「マツバ、着物の衿ってどっち前だっけ?」


キャミソールとショートパンツ姿で浴衣に袖を通し、鏡台の前に立つ。鏡を見ながら左、右の衿を交互に前にしてみるけどよくわからない。自分で答えを導けそうにないので、着物と共に生活してきた生粋のエンジュっ子であり着付けのプロであるマツバに聞いてみる。すると私の後ろへ来て鏡を覗き込みながら答えてくれた。


「左前は亡くなった人への着せ方。それじゃマナー違反だよ」

「えっ、ちゃんと右手の方を上に重ねたよ?ちゃんと右前だよ?」

「ここで言う『前』っていうのは上に重ねた方じゃなくて、自分で先に重ねた方のことをさすよ。自分に近い方が『前』」

「あっ そっか・・・じゃあこれは左前だね」


指摘を受けて右手に持っている衿を先に胸へ当てる。けど、正直やっぱりよくわからない。


「普段から着物着てる人ならすぐに出来ると思うけど、私そんなに着る機会ないし、また忘れそうだなぁ・・・」

「無理もないよ。男性の場合は洋服のボタンの付け方と同じ様に考えればいいんだけど、女性は逆なんだ。慣れないっていうのもあると思うよ」

「そっかぁ・・・」


これじゃあ次に着る時も今みたいに迷うこと必至。次も側に着物に詳しい人がいるとも限らないし、今ここで物にしてしまいたい。


「ねぇ、着物の衿を合わせる時のわかりやすい覚え方ってない?」

「うーん そうだなぁ・・・右手で懐に物を出し入れしやすい方 って覚えれば良いんじゃないかな」

「右手で物を出し入れ・・・あ、なるほど」


確かにこれなら右利きの人が懐に扇子とかお財布とか出し入れしやすい。けどこのワードを覚えてたとしても手元が迷うのが私だ。『えっと、右手で物が出し入れしやすい方だから〜・・・』とか言って逆に合わせて『これじゃ物が入らない!!』と慌てて正すのが目に見えている。まぁ、最終的に正しく着られればいいかな・・・。


「自信、なさそうだね」

「千里眼使うのやめて」

「使わなくてもわかるよ」


ふふ、と笑うマツバに私はそんなにわかりやすいのかと頭を抱えたくなる。だから私は昔から「何か言いたいことあるでしょ」って友達とか学校の先生に指摘されるのかな。


「絶対に忘れない衿合わせの覚え方、知りたい?」

「えっ あるの?」

「うん。あるよ」

「それを最初に知りたかったよ・・・」

「そう?じゃあ・・・」


後ろに立っていたマツバが距離を詰めて、肩に手を乗せてきた。肩に背中にとマツバの体温が伝わる。ここまでしてもらってありがたいのやら申し訳ないのやら。ちょっとドキッとしたのはびっくりしたからっていうことにしておく。


「世界的にも右利きの人が圧倒的に多いっていうのは知ってる?」

「うん、知ってる」

「そういう僕も右利きなんだけど、」


そこで私の右肩にあったマツバの手が、私の着付け途中の衿の合わせ目から割って入ってきた。ゆっくり侵入して、キャミソール越しの左胸に触れる。


「ま、マツバ?!」


驚いて振り向こうとした私の耳に唇を当て、マツバは直接言葉を流し込んできた。いつもは心地いいと感じる落ち着いたトーンの声も妙に艶を含んでいて。唇が耳を擦り、鼓膜を震わせる度にぞくりと鳥肌が立つ。


「右利きの人が 後ろから手を差し入れやすいように合わせると間違いないよ。

ーーーこんな風に、ね」




絶対に忘れない方法
絶対に忘れない方法




「ね、忘れないでしょ?」とにこやかに離れるマツバ。絶対に忘れないどころか着物を着る度にこの事を思い出して恥ずかしくなること請け合いだ。どうしてくれる!