夢は夢のままでどうか

寝れねぇの? 随分と前に床に就いた恋人の声がテレビの光で照らされるだけのリビングに響いた。耳をよく澄まさないと聞こえないぐらいの音量でしかつけていないテレビの音声に、彼の声はあまりにも大きくて私は肩を震わせた。そんな私を見つめる彼は、何言か呟いた後、何秒か動きを止めてそのあとゆっくりとこっちに歩いてくる。そして緩慢な動作で私に向かって手を伸ばした。


眠い眠いと横で騒がれるのが嫌だった。それでなくても彼が眠いなんてことは言葉にされなくても隠す気なんかサラサラないであろう大きな欠伸や眠たげな重たい瞼を見るだけでもこちらにまざまざと伝わってくる。
なぁ、もう寝ようぜ。そんな言葉にもじくじくと頭痛がしてきた。何をそんなにイライラすることがあるのか、と自分でも思う。彼がなにか悪いことを私にした訳でも、彼と喧嘩がしたい訳でもないので私は苦し紛れにふ、と自分が仕事に持って行っているA4サイズのカバンを見つめ、さも今思い出したと言うようにああ、と声を出した。
ごめん、やりかけの仕事があるから先に寝てて。私がそう言うと、彼は口をへの字に曲げる。幼い頃から自分の思うとおりにならないことを嫌っていたらしい彼のわかりやすい表情は、ごく一部の人間にしか見せない一面だと私はよく知っている。一部の人間しか知らないというその事実が私の胸にじんわりと広がり、ほんの少しさっきまで感じていた苛立ちが消えていくのがわかった。
ごめんね、ともう一度言ってサラサラの黒髪を撫でてみせると、彼は私の手に擦り寄って眉根を寄せながら、早く来いよ、と子どもが親に我儘を言うような声色で言う。とぼとぼとリビングから去っていく後ろ姿は少し頼りなさげで、些かの申し訳なさを感じたけれど、その気持ちはひとまず置いておいた。

仕事があるなんて、嘘。だけれど万が一彼が、起きてきた時に誤魔化せるようにとやることも無いのにタブレットをホルダーに嵌め、その前に手帳を広げると如何にも仕事をしているように見えるローテーブルが出来上がった。何故か悪いことをしているようなそんな気持ちになったけれど、知らんぷりをし、リモコンに手を伸ばして音量を思い切り下げる。ソファに私だけが座っているこの広い部屋には静寂が広がった。エアコンの機械音が時折響く中、よくよく耳を澄ませないと、聞こえないような音量で最近流行っているらしい女とも男とも言えないような風貌のタレントが喋るのを見つめる。
読唇術は残念ながら会得していないので、下の方に表示されるテロップからその人が何を熱心に語っているのかを目で追った。どうやら幸せについて話しているようだった。
彼なのか彼女なのか分からないその人は、幸せなんて他人からどうこう言われるものじゃないと、自分が幸せならそれでいいのだと言っている。
その言葉に、今の自分が幸せなのかと、そんな疑問が頭を過ぎった。幸せな筈だ。大好きな恋人がいて、仕事もあって、毎日ご飯も食べれる。特に目立つような疾病もなければ、五体も満足で、生まれ持ったものに不便も感じたことがない。多分、幸せなのだろう。それでもあー幸せ、なんて手放しで言えないのはなんでなんだろう。


最近繰り返し見る夢がある。私が先程見送った恋人の佐野万次郎から別れを告げられる夢だ。夢の中の彼は今よりずっと若くて、それこそ出会った頃着ていた特攻服の姿で出てくる。その夢は途切れ途切れで、夢を見ていると言うより誰かの記憶の中を垣間見ているような、そんな感覚だった。
万次郎は、見たことの無い白い特攻服を着ていて、夢の中の私はそれを見ることが初めてらしい。
久しぶりだね、電話でしか話してないから少し心配してたよ。怪我は……なさそうだね。よかった。その特服、どうしたの?東卍のは?黒もよかったけど白も良く似合うね。
よくもそんなに話すことがあるなあと、自分でも感心してしまうほどよく動く口。話の内容から察するに、彼と直接対峙して話すことは久しぶりなのか。気味が悪いほどに沈黙を恐れ、話を続けているようだ。だけれど、今の私がそうであるように、この夢の中の私も話をすることがすごく得意な訳ではないらしくどんどん言葉に詰まっていく。やがて、えっと、その、と言い淀んだ。そして私は、それに伴って自信もなくなったのか、顔を俯かせる。すると、今までなんにも反応せずにただ私を見ていた万次郎が漸く動いた。ゆっくりと、ぶら下げていただけの腕を持ち上げて、私の頭から肩までの輪郭をなぞるように手を這わせる。

「ど、うしたの?……最近、なんか、変だよ」
「……オレ、オマエのことすげぇ好きだよ」
「えっ……ちょ、なに急に」
「何してても好き。どんくせーのにチョロチョロ動き回るとこも、歩くのが遅せぇところも、泣き虫なとこも。……でも、やっぱ笑ってるのが1番、好き」

ポツポツと吐き出される言葉は、すごく嬉しいのに、私の気分は高揚するどころか嫌な予感に背筋が震える。ねえ、何を言う気なの。どうにか彼の口を止めたくて万次郎、と名前を呼ぶが、彼はただ綺麗に笑うだけで私の声なんか聞いていないように話を続けた。
幸せにしたかった。幸せになって欲しい。それがオレの隣じゃなくても。隣にいてほしい、どんな形でも。オレは、オレが分からない。オマエのことすげぇ大事にしたいのに、たまに殺したくなる。だから。
そこで言葉を切る万次郎。聞いている私でも、彼の言葉が前後で完全に矛盾していることがわかる。全く思考が追いつかない。きっと彼は自分でも自分が何を言っているのか分からなくなってしまったのだろう。だから、という言葉の後彼は大きく息を吸って吐いた。そして、もう片方の手でも私の肩を掴む。その手は酷く震えていた。

「ゴメン。別れて」

そう囁くように言い放った声は震えている。だと言うのに、涙なんて滲んでいない目はいつも通り真っ黒で彼の強さをありありと証明していた。
ねえ、どうして、一緒にいたい、こんな急に言われても、と途切れ途切れに言葉にしつつ、私は万次郎のシャツを思い切り握って縋り付く。だけど、その手も万次郎の優しい手つきでゆっくりと剥がされてしまった。
キズ、出来たらどーすんの。そう優しい声で言われても私は自分の手のひらなんかどうだってよかった。万次郎とこの先も一緒にいることが出来るなら、手なんかいくらでも傷付いていい。私は自分よりも万次郎なのに。
そうやって言葉にしたいのに。私はしゃっくりを上げるように泣くことしか出来ない。ひくひくと全身を震わせて泣く私に万次郎は笑った。そして頭をゆっくりと慈しむように撫でる。
ねえ、オレのこと好き?
優しい声でそんな当たり前なことを聞いてくるので私は手の甲で涙を拭いながら、好き、と何度も何度も唱えた。好きじゃなかったら、こんなに泣かない。泣けない。一緒に居ようよ。そんな在り来りな言葉を並べると、万次郎は私を抱き締めた。

「オレも大好き。だから、幸せになって」

夢はいつもそこで醒める。飛び起きた私はいつも確認するのだ。隣で寝息を立てる今の万次郎が、ちゃんとそこにいるのか。初めてその夢を見た日は、あまりの不安に彼の心臓が動いているのかを確認した。とくんとくんと動く脈に肩の力が抜けて、身体中の空気が口から出る。
夢が鮮明で、ぞわりとするのだ。私はいつからか、その夢が現実に起こるのではないかと思うようになって、眠ることが怖くなった。眠っている間に、彼がいなくなったらどうしよう。起きたその時、彼が冷たくなっていたら。そんなことあるわけないのに。いやそんなことない。有り得ない話なんかない。
夢の中の万次郎のようにコロコロと下り道を転げ落ちるように思考が二転三転する。そしてその答えはいつも通り、ああ、眠りたくない。その一択にたどり着くのだ。

チッチッチとまるで舌打ちするような音で刻む時計の秒針に嫌気がさす。次は必ずデジタルの時計を買おうと、毎回心に刻んでは忘れてを繰り返すことにも憂鬱とした気持ちになった。
疲れている、明日は変わらずに仕事だってある。私がこんなに陰鬱な気分になっても夜は更けるし朝は来るのだ。世界は私一人の気持ちになんか寄り添ってはくれない。
エアコンは変わらずに機械音を立てて部屋の空気を暖めているのに、私の手足は先端から温度を失っていった。それをどうにかしたくて、私はソファの上で膝を抱えて座る。眠りたい。眠りたくない。夢の終わりで微笑む万次郎の姿が、瞼の裏に張り付いているのだ。

「寝れねぇの?」

突然響いた声に体がびくりと波打ち、心臓が大きく高鳴った。恐る恐る振り返ると、なんとも言えない顔をした万次郎が廊下からリビングの扉に手をかけてこちらを見ている。
暗いだろ、電気つければいいのに。そんなことをボソリと呟く姿は眠りについた1時間半ほど前とは打って変わって眠気なんか吹き飛んでいるようだ。私は、別に注意を受けたわけでもないというのについ、ごめん、と呟いて俯く。
どうしたのだろうか。何かのついでに起きて、こっちの様子を伺いに来たのだろうか。そう思いながら、なんとなく、抱えた足を下ろしてテーブルに転がしたままだったペンを手に取る。
ちろりと横目で伺った万次郎は黙ったまま私を見つめていた。そして、ゆっくりと近づいてくる。

「や、めて」

緩慢な動作で持ち上げた手が私の頭に伸ばされた。私はその手を咄嗟に振り払ってしまう。乾いた音を立てて弾かれた自分の手を見つめた万次郎は、静かに私を見つめた。
弾いた手はじんわりと熱を持って、痛みを訴える。手の冷たさに相まってより痛みを訴えるそれが、これは夢じゃないと、私に教えた。
それはそうだ。姿さえ違う。私は白い特攻服の彼なんか知らないし、見たこともない。彼は私の知りうる限りずっとあの黒い特攻服で、強くて、優しくて、自由気ままだった。私の幸せを願って、手を離すことなんかしなくて、自分の隣が私の幸せなんだとそう示してくれていた。
なのに、私にはどうしてもあの夢がただの夢とは思えなかったのだ。頭に焼き付いて離れない何もかもを押し殺した笑顔の万次郎。自分から離れることが幸せなのだと言い切った万次郎。その全てが恐ろしかった。

「どうした?……オレ、なんかした?」
「ちが、違うのごめ……っ」
「……抱きしめて、イイ?」

ゆっくり私の座るソファの空いているところに腰かけた万次郎は、私を覗き込んでそう問い掛けてくる。私はそれに頷くことで返事をした。すると万次郎はゆっくりと私の体を抱き締めて、ゆるゆると髪を撫でる。
どーしたの、と聞いてくる優しい声が、夢と重なって涙が込み上げてきた。ポロリと溢れ出る涙は万次郎の寝巻き代わりのスウェットに吸収されていく。
私は、途切れ途切れに夢のことを話した。知らない特攻服を着た万次郎が、私に幸せになって欲しいと別れを告げる。私は、万次郎と一緒にいることが幸せなのに。夢なのに、現実味を帯びているそれを繰り返し見るのが怖くて堪らない。居なくならないで。そばにいて。
最後は祈るような言葉ばかりになってしまった話を万次郎はただ聞いていた。
ウン、ウン、と呆れもせずに聞いてくれる彼に私は子どものように泣いてしまう。
私の幸せを、万次郎が勝手に決めないでよ。私がグスグスと鼻を啜りながら言った言葉に、万次郎はゴメン、と小さく謝った。彼は何も悪くない。全て夢の中のことなのに、まるで本当に自分が行なってしまったことのように謝罪をする、もう一度ゴメン、と呟く彼は私の髪を撫でていた手を止めてキツく私を抱き竦めた。

「オレは、もうオマエを手放したりしないよ」
「……もう、って。手放したこと、ないよ。夢の話、だよ」
「夢の中でも、どこでもってコトだっつーの。オマエを泣かせるヤツは、オレがぶっ飛ばす。な?」
「なぁに、それ。夢の中の万次郎なのに、出来ないよ」
「出来るよ。オレを誰だと思ってんの?」

無敵のマイキー、でしょ。私がそう答えると万次郎は私を抱きしめていた腕の拘束を緩めて私の顔を見つめる。私と視線がかち合うと、万次郎は不敵な笑みを浮かべて、分かってんじゃん、と私の涙を吸うように目尻に唇を落とした。そのまままたピタリと隙間なく抱き締められて、彼の温かい体温に包まれる。とくんとくんと、耳元で聞こえる彼の鼓動が私に安心感を与えた。
生きている、ここにいる。言葉はなかったけれどそう伝えてくる彼の全身が全て愛おしい。万次郎はそのままの体制で話を続けた。ホントに仕事あんの、ウソだろ。広げただけにしか見えねーんだケド。少し、いじけたような声は昔と変わらない。それに少し笑ってしまった。クスクスと自分の腕の中で笑い声を漏らす私に、オイ、と不機嫌に声をかけた万次郎はぎゅうぎゅうと苦しい程に抱き締めてくる。

「寝るのが、怖くて……。ごめんね?」
「そーいうコトはもっと早く言えよ。……オマエは、オレの横で笑ってればいーの。アホみてぇな顔で」
「アホって、ヒドイ」

オレはオマエの笑ってる顔好きだよ。万次郎は笑って私の鼻先に口付けた。彼の少し乾いた柔らかい唇が温かくて安心する。私の全身を包み込む万次郎の体温がいつもよりずっと暖かいのは、きっと彼が眠たい証拠なのに、私に付き合って無理をしているのだ。それに僅かな申し訳なさと、擽ったいような気持ちが混ぜこぜになって笑みがこぼれる。
寝よっか。そう聞いてみると、寝れる?とすかさず聞き返された。分からないけど、多分寝れる。そう答えると万次郎は押し黙ってしまった。寝れるよ、そう答えればよかったのに、何故か私はそんな所ばかり正直だった。万次郎の指が再び私の髪の毛を梳かすようにゆるゆると動き出す。

「夢の中でも、オレが守るよ」
「そう、なの?」
「ウン。約束する」

万次郎は小指を私の眼前に突き出した。それに自分の小指を絡めると、途端に瞼が重たくなる。魔法使いか何かなのだろうか、そんな夢みたいなことを考え出す頭は最近の寝不足が今になって表れたのか思考回路がお粗末で短絡的だ。
眠気を醸し出す私に万次郎は、寝ていーよ、とあやすように背中を優しい力で叩く。トントントンと規則正しいリズムを刻むそれはいつも私が彼に対して行うことだった。いつもとは逆の立場も、悪くないなあなんて思いながら温かさに包まれるとどんどん意識が遠のいていく。
万次郎、と呼びかけた声は自分でも笑ってしまいそうなくらい甘えるような舌っ足らずな発音だった。

「おやすみ」
「おやすみ、なさい」

最後に額に感じた柔らかい感触はきっと彼の唇だろう。優しいおやすみという言葉と一緒に落ちてきたそれを受け止めて私は意識を手放した。
もし、夢の中の彼がまた悲しそうに笑っても、私はきっと受け止めることが出来るはず。この静かで暖かくて優しい記憶が、幸せだということを私は知っている。だから、夢の中の彼にも同じことを教えてあげたいと思った。
私は、万次郎と一緒にいることが幸せなのだと、何度も伝えたい。そう心に決めたのにその日は夢を見なかった。朝目覚めると私は万次郎と二人でベッドに転がっていて、右手は彼の左手にきつく握られている。それを確認して、私は笑った。

守ってくれたんだ、ありがとう。そう呟いてまだ眠る彼の瞼に口付ける。起きたら夢の中の彼に伝えられなかった言葉を沢山言おう。もうきっと、眠れない夜は来ないはずだから。
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