もういいじゃない、愛されにおいで



『自分のことを思ってもいない人を、一方的に恋い慕うこと』
何とも悲しいこの一文は、辞書で片思いの意味を調べた時に出てきたものだ。この簡潔な一文の通りではあるのだけれど、ドストレートに突き付けられると心にくるものがある。「自分のことを思ってもいない人」なんて、キツイ言葉だなぁと思いながら、両思いである自信なんてもちろんこれっぽっちもなかったし、そんな私は、一方的に彼に恋慕しているという現実を噛み砕いて受け止めるしかなかった。

「あれ?プロデューサーちゃんこんにちは。元気ないね、どうかしたの?」
「あ、薫くんこんにちは。大丈夫、何でもないよ」

気がつけば、廊下の真ん中で足を止めて突っ立っていた。こんな明らかに変な状況の人間に声をかけるなと言う方が難しいのだろうけど、いきなり声をかけられて、驚きに肩が跳ねる。薫くんの問いかけに、へラリと笑って返事をするも、彼は未だに心配そうな表情を私に向けていた。
まさか恋煩いでぼーっとしていましたと言えるわけもなく「本当に大丈夫だよ、ちょっと疲れてただけ」と付け加えてみるが、それでもなお、彼は少し納得いかないような顔をしていた。納得がいってないようだけど私が何も言わないから、それ以上彼から何も尋ねてくることもなく静かに頷く。私が深く話さないから、彼も深く掘り起こしてこない。ずるくて申し訳ないけれど、彼のそういうところに私は安心してしまうのだ。
「何かあったら遠慮なく相談してね」穏やかな声色でそう言った薫くんの言葉に笑みを返す。お言葉に甘えて「あなたのグループメンバーである零くんのことが恋愛的な意味で好きで仕方ないんです」と相談したら困らせてしまうだろうなと意地悪な事を頭の隅で考えた。でもきっと薫くんのことだから、すごく親身になって考えてくれるんだろうなと思う。びっくりしながらも一生懸命になって聞いてくれる彼を想像すると、可笑しくて嬉しくて、強ばっていた肩から力が抜けていく。表情が緩んだ私を見て安心したのか、パッと笑みを弾けさせた薫くんとしばらく談笑していると、カツカツと若干焦ったような足音が背後から近づいてきた。

「薫くんや」 
「ん?零くん?」

振り返ると、ついさっきまで私の思考を支配していた想い人が立っていた。よほど急いでいたのか、少し上がった息を整えながら薫くんに視線を向ける。

「薫くん、スタイリストの嬢ちゃんが探しておったぞ」
「えっ、なんだろう?教えてくれてありがとう、すぐ行くね」
「うむ、まだ向こうのほうにいると思うぞい」

去り際に「本当に、俺で良ければいつでも声かけてね」と彼は私に言い残して、零くんが指差す方向に小走りで向かっていった。根っからのいい人だなぁと思いながら薫くんの背中を見送って一息つく。それと同時に、隣からじっと射抜くような視線を感じて緊張で体が固まった。様子をうかがうように見上げると、零くんのはっきりとした双眸が、見間違いや勘違いだと錯覚出来ないほど真っ直ぐに私を見つめていた。

「なんだか浮かない顔じゃな」
「そうかな?薫くんと話して大分晴れたと思ったんだけど……」
「薫くんと、のう」
「ええっと……うん」
「おぬし、薫くんと話している時に比べると我輩と話す時堅くなっておらんかえ?悲しいのう……」
「えっ?いや、そ、そんなこと無いよ!ただ少し緊張しちゃうというか、悪い意味じゃなくて、何と言うか」

言えば言うほど言い訳のように聞こえてしまう気がする。何をどうすれば上手く伝えられるのか分からなくて口篭るけど、それもまた誤解を与えてしまうような気がしてならない。堅くなる理由は単純で、好きな人に嫌われたくないが為に特別気を配って言葉を選んだり、話す内容を考えてしまっていたら自然とこうなっていたというものなんだけど……。そんなことをまさか張本人に言えるはずもなく、上手なかわしかたも見つけられなくてただ戸惑うような仕草をとるしかない。私が困り果てていると、くくっ、と噴き出すような笑い声が上から降ってきた。今、この場には私と彼の二人しかいないからその笑い声の主は零くんで間違いない。チラリと視線を向けると、彼は笑いを堪えるように口元を抑えて楽しげな表情を浮かべていた。

「いや、すまんのう。おぬしが気を遣っているんじゃろうなということは分かっておる。つい意地悪を言ってしもうた」
「え?」
「おぬしが薫くんと楽しそうに話しておったから妬いてしもうたのじゃ」
「なっ、何を言って……」

急激に体温が上昇していくのがわかる。今の私はきっと見てられないほど真っ赤に違いない。
期待していることがバレてしまう。すぐに思い上がってしまうような、弁えていない女だということを零くんに悟られるのが怖くて思わず下を向いた。他意がないのは分かっている。だって、人気者の彼から、敏腕でもないただの一般プロデューサーの私に恋愛的な矢印が向いているわけがない。だけど、そんなことを言われるとどうしたって期待してしまうじゃないか。
期待するだけ苦しいことは肝に銘じているはずだった。見目麗しく、優しくて人が出来ている零くんのことを好きな人はきっといっぱいいる。実際この前も、美人なタレントさんとか可愛いアイドルとかが彼に熱視線を送っていた。隣には私が立っていたけど、彼女らは私に対して恋敵のような視線を向けることは一切なく、熱せられた感情をただ一心に彼に向けていた。私はライバル認定すらされていないということだ。綺麗な人が沢山いる世界で、何もかも平凡な私が同じ土台に立ってライバル視されるという考えが身分違いなんだろうけど、分かっていても結構ショックだったことを鮮明に覚えている。まぁでも、彼の今後のためにも私のようなものが選ばれるだなんて考えてはいけないのかもしれない。口に出してしまわぬように、暗い感情を噛んで飲み込む。こんな当たり前のことで泣きたくもなかったし、泣いて彼を困らせることもしたくなかった。


――ピリリリリ

突如、私と零くんの間に流れる沈黙を切り裂く無機質な音。
訝しげな顔で携帯の画面を見た零くん。ほんの少しだけ見えた画面には女性の名前があった。見覚えのあるその名前は確か、この前零くんと共演したモデルさんだ。彼はその着信に出る様子もなくジッとただ画面を見つめている。出なくてもいいのかと聞く前に、彼が画面に向けていた視線を私に向ける。その目には画面に向けていたような嫌悪感はなく、春の風みたいな優しさを孕んでいて、そして私に何かを語りかけるような真剣さがあった。

「嬢ちゃん。おぬしはこれをどうしてほしい?」
「こ、これって?」
「おぬしは、我輩がこの電話に出てもいいと思っておるのか?」
「どうして、私に聞くの」
「おぬしの気持ちが聞きたいのじゃ」

どうして私にそんなことを聞くのかわからなくて返答が詰まる。一般常識的に考えると、そんなの出たほうがいいに決まっている。相手だって何か伝えたいことがあって連絡を取って来ていることは明らかなのだから出ないなんて選択肢は普通あり得ない。
……だけど、彼がどうしてそんなことを私に選ばせようとしているのかがわからなかった。彼が持っている選択権を私に委ねることが理解できない。でもそんな事よりも、彼が連絡先を女性に教えていたことで頭がいっぱいになってしまっていた。自分の連絡先をどうするかなんて彼の勝手なのに、私が勝手に傷ついて落ち込んでいる。だけど辛さに打ちひしがれているその裏では、彼が私に答えを委ねているという状況に喜んでいる私がいた。期待しないとさっき改めて決めたはずなのに、もうこんな調子の自分に呆れ果ててしまう。

「その人も、用事があってかけてきてるんじゃないのかな……?」
「仕事の大事な案件をタレント同士で取り合うことはせぬとおぬしのほうがわかっておるじゃろう。本当に大切な用なら事務所伝いに来るわい。……我輩は、おぬしの気持ちを聞いておるのじゃよ」
「……わ、たしは」

……出てほしくない。当たり前じゃないか。
綺麗な女の人からの電話。彼女が零くんの事を好いていると噂で聞いたことがある。そんな人からの電話に出てほしいわけがない。だけど、私がそんなわがままを言っていいのだろうか。優しい彼を、電話を無視するような人にしてしまうことがどうしても心苦しい。

「何を考えておるのかは知らぬが、周りなんぞどうでもよい。聞かせておくれ、おぬしの気持ちを」

フワリと彼の香りが急に近づいて鼻腔をくすぐる。耳元でそっと動いた彼の唇に、緩やかにかかる吐息に、顔が火照って、熱が引き始めていたのにまた赤らんでいく。羞恥で浮かぶ涙を落ち着けるように吐いた自分の息も熱っぽくて、それがまた恥ずかしい。手で口元を抑えてみても、余計に熱を感じるだけだった。震える喉をなんとか開いて声を出す。やっとの事で紡いだ声は、思ったより何倍も震えていた。

「で、でないでほしい」
「うむ、ではそうしようかのう」

ニコリと表情を和らげた彼は電話を切って、なんとそのままの勢いで着拒する。機械は苦手なはずではなかったのだろうか。どこで覚えたのか、あまりにも滑らかな動きに開いた口が塞がらない。彼は携帯電話にすっかり興味を無くしたのか、呆気に取られている私の頬にかかった髪を、丁寧な手つきで耳にかけて満足そうにしていた。彼の我関せずな態度にしばらく呆然としていた私だったけれど、なんとか意識を手繰り寄せてワッと声を上げる。

「零くん待って、私はそこまで……!!」
「このままにしておったら、またかかってくるかもしれんからのう」
「いや、でも、」

いつも優しい零くんが見せるあからさまな拒絶に驚きを隠せない。彼にそこまでさせるなんて、相手の女性が何かしたのか勘ぐってしまいたくなるくらいだ。相変わらずパクパクと口を開閉することしか出来ない私に、彼は驚いたような顔をした。

「まさか、我輩が誰にでも親切にしておるとでも思っていたのかえ?」
「え、違う、の?」
「まぁ、我輩も格好つけたくておぬしの前では優しくていい男でおったつもりじゃからのう。分からずとも仕方あるまい。……優しい男に見えていた我輩は、特別好いておる嬢ちゃんによく見られたいがために行動する、浅はかな男だったということじゃ」

彼は大きくて綺麗な手で私の頬を包んで、親指の腹でそっと撫でる。愛おしいものを愛でるようなその動きは、私を慈しむように蕩けた瞳とはまた違って、色っぽくて艶やかだ。

「我輩は、おぬしがまどろっこしいことなど気にせずにこっちをみてくれるのをずっと待っておった。おぬしが我輩のことをどう思っておるのか、もういい加減聞かせておくれ」

その声色は優しいけれど、逃してなるものかという執着に似た感情を言葉の節々から感じる。私を映す真紅の瞳は澄んでいて、その果てしない美しさに吸い込まれてしまいそうだ。
人通りが少ないと言えどもここは廊下なのに、なんて考える暇はもう無くて、頭の中はただ一人、彼の事だけで満たされていた。

「零くんが好き、です。ずっとずっと前から」

今までの躊躇いが嘘みたいに自然と口から出た。
彼が見せた私の為だけの柔らかな笑みに、また心臓が強く打つ。「あなたの隣にいるのは、他の誰でもない私だけがいい」理性ではもう止められそうもないこのわがままをそのまま彼に伝えたら、零くんは一体どんな表情をしてくれるのだろうか。

(リクエスト作品)
title 誰そ彼
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