悲哀に満ちた瞳や仕草が徐々に柔らかくなることを感じて、ああきっと彼は本当に辛いんだと思うことが増えた。始まりは傷の舐め合いのようなそんな関係で、お互い一人でいることに耐えられなくなったらどちらともなく寄り添う。そんな感じで私と三輪の関係は始まった。
三輪は暗い。更に近界民は全員もれなく殺すという極端な目標を掲げているからか、事情をよく知らない隊員から見ると過激派だと思われている。さながらダークヒーローだ。本人も否定はしないし、邪魔されるくらいなら遠巻きにされている方が丁度いいのか否定も肯定もしない。
だけど普通に話はするし、学校にも行くし、なんていうか、その面だけ除けば本当に普通の人なのだ。納得いかないことには眠れないほど悩む。身内には優しい。殊更私のような存在には、これは本当に三輪隊隊長の三輪秀次なのだろうか。そんな風に思ってしまうほどには、優しい。
「三輪、三輪。眠いの?ちゃんと横になりな」
「……うん」
誰だこいつ。口から出そうになった言葉を飲み込んで私は三輪の少し細い肩を叩いた。昨日はよく眠れなかったらしい。隈が濃く刻まれている顔は今にも寝そうなほど瞼が落ちているし、船を漕ぐように揺れている体が窮屈なほど曲がっていくので私はとりあえず横になるように促した。
思いの外素直に頷いた三輪はもう半分夢の中のようで、緩慢な動作で2人がけのソファへ寝転ぶ。まるで猫のようだ。可愛い。三輪とは付き合っているとかそんな色気のある関係ではないけれどたまにそんなふうに思うことがある。たまにだけど。サラサラの黒髪を撫でつけると意外と1本1本が太くて、やっぱりこういう所は男なんだなと感じる。
部屋の中で唯一の座席を陣取られてしまった私は、何となくソファの前の地べたへ座り込んでみた。規則正しい寝息を立てる三輪の綺麗な寝顔を見つめながら、出会った頃の三輪の様子を思い出す。毛を逆立てて威嚇をするそれこそ野良猫のようだったな、と当時の三輪と今の三輪を比べて笑った。三輪より少し先にボーダーに入っていた私は、先輩風を吹かしてあれやこれやと世話を焼き何かにつけて話し掛け、そして今に至る。多分私のしつこさだとか何を言っても右から左に受け流すところだとかに根負けしたのか、それとも絆されたのかそれは分からない。
ただ、なんとなく。なんとなく三輪のそばにいたい。それだけ。
大規模侵攻が起こらず、三輪のお姉さんが死ななければきっと三輪はもっと優しかった。いや、優しいだけの家族思いな男の子でいられたんだ。誰かを殺すだとか、そういう考えも方法も知らないまま。
奪われた三輪の幸せや普通というのは、この世界では結構ありがちな話。ボーダーにいればそういう人はたくさんいる。それでも三輪のように極端な隊員は、少ないように見受ける。
かく言う私も大規模侵攻で両親を亡くし、天涯孤独となったところをボーダーに拾われた。
唯一、救いなのは私は目の前で両親を亡くしていないということで、シートに包まれ顔だけ覗かせた両親を見せられ「これは君のお父さんとお母さんか」と心無い質問を投げ掛けられた。そして頷いた。私に起こったことはそれだけのこと。悲劇と呼ぶには些かシンプルな事象。だから私は知らない。両親が死んだのは侵攻により起きた事故が原因なのか。それとも近界民に殺されたのか。
けれども三輪を見ていると、知らなくてよかったと思った。私は私の人生を復讐に費やせるほど、無力な自分を悔いていないから。
ボーダーにいるのも、普通に生きるよりずっと楽で、楽しくて、恵まれている、そういう自分になれるからだ。
「……三輪、クッキー食べるかな」
そう思ったらなんだか三輪に申し訳なくなって、誰も聞いていないのに私は話を逸らした。昨日安くなっているからと薄力粉をふたつも買ったことを思い出して、私はそんなことを口から零す。以前三輪に好きな食べ物はと聞いた時、ざる蕎麦と刺身という渋いものたちと並んで最後に出てきたクッキーという言葉を私はなんだか忘れられなかった。
生前お姉さんがよく作ってくれたのだろうか。そんなことを邪推してしまったけれど、聞く勇気はない。聞くことで三輪が傷付いたり、悲しくなったり、寂しくなるのは本意ではないから。
ただ、もしもそうなんだとしたら。市販のものと手作りのものとではなんとなく違う。三輪に、なにか温度の通ったものをあげたい。そう思って私は立ち上がった。
私はキッチンに向かって、冷蔵庫から目当てのものを出す。バターはギリギリ足りそう。固さが残るそれをなるべく温かそうなリビングに近いところに置いて、何となく粉を振るうことから始める。
三輪は食べるかな。ていうかクッキーってプレーンだけでいいのかな。チョコチップとかあった方が見栄えするけど。でもそんなものないしな。デジタルスケールで測りながらそんな風に考えていると、そもそも材料が足りてないことに気付く。
「グラニュー糖、ないですやん」
偽物の生駒さんが出てきてしまうくらい初歩的なミスに溜め息が出た。ちら、と未だ狭そうなソファに身を預けている三輪を見つめて、私は振るい終えた粉のボウルにラップをかける。最寄りのスーパーまではゆっくり歩いても10分は掛からない。30分程度で帰って来れるはず。
私は財布を持ってそっと家を出た。スーパーに着いてから、スマホを忘れたことに気付いたけれどまた戻る手間や労力を考えて取りに行くことは諦める。三輪だってまだ起きていないだろうし。ただ急ぎの連絡が入ったら申し訳ないので、歩く速度だけは早めた。
自分的にはさっさと目当てのものを選びとったつもりだけれど、思った以上にレジが混んでいた。チラチラと壁にかけられている時計を見上げて、考えていたよりも時間がかかってしまっていることに焦る。急いで袋に詰め込んでスーパーから転げるように飛び出した。
軽く小走りで家へと戻ると、中からドタバタと聞こえて息を呑む。何かあったのだろうか。大丈夫だろうけど。三輪はあのボーダーのA級隊員だし、いざとなったら戦うに決まってる。でも眠っていたら?そんな不安が襲ってきて、私はキーケースを慌てて取り出し、こじ開けるように玄関の扉を開いた。
「え、あ……み、三輪か」
「おい、どこに行っていたんだ……」
「ごめん、スーパー行ってた」
そこにはすっかりと青ざめた顔をした三輪がいた。私の勢いに圧倒されたのだろうか少しだけ呆然とした様子で立っている。トレードマークのマフラーさえまともに巻いていないところを見るとかなり慌てているんだろう。その三輪の前に持っていた袋をかざしてみると、そのまま手を取られてしまった。あまりにも強い力で握られてどさりと袋が落ちる。痛い。そう言うと三輪は今にも泣き出しそうな顔で私の手首を引いた。鈍い音と一緒に私達はそのまま廊下に座り込む。私を抱えるような形で座り込んだ三輪はきっと強かに体を打ったに違いないのに、痛いとは一言も発さない。ただ、2人の息遣いだけが狭い廊下に響いた。
「携帯しないなら、スマホは捨てろ」
「ごめんね」
「起こしてから行け」
「ごめんね」
「……何買ったんだよ」
「グラニュー糖とチョコチップ。三輪にクッキー作ろうと思って」
「……そうか」
三輪はそう言うと背中に回した腕に力を込める。ぐっと近寄る距離、私も床に投げ出していた手を三輪の背中に回した。こうやって触れ合うのは決して初めてでは無いけれど、ここまで近くに寄り添ったのはとても久しぶり。その頃よりもまた細くなった背中をゆっくりと撫であげる。私の肩口に顔を押し付ける三輪がどんな顔をしているか、分からない。
「黙っていなくなるな」
「ごめんね、三輪」
三輪は繰り返し、そう言った。頼むから、と祈るような声だった。三輪は私と誰を重ねているんだろう。少なくとも、私は殺されてしまった三輪のお姉さんでは無い。そして、その時の三輪とも違う。私は曲がりなりにもボーダー隊員で、ただ黙って殺されることもない。それをただ見ることしか出来ないわけでもない。
三輪が何を恐れているのか、知りたいけれど知らない方がいい気もして、私はただごめんね、と言い続ける。取り敢えず床に散らばる袋の中身を見つめた。
「三輪は、チョコチップクッキー好き?」
「……嫌いじゃない」
「じゃあ作るよ」
そう声を掛けると三輪はようやく私を解放するために腕の力を弛めた。する、と布が擦れる音と一緒に三輪から離れると、ぼんやりした三輪がまたこっちに寄ってくる。なんだろう、と首を傾げた。するとそれを合図にしたように反対に首を傾けた三輪が、私の唇にそっと自分のそれを押し付ける。拙いキスだった。付いては離れて、またくっ付く。それを何回か繰り返して、三輪は立ち上がった。
何かを聞くのは野暮だと思ったし、聞く必要なんてあるんだろうか。さっさと立ち上がってグラニュー糖とチョコチップの袋をそれぞれ右に左にと持つ三輪の背中を見て思う。
私と三輪の関係に、他の人は名前をつけたがるけど私は名前なんていらないと思っている。名前なんてものが付いてしまえば、その形に嵌めようとしてくる人が必ず出てくるしそこに嵌らなければまた違う名前を付けてくるからだ。
三輪がそこにいて、その隣にいる。私はまだそれだけでいい。
私たちの関係に、名前はまだない。