怖い夢は宝石箱へしまう

※フィリピン▶︎最終話軸 自死表現、死ネタを仄めかす描写があります。苦手な方はご注意ください。ハッピーエンドです。





君が死ぬ夢を見た。

目を開いてすぐに夢だということに安心したけれど、瞼を下ろせば茹だるような暑さも、じとりと肌に纏わりつくような不快感の湿度も、全て昨日の事のように蘇る。果たしてそれは、本当に夢だったのか。うたた寝をしていたリビングのソファの上、空気を循環させるために回り続けるプロペラを見ながら私はただ、そんなことばかり考えた。

記録的な猛暑に記録的な大雨。幾度となく発生しては消える台風。毎日決まり文句のように唱えられるその言葉に、私はうんざりとしていた。
ほんの少し、外を歩くだけで額と首筋にじわりと汗が滲む。この夏はどこの花火大会も軒並み中止で新調したばかりの浴衣はクローゼットの中、忘れられたもののように包まれて日の目を浴びることは無かった。スマホと睨めっこをしながらどんどん眉間に力が篭もる。記録的な大雨は私から夏の楽しみを全て奪っていった。夏祭りも花火大会もない夏休みなんてサンタが来ないクリスマスだよ、と苦々しく言えば隣を歩くすっかりと黒髪になって涼し気な印象の万次郎はケタケタと楽しそうに笑う。つまんねぇなそれは、と同調してくれる彼に私は心底安心した。
茹だるような暑さだというのに隣を歩く万次郎の痩せた顔にも細い首にも汗ひとつ見えない。生きているのだろうか、と不安を感じることは少なくない。昔よりも覇気が感じられない細い体はゆっくりと足音も立てずに歩くので、夜中に彼を見ると幽霊だろうかと思ってしまう。

「花火でもするか」
「花火?」

昔みたいににっこりと笑った万次郎はそう言うと強く私の腕を引っ張った。痛いくらいの力で握られるのはすごく久しぶりで、私はとても嬉しくなる。まるで昔、みんなで元気に一緒にいた頃に戻ったみたいだ。嬉しくて嬉しくて溢れ出る笑顔を隠さないで私は腕を引かれるがまま彼の後ろを着いていく。短く黒くなった髪も細くなってしまった背中も何もかも違うのに、私と万次郎の関係だけはずっと変わらなかった。それが心地よくてもどかしいけれど、この時間が永遠に続くなら、私はそれでいい。
着いたのは家の近くのコンビニで、私たちはそこで小さな花火の詰め合わせとライターを買った。1番大きなものを買おうとした万次郎の手を止めて、家のベランダだし2人だけしかいないからと小さな詰め合わせを手に取ると万次郎は小さくそうか、と呟く。その後すぐに笑ったので私は彼の手を引いてスイーツコーナーを覗き見た。彼の好きなどら焼きもたい焼きも中身が生クリームがあったのでついでにとカゴに放り込む。万次郎は、何も言わなかった。



ご飯を食べたがらない万次郎にやっとのことでオムライスを食べさせて、それでも半分残してしまったから、コンビニで買っていた生クリームのたい焼きを出した。それも半分に割られて、お前も、と言うので一緒に食べ、日が落ちるまでテレビを見たりお風呂に入ったりしながら過ごしたけれど、万次郎はその間ずっと沈黙したまま。何かを考えているような横顔に、私は声を掛けることを戸惑った。
時計の針が19時を指した頃、漸く空は暗くなってきて、私は安心したような息を吐いて肩を下ろす。お風呂の後毛先だけしっとりと濡れていた髪の毛もすっかりと乾いていた。長かったなあ、と思いながら私はコンビニのレジ袋から花火の袋を取り出し、やる?と万次郎の顔をのぞき込む。
は、と気付いたように目を開いて、頷いた万次郎は多分時間の経過を長いだなんて思っていなかった。きっと、この人は今日この時間を、短く感じていたんだろう。何故だか私はそんなことを、万次郎の何も映さない瞳を見ながら思った。


「綺麗だねー」

パチパチと私たちの手元で火花を散らす手持ち花火を見ながら呟く。万次郎はそれでも何も言わない。
綺麗だね、と言ってから恐らく五分ほど経ってやっと万次郎はそうだな、と呟く。その返答がさっきの私の呟きに対するものなのだと気付くのにさすがに時間が掛かった。ああ、花火のことか。それ以外ないか。すっかりと燃え尽きた花火達は火事防止にと並々に注いだ折り畳みのバケツに放り込まれている。私の方に残っているのはもう線香花火の糸のような頼りない姿だけで、それは万次郎も同じのようだ。
それでも万次郎は最後の手持ち花火の黒く焦げた先端を見つめたまま動かない。しゃがみこんでいる横姿はまるで迷子のように頼りないので、私は心配になった。どうしたの、と聞くとその声に反応してびくりと肩を鳴らす。

「あ、次、線香花火……だよな?」
「……そうだよ。それ、バケツに入れたら?」
「ん」

万次郎は私の言葉に首を縦に揺らして燃え尽きたそれを軽く投げバケツに放り込む。僅かな水音だけをたてて他のものに混ざりこんだ花火だったもの。燃え尽きてからかなり時間が経っていたのだろう。すっかりと湿り気を帯びてしまったのを見てから、私は万次郎の手にこよりのような線香花火を握らせた。

「……たのしかったか?」
「ん?……花火のこと?」

さっきよりも火花が弾ける音が控えめな線香花火の仄かな灯りを見つめていると、不意に万次郎が私に問い掛けてくる。特に会話もなくただ火花を散らして燃え尽きる花火を見ていたこの時間のことだろうか、と考えて聞き返せば曖昧な様子で頷かれた。綺麗な顔。そう言ったら、万次郎は笑うのだろうか。笑ってくれるのなら、言ってみようか。そう考えはするけれど、やめた。花火、楽しいね、と答える。コンビニのやつでもこんなに楽しいんだね、知らなかった。来年もやりたいな。やろうよ。私はずっとひとりで話し続けた。万次郎は何も言わないで、私のよく動く口ばかりを見ているような気がする。
花火大会行けなくてよかった。来年はあるかもだけど、行かなくていいかも。秋にはそこの公園の銀杏を見に行こうよ。ここからでもよく見えるの。冬は寒いから家にいようね。今年は炬燵も買っちゃおうかな。2人で入るの。お揃いの半纏とかどうかな。
止まったら命を失う魚のように動いた口。黙ってしまったら、何かが終わるような気がして私は息継ぎもそこそこにただ意味もない思いも込められていない言葉を紡ぐ。

「……来年?」
「……あ、うん……来年も、一緒に花火しよ」
「オレ、ちょっとやることあるんだけど」

その後でいいなら、いいよ。その瞬間万次郎の線香花火がぼたりと落ちて消えた。じゅ、と耳を澄ませばようやく聴こえるような音は私の耳に届く。この空間が、どれだけの静寂に包まれているかよく分かった。
ちょっとやることってなあに、その後っていつ、聞きたいことはその他にも沢山あったけれど私は何一つ聞くことが出来ない。真っ黒な底なしの闇のような瞳が射抜くように私を見つめたまま動かないからだ。頷くことしか許さない、まるでそう言われているようで、私は首を縦に3回動かして肯定を示す。すると、細い手が私の頭の上、丁度旋毛の辺りに置かれた。
湿気のせいで所々跳ねてしまっている髪の毛を抑えるように撫でつけられる。あまりにも何度も撫でるものだから、落ち着かなくて下から覗き見るように万次郎の顔を見てしまった。

「……来年、約束して。絶対だよ」

その顔があまりにも寂しそうだったので、思わずそんなことを言ってしまう。万次郎は長く、だけど細く息を吐いて、執拗い女、と揶揄うように呟いた。そして私の頭を撫でていた手をゆっくりと滑らせて私の頬に触れる。何度か親指で撫でた後、わかったよ、と観念するように笑った。万次郎が肯定したことを確認して、私も笑って見せる。このとき、彼は確かに、分かったと言ったのだ。一人暮らし用のアパート、2人並ぶのだけで精一杯の狭いベランダに私の右膝と彼の左膝をくっつけ合って、背中から伝わるエアコンの冷たい風とまだ昼間の暑さを残した蒸し暑い夜風を顔に感じながら。その瞬間、私は多分今年のこの夏を忘れない。そう思った。

それから、万次郎が私の前に姿を現すことは、なかった。

まるで最初からいなかったもののようにぽつりと消えてしまった彼を探す術を私は知らない。何も出来ないまま、時間だけが過ぎていく。勿論その間仕事は絶えずあったし、大人になってから知り合った友人たちとの交流もあった。だけれど、彼のいた空間が埋まることはなくただそこにぽっかりと穴が空いたような空白だけが残る。いつまでもいつまでも、ぽっかりと空いたままその穴が埋まることはなかった。

やがて、彼が死んだことを私は突然警察を名乗るある人からの電話で知った。その人は、佐野万次郎という男がしてきた所業を短く端的に要所要所を掻い摘んで話す。きっと頭の良い人なのだろう、流れるように告げられる話はどこか現実離れしていたけれど、違和感なく受け止めることが出来た。最後、あなたと佐野について話を伺いたいのですが。そう告げられた時、私は息を飲み込んだ。私と、佐野ですか、はあ、お話できるようなことは何もないかと思いますけど。私は刑事ドラマでよく聞くような言葉をしどろもどろに呟く。別にそういうものを意識した訳ではなく、単純にそれが事実だったからだ。
電話口の向こうの人は、長い溜息を吐いて、それでも、聞かせてください、と食い下がる。その人の熱意なのか執念なのか。とにかく強い意思に特になんの信念も持たない、柔らかい茎の私はぽっきりとすぐに折れた。橘、と名乗ったその人は思い立ったが吉日とでも言うように翌日の夕方、現れたのだった。

電話でも思いましたが、お話が上手なんですね。私がそう言うと、橘さんは、はぁ、初めて言われましたが、と苦笑する。それで、と出した紅茶にも手を付けず本題へと入るので、私は彼の言う佐野とのことでお話できるようなことは何もないことを伝えた。
彼は有名な彫刻の考える人のように指を組んでそこに額をつけたまま、数秒間沈黙する。なんとなく手持ち無沙汰になってしまった私はあの夏の終わりに一緒に過ごした小さなベランダを見つめた。手も悴むような寒さ、季節はもう変わってしまって、エアコンではなくガスストーブを使っているし、花火の燃え殻を入れていた折り畳みのバケツはあれ以来出していない。せっかく新しく購入した二人で入るのが精一杯の炬燵は、買ったままの状態でリビングの邪魔にならないところに積まれている。


「夏の終わり、最後に佐野に会った日、花火をしました。彼は大人になるにつれて感情を一つ一つ落としてきたように感じていました。だから、夏祭りがなくて駄々を捏ねる私に反応したことが珍しくて、嬉しくて、私は気付かなかったのかも知れません」
「気付かなかった……ですか」
「はい。多分、佐野にとってそれが最後だったんだと思います。でも私は気付かなかった。或いは、気付いていて知らないふりをしました。最後そこのベランダで線香花火をした時に、沢山意味もない約束をしたんです。秋には銀杏を見て、冬は二人で炬燵に入ろうって」

私の言葉に橘さんの視線が一瞬横に逸れる。恐らくリビングに積まれたまま一度も開けた形跡がない炬燵を見つめたようだ。
私は、佐野はやることがあると言って、その後ならいいと言いました、と続ける。確かにそう言った。私は覚えている。来年も花火をやろうって、約束したんです。ぽつり、と水音が鼓膜を擽る。窓からはオレンジ色の夕陽が差し込んでいるから、雨音ではない。頬を伝う生暖かい感触に指を滑らせて、さっきの音は私の涙がテーブルに落ちた音なのだとやっと理解をする。私は、万次郎がいなくなって、初めて泣いた。一回流れ落ちてしまったそれは止めどなく流れ、ぼたりぼたりと派手な音を立ててテーブルに落ちていく。前に座る橘さんは男性にしては大きな瞳をさらに大きく見開いていた。

「もう、万次郎には、会えないんですね」
「……はい」
「私、なにも、知らなくて」
「……はい」
「私にもっと違う何かが出来て、彼にとってのかけがえのないものになれていたなら……彼はまだここにいた、のかな」

橘さんは何も言わない。答えが見つからないのか、それとも私が望むような返答を出来ないから黙っているのか。恐らく後者だろうな、と思った。根が優しい人なんだろう。だけれど彼は知っている。私が佐野にとってなんでもない存在なのだと言うことを。彼を思い止まらせることすら出来ない無力な人間だと。私を傷付けない為に沈黙する橘さんに心の中で感謝を述べて私は流れ落ちていく涙を拭うこともせず、ただあの夏に取り残されたベランダを眺めた。
日もすっかりと落ちて、真っ暗な空になった頃橘さんは、今日はありがとうございました、と去って行った。特にお礼を言われるようなことは何もしていないけれど、形式上そう言うしかないのだろう。じんじんと痛む目元を抑えながら去っていく彼の姿を見送った。
結局出した紅茶に手を付けられることはなく、私はカップに並々と注いだ紅茶を今度は流しに注ぎこむ。シンクに流れていく琥珀色の液体を見つめて、私は小さな絶望を思い知った。
もう、きっと、私が万次郎のことを誰かに話すことは二度とない。思い出の中にしかいない万次郎はきっといつか薄れて見えなくなってしまう。しょうがない。人の脳はそう都合よく出来ていない。新しい情報に古い記憶は淘汰されていく。
そうやって私は生きているだけで万次郎を忘れていく。リビングに置いたままの炬燵の段ボールもやがて物置に押し込むんだ。苦い記憶をどんどん奥に追いやるように。カップをシンクに落として、私はベランダに向かった。五階建て、エレベーターはなく、引越しの手伝いをしてくれた万次郎は嫌な顔をしていたな。それでもちゃんと毎回面倒くさがることはせず、階段を登ってインターフォンを押して訪ねてきてくれた。もう、彼がここに来ることはない。手摺に手を掛け、私は下に広がるアスファルトを見つめる。落ちれば、彼に会えるだろうか。もし会えたら、なんと言おうか。
今度こそ、あなたが好きだと、言えるだろうか。そこまで考えて私は体の力を抜いた。広がるのは暗闇ばかりで、いくらも万次郎の姿なんか見えなかった。それでも貴方がいない世界なら、生きるよりかは幾らかマシだと、思った。

名前を何度か呼ばれて私は、瞼を開けた。帰ってきた万次郎が心配そうに覗き込んでいる。ぐっしょりと汗で濡れている額を手の甲で拭って、万次郎におかえり、と言うと、大丈夫か、と聞かれた。魘されてた、と続けられて夢の内容を告げるか数秒悩む。妙にリアルな夢だった。手に伝わるカップの感触、氷みたいに冷たい手摺、アスファルトに強かに打ち付けた全身の痛みも、全て覚えている。万次郎が私の手を握って心配そうにするので、私は、自分が死ぬ夢を見たのだと話した。万次郎が死んだこと等は全て伏せる。何かに絶望して、死ぬ夢を見たのだと言うと、彼はあの夏の日のように頭を撫で、それから頬に指を滑らせた。

「オマエは、死なないよ」
「そうなの?」
「うん。オレが、ずっと一緒にいて守ってやるから」

万次郎はそう言って私の左手の薬指に嵌められている指輪に口付ける。永遠の誓いのように尊い姿だった。万次郎は続けて、だからオマエは俺を守ってよ、と言う。無敵のマイキーだと昔呼ばれていた彼をどんな脅威が襲って、なにから守るんだろう、果たして守れるんだろうか、と思うと笑いが込み上げた。声を押し殺して笑う私を、ぶすくれた顔で抱き込む万次郎の背中に手を回す。温かくてがっしりとしている背中は夢の中のものとはまるで違う。
夢で、よかった、と心底思った。これからも、後悔しないように、彼に愛を囁こう。密かにそう誓って私は万次郎の耳に「生きていてくれて、ありがとう」と囁いた。
途端に嬉しそうにする万次郎をさらに強く抱き締めると、彼も倍くらい強い力で抱きしめ返してくる。少し苦しいけれど、さっきの夢に比べたらこんな幸せなことはないと私は受け入れて瞼を下ろした。
戻る Joy is Mine