近道をすべっていく純情



放課後の廊下。人は全然いなくて静まり返っている。まるで私だけがこの世界にいるようなそんな気持ちになってしまうくらいの静寂が広がっている。キュ、キュ、と私が歩く音だけが廊下に響き渡る。突き当たりの角を曲がった時、私は自然と足を止めた。

キーボードの音がする。軽快で楽しげで明るい。思わず聴き入ってしまうようなリズム。音の出どころは軽音部室。でも、キーボード以外の音は聞こえない。……なんて素敵な音なんだろう。一体どんな人がこんな楽しい曲を弾いているのだろうか。ぶわぶわと興味が湧いてちょっとした出来心のような気持ちが生まれた。
少しだけ開いているドアから目をのぞかせる。
苛立つような夏の暑さと、なんだか悪い事してるかもなんていう少しの背徳感から一筋の汗が流れる。汗は首筋を流れて真っ白でパリっとしたカッターシャツに染み込んだ。

「……だれ?」

さっきまで紡がれていたはずの音楽がプツンと切れる。やばいと思った時には既に遅くて、目の前のドアは勢いよく開かれ視界が一気に広がった。

「あ、ちよこちゃん?」
「え、トド松くん?」

私の視界の先に現れたのは同じクラスのトド松くん。女の子とも男の子とも仲のいい可愛くてアヒル口が特徴的の男の子。「こんなところでどうしたの?」不思議そうにそう言ったトド松くんの頬には汗が伝っている。いつも丁寧に巻かれているカッターシャツの袖も、今はぎゅっと荒々しくまくったように乱雑だ。可愛らしい印象だった彼からは考えられないくらい男の子って感じがしてドキッとした。

「ちよこちゃん?ぼーっとしてるよ、大丈夫?」
「あ!うん、だ、大丈夫!……と、ところでさ!トド松くんはなんでキーボードを?」

俯いていた私を覗きこんだトド松くんに思わず私は後ずさる。不自然に話題を変えた私に冷たい視線を向けることなくトド松くんはニッコリとわらった。まるで幼い子供のような彼の笑顔は私の体温をまた少し上げる。熱気の篭る軽音部室の窓にオレンジ色の夕日が差す。部室の窓から見える青々と茂った木では蝉がミンミンうるさいくらい鳴いている。そんな暑苦しさを全部掻っ攫うくらい爽やかな風がふわりと入ってきて火照った頬を柔らかく撫でた。

「ボク、軽音部だからね。だから練習!」
「そうなの?!」
「うん!……ボクね、見ての通りキーボードしてるんだけどさ、なかなか上達しなくて。もうすぐライブもあるのにさぁ。……ボクがみんなの足を引っ張りたくないし、なんてね。」

誤魔化すようにトド松くんは最後に笑った。私は音楽には詳しくもないしド素人だ。私がいくら彼の音が素晴らしいと思ったって、きっと彼の中では彼自身の理想があって今はそれに到達出来てないから悩んでいるのだろう。
返す言葉が見つからなくて、情けない事に困ってうつむいてしまった私に「こんな所で立ち話は疲れるよね」と、トド松くんは軽音部室の中に導いてくれた。部室の中は廊下で見ていた時よりずっと熱気が篭っていて暑かった。そしてなによりビリビリと電流が流れているみたいな緊張感が身体中に駆け巡った。触れたこともない、興味すらなかったはずのドラムもベースもギターもマイクもキーボードも全部全部、キラキラ輝いて見えた。

「すごいね、なんかドキドキしちゃう。」
「でしょ?ボクもだから部室好きなんだ。」
「うん、トド松くん今すっごいキラキラしてる。」
「……キラキラ?」
「そう。格好いいって思っちゃった。」
「……ちよこちゃん見た目に反して直球だね。」

楽器を見てるトド松くんは教室でみたことないくらい楽しそうだった。いや、教室でも楽しそうだけど、この時の彼はすごく生き生きしてた。音楽に取り憑かれたみたいに嬉しそうに音を奏でる。メロディーを奏でていなくたって、彼が出した"ド"の音ひとつにウキウキと心が踊りだすように感じた。
ちらっと隣を伺うと彼は照れたように両手で顔を隠していた。

私は、風で揺らめく木々に目を移す。一呼吸置いた後、もう一度小さくつぶやいた。

「……ほんとに格好いいって思ったんだよ。」

指の間から目を覗かせるトド松くんに微笑みかけながらそう言うと、トド松くんは顔から手をそっと下ろした。どちらも口を開くことなくしばらくシンと部屋は静まる。

「ねぇ、トド松くん。」
「ん?」

恐る恐る声をかけると、トド松くんはすごく優しい声で返事をしてくれた。それだけでなんだか胸がいっぱいになる。

私という人間はいつもいつも中途半端だ。誰かの力になりたい、心を少しでも支えてあげる存在になりたい。そう願っても口に出せずにモジモジして、結局違う誰かが私がしたかったことをやってのけて終わる。終わる度に後悔して、そしてやってのけた人を羨んだ。私にもあんな勇気があれば、力があれば。そう思ってはひとりで悲しくなった。それでも私が勇気を出せなかったのは拒絶されるのが怖かったからだ。私が声をかけても誰も答えてくれなかったら?ただのお節介野郎で終わってしまったら?そう考えると手が震えるし、喉も閉じて声が出せなくなった。要するに私は自分が大事だった。自分が傷つかないように膜を張って生きてるろくでなしなのだ。
トド松くんの名前を呼んだ今だって手が震えてる。自分の演奏はダメだと言うトド松くん。でも、あなたの演奏私は好きだよ。そう伝えるだけなのに何故か怖くて口が動かない。いつまで経っても口を開かない私に、呆れてもいいはずなのにトド松くんは優しい表情で待ってくれてる。優しい声をかけてくれる。意味もなく泣きそうになった。

「トド松、くん。」
「ん?」
「あのね、私はトド松くんの音好きだよ。私は音楽に関してド素人だしよく分からないけど、トド松くんのキーボードきいてすごく楽しい気持ちになった。」
「……ふふ、」

私が息を飲み込むみたいに最後の言葉を発した後、トド松くんはおもしろそうにクツクツと笑った。きょとんとしてトド松くんを見ると、「前も同じこと言ってくれた」と彼は頬を緩ませた。

「ちよこちゃんは覚えてないかもだけど、去年の文化祭の前にね、体育館で言ってくれたんだよ。」
「……あ、」

少しだけ、思い当たる場面がある。
トド松くんをまだトド松くんとして認識出来ていなかった頃だ。六つ子のひとりとしてしか分からなかったとき。たまたま通った体育館から軽快な音楽が聞こえてきたことがあった。10月の少し肌寒くなってきた頃。周りにあった木々もすっかり色あせてしまっていた。去年は初めての文化祭だった。楽しくて楽しくて仕方なかったけど、半ば押し付けられたような形でなってしまったクラスの責任者という立場が私の精神を圧迫し始めていた。どこにいても名前を呼ばれて、私が知らないうちに作られた誰かのミスを押し付けられて。文化祭の準備は楽しかったけど疲れ果ててしまっていた。外の空気を吸ってくると一声かけて、みんなの声から逃げるようにして校舎を出た。至るところに生徒がいて、みんな笑ってる。私だけが落ち込んでいるみたいで疎外感を感じた。いつの間にか校舎から少し離れた体育館まで来ていた。
__そこで聞こえたのが楽しげなキーボードの音だった。
今までの鬱々しさが消えていくように気持ちになった。身震いするような風が吹いたって、枯葉が落ちる音が聞こえたって、今まで感じていた胸がなんとなく靄で覆われていく不快感なんて全く感じなかった。誰が奏でているかも分からない演奏に私は一気に惹き込まれていった。

「ボクその頃自信なかったんだ。ボクのグループはみんな音楽経験あってね、飛び抜けて上手だった。でもボクだけなんにもなくて焦ってた。」

トド松くんは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
部室は相変わらず暑くて汗が首筋を伝う。トド松くんの次の言葉が気になってて私はゴクンと息を飲んだ。

「その時にね、声かけてくれたのがちよこちゃんだよ。さっき言ってたみたいにね、ボクの音楽を楽しいって言ってくれたんだ。それだけでなんだか救われた。」
「……私も、トド松くんのキーボードに救われたよ。だから、今もトド松くんがキーボードしててくれてよかった。」

あの時、私はキーボードを誰が弾いてるのか気になって体育館を覗いた。それが六つ子の1人だった。今日みたいに気付かれちゃってそれから話をしたんだ。その時もトド松くんは眩しいくらい輝いていた。私は楽しそうに音楽の話をするトド松くんが眩しくて彼みたいになりたいって思った。今までみたいな醜さの混じった羨望なんかじゃなくて、真っ白で綺麗な憧れ。

トド松くんの目をみて「ありがとう」と伝えると彼は、はにかみながら「こちらこそ」と小さく言った。

「部活やめたいなーってボク思ってたんだ。」
「え……?」
「でも、ちよこちゃんがボクのキーボード好きって言ってくれたの忘れられなくて。それだけが嬉しくて部活辞めなかった。……今辞めなくて良かったってほんとに思った。」

彼の頬が赤いのは夕日のせいか、暑さのせいか。私の頭がクラクラするのは光に目が眩んでいるからか。ふわりと吹いた風が、トド松くんの髪を揺らす。再びキーボードに触れた彼。その指は繊細なガラス細工に触れるかのように優しかった。

「私も、よかった。……あの時トド松くんに声かけててよかった。トド松くんが、辞めなくてよかった。」

……知らぬ間に自分が誰かを救っていた。
彼が苦しんでいたなんてその時は知らなかった。助けたいと思って口に出した言葉じゃ無かったのにそれは彼を助けていた。
こんなに簡単だったんだ。誰かの為になりたいなんて思わなくたって知らぬ間に人は誰かの支えになってるんだ。難しく考えなくていい。そう解った途端、不思議と安心して自然と肩から力が抜けていくように感じた。

「……ちよこちゃん。」

トド松くんは、俯きながら私の名前を呼んだ。少しだけ声は震えている。

「どうしたの?」
「週末、ライブ!」

私が返事をすると、トド松くんはバッと顔を上げて単語を叫んだ。声が反響している間、シンと部室内は静まる。ザワザワと風で木々が揺れる音が妙に際立つ。

「週末に、ライブあるから見に来てほしい。」

トド松くんは、今までに見たことないくらい真面目な顔だった。教室でいつも女の子と笑ってる顔でも、男の子とふざけあってる顔でも、兄弟たちと悪さしようとしている顔でもない。彼の真っ直ぐな視線は私に一心に注がれていた。
今までろくに彼と話したことはない。去年はほんの数回言葉を交わしただけ。きちんと話したのは今日が初めてって言ってもいいくらいだ。
__そんな私が、ノコノコ行ってもいいの?
返事を濁そうとしたはずなのに。

「……うん、行くよ。」

いつの間にか口が勝手に動いていた。

「ほんとに……?!来て、くれるの!」

パッと華のような笑顔を見せたトド松くん。その笑顔をみたら、もうなんでもいいかって思った。

「絶対行くよ。」

彼の視線に答えるようにしっかりと言葉を返す。しばらくするとトド松くんは少しだけまゆを下げて遠慮がちに口を開いた。

「それでね、笑って欲しい。」
「……え?」

「突然ごめんね。」そう言いながらトド松くんは目線を少し下げた。

「ちよこちゃん、すごく辛そうな顔してる時あるから。……でもね、ボクちよこちゃんの笑顔が好きなんだ。ボクの音、好きって言ってくれた時の笑顔。」

トド松くんが私の名前を呼ぶ度に胸がキュってする。脳内が、熟れた果実みたいにゆるゆるして溶けそうだ。
相変わらず部室は暑い。蝉だってうるさい。でもそんなこともう気にならなかった。「だから、また笑ってほしい」そう言って照れくさそうに微笑むトド松くん。
紡ぎだそうとする言葉は全部喉の奥でシュワシュワと炭酸みたいに消えていく。込み上げてくる感情は言葉にならぬまま胸に溜まっていく。肺がいっぱいになって溺れてしまいそうだ。

「ボク、待ってるからね。」

ゆるりと嬉しそうに笑った彼。去年の彼の笑顔と重なる。
……ああ、もうとっくに始まってたんだ。
激しくなっていく胸の鼓動の奥でふとそう思った。トド松くんの笑顔を見たあの時には私はもう__

声を出したくてもやっぱり言葉は出なくて、私は頷くだけの返事をした。それを見て彼は満足そうにまた笑う。

ちっぽけな学校のちっぽけな部室で、今私たちだけの物語が始まろうとしている。

「一緒に、帰ろ。」

トド松くんは私にスッと手を差し出す。その姿は童話の王子様そのものだ。甘酸っぱい気持ちがパチパチと弾けて胸いっぱいに広がっていく。

彼が王子なら私はお姫様__なんて。欲張ってみてもいいかな?

動き始めた青春に乗り遅れてしまわないように、そっと手を重ねた。


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爽快様 提出

20160923
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