私の心余すことなくあなたにあげる



「HiMERUはそろそろ帰ります」
「なんで??」

今にも項垂れて、シナモンのカウンター席に突っ伏しそうなほどにげっそりとしているHiMERUくん。私のなんで?という問いかけに、ますます呆れ果てたような表情をしていた。

「HiMERUに巽との惚気を聞かせるのやめていただけますか」
「いいじゃん別に」
「良くないから言ってるんだよ。もっと適任がいるでしょう、ALKALOIDとか」
「いやぁ、ALKALOIDは巽くんと近すぎ?で恥ずかしいっていうか、なんかHiMERUくんが一番ちょうどいいかなって。ほら、ココのお代も私持ちなんだし許してよ」
「貴女のちょうどいいに巻き込むのをやめてください不愉快です」
「相変わらず言うね〜」
「帰りますね」
「待ってごめんなさいごめんなさい」

シナモンでたまたま、本当にたまたま、HiMERUくんと出会ったのでお隣に失礼して惚気を聞いてもらった。彼は最初から最後まで文句を言っていたけど、なんだかんだずっと席に座ってくれているし優しい。そう言ったら彼はまた眉間のシワを深くするだろうから口には出さないでおくけど。

……巽くんと付き合い始めたのは最近なのだが、HiMERUくんには巽くんと付き合う前から、度々彼とのことを聞いてもらっていた。
巽くんが告白を快諾してくれたときの事を思い出すと、今でも嬉しくてたまらなくなる。HiMERUくんに迷惑がられてもおかしくないほど浮かれてしまっているのは自分でもよくわかっていた。……いや、まぁ、HiMERUくんの場合はきっともっと違う意味で迷惑しているのだろうけど。

巽くんの好きなところはどこなのかと聞かれたら、一つではおさまらない。彼は物腰柔らかくて、優しくて、でもちゃんも芯があって、穏やかで。自己犠牲的なところはあるけれど、人の痛みや苦しみに寄り添える強い人で、そして男らしくてかっこいい。私にはもったいないくらいの人だ。
そんな彼は、当たり前だが老若男女問わずに好かれるし、人をないがしろになんて決してしないから声をかけられれば一つ一つに真摯に対応していた。そういう所も好きなんだけど、私だって嫉妬をしないわけではない。可愛い女の子と居たら不安になるし、その度に私だけに優しかったら……なんて考えて、醜い自分に嫌気がさす。彼の素敵なところにモヤモヤしてしまうなんて、最低な人間になってしまっているような気がした。だから、ますます彼に私は釣り合っていないんだろうなと思ってしまうわけだけど、彼が好きでたまらない私は今更手放してあげることなんてできそうにないという矛盾を抱えていた。

「まぁ、兎にも角にも、巽くん超かっこよくて大好き」
「……はぁ、またそれですか」
「言い足りないの」
「本人に言ってください」
「な、なんかそれは恥ずかしいというか…!!」
「貴女の恥ずかしい基準がよくわからないんですが……」

はぁ、とHiMERUくんはまたため息をつく。ご機嫌とりのために、注文をもう一品促そうとしたとき、彼は私の後ろ……店の入り口の方に視線を向けて少し驚いたような表情をした。直後、少し口角を上げる。釣られるように私も自分の背後を確かめようと体を動かしたのだが、HiMERUくんの声にピタリとその動きが止まった。

「髪の毛に何かついてます」
「え?どこ」
「ここ、です」
「うわっ!」

ぐぅ、とHiMERUくんとの距離が一気に縮む。カウンター席で隣り合っていた訳だから距離を縮めるのなんて簡単なのだろうけど、人との距離をある程度保っているイメージがあったHiMERUくんでは考えられないくらいの距離感に、ついドキマギしてしまった。な、なんかいいにおいするし、男の人とこんなに近づくことなんてあまりないから、相手が友人であってもなんだか照れくさい。

「かっ、か、顔がいいな」
「はぁ、何を当たり前なことを?」
「いや、ちがった、違わないけど!近いです近い!」
「ふふ、髪についたゴミを取って差し上げようと思ったんですが……なかなか見えづらくて」
「ありがとう離れよう、ゴミは放置してていいから」
「良くはないのでは?」
「いや、別に、いい……っ?!」

HiMERUくんと距離を取ろうともなかなかうまくいかずにギャンギャン言い合っていると、突然視界がスッと何かに覆われた。ほんのり温かい、人の手のように感じる。いきなりの出来事に、何を言えばいいのか言葉が全く出てこない。HiMERUくんの方からは大層愉快そうなふ、と笑いをこらえるような声が聞こえる。この様子ではきっと助けてくれはしないのだろう。
背後から香るのは柔らかくてホッと落ち着く私の大好きな匂い。……巽くん?いや、でも彼がこんなことをするのだろうか?巽くんが声もかけずにいきなり人の視界を自らの手で遮るなんて考えづらくて、私は戸惑いを隠せない。

「こんにちはHiMERUさん。いきなりすみません」
「どうも」
「見慣れた姿が見えたのでつい声をかけてしまいました。もしよければ俺もご一緒しても?」
「いえ、HiMERUは満足したので帰ります。あとは二人でどうぞ」
「おや……そうですか」

聞き間違えるわけもない、私の大好きな声。手の主はやっぱり巽くんだった。手の正体は分かったけど、だとしても彼らしくない行動にますます混乱する。私の視界は奪われたまま、彼とHiMERUくんは何事もなかったかのように会話を続けていて、私はただ間抜けにアタフタするしかない。
ガタンとHiMERUくんの方向から立ち上がる音が聞こえると同時に「会計持っていただけるんですよね?ごちそうさまです」と、ポンと私の肩に軽く手が触れるような感覚。コクリと頷くと、HiMERUくんらしき足音はだんだん遠ざかっていった。話を聞いてもらったお礼も満足に言えなかった。また言わなきゃと冷静に考える裏で、巽くんの行動に未だに頭の中が沸騰してぐちゃぐちゃになっている。
巽くんの名前をつぶやくように呼ぶと、スッと彼の手が離れた。開けて明るくなった世界が眩しくてギュ、と目を細める。促したのは自分だけど離れてしまった彼の体温が少し名残惜しかった。

「突然すみませんでした。隣いいでしょうか?」
「もちろんだよ」

先程までHiMERUくんが居たところに腰を掛けた巽くんは、私に向けていた視線をスッと外して下を向く。とりあえず何か頼むか聞いても「そうですね」と返すばかりで上の空みたいだった。ほんの少しだけ気まずくて、すっかり冷めたコーヒーを啜る。冷めてもシナモンのコーヒーは美味しいなぁなんて軽く考えていると「HiMERUさんと楽しそうでしたね」と隣から小さな声が聞こえてきた。頼りなさ気な弱った声に、思わず声がした方を見る。巽くんは相変わらずじっと視線を下げたままだったが、しまったと言わんばかりの仕草で口元をきゅっと噤んでいた。端正な横顔と、時折揺れる長い睫毛が綺麗で、場違いだと分かっているけどそのまま見惚れてしまいそうになる。

「たつみくん?」
「すみません、忘れてください」
「わ、忘れない」
「……それは、困りましたな」
「あのね、HiMERUくんとは巽くんの話をしてて!私が楽しそうに見えたなら、それは巽くんの話をしてたからだから」
「そう、でしたか」
「あっ、あと距離が近かったのも髪の毛にゴミがついてたらしくて取ろうとしてくれてたみたいで、」
「あぁ……本当にすみません、俺は、」

語尾が沈む彼の顔を覗き込むと、かぁっと顔が赤らんでいる。「情けないので見ないでください」なんて言われても、こんなの嬉しくて見てしまうに決まってるじゃないか。引き寄せられるように彼の頬にそっと触れる。顔を上げた彼と視線がゆっくり絡んだ。心臓の鼓動がどんどん早くなって、息をすることすら苦しい。

「あなたとお付き合いを始めてから、こんな情けないことを考えてしまってばかりです。格好が悪くてあなたに失望されてしまわないかと不安で、隠してきたつもりでした」
「わたしと、つきあってから……?」

ゆっくりと懺悔するような彼の言葉に、驚きと歓喜が隠せなかった。
私ばかり好きだと思っていた。優しい彼は私からの気持ちを受け入れてくれたけど、彼の中で好意という感情を向ける大きさは皆平等で、私だけ特別であることなんて決してないと思っていた。平等な愛を与えるところは彼の美点だけど、私はそれがたまにひどく寂しく感じていたのだ。それなのに、そう思っていた彼は『嫉妬』をしてくれていた。私だけの感情。彼の中の特別に私はなっていたのだ。彼も恋人として私を好いていてくれていた。こんなの喜ばずにはいられないじゃないか。

「かっこわるくない、だって私今ね、すごく嬉しい」
「……あなたが他の男性と談笑することにすら、嫉妬をしてしまっているんですよ」
「私なんてそんなのずっとだもん」

彼の頬に触れている私の手が、するりと彼の手に絡めとられる。彼の手は温かいというよりも熱くて、私と同じくらいドキドキしてくれているんじゃないかと勘違いしてしまいそうだ。バクバクと激しく胸が打って破裂してしまいそうで、高まる感情にゆらりと視界が揺らぐ。巽くんはそんな私を、蕩けるような甘い瞳で見つめると、指を絡めたまま私の手の甲に口付けた。

「あなたのその表情はたまらなく愛おしいですが、こんなところでされると他の人にも見られてしまうので困りますな」
「ま、またそういうこと」
「本心です。俺は、あなたの心も魅力的な部分も全て俺だけのもので、俺だけが知っていれば……なんて、浅ましいことばかりを考えてしまうような男なんです」
「私のほうが何百倍も浅ましいよ」
「おや、それは喜ばしいことですな」
「な、なんで?」
「俺たち、お似合いということでしょう?」

ふふ、と巽くんは微笑むと、忙しなく動き回っている椎名くんを呼び止めてドリンクを注文する。繋がれたままの手をこのまま離したくなくてぎゅっと握ると、彼も嬉しそうに握り返してくれた。

あのね、私どんな巽くんも愛おしくて仕方がないよ。巽くんの姿を見るたびに、あなたのことを考えるたびに、好きな気持ちが膨らんでいくんだから。

……ねぇ、巽くん。早く気づいて。私の心も何もかも全部、もうとっくに巽くんだけのものなんだよ。

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