりかは体ががっしりしている、もしも怪我をさせてしまっていたら申し訳ないので、と私に名刺を差し出した。先ほどの自分の失態を思い返し、いやいや、自分の不注意ですからと二度ほど断りをしたが引き下がる様子もない赤葦さん。一応、とその名刺を受け取って視線を走らせる。

「漫画の、編集者さんですか?」
「よく分かりましたね。そうです。良かったら読みますか?」
「あ、えっと……」
「冗談です。すみません」

赤葦さんは肩から下げていたバッグを覗き込むような仕草を見せたけれど、私の芳しくない顔を見て顔を緩めた。冗談がわかりにくい人。失礼だけれどそう思ってしまう。
名刺を貰い名乗ってしまった手前、先ほどまでのようにスマホを弄るわけにもいかず私はただ次の駅に辿り着くのを待った。
茜色に彩られるビルはいつも見る暗闇で光る鉄塔ではなく、ただ生気を失った怪物のように見える。こんな風に流れる景色をただ見つめることなんていつぶりだろうか。それこそ、携帯電話やスマホなんか持っていなかったとき。母に連れられて乗った以来かも知れない。流れる景色に色んな気持ちを感じていたはずだ。
いつの間に、私は、無感動な大人になっていたんだろう。
そうしていると、赤葦さんは次の駅で降りますか、と私に問い掛けてきた。その声に意識を取り戻して、何も考えずにはい、と頷くと赤葦さんはふむ、と何かを考えるように黙り込む。
再び空気の抜けるような間抜けな音と共にドアが開き、彼はどうやらここがいつも利用している駅のようで折り返す私と共に電車を降りた。反対方面の電車の時刻を示す電光掲示板を見上げて苦い顔をしてみせる。

「すいません。次の用事があるので俺はここで」
「あぁ……全然お気遣いなく……すみませんでした」
「こちらこそすみません」

赤葦さんは腕時計を見ながら如何にもなモーションで体の向きを改札方面の階段へと向けた。一緒に待とうとしてくれたのだろうか。律儀な人。
最後まで礼儀正しく頭を下げてくれる赤葦さんに手を振ると、彼はあと、と付け足した。夕飯がまだで時間があるようなら、とこの近くにある美味しいと評判の飲食店を教えてくれる。聞けば学生の頃からここら辺にはよく来ていたらしい。カウンター席もあるので女性が1人でも入りやすいと思います。そう続けて今度こそ、と頭を下げて早足に階段を登って行った。
あっという間に上まで登っていた彼の背中を見つつ、私は教えてもらったお店を早速スマホの検索画面に入力をする。どうやら簡易的なホームページしかないらしく、写真も数えるほどしかなかったけれどその数枚だけでも食欲をそそられた。
まさかのアクシデントに時間もずれ込んでしまったし、きっとこれから駅前のスーパーに行けば子ども連れのママさん方に遭遇するだろう。だからって訳じゃないけれど、その人たちがいるスーパーは混んでいるイメージだった。そんなスーパーにこれから行く、それを考えるだけでも億劫だ。
バッググラウンドで立ち上げていたレシピ検索アプリを閉じて、私も赤葦さんが登っていった階段へと歩き出す。
また彼に話せないことが増えたような気持ちに溜息が溢れた。今日もまた、ひとつ。私は自分に呆れるのだ。






Joy is Mine 染まりたがりの透明