酩酊した愛の結果
いい男とダメな男は紙一重だと思う。へにゃへにゃと揺れている眉毛の間に寄せられた皺を指で伸ばしながらそんなことを考えていると目の前の男がへらりと口元を緩めた。何考えてんの、ナマエチャン。いつもの鋭さはなりを潜めて、牙を抜かれた肉食獣のような変わり様。人工的に染められているのに、肌の白さに馴染むような紫色の髪は仕事用に固められていて、でも酔っ払っているからなのか前髪が一束だけ落ちてきて目にかかっている。蘭のことを考えてるよ。私がそう答えながら、眉間から手を離して前髪を耳にかけてあげると蘭はよりいっそう嬉しそうに笑った。そうか、そっか、おれのことかあ。したったらずに喋るその口が私の名前をうわ言のように呼びながら私の頬や額に触れる。そこから微かに香ってくるアルコールとミントの爽やかな香り。こんな時にもエチケットを忘れないのが灰谷蘭らしくて、笑った。
ねぇ蘭。私知ってるよ。あなたそんなにお酒弱くないんでしょう。
ずっと言いたくて言えなかった言葉を私は今日も飲み込んで、日付の変わる30分前にバタバタと大きな音を立てて帰ってきた蘭を出迎えた。蘭は、言いたいことがあるときにいつもこうやって帰ってくる。態とらしく大きな音を立てて、態とらしくヘラヘラと笑って、態とらしく子どものように振舞うのだ。
いつからだったか、蘭は私に言いたいことがある時はいつも、私が寝る23時半ギリギリに帰ってきて、なぁなぁナマエチャン。おれのナマエチャン。起きてる?とわざわざ玄関で出迎えている私を捕まえて聞くようになった。出迎えているのだから起きているし、何度も名前を呼ばなくてもここにいるのに。確かめるように何度も呼んで、控えめな力で抱きついてくる。
前後不覚になるほど酔っているように見受けられるのに、そんなときほど、蘭の体はいつでも冷たい。ひんやりとしている。たまに本当に眠たいとき、私はその体の冷たさに息を呑んで驚いてしまうくらいだ。
何回かある。もう理由も思い出せないほどくだらない喧嘩をしたあととか、楽しみにしていたプリンを蘭が食べてしまった次の日とか、本当にそんな些細なことから、突然蘭が姿を消して、突然帰ってきたあととか。
喧嘩をしたあとの蘭はなあなあ、ナマエチャン。まだ怒ってる?ごめんな、おれが悪かった、謝るから嫌いって言うなよ、とぎゅうぎゅう抱き締めてきた。プリンを食べた次の日の蘭は、ナマエチャンのプリンごめんなあ、いくつでも買ってやるから許してくれよ、と私の頬を綺麗な形の指で何度もつついた。
そして、蘭が姿を消したあと。少し痩せた姿で戻ってきて久しぶり、元気だったか、なんて言った次の日の蘭は、ナマエチャン、ナマエチャン、ごめんなあ。警察に捕まってごめんなぁ。おれはナマエチャンに泣かれるの困るんだよ、ともういい歳の大人の女がぼたぼた流す涙を指で拭っていた。
こう考えてみると大体蘭は謝っている。ごめん、と面と向かって言うことが出来ないのだろうか。子どもみたいな男だ。ああ、でも一頻り謝ったあとは、いつもナマエチャン可愛いなあ、好き、と言うから、きっとそれも素面では言いにくいのだろう。だから憎めない。
垂れていた髪を私が耳にかけて、そのまま頭を撫でると蘭は嬉しそうにする。普段他の人に対する圧倒的強者たる姿ばかりを見ているからか、私にだけ見せてくれる子どものようなその姿が可愛くて、私もつい構ってしまうのだ。
「蘭、今日はうんと酔っ払ってるんだね」
「付き合いでさあ、ごめんなあ」
「いいんだよ。いつも仕事お疲れ様、ネクタイ解くね」
「ナマエチャン、可愛い、サンキュー」
サンキューはちゃんと言えるのね、と内心笑いながらきゅ、と結ばれている蘭のセンスが光る濃いパープルのネクタイを解く。その間、蘭はずっと私の指先ばかりを見ていた。
なぁネイル変えたの。そうだよ、よく気付いたね。ナマエチャンのことはずーっと見てる。そう言ってネクタイを解いた私の指先にリップ音を立てて唇を落とすと、蘭はそのまま私の体を抱きしめる。背の高い蘭と平均身長である私が抱き合うと、私はいつも首を真上に向けないといけない。今日もその体勢だった。
「蘭、玄関だから、リビングに行こ」
「ナマエチャン、いつもひとりにさせてごめんな」
「……大丈夫だよ、ネイル変えに行ったり、案外楽しくやってる」
「そうか、そっか、ナマエチャンがたのしーならそれがいい」
だから別れるとかなしな。
蘭は今までの朗らかさが嘘のように、静かな声で言った。このひとは、なんて不器用なんだろうと、少し寂しくなって背中に回した手で蘭のスーツをギュ、と音が鳴るほど握る。皺になってしまうだろうか。別にいいか。だってこの人はいま、酔っ払っているのだから。
そう自分に言い聞かせて私は上げていた顔を正面に向け、蘭の胸元に顔を埋める。シャツに染み込んだ蘭の香水と煙草と、お酒の匂いが鼻腔に広がった。別れないよ。私の呟いた声が、蘭のシャツへと沈んでいく。
「おれはさぁ、ナマエチャン。ナマエチャンがいないとダメみてぇ」
「だめなの?」
「だめ。だめだめ。ポンコツ」
「それは色んな方面の人が困るね」
「そう、特に竜胆。だから、ナマエチャン。竜胆のためにもさ、おれとずっと一緒にいてよ」
「竜胆くんのためなんだね」
私が笑いながら聞き返すと蘭は私の旋毛に鼻を押し付け大きく息を吸って吐いた。そして、小さな声で、おれがいちばんだろ、と呟くのでバカだなあと言いたくなってしまう。自分で竜胆くんのためにも、なんて言ったのに。おれがいちばん、なんて分かりきってることなのに。私よりもずっと大きくて強い蘭が、本当に小さく弱い生き物になってしまったように感じる。
ぎゅうきゅうと抱き締められ、息苦しさにとんとんと背中を叩くと、なあナマエチャン、と呼ばれた。す、と緩めれた腕。隙間から見上げた蘭の顔はまるで酔っ払いの顔には見えない。唾を飲み込んだのか、ゆっくりと上下する喉仏が生き物みたいだ。
おれはどうしようもない悪ガキだったし、今さら普通のサラリーマンになる気もねぇし、これから先上手くいく保証も、なんにもないけど、と長い前置きをすらすらと話す蘭。酔っぱらいの演技はもう辞めたのだろうか。そう考えていると、もう一度ナマエチャン、と呼ばれる。その呼び方は酔っぱらいシフト特有であったので、蘭の中ではまだ続行中なのだと察し、私もへらりと笑って見せた。
「ナマエチャンのことは幸せにするから、おれと結婚して、ずーっと一緒にいろよ。同じ墓に入って、死んでもずっと一緒にいてくれよ」
「えー、死んでも一緒?」
「いや?」
「いやじゃないよ」
いやじゃないよ。私が蘭の大きな背中の肩甲骨と肩甲骨の間をゆっくり一定のペースで優しく叩きながら小さな声で言うと、蘭は大きく息を吐いて私の首元に顔を埋める。震える息が首にかかってくすぐったい、と首を振ってみると蘭はすぐに離れていった。
いやじゃないから、酔っ払ってない時にまた言ってね。私が身を捩ったせいでまた落ちてきた前髪を避けてやりながらそう言うと、蘭はへらりと笑う。
「ダイヤモンドの派手な指輪はいらないから、薔薇百本の花束を持ってきてね」
「いらねぇのか、了解」
「家に庭はいらないから、大きいバルコニーが欲しいの。休みの日で天気が良かったらそこでお茶がしたいから」
「じゃあおれは酒な」
「それで、蘭が酔っ払ったら、そのときに私のどこを好きになって、どうして結婚しようと思ったのか教えてね」
「はは、酔っ払ったらな」
約束ね、蘭。私が言い切る前に蘭は私に触れるだけの口付けを落とした。そこからは蘭の香水やミントの香りがするばかりで、アルコール特有のつんとした匂いは感じられない。本当に、不器用な人だと思ったけれどその不器用さを堪らなく愛してしまっているのだから私も大概灰谷蘭に酩酊してしまっているのだ。
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