桜の眠る夜のことでした



⚠春宵一刻の内容に少し触れます

『桜が満開の夜って大好きな人と散歩したくならない?』

その発言をする頃には、もうとっくに準備を済ませていたのであろう彼女は、わしがどうこう言う前に半ば強制的に手を引いて玄関を出た。いきなりなんやねん!と一言文句でも言うたろうっち思ったけど「この辺の桜もやっと満開なんだよ!」なんて少し興奮気味に話す彼女は、ほんまに愛らしゅうて、いとも簡単にトゲトゲしとった気持ちが萎えんでしもた。これは決してわしがチョロいわけやなくて、無邪気にはしゃぐあの子を見たら、きっと誰かてそうなるはずや。

笑う彼女を眺めながらふと考える。生まれてこの方、わしにとって桜はすぐ散ってしまう儚い花で、不気味なもんにしか思われへんかった。もっと力強く咲けばええのに、簡単に散った花びらはそこらじゅうに意味もなく落ちて地面を荒らしとる。斑はんはそんな桜を綺麗やっち言うた。でも、彼女はどう思っとるんやろか。人によって、見方や感じ方は違うんやと気づいてから、わしの中で少しだけやけど確かに桜の位置づけが変わったこともあって、彼女からの視点が気になってしゃあなかった。不気味やと思ってるんやろか、はたまた綺麗やと思っとるんやろか、もっと別な感情を抱いとるんやろか。聞くタイミングもなくそのまま時間が過ぎとったわけやけど。
……今日、想定外やったけど彼女の桜へ抱く感情を知ることが出来た。『好きな人と見たくなるもの』これはきっとプラスの感情やから、斑はんと同じように綺麗やっち思っとるんやろうな。

「こはくくん」

ぼうっとしとったわしの名前を彼女が呼んだ。
嬉しそうに名前を呼ぶ彼女の周りには、おびただしいほどの桜の雨が降り注いどる。花の汚い死骸やとずっと思っとったそれを、わしは自然と綺麗やと感じた。舞い落ちる桃色の雨が、彼女の絹のように滑らかな髪をすべって、白く美しい肌に重なる。陳腐な街頭も、厳かな月光も、等しく彼女を照らす最上級の照明で、彼女に絵画のような完璧な影を作り上げとった。
風が吹くたびに、花びらは彼女を飲み込む勢いで散って降る。桜に隠されてしまわんか不安になって、彼女の服の袖を思わず掴むと、彼女はきょとんとした顔でわしを見つめた。直後、楽しそうに顔を綻ばせて、ちっさい手でわしの手を優しく包む。

「こはくくん今日は甘えたなのかな」
「ちゃう、やかましいわ」
「はは、ごめんごめん」

口ではああ言うたけど、繋いだ手は離したくない。振りほどくようなことを彼女はしたりせえへんと分っとったけど、何となく力をこめて握りしめたら、それに答えるように彼女もぎゅっと手を握り返してくれた。気恥ずかしかったけど、不思議と嫌な気はせえへんかった。
そのまましばらく桜が咲き誇る道を歩き続ける。時々彼女を盗み見たけど、そのたびに嬉しそうに笑みを見せたり、見惚れるような表情をしとったりしたもんやから、情けないことに、桜相手にムッとしてしもた。わしのことは放ったらかしで花見か?なんて、これは絶対彼女には言われへんなぁ。
半歩前を歩いとった彼女が唐突に、せやけどゆったりと口を開く。

「桜河こはくって、やっぱり綺麗な名前だね」
「ぬしはん、前からそれ言うとるけど……それほどか?わしはそうは思わんけどなぁ」
「うん、綺麗だよ。桜河って名字がまず綺麗だもん。桜の河って、儚くて幻想的で素敵」
「桜なんか儚いしすぐ散るし不気味やろ」
「儚いって悪いことじゃないって私は思うけどな。趣深いって思うよ」
「趣深いか……わしにはよう分からんわ」

わしの言葉に、彼女はうーんと考える素振りをみせる。よっぽど桜の良さを伝えたいんか、頭を悩ませながらわしにどうにかして思いを伝えようと言葉を絞り出しとる。一方わしは、桜うんぬんかんぬんはそっちのけで、困っとる彼女もかわええなぁとか思いながら彼女を眺めとった。彼女がわしの考えとることをもし分かるとしたら、えらい怒られそうやけど。
思考が固まった彼女がわしの方を向く。当然視線はバッチリ絡まるわけで、それにドキリとした不純なわしとは対照的に彼女は真剣な眼差しをしとった。

「儚いから綺麗って思うのもあると思う。一瞬で散ってしまうから目に焼き付けたいし、すぐに終わってしまう命がその一瞬を咲き誇ってる姿が綺麗だなって、なんか思うというか。……うまく言えないんだけどさ」
「短い命やけど一生懸命頑張っとる姿がええってことか?」
「そういうことになるかなぁ。まあ、実際そこまで深く考えて見てないんだけど。ただ、桃色の世界が綺麗だなぁ、って思ってるくらい」
「なんじゃ、色々言うとってそない考えてへんのか」
「こはくくんは考えすぎなんじゃないの」
「……怒っとる?」
「別に考えてないとか言われて怒ってませーん」
「怒っとるやん」
「あ!笑ってる、反省してないね」
「すまんすまん」

ふん、と頬を膨らませた彼女のほっぺをつついて空気をぬく。「もう!やめてよ!」なんて彼女は言うてるけど、それがまた可愛くて笑いが抑えられへんかった。

「も〜、こはくくん!しらないからね!」
「あ、待って、離れんとって、お願い。ほんまに堪忍な?」
「……はぁ〜〜っ、わかったよ」
「コッコッコ♪良かったわぁ」
「ほんっと、ずるいよそれ」

怒って離れようとした彼女の手をグッと引いて謝罪する。彼女はわしからのお願いに弱いみたいやから、加えて軽くお願いもしてみると、やっぱり断られへんかった。ここまでチョロいと心配で、わしが近くで守ったらなあかんっち気持ちが強くなる。きゅ、と手を握ると、顔をしかめとった彼女もゆるりと笑みを浮かべて握り返してくれた。

――急に、一段と強い風が吹いた。
それは、大量の桜の花びらを引き連れてわしらを囲いこむように吹き荒れる。墨をこぼしたみたいに真っ黒やった空が、一瞬のうちに桃色に塗り替えられていく。
わしら二人だけの世界みたいや、なんて思うと同時に口からは自然と言葉がこぼれ落ちとった。

「ぬしはんにもあげるわ」
「え?」
「わしの名字、ぬしはんにあげる」

彼女は驚きに目を見張る。あ、あげるって?と、うわ言のように数回繰り返した後、顔を真っ赤に染め上げた。見てたら可哀想になるくらい真っ赤になってしもて、目もゆらゆらと涙を浮かべて揺れとる。繋いだ手から伝わる彼女の体温が、じわじわと上昇していっとるように感じて、それが何故かこの上なく嬉しい。

「くれるの?こはくくんの名字」
「おん、もろてくれる?」
「それは、お願い?」
「これはお願いちゃうから、ぬしはんが決めて」

彼女はぎゅっと顔を歪めて今にも泣きそうな顔をする。泣きそうやけど、涙を浮かべる彼女の澄んだ瞳には、確かに歓喜と幸福の色が孕んどるように見えた。
幸せにしたい、彼女としあわせを掴みたい。そんな気持ちがどんどん湧き上がってきて、わしまで感極まりそうになる。

「わたし、私……」
「ん?」
「名字、ほしい。……こはくくんと結婚したい」
「ほっか、うん、わしもや。わしもぬしはんと結婚したい。明るいところばっかりの人間と違うけど、それでも、ぬしはんとおりたい。わしがあげれるもんは、全部ぬしはんにあげる」
「そ、そんなの私だって、持ってるもの全部あげる!だから、だからね、一緒に幸せになろうよ」

くしゃっと笑う彼女が愛おしゅうてしゃあない。わしも、世界一愛しい人と幸せになってええんやろか。彼女みたいな綺麗な人の隣に一生立つ資格あるんやろか。せやけど、誰かに何を言われたってわしがもう彼女を絶対離されへんような気がするわ。わしの生涯全部かけて幸せにするから、隣におることを許してほしい。
掻き抱くように彼女の背中に手を回すと、彼女もわしの背中に手を回して一段と強く力を込めた。

いつの日か燐音はんが言うとった好きとか嫌いとかそういうのを超えて突き動かされる愛っちもんがある……ってのが分かったわ。流石に、愛の果てに殺したりなんかはせえへんけど、それでも、恥も外聞もかなぐり捨ててたった一人を追い求めたくなる気持ちは痛いほどわかった。ただひたすらに、彼女が欲しくてしゃあない。絶対揺るがへんこの気持ちは、好きとかやなくてもう愛なんちゃうかと思う。

桜に祝福してもらってるみたいだねって彼女は小さく言うたけど、こんなん桜に見られとったらかなわんわ。だって、彼女の愛らしい反応を桜も見とるっちことやろ。この可愛らしくて愛しい人は、わしだけのもんやのに困るわ。

……夜やし、きっと桜も眠っとるやろ。わしら二人だけの、特別な夜じゃ。

title 誰そ彼
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