※貞操観念の低い女の子と生駒くんがテーマの作品です。随所にそのような描写がありますので注意してください。最後の方は背後に注意。
深い沼の底から掬い上げられるような感覚と共に目を覚ますと、レースカーテンのみしか閉めていないと言うのに部屋は真っ暗だった。目覚めたばかりで全くもって働かない頭の引き出しを開けては閉める。まるで壊れた時計の秒針のようにゆっくりと動いたかと思えば、散らかったトートバッグ、脱ぎ捨てたコート等の断片的な証拠を見つめると途端に凄まじい速さで情報処理が始まった。最後、サイドボードに置いているデジタル時計を見て私の中の体内時計の針がその時刻を指す。ああ、そうだ。生駒くん、連絡来てたんだった。
寝る前はうつ伏せだった体勢もいつの間にか右を下にして膝を抱え込むような体制になっていた。ゆっくりと畳んでいた足を伸ばして上半身を起き上がらせる。恐らく5時間半は寝ていたので、今日は多分眠れないかもしれない。晩御飯も食べそびれた。そんなことばかりに頭を回してしまう自分が、本当にどうしようもなくて、嫌な女、と誰に言うでもなく呟いた。一人暮らしの狭い部屋にはその呟きはよく響く。
頭の中でエコーをかけて響く自分の声に知らんぷりをして、私は緩慢な動作で床に散らばっていた鞄の中身から液晶を床に臥せているスマホを拾い上げた。顔認証ですんなりとロックを解除し、何件かの通知を見つめる。すっかりと忘れていたが、そういえば飲み会に誘われていたのだった。大学内でもサークルの集まりでしか話したことのない同学年の女の子から2回分の着信と、よかったら彼氏くんもと誘いをかけてきた先輩から今日の集合場所を知らせるメッセージ、その後に来ていた都合悪い感じ?という温度のない文字。それら全てに、バイトでした、ごめんなさい、また次の機会あれば誘ってください、と息を吐くように嘘を織り交ぜて返信した。
生駒くんからは一通だけメッセージが届いている。多分ボーダーでのお仕事が始まる前に一通だけでもと送ってきてくれたのだろう。あんな風に一方的に立ち去った私へも、行ってきますといつも通りメッセージをくれるのだから生駒くんの人の良さというか、良い意味でも悪い意味でも空気を読まない彼のマイペースさが窺えた。もう今更だろうけど、それに行ってらっしゃいと返してスマホの液晶を落とす。
そして、大きな溜息を一つ。ここで生駒くんとの連絡を優先しないから私はいつまでも私のままなのだと思う。彼だけを考えたいと思えば思うほど、私はどんどん臆病になっていく。こんな私と付き合って、生駒くんが何かを言われたら、それを聞いたら、そして、そんな話を聞いて、生駒くんがこの付き合いに嫌気を感じたら。ふるふると唇が震えて、同じように吐いた息も揺れた。好きです、と言ってくれた生駒くんの顔が浮かぶ。嫌われたくない、私の頭の中にその一言だけが浮かんで消えた。
辛うじて涙を溢さないことに成功した私はやっと立ち上がり、部屋の電気をつけた。替えたばかりのLED照明は目を焼くほどに明るい。そういえばこれも生駒くんが替えてくれたな、と思い出す。
髪を乾かし、丁度ドライヤーのコンセントを引き抜いた瞬間部屋の電球が急に切れてしまったのだ。突然奪われた視界の明るさに驚いて声を漏らしたことをよく覚えている。ただ、その時はもうあとは寝るだけだったのでスマホの懐中電灯機能を使えば特に不便を感じなかった。それを丁度仕事が終わった、と連絡をくれた生駒くんに話すと、それはアカンやろ、と渋い声を出されたのだ。行ってもええんやったら、10分あれば着くんやけど。そう問い掛けるような言葉を選んでいても、私のイエスの返事しか受け付けません。そんな声で言うので、生駒くんが大変じゃなければ、と答えると、そんなん大変なワケあれへんわ、とぷつりと通話を切られる。到着してすぐに電球を替えてくれた生駒くんに、ありがとうね、と頭を撫でると、真っ暗ん中で大丈夫とか無理せんでええから、すぐ俺に言い、と逆に頭を撫で返された。
大きな手のひらの感触にドキドキして何も返せないでいると、言うたやろ、と生駒くんが腕を組んで続けるので首を傾げると、死んでも守ります、て、といつも通りの顔で言うので私はあの日の生駒くんを思い出して顔を伏せることしかできなかった。
そんなことを思い出しながら一人暮らしを始めるときに両親から贈られた分厚い遮光カーテンを閉める。これにも生駒くんは、ご両親に感謝しても足りんと言ってくれた。女の子の一人暮らしなんて、彼からすれば、あり得んくらい心配、らしい。それでも私の決断を受け入れて、少しでも防犯の後押しになればという両親の気持ちに感謝したいということを身振り手振りを交えて語ってくれた。コレがフッツーのうっすいカーテンやったら今頃一人暮らしも終わって大学も辞めとったかもしれへんのやで、ご両親の愛に感謝やん。あ、ご挨拶いつ行こか、と言うので大袈裟じゃないか、と笑うと私の両手に自分の手を重ねて、そんくらいめっちゃ好きやねんとまた真面目な顔で言う。彼の情緒はどうなっているんだろうか、仕事をしてくれないかと思うほど私は照れ臭くて、それを隠すために彼の硬い頬へ口付けた。
カーテンレールを走る高い音を聞きながらそんな日々を思い出して私はしゃがみ込んでしまう。もう、生駒くんがいなかった頃の私になんて戻れる筈がないのに。
そうしているとピンポーンと少し古めかしい音でインターホンが私の部屋への来訪者の訪れを知らせる。こんなワンルームにはドアカメラなんてものは存在しない。こんな時間に、と思いつつ通話ボタンを押す手を、は、と止めた。以前手当たり次第に押す変なやつもおるから変な時間のピンポンは出たらアカン、と生駒くんに言われたことを思い出す。
生駒くんって本当に私のことを大切に宝物みたいに扱ってくれているんだと、その事実に感謝しながらなるべくそっと、足音を立てないように玄関のドアに近付きドアスコープを覗き込んだ。え、と思わず洩れた自分の声と共に鍵を開けて勢いよく扉を開ける。
「うおっ、えぇって」
「い、生駒くん……どうして」
「いやその前にドア開ける前、ちゃんと俺やって確認してん?アカンで、女の子が一人暮らしっちゅう時点でヤバいのに、さらにこんなかわええて男からしたら棚から牡丹餅やで」
「確認した……ね、なんで、今日、ボーダー」
「ボーダーは任務やあらへんねん、団体戦みたいなもんやって、ほんで、いつもより早く解散なってんけど……あの、入ったらアカン?」
立っていた生駒くんはいつも通りの調子で話し始めるので、私の脳内処理が追いつかない。とにかくなんでここにいるのかという疑問を解決したい私と、あくまでも私の防犯への意識を再確認したい生駒くんとで噛み合わない会話。彼の言う任務と団体戦の違いは私のは全然全く分からない。そうしていると生駒くんがキョロキョロと静まり返っている周囲に目を配って、耳打ちをするように頬の横に手を当てて伺ってくる。あ、ごめんね、と外の匂いを体に纏う彼を部屋に招き入れた。
「待って、その場で目瞑って回れ右して。あ、帰らなくていいから」
「目、瞑って回れ右」
そうだ、部屋汚い。そう瞬時に思い出した私は彼を反転させるとバタバタと自分も片付けを始める。律儀に私の言った言葉を繰り返しその通りにした生駒くんに軽くお礼を言ってから、脱いだままになったコートを拾ってハンガーに掛け、トートバッグの中身かは分からないけれど床に落ちているものをバッグに投げ入れる。朝食べたままになっているトーストの皿とマグカップを一度持ち上げて簡単に手でテーブルに散らばっていたパンのカスをゴミ箱へ払う。持っていた皿とカップを片手に玄関の近くの水道に置いて、手櫛で簡単に前髪を整え息を吐いてから、お待たせと言うと生駒くんはゆっくりこちらに向き直る。
急にごめんな、と狭い玄関スペースで話し出す生駒くん。彼がそこに立つとまるで漫才師が使うような小さなお立ち台のように思える。中どうぞ、と言って彼の太い手首を引くとモタモタとスニーカーを脱いで勝手知ったる私の部屋にやっと入った。
みしりみしりと彼の体重で少しきしむフローリングの音を聞きつつ、彼を部屋の奥へ追いやり、私は生駒くん用にと買っていたマグカップにお茶を注いだ。作りおいているブレンドのお茶は、麦茶よりええなあと彼のお墨付きで私も最近はこのお茶ばかり飲んでいる。とぽとぽとお茶が空気の抵抗を受けてマグカップの底に溜まっていくのを見ていると、後ろの方で生駒くんが今度こそと話し出した。俺、ボーダーで隊長やってんけどな、と至極真面目な声で言うので私は少し肩透かしを食らう。そういう話なんだろうか、もう彼の中で昼間のことはもう終わったことになっているのかも。そう考えつつ、相槌を打つ。
「ミズカミっちゅうヤツが、これまためっちゃ頭が切れんねん。ほんでオキっていうこれまた泣きボクロがチャームポイントの顔がええヤツとカイっちゅう元気が取り柄ですみたいなヤツと同じ隊でやらせてもろてて」
「うん」
「ほんで今日ソイツらと、後マリオちゃんっちゅう支援してくれる女の子な。それで団体戦しとってん。ボーダーの中でも順位決めてやってんねんけど」
「……そうなんだ。大変そうだね。はい、お茶」
「おおきに。……んで」
ローテーブル、窓側に近い箇所に剣道の試合で控えている選手かのように仰々しく正座みたいな座り方をしている生駒くん。お茶の入ったマグカップを差し出すと、彼は何故か丸くなっている持ち手に指はかけず湯呑みを掴むようにして口をつける。お家では、湯呑みだったのだろうか。詳しく聞いたことは無いけど、私は彼がそのようにマグカップを使うのを見るとそう思う。
生駒くんは一口お茶を飲み込んで、今日負けてしもうて。とポツリ小さな声で言った。珍しいと思った。あまりマイナスに感じられるような話をする人ではないから、こんな風に話されたのは初めてなのだ。あまりの驚きに気の利いた言葉なんて返せる訳もなく、そうなんだ、と私は答える。
「んで、そのキレもんミズカミにな、イコさん今日なんかあったんとちゃいます?って聞かれてん」
「……うん」
「カノジョに、別れてもええて、自分は俺が思っとるような女の子やないって言われて……て話したら」
「うん」
「それケンカみたいなもんやないですか、そういうんはその日のうちに解決せんと〜ってオキにアドバイスもろて」
「うん」
「ほんでそれ聞いとったカイが、俺ならすぐ謝っちゃいますねー!って言い始めて、ミズカミが、理由もわかってへんのに謝っても火に油や言うて」
登場人物が多いなあと、私の感想はそれだった。要するに、今日の生駒くんは誰もが可笑しいと思うほどに調子が悪くて、その原因は私で、それを同じチームの人に相談をした、ということを1から話してくれているらしい。
生駒くんはその後も話し続けた。
でもでもと折れなかったカイという人と、冷静なミズカミという人の言い合いに、オキという人が「ほんならオンナノコのことは同じオンナノコに聞いたらええやないですか、なあ、マリオ」と助け舟を出したらしい。マリオちゃん、この後行ってみたらええやないかて、ほんでどういう事か聞いてみんことには解決せえへんやろ、てそれでバシッと解決、マリオちゃんごっつ凄いやろ、と最後締めくくり、私は彼を招き入れて約30分、ようやく彼がここにいる理由を知ることが出来た。
「ほんで、その、俺、なんかしてもうた?」
「……今日、生駒くんと友達が講義室で話してること、聞いた」
「ん?……あぁ!アレな!」
「なんとも思わなかったの? 本当だったら?とか。私に、聞きたいこととか、ないの」
「……あれへんな」
暫しの沈黙の間、生駒くんは顎に手を当てて考え事をしている動作をする。私は生駒くんの手が、顎を撫でるのを見つめて彼の言葉を待ったが、紡がれた言葉に俯いた。
あの噂ね、本当のことも多いんだよ。しかも、噂ってあの人たちが知ってるのはほんの一部でね、もっとあるの。私がそう言っても生駒くんはへぇ、と声を漏らすばかりで何も言わない。私はただ続ける。
「私ね、最初は女の子の友達もたくさんいたの。飲みにも女の子とばかり行ってた。1回男の人の誘いを断って、無視を続けたら腕を掴まれて調子乗るなって言われたことがあって、すごく怖くて、それで断れなくなったの。そしたら女の子たち、私と一緒にいると男の人が奢ってくれるからって、もっともっと誘われるようになって。断ったらひとりぼっちになると思ったから、そっかそっかって適当に流してたの。そしたら遂に、一人の子に、いい加減にしてって言われた。モテてるつもり?って。 そしたら全部面倒くさくなって、私の周りには男の子しか残らなくなった。男の子ってね、単純だし、分かりやすいんだよ。ほら、こうして、私が隣に座ると簡単に手を回してきたり、顔近付けたりするの。嫌な顔しないだけで、あ、満更でもないじゃんって、コイツ行けんじゃんって。女の子って口ではだいすきとか言ってても、本当は嫌いだったりして、すごくすごく面倒なの。難しいの。だから、楽な方に流れたの」
生駒くんは何も言わない。それどころか表情すら変えずにそこに佇んでいて、私は、私ばかり辛いんじゃないかと、悔しいんじゃないかと思う。生駒くんみたいな人にとって、きっと私に起こった事象なんて取るに足らないことなんだろう。言葉で表すなら、だから?と言った具合なんだろう。それが悔しくて、私は生駒くんの肩を押して彼の上に股がった。押し倒したような体制は、彼も予想外だったのか彼の頭は鈍い音を立てて窓近くのフローリングに着地する。気遣う余裕は全くない。微かに目を見開いた生駒くんの顔の横に手をつくと、近付く距離。息遣いが聞こえた。私の肩から落ちる緩く巻いた髪が、生駒くんの頬を擽ったようで腿の間に挟まるしっかりとした彼の身体が僅かに震える。
私色んな人とこんな体制になったよ。テレビもつけていない明るい部屋で私の声が響いた。ゆっくりと彼の唇に口付けて、ちろりと舌を態とらしく見せて、口と口とがくっつくような距離で、こんな風にキスも沢山したよ、しかも付き合ってない人と。そう囁くと生駒くんの体が勢いを付けて起き上がってそのままの勢いでわたしを抱きしめる。聞きたくなかったのだろうか。もっとあるよ、あなたに言えない私の悪事。そんなことを心で囁いていると、寂しかったん?と聞かれる。そんな訳ない、と切り返すと私を抱き込む生駒くんの腕が強くなった。
「知りたくなかった?私ってそういう女の子なんだよ。生駒くんが思うような、そんな女の子じゃない」
「……そもそもなんやけど、俺はそんな女の子言うほど女の子のこと知らへんねん」
「……は?」
私の名前を1度呼んで、生駒くんは懐古するように話す。私を大学で見かけた時、この子だと思ったらしい。まずは見た目やな、うん。ごっつ可愛ええ子おるやん、と思って見掛けたらよう見るようになって。まぁたしかに女の子とおるとこはあんまり見ぃひんかったけど、理由があるんやろな、てそこはあんまり気にならんかったわ。と私を抱き込んで、赤子をあやすように前後にゆっくりと揺れながら囁いた。
「出されとる課題もちゃんとやって、大学も休まんとちゃんと来とるし。俺と付き合うてからも、俺のやること否定せえへんで受け入れて、いっつも笑てくれはるとこ、めっちゃ好き。人からの好意、全部笑て否定せんと受け入れるって、ごっつい難しいこと普通にやれるとこも尊敬しとる」
「……そんなの、誰でもできるよ」
「出来ひんて。しかもひとの悪口も言わへんし、難しいんやないの」
俺は今目の前におるそういう女の子しか知らへんし。昔とかどうでもええけど、俺とおってくれる間は俺以外にそういうことせぇへんって約束してださい、と生駒くんは至近距離で私と目線を合わせる。言い聞かせるような優しい声にじんわりと視界が滲む。声を出せば震えてしまうと思って、何度も何度も頷くと生駒くんは安心したように息を吐いて私の肩に顎を置いた。そして再び、アカンやんこんな時間に男上げてそない簡単に身体寄せたら。俺やなかったらもうごちそうさんやで、と真面目な声で有り得ないことを言うので可笑しくて笑ってしまう。生駒くんは笑う私にムッとした声で唸ってきた。それさえもやっぱり可愛くて、生駒くん以外にはさわらせないよ、と囁いてみると石のように固まる生駒くん。
「て、テレビつけませんか」
「……どうして?」
「え、と……それがアカンなら、少し、離れて座らへん?」
生駒くんが必死に首を動かして私の部屋のテレビリモコンを探す。残念でした。この部屋のリモコンはさっき私がトートバッグにまとめて詰め込んでしまっています、と心の中でニヤリと笑う。
ギシギシと錆びた人形のように私の背中に回されている手の動きを感じながら、私はゆっくりと体を離して再び生駒くんの体を組み敷いた。さっきとは打って変わって顔を茹でダコのように真っ赤にし、視線をさ迷わせる生駒くん。私はそれを嘲笑うようにして、彼の唇に自分の唇を押し付ける。
わずかな抵抗を見せた彼の手が観念したかのように私の首に回るのを確認してから顔を離して、離れちゃうの?とさも、これから起こることなんて私は知らない、全部あなたのせいだよと言わんばかりに首を傾げた。
彼の美しい瞳にじっとりとしている欲望を孕んだ鈍い光が宿る。その光が私だけに向けられている、その事実に私は優越感に似た何かがお腹の底で蠢くのを感じ、ひっそりと息を止めたのだった。