群青



自分は価値のない人間だと思って生きてきた。

まだ幼かった頃、私は家族に売られた。貧しい家を助けるためだと言い聞かされて、金と名声にしか興味のないような男が筆頭の組織に買われた。どうやら、助ける家族の中に私は入っていなかったらしい。なぜ生まれてきてしまったのだろうかと、この時初めて思った。
決していいとは言えないような環境で、文字通り血反吐を吐くような教育を施された私は、ある程度成長すると、男に命令されるままよく知らない人間に近づいては情報を抜いて、裏切りを繰り返した。どれだけ命をかけて任務に取り組んでも、最終的に利益を得るのはいつも男だけで、私が受ける恩恵なんてものはほとんどなかった。
でも、それが私にとっては普通のことで、別に絶望するほどの事でもなかった。人がよさそうな笑みを浮かべることも、悲しくもないのに泣くことも、私には容易いことだった。
海軍にいい顔をしておこぼれをもらおうと考え始めた男は、海賊狩りに精を出し始めた。海賊にばれて殺される者、海賊狩りに失敗して命からがら組織の本部に戻って来たのに、結局任務失敗に激昂した男に殺される者。まわりの人間が死んでいくスパンが前よりも短くなっていくのがわかった。自分達の命は、男にとっては世界中の何よりも軽いのだろう。
男に部屋に呼ばれ、まるで虫けらを罵るように蔑んだ口調で私に突きつけられた命令は、麦わらの一味の崩壊、又は船員一人の殺害だった。
任務に失敗して死んだとしても、この世界に思い残す事なんてひとつもない。私は静かに任務を受け入れた。
生も死も、どうでも良かった。



――彼らは、自由だった。

彼らの船の近くで、意識を失った漂流者のふりをして海に漂っていると、焦ったように彼らは私を船に上げた。こんなにお人好しの海賊が居てもいいのかと思うくらいに、至れり尽くせり面倒を見てくれた。私が目覚めた後も、船医のトナカイくんは「経過観察のためにしばらくここでゆっくりしてて欲しいんだ」と、こちらを伺うように言った。長期戦にするつもりはなかったから、目覚めた時に不意打ちでさっさと殺して、すぐに海に逃げればいいと思っていたけど、私の身をただ真っ直ぐに案じるような目が見慣れなくて、出そうとした手を思わず引っ込めてしまった。何かを言おうとしても上手く言葉が出てこなくて、心から私を心配する目から逃れるように視線を逸らして、やんわりと笑みを浮かべた。

あれから結構な日が過ぎた。
体調はすこぶるいいし、怪我もない。それでもダラダラと船でお世話になり続けていた。自分の行動に、自分が一番驚いていた。ここに居ると、なんとなく心が溶かされていく感じがした。もう少しだけ、この不思議な気持ちに微睡んでいたくて、自分がするべき事を頭の隅に追いやった。
そんなある日の午後、麦わら帽子の船長さんと二人で釣りをしている時の事だった。
「なぁ、おまえ仲間になれよ」
「……え?」
名前も、故郷も、彼らに何を聞かれても「分からない」「覚えてない」の一点張りで突き通してきた。普通はこんな素性の分からない怪しげな女を仲間にしたいなんて思わない。正気なのだろうか?ニパッと笑いながら言った彼の言葉が信じられなくて、思わず聞き返す。
彼は聞き返された意味を分かってないのか、きょとんとした後「仲間になれ!」と、また大きな声で言った。思い思いの事をしていた彼の仲間たちは、ピタリと動きを止めて目を点にした後、バタバタと私たちの近くまで走ってきて「すぐに仲間にするな!」と怒っていた。この反応は当たり前だ。でも、麦わら帽子の船長が「仲間にする!」と、一言そう言うと、みんなため息をついて押し黙ってしまった。ルフィが言うなら仕方ない。とあきれたように言いつつも、私に向けられた視線はとても穏やかで、彼らは私を受け入れてくれているのだろうと感じる。胸の内からフツフツと温かさが溢れてむず痒い気持ちになった。
皆がバラバラと解散し始めたところで、私たちも釣りに戻る。
「なんで、仲間にするなんて言ったの?」
静かだった空間に、私の声が落ちる。さっきから、ずっと頭の中を回っていた疑問だった。
「長い間一緒に船に居るんだ、もう仲間みてェなもんだろ」
「仲間の認識が緩すぎるよ。それに、私悪いヤツかもしれないのに」
「おまえはいいヤツだ」
「そうとは限らないでしょ」
「いーや、いいヤツだ!」
弾けるような彼の笑顔に、私はもう何も言えなくなってしまった。
どうしてそこまで私に心を開いているのかは分からないが、私から見た彼らは隙だらけで、殺すことなんて赤子の手をひねるより簡単な事だった。それなのに、私は何故か、何かと理由をつけて殺すことから逃げてしまっている。初めての感情だった。
純粋に、優しさを与えられる事が初めてだった。
海に向かってのんびり釣りをすることも、温かくて美味しいご飯をゆっくり食べることも、雑談することも、お昼寝することも、朝のおはようの挨拶でさえ、全てが私にとっては初めてのことだった。知らなかった感情に、どんどん火を灯されていくような感じがした。柔らかい布団の中で、明日は何をしようかと考えながら寝て、怯えることなく爽やかな朝を迎える事を、心から楽しみに感じるようになった。
組織の人間という私を捨てて、麦わらの一味の私に生まれ変わってしまえたらいいのに。……いつの日からかそう願うようになった。



そうして私は生まれ変わって、いつまでも船で幸せに暮らしました……と終わってしまえば、どこにでもあるおとぎ話のハッピーエンドになったのだろう。現実はそう上手くはいかない。組織から、殺しの催促の手紙が来たとき、私は組織の本部に戻る決心をした。私には、彼らを殺すことが出来ない。想像するだけで、身を焼き焦がされるような苦しみが胸を刺す。彼らを殺すくらいなら、私があの男に殺されたほうが何倍もマシだ。……私の命なんて、何の意味のないものだった。いつ死んでもよかった私が、今まで生きながらえたのは、今ここで彼らを生かすためだったのかもしれない。そう考えると、こんな私にも価値が見い出せる。
でも、わがままを言ってもいいなら、もう少し彼らと一緒に海を冒険したかった。麦わら帽子の船長が、海賊王になるところを見たかった。
命令を無視してここに居続けても、いずれ組織のヤツらがやって来て私を始末しようとするだろう。そうすれば、彼らに迷惑をかける。彼らの長く続く冒険の道を邪魔するのだけは、耐え難かった。私が大人しく消えれば解決することだ。組織の事は誰にも言わなかったし、バレるようなヘマもしなかったから、私がこっそり船から抜けたところで、見つけることも、追いかけることもできるはずなかった。
……そのはずだったのに。

「……んで、なんで、いるの」
目の前にいるのは、紛れもなく麦わら帽子の船長だった。
服も体もボロボロで、ここまで来るのに苦労したことが見て取れる。きっと、他の仲間たちも今、この瞬間どこかで交戦しているのだろう。
「なんで、船を降りた」
「私の質問に先に答えて」
「なんで、降りたんだよ!!」
そんな血まみれになってまで、迎えに来る価値のある女じゃないのに。なんで降りたという彼の瞳には、哀しみと怒気が入り交じっている。
「あなたたちを、殺せないからだよ。ここまで来たんだから分かってるんでしょ、私がどういう女か。どうして船に乗ってたのか。私なんて、連れ戻しても仕方ないの。貴方たちを騙してたの。早く、帰って」
「細かいことはわかんねェけど、お前を連れ戻すまで帰らねェ!」
「戻れないよ。私、死ぬしかないから」
語尾が、僅かに震えてしまった。
麦わら帽子の船長はグッと歯を食いしばると、私の肩を力強く掴む。
「死なねぇ!!勝手に船から降りるな!!お前、おれの仲間だろ!!」
絶対死なせねェ!!叫ぶように言った彼の言葉に、グラリと心が揺らされる。彼は、こんな人間にも当たり前みたいに「仲間だ」と言うんだ。

彼の真っ直ぐさと頑固さに、前々から既視感を抱いていたが、今になってその正体がわかった。私が昔読んだ本の主人公だ。題名は忘れてしまったけど、忘れられない台詞がある。
主人公は、物語の途中、海を指差して仲間に叫ぶ。『この青い海の上では皆自由だ。何にも縛られずに好きに生きていい。海に出た人々は、いつまでも、夢や希望を抱いて青い海の上に船を走らせ続けるんだ』
重なる任務に、心は擦り切れ辟易としていた。任務が終わるごとに人として大切な感情が少しずつ失われていっているような気がした。分かっていても自分ではどうすることも出来ずに、ただ何かが失われた虚無感だけが胸中を支配する。
組織にある暗い倉庫の角に、捨てるようにして置かれていた、夢と希望が詰まった本。あんなに好きで読み返していたのに、いつの日からか、本を手に取ることもせず、題名すらも忘れてしまっていた。私の前の持ち主も、きっと私と同じように、少しずつ読むことをやめてしまったのかもしれない。それでも私は、この台詞だけはいつまでも忘れられなかった。
一生、あの男に飼い殺される運命にある私に、与えられるはずもない自由という言葉。諦めたと言いつつ、知らず知らずのうちに小さな希望に思いを馳せていた。自由を手に入れたら、きっと私の生きる意味を見つけることができるかもしれないと思った。



組織の建物が大きな音をたてて崩壊していく。
私たちを任務に運ぶための小ぶりで貧相な船も、逆らったものを躾という名で痛め付けるだけの小屋も、やたら装飾が施された男の屋敷も。何もかも崩れてただの瓦礫になっていく。
頬を、温かい何かが伝った。ただのゴミになっていく建物を映していた視界がじわりと歪んで滲む。喉がグッと引き攣って、うまく言葉を発することができない。
激しい安堵と共に、ギリギリまで張りつめていた糸がプツンと切れたような気がした。産声をあげる赤子のように、大きな声を出して泣く。止めどなく溢れてくる涙を止める方法が分からない。
泣き続ける私を、麦わら帽子の船長はただ見つめていた。
彼が一歩、私に歩み寄る。泣きじゃくってうずくまる私に、彼の影が差した。涙でぐちゃぐちゃになった、きっと今までで一番不細工であろう顔を上げると、優しい目をした彼と視線が交わる。
「おまえ、名前何て言うんだ?」
屈託のない笑顔で彼は言う。
このセリフを聞くのは2回目だ。1度目は船に拾われた日。あの時は記憶のないふりをしてやり過ごした。でも、今はもう、あの時のような任務も組織すらもない。
私はやっと、彼らと本当の仲間になれる。
「……私の、名前っ……は、」
止まらない嗚咽と共に、吐き出すように自分の名を告げる。彼は満足そうに笑うと、私の名前を呼んだ。
「――、仲間になれよ」
「うん……仲間に、なりたい!!」

どこまでも青い海の上で、私はやっと自由と幸福を手に入れたのだ。
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