ネパールでは成人年齢が16歳らしい。さらに言えば厳密には決まっていないという。それもいい方でプエルトリコなんかは14歳で成人で、もうその年齢から大人としての権利や義務が発生するというから世界は広い。
日本人でよかった。私は常々そう思わずにはいられない。もう何時間そうしているのだろうか。自分の右肘辺りに放置されているスマホの画面を人差し指で突いて画面を起動する。同年代親睦会という名のただ酒を飲みたいだけで集まったこの飲み会が開始してからゆうに3時間は経過していた。どうりで目が霞んでいるし瞼も重い。だけれどアルコールとは不思議なもので普通に水やお茶を飲むよりもずっとペースが早くなる。
氷でよく見えていなかったが傾けると底が見え隠れしているグラスを片手に私はもう片方の手を掲げて仕切りドアの付近で馬鹿笑いをしている太刀川に呼びかけた。
「たーちかわあ、こっちグラス空いちゃうから頼んでー!」
「ん?おぉ〜何頼む?」
「んー…ハイボール!」
「りょぉかーい!」
ヘラヘラと締まりのない顔で笑った太刀川はそのままテーブルの上にあったタブレットを弄る。戦うこと以外三大欲求しか持ち合わせていないかもしれないと思う男だけど、こういう場では本当によく立ち回る男なのだ。それに笑いながら私は残り一口か二口になったグラスを傾ける。隣で壁の花と化している太刀川とは正反対を極める男はそんな私を見て息を吐いた。この混沌と化している貸切の座敷の喧騒の中でもよく聞こえるような大きな溜息は、おそらく私に向けられたもの。考えなくとも分かる。彼、二宮匡貴は私が酒に溺れるのを本当に好まない。
「そんなに嫌ならどうしていつもついてくるの?」
「……どうせ回収しろと連絡が来るなら最初からいた方がまだマシだろ」
「なるほど。じゃあ二宮くんの面倒を減らすためにも引越ししなきゃかなあ」
「大学とボーダーの行き来を考えれば合理的ではないな」
「ね。じゃああと3年くらいよろしく〜」
私たちの関係はマンションのフロアが一緒で、同じボーダー隊員で、同じ大学。共通点が多いというだけで特に深い間柄でもないし、ボーダーのラウンジで顔を合わせても特に会話をするわけでもない。時折帰宅時間が被ればなんとなく会話をしながら帰路を共にしてみたり、本当にごく稀に二宮隊の面々とご飯を共にしてみたり。最初こそなんで私と二宮くん?なんて顔で犬飼くんや辻くんが見てきたけれど、今じゃお馴染みになりつつあるので慣れって恐ろしい。
何が言いたいかというと、つまりは私とこの人は友達でもなければ仲間でもないってことだ。二宮くんの気まぐれで一緒にいたり離れてみたり。彼ありきの関係で、多分こうした共通点がなければ話をすることは愚か目も合わせることすら出来なかったと思う。
「おい、飲みすぎるなよ。帰りが面倒だ」
「置いて帰っていいよ〜ここ最寄りだし。わかってると思うけど私たちのマンションまで10分もかからないじゃん」
「……今日は、東さんがいるからな」
あっそ。でしょうね。わかってるけど。二宮くんがかつて下にいて指示を受けていた東さんに薫陶していることはボーダー内の一部隊員では周知の事実だ。じゃあさっさとそっち行けばいいのに。そうは思うけど只今東さんは絶賛太刀川が絡みついている。二宮くんが太刀川を頭が悪いと嫌がっていることも知れていることなので、彼がここに根を張っているのはそのせいだ。二宮くんは通常時と変わらない何を考えているか全く分からない涼しい顔でグラスを傾けている。ウイスキーグラスがよく似合う男だ。
グラスを掴む骨ばった指も綺麗。グラスの淵に口付ける唇さえ整っているんだから本当に神様は意地悪だ。何回世界や神様を呪ったかわからない。どうしてこう手に入らないものほど美しく輝いて見えるんだろう。戦闘中は中々見ることのできない両の手も今は無造作にグラスを掴んで、もう片方はテーブルの上に肘をつくように伏せられている。綺麗だ。何をしていても絵になる。良いなあ、欲しいなあ。どうにかしてこっちだけを見てくれないかな。
私、日本人でよかった。私のそんな呟きを丁寧に拾い上げたのか、二宮くんの切れ長の瞳が一瞬だけこちらを向く。口に出したつもりはなかったけど、どうやら私は思っているよりもずっと酔っているらしい。ぼやける視界の中で成人年齢がどうだと話すと、二宮くんは興味なさげにそうか、とそれもまた私の呟きよりも小さい声で言った。
「どうしてそう思った」
「え?」
「酒が好きなんだろう。なら他国に生まれた方が合っているんじゃないか」
ああ、そういうことか。端の方から回ってきた新しいグラスを見つめながら思考を逡巡させる。私が彼と出会ったのは16歳のときだ。丁度第一次大規模侵攻が起こった頃で、同じ学年にボーダーに入った人がいると噂になった。気になって、なんとなく、本当に魔が差したように私も何故か入隊試験を受け、私がようやくB級隊員まで上がった頃には彼はもうA級だった。換装する前、自分と同じ制服に身を包んでいる姿を確認して「やっぱり」と思ったのは忘れない。
何処か現実離れしたような存在感を廊下ですれ違った時には感じていた。もしも同じ学年にボーダー隊員がいるなら、こういう人だと思った。聞く勇気は持てなくて、だから確かめに行った。多分、私はもうその時にはこの人のことが好きだった。
二宮匡貴という人は、今でこそ戦術だとかチームとして動くだとかそういうことに重きを置いているけれど。昔はそれこそ本当に孤高の人で、人間っぽさは全く無かった。でもそういう姿も今の人間っぽい姿もどれもこれも私は好きで好きで堪らない。
だから同じ大学に入って、マンションも同じだった時には心の中で踊り狂うくらいには浮かれた。そんな気持ちは直ぐに無くなるのだけれど、もしもそんなことがきっかけでどうにかなりでもしたら。なんて想像を繰り広げるくらいには浮かれたのも懐かしい。
「……そんな子どもからお酒飲んだら、脳溶けちゃう。そういう風な大人に、なりたくなかったの」
「そうか。至極真っ当な理由で安心した」
「あはは、良かった」
そう言うと二宮くんはもうひと口グラスに口をつけた。ジンジャエールが好きなくせに、こういう場ではちゃんと空気を読んでお酒を飲むところ好きだよ。あと話はちゃんと聞いてくれるところ、空いたグラスもちゃんと邪魔にならないところに避けてくれるところ。細かいところに、気を配ってくれるところ。全部全部好きだよ。
だから苦しいよ。隣にいられるともっともっとと求める自分が嫌になる。何一つ私のものじゃないのに。
だから二宮くんに三度の飯より酒が好きなんて勘違いされるくらい酒に逃げてしまう。これでもっと成人年齢が若かったら、私はどうしようもない人間になっていたに違いない。好きな人に振り向いてさえもらえないから酒に溺れるなんてどんな演歌だよ。そう思いながら手元にある並々と継がれたウィスキー混じりの炭酸を見つめる。この泡みたいにどんどん弾けてなくなればいいのに。ぐい、と飲み干すと隣から「おい」と制止するような声が聞こえたような気がする。
胸から腹にかけてが温かいのに、背中はひんやりとしている。ゆったりと上下に揺れる感覚が気持ちよかったけれど、頬に当たるチクチクとした感触が擽ったくて私は目を開けた。
街灯に照らされているアスファルトと紺色のスエード生地のローファーが規則正しく見え隠れしている。どこかで見たことがあるローファーだ。埃のひとつも付いていない、品の良さがそこからも感じるそれは、二宮くんのもの。
「あれ……」
「起きたのか」
「なに、え、ま、待って」
「吐くなよ」
「吐かないよ!」
そう前置きをしてから二宮くんは歩みを止めて首だけを動かした。チクチクしていたのは二宮くんの髪の毛で、彼が首を動かしたことによって顔の距離が一気に近くなる。さすがに意識のない同年代の女を担いで歩くのは疲れたことだろう。少し上がった息が鼻先を掠めた。ほんの少し、酒気を帯びた息。お腹の底から何かが沸き立って私は距離を置くように彼の肩に手を置いて上半身を起き上がらせる。
するとバランスを崩した二宮くんが私の足を抱えている腕に力を込めて、倒れることを防いだ。ふらついた体にごめん、と呟くと大人しくしろ、と吐き捨てるような言葉を返される。
「あの、下ろして……」
「家まで背負って帰れ、でないとランク戦で雪だるまを作っていたことを大学で言いふらしてやる」
「は?」
「お前が言ったことだ」
「嘘、嫌な女だね……」
「本当にな」
だから背負ってくれるんだろうか。彼だって別に私がそんなことを現実にするとは思ってもいないだろうけど、まだ微かに頭の中が揺れているのでお言葉に甘えることにして再び背中に収まる。それを確認して二宮くんはまた歩み始めた。こんなにも近くに寄り添ったのは初めて。
多分最初で最後になるだろう。
私の報われない片想いを知っている望ちゃんや太刀川は私と飲む度に二宮くんを呼び付けて回収させるけど、彼は絶対に私の腕以外に触れることはなかった。それが彼の気遣いであるのか、そもそも私のようななんでもない女に触れることなどしないのか。それは分からないけれど、抱えたり背負ったり。そういうことはしなかったし、私がふらついて彼に寄りかかることはあっても二宮くんが必要以上に私に触れることは1度もなかったのだ。
でもその私達の関係は今日覆って、そしてまた元に戻って、二度と覆ることなんてないんだろう。そう思って、私は今この状況を懸命に焼き付けた。お酒のせいで忘れてなんてしまわないように。1本1本がしっかりとした太いブラウンの髪の毛や微かに香るグリーンの香り、服に染み付いた煙草とアルコールの匂い。ジャケットから伝わる人肌の温もり。ほんの少しだけ上がった息の音。線が細くしなやかに見えても肩幅が広くてしっかりしていること。私を支える手が大きくて、筋肉質だったこと。
忘れないように、消さないように。私が、この人のことを好きだったこと。
「にのみやくん」
「……なんだ」
「好き」
好きだよ、好き。大好き。本当に好き。好きなの。堰を切ったように好きという言葉が私の口からこぼれ落ちる。静けさが広がる閑静な住宅街に、私の情けない声だけが響いた。
どんなあなたも好きなんだよ。初めて会った時から。湖に雫が落ちて、波紋が広がるみたいに。二宮くんのこと好きになったんだよ。
酔っているせいなのか涙腺が緩んで、私の涙が二宮くんのジャケットに落ちた。そこだけ色が濃くなる。こんな風に私の言葉で二宮くんの心の柔らかいところだけ、ほんの少し色が変わればいいのに。そうしたら私の不毛だった片想いも、少しは報われるのに。
止まらない涙とそれに比例して緩んだ鼻をグズグズと啜っていると二宮くんが止まった。マンションの前だ。降りろってことかな、と二宮くんの肩に手を付くと、鍵、とだけ言われる。
あ、鍵か。鼻をすすりながらも鞄を探すが私が身につけているようではない。
「あの、カバン……」
「鞄の中か」
一度降りろ、とゆっくりと足を地面に降ろされてようやく私は二宮くんと向き直ることが出来た。そしてギョッとした。私のショルダーバッグを首にかけている二宮くん。恐らく目を見開いた私に気付いたのか、彼は自分のポケットからキーケースを出しそれを共有玄関の電子板に翳しながら教えてくれる。
「加古が引っ掛けた。お前のだと」
「そ、そうだよね。ごめんね」
開いた自動ドア。二宮くんはそれを確認してからキーケースを再びジャケットのポケットにしまう。どうしたらいいのだろう。まずはカバンの回収だろうか、と手をさまよわせたけど二宮くんはそのまま私の肩に手を回して引き寄せるようにして歩き出した。再び近付いた距離と体温にびっくりして、止まっていた涙がまた溢れそうになる。
これが優しさなんだろうか。二宮くんの。だとしたら本当にタチが悪い。さっきの私の告白なんて聞かなかったことになっているのかな。それとも聞いた上で、情けをかけてくれるのかな。どちらにせよ今の私にとっては大きな傷になることに違いは無い。
エレベーターのボタンを押した形のいい指を見つめて「優しくしないでよ」と言った。悲しくなるよ、と続けるとエレベーターが降下を示す数字を追っている二宮くんが「なんでだ」と聞いてくる。
馬鹿なんだろうか。それともやっぱり人の気持ちなんて考えないただの射手マシーンなんだろうか。どんどんイライラしてくる。少しは顔でも態度でも変えて欲しい。本当に報われない。どうしてこんな人が好きなんだろう。どうして嫌いになれないんだろう。ムカつく。
「私さっき二宮くんのこと好きだって言った」
「あぁ」
「好きじゃないでしょ私の事なんか。振ってください。好きじゃない、そんな風に見たことないって、情なんかかけないで。別に覚悟なんてとうの昔から出来てるよ。好きになって欲しくて、好きでいたんじゃないもん。私が勝手に好きになって、今の今まで好きでいただけで……別に、」
「お前は」
チン、とエレベーターの到着を知らせる間抜けな音が二宮くんの言葉を遮る。どちらともなく2人でそれに乗り込むと、それきり会話は無かった。
私は、上へと流れていく景色を見ながら引っ越そうかとか、ボーダーやめようかなとか、そんなことよりまず望ちゃんと太刀川に飲みに付き合ってもらわないととか、そんなことをずっと考えていた。バレないように見上げた二宮くんもエレベーターのガラス越しに外を見ていたけれど、相変わらず何を考えているか分からない綺麗な顔をしていて私はやっぱり泣きそうになる。
私があなたを好きでも、嫌いでも。きっと関係ないんだ。
再び間抜けな音がして扉が開く。フロアが一緒なだけで、二宮くんとはここでお別れ。いつもならドアの前まで彼は来てくれるけど、今日はそんな些細な優しさでさえ心が痛んでしまう。
私は二宮くんと距離を空けて向き直った。
「カバン、ありがとう」
「前まで送る。そういう約束だ」
「もういい。いいから、カバン返して。ここで」
「約束を反故にさせる気か」
「だって私はもう二宮くんから優しくされたくない。ここでまた優しくされたら、私また二宮くんのこと諦められなくなる。好きになる。もう苦しいの、やめたいの、いやなの」
そこまで言い切ってから、息継ぎをしていなかったことを思い出す。大きく息を吸って、吐くと溜まっていた涙が目尻から流れ落ちた。失恋しそうで泣く、なんてそんなドラマみたいな結末が待っているなんて思ってなかったし、そもそも彼に告げるつもりなんてなかったのに。それもこれも全部二宮くんがバカみたいに、優しくするからだ。アホ。いつか私みたいな女に背中刺されて死ねばいい。嘘、死なないで欲しい。ずっと長生きして、出来れば人なんて愛さないで。それでも周りからなんでか愛されて老衰で死んで。その前に1度でもいいから、私のこと思い出して。
ポタポタと大粒の涙が地面に落ちる。何も言わない二宮くんを見上げても、やっぱり表情は変わらなくて辛くなった。
「飲み過ぎだ。ドアの前まで行くぞ」
「だから……」
やめてよ、と言う私の手を力強く握った二宮くんの手。その温度があまりにも熱くて私は言葉を失う。あれ、こんな熱かったんだ。驚いていると二宮くんは良しと言わんばかりにさっさと私の手を引いて歩き出した。たった数メートルの距離が、何十キロにも感じる。
二宮くんの手は熱くて、少しだけ湿っていた。もしかして緊張でもしてくれていたんだろうか。
そう考えたけど、有り得ない。この男が緊張なんてするものか。二宮くんもお酒に酔っているんだろう。
兎にも角にも早く振って欲しい。出来るならお酒に酔っている今がいい。素面で振られたら立ち直れる自信がないから。
私はただ短い距離を二宮くんの背中を見て歩いた。
扉の前について、二宮くんは漸く首にかけたままの私のショルダーバッグを外す。どこかの大型犬が郵便配達でもしているような光景。きっと望ちゃん辺りが黙って写真に撮っているんだろうな。もらおうかな。やめとこ。振られるんだし。
ありがとう、と虫の鳴く声で言って、それを受け取る。とりあえずなにか言われる前に鍵だけ出しておこう、直ぐに部屋に逃げられるように。そう、カバンを漁っていると二宮くんが大きく息を吐いた。溜息なら私が吐きたいわ、と恨めしく思って二宮くんを見上げる。
「俺は、なんとも思っていないような相手を毎回馬鹿みたいに迎えに行ったりはしないし、下らない話にも付き合ったりしない」
「……は?」
「ランク戦の最中にやったことを言いふらされたとしても別に痛くも痒くもない。そんなことよりもそんなカバンを引っ掛けて道を歩く方が余程耐えられない」
「うん。え?」
「……つまりはそういうことだ」
そう言い残すと二宮くんはさっさと踵を返して元来た道を辿っていく。取り残された私はただただ呆気に取られたまま、は?とかえ?とか言葉にならない声を漏らすしか無かった。
するとカバンの中でスマホが震えて、ようやく意識を取り戻す。震える手でそれをやっとのことで取り出すと、望ちゃんから何件かメッセージが届いていた。最後のメッセージが帰宅出来たかどうかを確認するような内容だったので、慌てて開くと写真が表示される。
「へ」
そこには酔っているのか二宮くんに抱き着く私と珍しく顔を赤らめて嫌がる様子を見せる二宮くんの姿が収められていた。その下には『嫌がってる割にはちゃんと腰に手を回してるのよ。意外と厭らしいわよね』と望ちゃんの見解が入っていて、私はすぐに二宮くんの手の行方を確認する。しっかりと私の腰を抱いている二宮くんの骨張った綺麗な手。そしてさっきの言葉を思い出す。
もしかして、私、もうお酒やめられる?
そんな夢みたいなことがあるんだろうか。ねえ二宮くん。つまりはそういうことって、そんな言葉で片付けないでよ。明日朝イチで確認しに行かなければ、と私は望ちゃんへの返信をすぐに入力してとにかくアラームをかけた。
きっとちゃんとしている彼だから、明日にはきっときちんとした言葉をくれる。そう信じて。