きみの呼吸で息をさせて

※最終話軸


今日は1日散々だった。
まず朝。珍しくアラームより先に起きれた、とウキウキで時刻を確認すればもうあと10分で家を出なければ遅刻する時間だった。セットしたはずのアラームは鳴っていたのか、はたまた自分で止めたのか。分からないけれど責任の所在を確かめている場合では無い。
慌てて準備をすれば、テーブルの角に足をぶつけて派手にアザになってしまったし、会社までの定期を忘れて電車は自費になるし、もうそこまででも気分は最悪。だと言うのにお昼に頼んだトマトパスタは何故か和風醤油パスタになってしまって、取り替えてもらおうにもランチタイムの忙しさで駆け回る店員さんを呼び止められず。
まあ食べれないものじゃないし、と食べ始めれば今度は隣の席のサラリーマンのカバンが私のお冷に当たってパスタは水溜まりになってしまった。謝ってもらえたしお代は僕が、というお言葉にも甘えられたけれども作り直してもらうには時間はもう結構ギリギリ。結局コンビニで売れ残っていた梅干のおにぎりを口に詰め込んだ。すごく酸っぱくて涙が滲んだのは秘密。

どうやら神様はそれだけでも私を虐めることに飽き足らず、パソコンの調子が急に悪くなった。バックアップデータが全て吹っ飛び、午前中に済ませたタスクをやり直す羽目になってしまい、上司には叱られ、仕事も終わらず現在時刻は21時を回ろうとしている。私はまだ家に着いていないし、仕事も結局終わらなかった。
それでも見回りの警備員さんに、まだでしょうか?なんて迷惑そうに聞かれれば退出せざるを得ず、悶々としたまま私は会社を出たのだ。

ああ、そうだ。定期を忘れたからまた現金で精算しないと。億劫だ。そう思いながら普段買いなれない切符の券売機に1万円札を差し込めば、お釣りは全て1000円札と細かい小銭で返ってくる。なにかしましたか?と誰に言うでもなく思わず呟いてしまった。
隣でSuicaをチャージしている大学生の男の子から不審そうな目を向けられる。視線が痛い。早く帰ろう、と改札を通れば今度は電車が遅延しているようで、目の前で来たばかりの電車が去っていった。
勢いよく走り去っていく電車の風を感じながら、私はその場にしゃがみこんでしまう。体に力が入らない。立ち上がろうと足に力を入れると今朝ぶつけた箇所がジワジワと痛む。
本当についてない。とことんついてない。そう思うだけでも、身体中の空気を吐き出すようなため息が漏れる。
すると、コートのポケットに長い間仕舞われたままであったスマホが短く震えた。メッセージか、誰だろう。しゃがみ込んだままそれを取りだして見つめると、佐野万次郎の文字が表示されていて、私はその通知をスライドしてメッセージ画面を出した。今どこ、とそれだけのメッセージに絵文字はおろかクエスチョンマークすついていない。
いつもなら気にならないそれにも今日は心をちくりちくりと刺されるような気持ちになる。これから電車、と自分でも素っ気ないと思う返事を送ると間髪を容れず既読の文字が表示された。
珍しい、自由奔放でスマホなんか見てる暇があるならバイクに乗ってるか友人たちと遊んでいる彼が恐らく今、スマホにかじりついている。
何時、と再び味気ない、もはや文ですらない返信がすぐに届いた。なんだろう、怒ってるのか。今日は既に上司にも叱られている。
その上彼氏にまで怒られたらもうボロボロになってしまうのは想像に容易い。勘弁して欲しい。なぜこの歳になってまで怒られなければならないのか。
しかも万次郎から怒られるようなことをした覚えはない。理由も分からないまま怒られるのは絶対に嫌だ。違う日なら言い返すなり、無視するなり、何かしら対処も出来るのだけど。今日はもう無理だ。キャパオーバー過ぎて多分泣く自信がある。
私は少しでも怒られる準備をしたくて、彼になにか怒ってる?と訊ねた。するとまたすぐに既読になり、なんか怒られることしたの、と返ってくる。いや、だから、それが聞きたいのに。この返事では彼が怒っているのか、それとも別に通常運転なのか、もう分からない。
そもそもこんなにメッセージのやり取りをするのはほぼ初めてだ。いつもは電話であったり直接話すことがほとんどである。割と長く付き合ってる方だと思ったのに、まだまだ知らないことばっかりで私はまたそれに意味もなく泣きそうになった。

まもなく、電車が到着します。お待たせしてしまい……というテンプレ通りのアナウンスが流れて私はようやく立ち上がる。時間にしておそらく10分程だったけど、地獄のように長く感じた10分だった。
万次郎へは、なにもしてない、とだけ返信を送ってスマホはカバンの奥底に突っ込む。もうこれ以上画面上で言葉を交わしても、無機質な文字からは彼の感情のひとつも伝わってこないと分かったから。
三駅なんて距離は本当にあっという間で、寝る暇さえなく私は最寄り駅にやっと帰ってこれた。もう22時になりそうだ。
お昼はおにぎり1個だったから夜はどうしよう、なにかあったかな、コンビニでも寄ろうか。
そう思いながら改札に切符を通すと、おせぇ、と聞きなれた声がして顔を上げる。そこにはマフラーをぐるぐる巻きにして顔の半分を埋めた万次郎が立っていた。

「え、な、え?」
「寒ぃー!オマエなんでこんな遅ぇの?いつももっと早いクセに。あとメッセージ返せよ。心配すんじゃん」
「あ、うん。ごめん」
「早く帰ろ。後ろ乗れ」

どうやら怒ってはいない様子の万次郎はそそくさと踵を返してバイクが停めてあるであろう駐車場へ向かっていってしまう。
家何もないかも、ねえご飯は、とその背中に聞くとたい焼きならある、と微妙な答えが返ってきた。たい焼きはご飯なのか、そう聞きたかったけど万次郎はとにかく早く帰りたいのだろう。そのまま歩いていくので私もそれに従った。
まあ、1日くらいそんな日があってもいいか。そう思ってはた、と気付く。いつもこうやって万次郎のペースに流されてしまって、結局私の意見なんて関係ないことに。
万次郎は昔からの友人たちが言う通り天上天下唯我独尊だ。かなりマイペースだし、それに合わせなければ途端に不機嫌になる。
なんか、ムカつく。いつもなら気にならないことも今日は妙に気になってきて私は駐車場の手前で立ち止まった。きっと万次郎は気付かない。それも悲しくて、私はただただ俯く。

「何してんの、寒いから早く帰ろーぜ」
「……なんで、来たの」
「それ今答えないと死ぬの?」
「死なないけど」
「じゃあバイク乗りながら話そ。もう寒ぃ。オレ死んじゃう」

意外なことに万次郎は私が立ち止まったことにすぐに気付いて、早足で戻ってきた。そして早く、と私の手を掴む。その手が氷みたいに冷たくて、私は思わずひ、と息を飲み込んだ。
その声に驚いた万次郎は振り返って慌てて私の手を離す。そして気まずそうに視線を逸らして、自分の手に息をふきかけ擦り合わせ始めた。悪い、と謝る姿が珍しくて、私は目を見開いてしまう。
万次郎はもう一度早く行こ、とほんの少しさっきよりも冷たくなくなった手で控えめに私の指先だけを掴んだ。その行動に今日、初めて、私は彼が不器用だと言うことを思い出す。
ねえ、何時間待ってたの、と精算機と向き直っている背中に聞くと、さぁ、一々時間なんて見てねーよと言われ、なんだか胸が苦しくなった。

バイクに股がった彼の腰に腕を回して、精一杯抱き締めると万次郎は嬉しそうに笑い声を上げる。なんだっけ?なんで来たかだっけ?と律儀に先程の話題提起をするので、私は伝わるかどうかは分からなかったけれど彼の背中に押し当てた頭を横に振った。そのあと、精一杯の声でもういい、と呟く。その行動か、声か、はたまたどちらもか、何が彼に伝わったのか。それは分からなかったけれど万次郎は真っ直ぐに前を向いたまま、その後喋らなかった。
きちんと法定速度を守り、1人で乗っている時よりもずっとノロノロと進む彼の愛車が、その理由をひっそりと主張しているように私には思えたのだ。

大して駅から離れていない私の家にはものの数分で着いてしまって、私はしがみつくという大義名分を失う。名残惜しかったけどまあいいや、とヘルメットを外して万次郎に渡そうとするとそのまま押し付けられ、彼はさっさと私の家の玄関へと向かっていってしまった。
こんなゴツイヘルメット渡されても困るなあ、と思いつつそれを脇に抱えて彼の背中を追いかけるとそれを見た万次郎は満足そうに笑って、似合わねーな、と呟く。その笑顔があまりにも嬉しそうなので私は返す言葉を失った。
鍵を取り出す間万次郎はずっと私の背中の周りをウロチョロして色んな角度からヘルメットを抱える私を見つめる。子どもみたいだ。
ようやく鍵を差し込んだドアに体を滑り込ませて入ると、もう既に温まった空気がじわりと体を包み込む。暖かいけど、背中にひんやりとした何かが駆け巡って、私はパンプスを脱ぎ捨てると派手な足音を立てて部屋のドアを開けた。

「え、エアコンつけっぱ……」
「別にいーじゃん。オレの家もつけっぱ。あったけー」
「プロのトップレーサーとしがないOLを同じ土俵にあげないでよ」
「ドヒョー?なにオマエ力士なの?じゃあもっと太れよ」
「違う!」

けたけたと楽しそうに背後で笑う万次郎は手洗いうがいを済ませると懐に抱えていた紙袋を私に差し出す。
なにこれ、と聞けばたい焼きと直ぐに答えられて私は目を疑った。その口を開いて中身を確かめれば確かに2人で食べるにしては多すぎるほどのたい焼きが入っていたけれど、あまりにも冷たすぎる。冷えすぎたのかきっと柔らかかったであろう皮も随分と固くなってしまっていた。
途端に申し訳ない、罪悪感が私の腹の底からふつふつと湧いてきて、ごめんね、と呟くと万次郎が不思議そうに首を傾げる。なにが、と言いたげな顔に、何時間も待ったんでしょ、と確信を持って言えば彼はさっきと変わらない様子で笑い、時間なんて見てねーよ、と私の頭に大きな手を置いた。
その手が何度か私の頭を押さえつけるように撫でてきて、その衝撃と、冷たさにじんわりと視界が滲んでいく。すっかりと冬の空気に冷えきった頬を溶かすように、熱い涙が私の目尻から零れた。

「エッ……ちょ、泣くなよ」
「ちが、ちがくて……今日ね、朝からほんと、ダメで、寝坊、するし、足ぶつけるし、お昼の梅干しは酸っぱいし……」
「は?うめぼし?」

堰が切れたように言葉を吐き出す私に万次郎は狼狽えつつも懸命に背中を撫でて宥めてくれる。戸惑うような万次郎の言葉には一切反応をしないで私はただただ今日の出来事を話し続けた。
データがなくなって上司に叱られたこと。社会人にもなって情けないと思ったこと。警備員さんにも嫌な顔をされたこと。仕事が終わらないままに帰ってきてしまって週明けの仕事に既に嫌気がさしていること。
万次郎は時々不機嫌そうに眉を顰め、それでも私の話を遮ることなく聞いてくれる。
一頻り話し終わってグズグズと鼻を啜っていると、着ているパーカーの胸元を掴んでいるその手を引かれ抱き締められた。少しだけ早いペースで鼓動を刻む万次郎の心音が耳から体に伝わってきて、不安定だった息が落ち着いていく。万次郎はそれを分かったのか、ゆっくりと息を吸って話し始めた。
もういい加減辞めれば、もういいだろ。くっつけている耳から彼の少しだけ低い声が振動と一緒に伝わってくる。もういい、ってなに。そう聞くと万次郎は私の背中を優しく一定のペースで叩きながら全部、とだけ答えた。
全部ってなんだろう。もう考えることが面倒で、私は私の涙でシミが出来てしまった彼の分厚い生地のパーカーを見つめる。寄せている顔に伝わる感触からこのパーカーに使われている繊維の上質さを感じて、汚してしまったことに対する罪悪感と同時にそんなことばかりに気を向けてしまう自分自身の器量の小ささに嫌気がさした。
自分の好きなことで生きることが出来て、それが出来る才能も求心力もあって、私なんかいなくてもきっと生きていけるこの人のことが時々どうしても憎たらしくて仕方がない。
きっともしも明日私が不慮の事故で命を落としても、きっと万次郎自身が変わることはないと思う。いや、悲しんではくれる筈だ。ただ、悲しむだけだ。私の分空いてしまった喪失感を、彼はきっと他のもので埋められる。それが出来る人だ。
でも私は違う。出来ない。万次郎がいなくなったら多分生きていられない。でも死ぬ勇気もないから、きっと死んだように生きていく。喪失感を埋められるようなものはなにもなく、ただただ彼の残した思い出や写真を眺めて終わる。その決定的な違いが、私を惨めにするのだ。

「全部やめたら、私には、なんにもなくなっちゃうよ」
「オレがいるじゃん」
「万次郎?」
「ウン」

オマエには俺がいるよ。そう万次郎は唇を尖らせる。でも、あなたには私なんていてもいなくても、じゃないの。そう口には出せなくて、でも、や、だって、と私が言い淀むと万次郎は訝しげな顔をして、オレにはオマエがいると思ってるのに、オマエは違うの、と不機嫌そうな声を漏らした。その声に慌てて彼の胸元に埋めていた顔を上げると、そのまま前髪を持ち上げられてちゅ、と軽い音を立て万次郎の唇が私の額に落ちてくる。
涙とエアコンの暖気で暖まり始めていた顔は噴火するように急に温度が上がった。な、と声を出す私に万次郎は、オレはオマエと一緒にいるようになってからずっと調子イイんだよね、と笑う。続けて、だからってワケじゃねぇケド、もうオマエがいなかった時にはもう戻れないよ。オマエは違うの、とほんの少し、ほんの少しだけ悲しそうに呟く。
私から逸れて、床の辺りを彷徨う万次郎の目を私はじっと見つめた。キョロキョロと所在なさげに彷徨う視線は、不安げで、いつもの様子とは正反対に頼りない。
違くない、違わない、私も、万次郎がいなかった頃になんか戻れないよ。そう伝えたいけれど再び溢れ出した涙がボタボタと私の顔を濡らして口を開けない。ただ首を横に振って意思表示をする私に万次郎は、泣くなよ、と笑って袖口で私の涙を拭う。ザラザラとした雑な感触が彼らしくて笑ってしまった。

「いつ言おうか、ってずーっとケンチン達と話してたけどなんかもうガマンすんの馬鹿馬鹿しいから言うな」
「……ん」
「もうオレのためだけに生きてよ。ケッコンして。つーかする。オレならオマエが朝寝坊しても怒らねーし、足なんかぶつけさせねー。他の野郎に怒られるのもさせない。梅干しなんか食わないで甘いモン食ってればいい。電車になんか乗らなくていいし、エアコンつけっぱでもなんにも言わないよ」

その代わりオレの知らない所で居なくならないで。オマエになんかあったら、俺死んじゃう。万次郎は祈るように私の額に自分のそれを合わせて優しい声で囁いた。死んじゃうの、と聞くと死ぬよ、と返される。
そしてその近い距離のまま目を合わせて、悪戯っぽく、それか時間巻き戻してオマエが死んだことなかったことにするかも、と笑った。有り得ない、出来ないよそんなこと、と私が鼻を鳴らして言うと、そーだね、だから一緒にいて、と私の鼻先に唇を落とす。そのまま顔中に口付けてくるので擽ったくて身を捩ると、足元に落としてしまっていたたい焼きの紙袋ががさりと音を立てた。

「たい焼き食べる?」
「食おーぜ。あれして、チン」
「はいはい」

どちらともなく体を離して、私は彼に言われた通りたい焼きを温めるためにキッチンへと向かう。一人暮らし用の食器棚から平皿を出して、カチコチのたい焼きを並べていると後ろから万次郎の腕が私のお腹に回り込んだ。
ねぇ、ケッコンは、するんだよな。そう私の耳元で不満げに話す様子は聞き分けがない子どもみたいなのに、それでも万次郎は私を幸せにする天才で、笑ってしまう。どうしようかなぁ、と試すように答えると万次郎はぶーぶーと文句を言い続けた。
お皿を電子レンジに押し込めて、私はようやく万次郎に向き直り、その首に腕を回して抱きつく。

「一緒に幸せになろうね」

万次郎は私の答えを聞くと満足そうに頷いて、私をそのまま抱き上げた。初めて見下ろす彼の顔は私から見ても幸福感に溢れている。終わりよければすべてよしとは言うけれど、こんなに良くていいのだろうか。まあでも、それくらい今日1日が不幸に溢れていたんだ、そう思うことにして私は万次郎に抱き着く。私を包み込んでいた嫌な気持ちは、全て無くなっていた。
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