シンセリティー・ダイブ
灰谷蘭という人の本質に触れることが出来たのは、その命が終わってからだなんてどんな皮肉なのだろう。
涙ひとつも流さない、血も涙もない女だと思われただろう。けれども決して多くは無い参列者達も皆一様にして口を真一文字にしていた。涙でも堪えていたように。泣かないことは、強さの証明だろうか。男の中で語られるような話はよく分からない。
灰谷蘭がいつもつまらなそうに見つめた、御涙頂戴ものの映画やドラマ。見る人が見れば興ざめするような内容に私はよく泣いた。昔からよく泣く、と親からも先生からもそう言われたのに、私は、物言わぬ躯となった夫に、涙さえ込み上げなかった。
灰谷蘭が死んだ。その知らせを受けたのは彼が亡くなったと思われる日から2ヶ月ほど経ってからのことだった。蘭が長く家を空けるのは別に珍しいことではなかったし、態々私にどのくらいの日程を留守にするか、なんて言うような関係ではないから、不思議にすら思わなかった。
私にそれを告げたのは弟である灰谷竜胆くんである。夏を目前に控え、例年より早い梅雨入りをした6月の初め。梅雨の晴れ間だと嬉しそうに話すお天気お姉さんの声をバックミュージックに、ふるふると唇を震わせて彼が告げた言葉は、どう受け止めたらいいのか分からなかった。
彼がこの邸宅に来るのはとても珍しいことで、さらに事前連絡もなく、突然インターフォンを鳴らすものだから慌ててしまった。
ジメジメと梅雨特有の湿気が珍しくその気配を隠し、美しく澄んだ青空を見るのは久しい日のことだった。久しぶりにタオルを日光で干せる。いい天気だから午前中には布団も干してしまおう。
昨日から浸してあるフレンチトーストを焼いて、そうだ、もう珈琲豆がないんだ。買いに行かないと。そんなことを思いながら朝のニュース番組を見ているとインターフォンが鳴った。
こんな朝から来客だなんて、と内心不機嫌に鳴りながらカメラを覗き込むと、少し画質の悪いモニター越しにでもよく分かるくらい顔色の悪い竜胆くんがこちらを見つめている。
竜胆くん、と声を掛けると、彼はあ、と枯れた声を出し、迷ったように義姉さん、と私を呼んだ。
彼からそう呼ばれたのは初めてで、私は少し戸惑ったけれどすぐに解錠のボタンを押して、どうぞ、入って、とマイクに話し掛ける。開いた扉に体を滑り込ませたことを確認して、モニターを消した。出してそのままにしていた雑誌、タブレット、テレビのリモコンを集めながら最上階に来る竜胆くんを待つ。
スリッパ、出さないと。そう思って玄関へ向かう途中にふ、と姿見に映ったパジャマ姿の自分を見て立ち止まった。
裏稼業の人に朝も昼も夜もないだろうけれど、既にスーツを着込んでいた彼の前に部屋着でいるのはなんだか気が引けて、簡単なワンピースとカーディガンを羽織る。閉めたクローゼットの扉の隙間から蘭のスーツが見えて、彼はいつ戻るのだろう、そろそろ、夏が来ると言うのに、と思った。
竜胆くんが帰ったら、彼の夏服はクリーニングに出しておいてあげよう。既に夫婦として機能していないというのに、変わらず何不自由のない生活をさせてくれる彼へ、せめてもの恩返しだ。
再度玄関横のインターフォンを押した竜胆くんを出迎えると、先ずその姿に息を呑むほど驚いた。
あ、とまた枯れた声を出す竜胆くんを扉を開けて招き入れる。蘭の趣味でモノトーンで揃えられたインテリアに、弟である竜胆くんはよく馴染んでいた。
居心地の悪そうに玄関で靴も脱がずに立ち往生している竜胆くんは、何かを言いかけてはやめるのをずっと繰り返す。玄関先で済む話なのだろうか。そう思って、私は少し蒸し暑い玄関で竜胆くんの口が動くのをじ、と見つめた。
この家の雰囲気には似合わない明るい朝の番組特有の音楽と明るい女性の声がリビングから響く。昨夜に映画を観た時に音量を上げて、そのままにしていたようだ。後で下げなければ。そう考えながら、まだ口を開けたり閉めたりをする竜胆くんを待った。
いつもなら綺麗に整っている髪はあっちこっちに散らばって、シャツは襟元が寄れてしまっている。彼の通常時であろう姿は片手で数えられるほどしか見たことがない私ですら思わず、どうしたの、と聞いてしまうほど彼は少し、いや、かなり窶れていた。
よく見ると目元にはうっすらと隈も見受けられる。竜胆くんは私の問い掛けにひくり、と口元を揺らして、カサついた唇でこう言った。
「兄貴が死んだ」
連れていかれた葬儀場ですらない場所で、私の夫であった人は横たわっていた。2ヶ月前、家を後にした時に着用していたスーツと血塗れたシャツの胸元が掛けられた真っ白のスーツから覗いている。
こんな仕事であるし大っぴらに弔うことは出来ないだろうと思っていたのに、灰谷蘭は存外人から好かれていたようだ。彼を弔うために彼の死を知る僅かな人全員が集まったのだ、と私の横に立つ竜胆くんが耳打ちで教えてくれる。
僅かな、とは言うもののかなりの人数だ。竜胆くんの規準が私とは大きく異なることをここで思い知る。蘭は、私が彼の仕事に関わることを良しとしなかった。なので、私は蘭が竜胆くん以外のどんな人と仕事をしているのかを見たこともなければ聞いたことすらない。別段興味もなかった。
夫であった、灰谷蘭は、どうやら慕われるような人物だったようである。ここに来て初めて知る事実。そればかりに気を取られて私は悲しむような素振りをひとつも見せられない。
きっと傍から見ればおかしな光景であろう。目が熔けてしまうほど泣いて然るべきである妻は泣かず、隣で佇む弟の方が憔悴しているだなんて。
私は来てくれる人に会釈をしながら考えた。参列者が皆一様に私に大丈夫ですか、と問い掛ける。大丈夫。大丈夫とは、何に対してであろうか。
私にとって灰谷蘭は、戸籍上、夫であるに過ぎない。親が作った膨大な借金の肩代わりをする見返りに、と気紛れに娶った嫁である、というのは組織全体ではないにしろ、近しい人間の知るところではなかったのだろうか。
いや、知っていて、その上での問い掛けだったのだろうか。今後について、ということなのか。分からない。考えても考えても、答えは出ないまま、静かに眠る灰谷蘭の顔の美しさばかりを見つめた。
灰谷蘭は私の、他人に無関心であるところが好ましいと言っていた。結婚、というより、入籍と言った方が良いだろう。書類上の手続きを部下にさせて、それに目を通している時に、彼はなんの気もなしに呟いた。
お前、オレに興味ねェだろ。その言葉を聞いてそれは、あなたもそうでしょう、という言葉は飲み込む。そんなことない、と言いかけて、彼の手元に握られる書類に目がいった。
ここで彼の意に反したら、どうなるか分からない。家で見てしまった彼の暴力性を思い出して、私は、吐こうとした言葉を変えた。
「あまり、ないです」
「ハハ、いーじゃん。そういうの悪くねェ」
「悪くない?」
「他人に興味ねーの、いいよ。オレそういう女の方が好き」
灰谷蘭はそう言ったのに、私に話しかけるどころか触れることさえしなかった。元よりそういう結婚では無いことはお互い承知の上であったけど、灰谷蘭は何がしたかったのだろう。子どもを設けることもせず、朝から晩まで留守にする。かと思えば気まぐれに帰ってきては、私の作った普通の家庭料理を楽しそうに眺めてつついたり。
留守がひと月続くのも当たり前だった。そういう時は、洗濯物が増えていたり、一応作った料理の皿がシンクに置かれていたり。私はそういう微かな彼の残す生気に、ああ、今日も生きているのかとか、そんなことばかり考えていた。
だから彼が何が好きだとか、苦手だとか、そんなことは全く知らなかったし、知ろうともしなかった。そもそも知る機会など与えられなかったのだけれど。
灰谷蘭はふたつきほど前から行方が分からなくなっていたそうだ。とある仕事に就いて、ヘマをしたかもしれない、と竜胆くんにひとつ連絡があったあと、それきり。組織総出で捜索をしたけれど見つからず、そして、先週、遺体が彼等の、蘭の、所属する梵天に届いたらしい。
そこからがまた長い話だった。私にはひとつも分からないことをつらつらと話す竜胆くん。組織が、対立が、分かったのはそれくらいで、私は適当なタイミングで頷くだけ。
兎にも角にも、灰谷蘭は死んだのだ。その体ももう焼いてしまって、残ったのはこの小さな骨壷に納まった骨だけ。かつて、灰谷蘭であったものが納まる、それをただただ見つめる。
「このマンションは梵天のもの、ってなってるから、このまま住んでてもらって大丈夫だし、生活費も、考えなくていい。兄貴と、そういう話になってたと思うけど」
「そう、なんだ……ごめんなさい。私、何も知らなくて」
「は?」
「蘭とそういう話、というか、そもそもあんまり話したことが、なくて」
「……ウソだろ……そっか、うん、えーっと、とにかくさ、なんかあったらオレに言ってよ」
きっとこれ以上は話しても無駄だということを彼も理解したのだろう。唐突に話を終わらせて、淹れたコーヒーには手を付けず立ち上がった。オレこの後また仕事だから、あとこれ、オレの番号、と慌ただしく名刺だけを置いてバタバタと足音を立てながら歩いて行く彼の背中を追いかける。
念の為、玄関までと見送ると、竜胆くんは革靴に足を通して蘭がいつも使っていた天然石の靴べらをシューズボックスに戻すと、私に向き直った。
「兄貴、ちゃんと義姉さんのこと、大事にしてたよ」
「……そう。確かに、不自由なことはひとつもなかった、感謝してる」
「そうじゃなくて」
私の言葉を、苦しそうに否定した竜胆くんはもう一度、今度は、悔しそうにそうじゃなくてさ、と言って頭を振る。ゴメン、なんでもない、と言うと今度こそ玄関から出ていった。がちゃり、と音が鳴って、鍵が自動で閉まる。そういえば、これは蘭が後付けしたのだった。
このマンションは、持ち主の割にとても古臭い作りで、鍵がオートロックではないし、鍵穴も鍵屋から言わせてみれば有り得ないらしいくの字になっている。
蘭は、元々持っていたこのマンションにあまり寄り付かなかったらしく、私が住み始めてひと月経った頃にようやく顔を出した。昔取った杵柄なのか、鍵と鍵穴を見つめてよく分からない顔をしていたのをよく覚えている。
昔さ、と不意に開いた彼の整った唇は、どうしても殺したいくらいムカついた相手がいたのだ、と紡ぎだす。
「逃げられちまってよ、でも居場所見つけた時は笑ったわ。この鍵、ピッキングしやすいんだ、知ってるか?」
「……しら、ない」
「だよな。オレの首狙ってるヤツらがまかり間違ってこれ開けねぇようにしねぇと」
ぼやくように呟く言葉。そのときはなんて笑えない冗談を言う人だろうと思ったけれど3日と待たず取替えが行われた鍵に口をあんぐりと開けてしまったことが懐かしい。
今思えばいつ、何があっても、この家の存在が誰にも知られないようにしてくれたのだろうか。この部屋の鍵がこうなっている、ということは蘭と私以外には誰も知らない。
そうか、これも、そうなのか。竜胆くんが言いたかったことを思って、ひとり納得しながら、私は竜胆くんが使っていたスリッパを拾い上げてボックスへと戻した。
それでも涙は溢れなかった。裏稼業で家族を持つ人ならそのくらいは当然なのかと、そう思ったからだ。1着は持ってろ、と入籍したばかりの頃に寄越されて、一度も袖を通したことがなかった喪服のファスナーを下ろして、はは、と笑いが漏れる。
笑えない。そんなものを、まさか、寄越した本人を前にして着用するなんて思わない。
蘭はそこまで考えていたのだろうか。そう思って喪服なんて縁起でもないものを最初に与えてくれたのだろうか。終わりを見越した始まりだったのなら、灰谷蘭という人にとってこの結婚はなんの意味を孕んでいたのだろう。
随分と体にしっくりとくるワンピース。服のサイズだなんていつの間に知ったのか。今まで見てこなかった灰谷蘭という存在に、これまでにないほど振り回されているのを感じて私はまた、はは、と笑った。
その日はぼんやりと、整理しなければと考えたままの頭でクローゼットから蘭の服を全て引っ張り出した。持っている姿なんて見たことがないカバンも気に入って使っていたブランドのベルトも、靴箱に入ったまま一度も履かれていなさそうな靴も、全て。
きっと蘭には死ぬ気なんてなかっただろう。でなければこの家にこんなにものを溢れさせているわけがないから。洋服を出す度に香ってくる彼が好んで使っていた香水の匂いは、私にはどうにも落ち着かない。出して、出して、探して、出して。
そんな作業を繰り返し、時折諦めたように仰向けに転がって、灰谷蘭を彩っていたものに囲まれては溜息を吐く。そうしているといつの間にか夜は更けていて、私はそのまま簡単にシャワーを浴びて眠りについた。1人で眠るのは、別に慣れている。だってこの家で私はいつだってそうしてきたのだから。
次の日の朝は最悪だった。
昨夜引っ張り出した蘭の服で部屋が溢れかえって、さらにそこに染み込んでいた香りに頭がおかしくなりそうだった。
この溢れ返った、遺品達はどうすればいいのだろう。捨てるにもあまりに高価であるし、未使用のものもある。本当に灰谷蘭個人の物なのかも怪しい。一枚拾い上げた高そうな柔らかい質感のシャツをなんとなく、自分の体にあてがってみた。
「大きい」
当たり前で在り来りな感想が口から漏れる。当たり前だ。平均的な身長の私と平均より大きい灰谷蘭の身長差でぴったりなんて有り得ない。起き上がってそれはベッドに投げ捨てる。これの整理は、竜胆くんにどこか業者にでも頼めないか相談してみよう。勝手に業者を入れて怒られるのはごめんだ。
朝はどう過ごそうか。いつも通りとはいかないけれど、ほんの少しの違和感を感じながらも起き上がり、寝起きのぼんやりとした頭で考える。
とりあえずコーヒーを飲もう。そう思って挽いた豆を入れているキャニスターの蓋を開けると、そこにはカスばかりで一杯も淹れられそうにない。
ああそうだった。昨日の忙しなさに、もうないことを忘れていた。せっかく沸かしたケトルのボタンが虚しく音を立てるのを聞いて愕然とする。コーヒーは蘭も好んで飲むものだから、近隣のスーパーで手に入るものではなく、わざわざ専門店まで買いつけにいっていたのだ。
だから、そこに行くまでには必ず予定を立てている。その専門店に行くまでにはタクシーを使って30分ほど。迎車の手配を先にして、準備をしなければ。
なんて考えて、キッチンからリビングへ移動して、そしてそこで気付く。ダイニングテーブルに鎮座している骨壷。ああ、そうか。蘭は、もう、帰ってこない。
もうわざわざあそこに買いに出向かなくてもいいのだ。私一人なら、別にそこら辺で手に入るもので構わない。4パック800円で手に入るドリップコーヒーだって勿体ないくらい。
蘭が、いい香りだと、笑ったから。だから、私は、私がまるでそうであるかのように振舞っていただけなのだ。たまたまだった。出先の帰りに、たまには、と買ったそれが、この家の定番になった。
他人に興味がなさげな私を好きな、蘭に、ただ嫌われないように。蘭が好きだから買っていたなんて毛ほども感じられないように、私は。
ぽたりと水音を立てて落ちたのは、水道の蛇口からか、私の目尻からか。それとも同時だったのか。あれほど大きな人だったのに、小さな骨壷に納まっていることが信じられなくて、私は蹲って声を押し殺す。時折悲鳴のように音を立てる喉が、テレビも何もつけていないリビングに響いた。
もう帰ってこない。だってもうそこに、ずっといるのだから。物言わぬ姿になって、ようやく帰ってきたのだから。
どうして今になって、彼が笑ったことばかり頭に浮かぶのだろう。私が人へ興味が無いこと、珈琲の香りがいい香りであったこと、幻のようなことを気にかけて、そればかり気に入る物好きな男だった。
こんな風になるのなら、笑わないで欲しかった。期待なんてさせずにただ、なにもしないでほしかった。
料理なんて楽しげに見ないで、もっと作りたくなるから。
私が淹れたコーヒーをいい香りだなんて言わないで、あなたがいつ帰ってくるか分からないから毎日それを淹れなければならないから。
なにもいらないから、ただ、帰ってきてくれればよかったの。帰ってくることが、あなたの誠実さの証明だと、わかっていたの。
持ち主のいなくなった夏の服を、どうしたらいいのか。捨てられるわけがない。私は、この家の、灰谷蘭の遺したものを捨てられるわけがない。捨てない言い訳を並べて、きっと竜胆くんに連絡すらしない。わかっている。わかっているのだ。
じめじめとした梅雨の蒸し暑さがリビングを包み込んでいる。このままこの季節で時が止まってしまえばいい。蘭のいない夏が、やってこないように。
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