夜が明けたらキスをしよう



「クソ寒いな」

冬が過ぎ、春に少しずつ近づいている。昼間は暖かな日差しが降り注ぎ、暑く感じる時も増えてきたが、夜はまだまだ冷える。日が完全に落ちた真夜中なんかは特に肌寒い。髪を揺らす潮風は、ふわふわと撫でるように吹いていた昼間とは違って、冷たく突き刺さってくるように感じる。不寝番は嫌いじゃねェが、突き刺すようなこの寒さはあまり好きになれない。ため息を一つこぼして、煙草に火をつけた。
「サンジくん、お疲れ様」
甲板の柵に体を預けて真っ黒な海を眺めながらしばらく煙草をふかしていると、鈴の鳴るような声がおれの名前を呼ぶ。振り返るとマグカップを2つ持った可愛らしいレディが微笑みを携えて立っていた。
「わ、女神が降りてきたのかと思っちまった」
「まぁたそんなこと言って。……ホットコーヒー持ってきたの。冷えてるでしょ?一緒に飲もう」
「あァ、ありがとう」
煙草の火を消してマグカップを受けとる。カップを受け取った手からじんわりと暖かさが痺れるように広がって、やっと自分の手がこれ以上ないくらいに冷えきっていたことに気づいた。
温もりを噛み締めるようにカップを握りしめたおれの隣で、彼女がぷはーっと豪快に息を吐く。それは、さながらお酒の最初の一口を飲んだ後のようで、コーヒーを飲んだ後の一息に似つかわしくないその勢いに、思わず漏れそうになった笑いをグッと抑えた。不思議そうにこちらを見た彼女の目から逃げるように、咳払いを一つしてコーヒーに口をつける。
独特の苦味が口内にふわりと広がると同時に、寒さで強ばっていた体から氷が溶けるようにゆっくり力が抜けていく。彼女を横目でチラリと盗み見ると、何やら不満げな顔をしていた。
「レディ、ご機嫌ナナメかい?どうかした?」
「ご機嫌はいいんだけど……サンジくんが淹れてくれたコーヒーの方が美味しいなぁと思って」
「そうかな?」
「そうよ。自分好みに淹れたはずなのに物足りない」
「おれは、このコーヒーが世界一美味いと思うな」
「……私が淹れたから?」
「もちろん」
「もう、本当馬鹿だわ」
あきれたような口調だったが、表情には隠しきれていない笑みが浮かんでいる。おれの口角も、つられるように自然と上がっていくのがわかった。
寒さで赤く染まった鼻も頬も、暗闇に優しく揺れる温かい色合いの髪も、目に映る彼女の全てに胸が締め付けられる。今にも溢れ出してしまいそうな、あたたかくて甘ったるい気持ちをいっそ彼女に伝えてしまおうかと口を開いた刹那。
「……!おっと、」
「うわっ!ご、ごめん、サンジくん!」
一際強い風が吹いて船が大きく揺れる。
船外に投げ出されそうになった彼女の体を、抱き寄せるようにして支えた。おれが持っていたマグカップは甲板を転がって、ポチャリと海に落ちて消えていく。「あ、」と惜しむように声を出した彼女をよそにおれは一人、戦慄していた。
彼女の腰が、おれが思っていたより何倍も細かった。
戦闘の時にとても頼もしく見える彼女は、こんなにも華奢だったのか?今にも折れちまいそうだ。驚きと不安でドキリと心臓が震える。
「えっと、サンジくん……」
「危ないよ。もう少し、このままで」
さっきよりも優しく、彼女の体を引き寄せる。驚いたように、反射で勢いよく顔をあげた彼女とぱちり、と至近距離で目が合った。星屑が散りばめられたような煌めく瞳が、間抜けな顔をしたおれを映す。それだけでドクドクとうるさいくらいに胸が鳴って、めまいがする。甘美な状況にメロリと溶ける訳でもなく、おれはただぼんやりと彼女を見つめていた。
完全に思考はショートしているようで、美しいレディを讃える言葉の一つすらも口から出すことが出来ない。
驚きで半開きになった彼女の口元を見た時、ゴクリと喉が鳴った。
「サンジくん、だめ」
「……何がだい?」
あと少しで、鼻先が触れてしまいそうな距離だった。
唇に引き寄せられるように動いていた体は彼女の声に従うようにピタリと止まる。
……おれは、彼女にキスをしようとしていたのか?
己の軽率な行動に、おれ自身が動揺する。こんなにも簡単に理性を失っちまいそうになるなんて情けない。
誤魔化しきれない状況だと分かりつつも、何も邪なことを考えていなかったかのようにいつも通りの笑顔を作って取り繕う。
おれが彼女に劣情を抱いたことを、見透かされてしまいたくない。余裕のない男だと、思われたくない。

彼女の頬に触れようとしていた行き場のなくなったおれの手を、彼女はぎゅっと握る。ひんやりとしていて、火照ったおれにとっては丁度よかったが、なんだかとてもみっともないような気がした。
「星がとっても綺麗でロマンチックな夜だから、浮かれてるんでしょう?雰囲気に飲まれたキスなんてごめんだわ」
スッと言葉を放つと、彼女は憂いたように睫毛を下げる。
いつも快活な彼女の、少し自身なさげな声色に期待してしまうおれがいる。
雰囲気に飲まれてなかったらいいのか?おれが触れようとしたことは嫌じゃなかったのか?
聞きたいことを一度全部飲み込んで、彼女を求めて止まない自分を、紳士でスマートな自分で包み隠すようにして慎重に言葉を紡ぎ出す。
「……なら、夜が明けたらキスしてもいいかい?」
「そんな事言われたら、私のこと好きなのかもって期待しちゃうよ」
「あァ、期待しててくれ。キスの前には、とっておきの愛の言葉を贈るつもりだ」
「やっぱり、サンジくん浮かれてるんだよ。」
「君がここに来てくれた時から、おれはずっと浮かれっぱなしなんだ」
彼女は目を瞬かせた後、ハッと息を飲んで俯いた。おれの手を握っている彼女の手が、どんどん熱くなる。意識してくれているのだと感じて愛おしい気持ちが膨れ上がっていく。
さっき彼女がおれに触れた時、彼女も熱いおれの手に何か思っただろうか。下心を隠しきれていないみっともない男だと思っただろうか。それとも何か期待してくれただろうか。
……まァ、今はもうそんなことどうだっていい。
彼女は今、おれの腕の中で小さな体を更に縮めて、近づく夜明けにほんの少しの焦燥感と、隠しきれない甘い期待を胸に抱いている。
なんて、可愛いんだろうか。
「……また、冗談?」
「まさか。おれはいつだって本気さ。プリンセス」
耳まで真っ赤にした彼女が顔をあげる。
彼女は、握りしめたままのおれの手を自身の頬に導いた。ピトリ、とおれの手のひらが彼女の頬に触れる。柔らかい。吹き抜ける風に乗せられて、彼女の優しくて甘い匂いも漂ってくる。
腰を支える手に、自然と力がこもった。
「夜明けまで、あと少しだね。」
「ええ、そうね」
「船はもう揺れてないけど、もう少し君をこうしててもいいかい?」
「……」
「無言は、肯定と取っても?」
「……紳士らしからぬ発言だと思うよ」
「そんなおれは嫌?」
「嫌なら、ここに居ない」
「待ち遠しいな、夜明けが」
「そうかもね」

紳士として早く彼女を温かい室内に帰すべきなんだろうが、紳士らしからぬ発言をした次いでに、今日だけは不寝番に巻き込むことを許してくれ。
早く君の唇に触れたい。早く朝日が昇ればいいのに。

……そう思わないかい?マイプリンセス。
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