君越しの世界は優しすぎる



「おはよ。寝坊助さん。」
「んぁ……」
深い深い場所から意識が浮上する。柔らかな声に導かれるようにして目を開くと、ほっと安堵したような表情を浮かべる彼女がいた。
「甲板で大の字になって寝るのやめなよ。踏まれたって文句言えないんだからね。」
「知らねぇ間に寝ちまうんだ。仕方ねェだろ。」
「そんなんだから、悪い夢見ちゃうんだよ。さっき、魘されてた。」
「あー……なんも覚えてねェ。」
こいつが安心したような顔をしたのは、魘されてたおれが起きたからか……と、寝起きのぼーっとしている頭で納得する。曖昧なおれの返答に少し困ったような顔をすると、隣に寄り添うように腰を下ろした。
「エース、寝癖ついてるよ。」
「なおしてくれよ。」
「いいけど……随分頑固そう。多分なおらないよ。」
髪質もエースの性格とそっくり。なんて言いながら、寝癖をなおすようにおれの髪を撫でる。余計なこと言うんじゃねェよ、と口に出そうとしてやめた。
……いや、撫でる手付きが心地よくて口に出せなくなった。
「寝起きのエースは素直で可愛いね。」
「……寝起きのお前には敵わねェよ。」
「え?」
「この前、エースがぎゅっとしてくれなきゃやだ〜つっておれのこと離さなかったの覚えてねェの?」
「なっ……!忘れてって言った!」
「忘れらんねェなァ。」
おれの頭からサッと手を離すと、眉間に皺を寄せて不貞腐れたようにそっぽを向く。赤い頬がチラリと見えて、照れてんだろうなと察した。
やっぱりこいつが一番可愛い。これだから、ちょっとした意地悪がやめられねェんだ。
機嫌をとるように、くしゃりと髪を撫でてやる。髪型が崩れると小言を言ってたが、口角はきっちりと上がっていた。
彼女は髪を撫でるおれの手から逃れると、コホンと一つ咳払いをして向き直る。
「ところで、エース。今日寄港する島でデートしようねって言ってたの覚えてる?」
「あ。」
「島に着いたのになかなか降りてこないから、もしかして寝てるのかと思って探しにきたんだけど……」
案の定だったね。と言うこいつの声に怒気はない。
デートをすっぽかされそうになったにも関わらず、ピシリと固まったおれを怒鳴りもせずにじっと見つめている。見つめるその瞳も、ただただ柔らかだ。
彼女のその穏やかさが、おれの罪悪感をむくむくと膨れ上がらせていく。申し訳なさに頭を抱えた。
言い訳もいいところかもしれねェが、島につく少し前まではしっかり覚えていた。本当に。陸上デートは久しぶりだね、って言ってたあいつの笑顔が何度も脳裏に浮かぶ程には楽しみにしていた。ただ、睡魔に負けて寝ちまった。島に着いた事にも気付けずにそのまま寝過ごして……。
完全にやっちまった。たらりと冷や汗が流れる。
「あァ〜……その、すまねェ!」
「いいよ。」
「まだ時間あるよな。今から行くか。」
「もういいの。」
「やっぱり怒ってんのか?……そりゃァ怒ってるよな。反省してる、許してくれよ。」
「んーん、怒ってない。本当に今日はいいのよ。」
慌てて立ち上がったおれのズボンをくいくいと引きながら「気にしなくていいから早く座ってよ」と微笑む。言われるままに、彼女の目の前に控えめに座る。
忍びなくて目線を合わせることもできねェ。落ち着かねェなとそわそわするおれの手を彼女の手が包みこんだ。両手使ってもおれの片手を包みきれてない。柔くてちっせぇ手。やっぱりこいつはおれが守ってやんねェと、なんてこの場にそぐわない庇護欲が溢れる。
「エース、今日は船でゆっくりしようよ。実はね、ほとんどみんな陸に出ちゃったから、今船にいるのは私たち二人だけみたいなもんなんだよ。」
まぁ、船の見張りが数人いるけど……と彼女は小声で付け足す。
こういう可愛いことを、こいつはいつも平気な顔で言う。言われたこっちの気も知らねェで。
あー、くそ。キスしてやりてェ。
おれの葛藤なんか露知らず、当の本人は「えへへ」と心底嬉しそうに笑っている。一瞬の衝動でこの空気を壊すくらいなら、キスのひとつくらい我慢するしかねェだろ。
これが惚れた弱みってやつか?変な気分だが、これが案外悪くねェんだから不思議だ。
「今行かなかったら、またデート先になっちまうぞ。」
「いいよ。デートなんて、これから先何回でもできるもん。……そうでしょ?」
「……そうだな。」
おれの手を包むこいつの手を優しく握る。ピクリと指先が跳ねた。
他の男にするんじゃねェぞと思うくらいに、自分からは気安く触れてくるのに、おれから触れられると、途端にどぎまぎする。そういうところが、たまらなく愛しい。
「……ねぇ、エース。膝、貸してあげるから。寝てもいいよ。」
若干まごついた様子で彼女は言う。突拍子もない、まるでご褒美のような提案に歓喜したが、それと同時に照れ屋なこいつらしくねェ発言に驚いて返答に詰まる。
「調子がよくない時は寝るのが一番だから。今日はお日様もでてるし、気候もちょうどいいから外で寝ても気持ちいいだろうし。船に人も少ないし。……あと、膝枕してあげたいって、私が、思った、から……」
ああ、やっぱり照れてんじゃねェか。
何も聞いてねェのに、早口でどんどん言葉を紡いでいく。最後の方は消え入りそうな声だった。視線を明後日の方向に向けて、照れと焦りがバレねェように何とか取り繕おうとしている姿がなんともいじらしい。
……ただ、こいつの発言に一つだけ引っかかった。
「なぁ、調子が悪いって……おれが?」
「そうだよ。……ほら、魘されてたし。無理してほしくない。」
「この通りピンピンしてんだろ。……夢見が悪いくらい、気にすんなって。」
「気にする。」
「……なんだよ、心配してくれてんのか?」
「当たり前じゃない。」
まるで、おれが変なことを言ったみたいに、キョトンとしている。当たり前のように大事に思われてる事実に、戸惑って、嬉しくて、唇を噛み締める。何とも言えねェざわめきが、胸の中に広がっていく。
こんな緩んだ表情、意地でも見られたくねェってのに、いつも身につけているテンガロンハットは今日に限っておれの部屋に置きっぱなしだった。
こいつと一緒に過ごすことが、いつの間にか当たり前になっていた。握った時に手が痛くならねェように力をコントロールすることも、歩くスピードを合わせることも、かがんで目線を合わせることも、色々と慣れてきたつもりだった。
……でも、この優しさにはいつまでたっても慣れねェ。自分に一心に降り注がれる無垢なあたたかさが、どうしようもなくむず痒い。
「おれはそんなにヤワじゃねェよ。」
居たたまれなくなって出た憎まれ口にも、そうだね、と優しく返してくるもんだから、今度こそ何も言えなくなった。
慣れない優しさも、一度享受してしまえば二度、三度と求めてしまう。こいつがそれを与えてくれる限り、おれは何度でも甘えてしまうんだろう。
「膝、借りるぞ。」
「うん、どうぞ。」
おれを寝かしつけるように、彼女は緩やかに頭を撫でる。全然調子は悪くねェけど、こうしてればこいつの穏やかな声も、甘い匂いも、あたたかさも、何もかも今は全部おれのもんになる。このままずっと二人きりの世界になっちまえばいいのに、と頭に浮かんだあまりにも無謀な願いを口に出さないように胸中に押し込めた。
優しい睡魔に身を任せて、目蓋を閉じる。
「おやすみ、エース。」
額に触れた柔らかさがこいつの唇だと気付く前に、おれは果てしないほどの幸福感に包まれながら眠りに落ちた。
おれが幸せになるのは贅沢だと、世界は言うかもしれねェ。でも、少しだけ勘弁してくれよ。誰からも好かれるような女が、おれを選んで好いてくれてる。こうしてとびきり甘やかしてくれてんだ。
二人きりの時くらい、こいつの優しさ独占したってバチ当たんねェだろ。
だからどうか、見逃してくれよ。今だけは。
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