淡く優しく曖昧に



「本当にすみません、突然仕事が入ってしまって。断りたかったのですがどうしても難しいようで……」 
「ううん、仕方ないよね!大丈夫だよ」
「早く終わらせます」
「無茶しなくていいよ。体調崩しちゃってもダメだし、今日は大丈夫だから。……ね?」

今日はHiMERUくんとの記念日だった。二人で朝からデートをして、夜までずっと一緒にいる予定にしていた。彼も記念日を大切にしてくれていて、前からこの日は予定があるからと言って空けてくれてたみたいだった。当然予定通りデートは決行されるものだと思っていた。何週間も前から服を選んで、それに似合う化粧を必死に考えたり雑誌を買って勉強したり、美容院に行って髪の毛も綺麗にしてもらった。そんな最高のコンディションで迎えた記念日。化粧はとっくに終わっていて、髪の毛を巻いている途中でHiMERUくんから焦った声で電話がかかってきた。最初は何がなんだかよく分からなかったけど、デートが出来ないと理解した瞬間に頭の中が真っ白になった。なんで?どうして、楽しみにしてたのに……なんて気持ちがフツフツと湧き上がってきたけれど、彼の本当に辛そうで悲しそうな声を聞くと、とてもじゃないけど責められなかったし責める気にもなれなかった。「埋め合わせは必ずします」一言そう告げて切られた電話。精一杯明るい声で「お仕事頑張ってね」と言ったつもりだったけど大丈夫だったかな。私が落ち込んでると分かったら、彼はきっと物凄く気にしてしまうだろうから、仕事に支障をきたさないように悲しい気持ちを悟られたくなかった。

HiMERUくんは人気アイドルだ。かっこよくて優しくていつだって頼りになる。そんな完璧で雲の上の人みたいな彼が私の彼氏であることが奇跡みたいなものだった。私には彼みたいに飛び抜けて凄いところがあるわけじゃない。平凡なただの一般人だ。だから、もっと一緒に居たいとか特別なことが無くたってそばにいてほしいだとか、高望みしてはいけない。付き合っているだけでも幸せなのだから。私から彼に与えられるものは何もないけれど、せめて彼に迷惑をかけずに、彼の仕事に一等理解のある聞き分けのいい女でいたかった。

「かなしい」

それでもやっぱり、すごく楽しみにしていた記念日だった。HiMERUくんとの電話が切れた室内は異様に静かで、口から自然とこぼれてしまった独り言がやけに大きく響く。口に出してしまうと気持ちが止まらなくなってしまって、いつの間にかポロポロと涙がこぼれ落ちていた。泣いたらダメだと必死に唇を噛み締めて止めようとしても悲しみが押し寄せてきて、せっかく綺麗にした化粧が崩れてしまうというのに涙を止められない。溢れる涙を拭う元気も無くて、ベッドに寝転がりただ真っ直ぐ天井を見つめる。寝転がった体勢のまま、もう1ミリだって動けそうにない。体に重りでもついているのかと錯覚するくらいに体は重くて、ベッドにどんどん沈んでいくような感覚になる。そんな体に釣られるように意識もどんどん深く沈んでいくのがわかった。




――いつの間に、眠ってしまっていたんだろう。
目を開くとあたりはすっかり薄暗くなっていた。ほんのりと濡れていた頬を拭う。化粧、グズグズになってるんだろうな。髪の毛もボサボサだし、綺麗に着ていたはずの服も崩れていて、とてもじゃないけど人前に出られるような状態じゃない。
……馬鹿みたいだ。こんなになるくらいなら素直に寂しいと彼に言えば、仕事が終わったらすぐに会いたいって言えていたらよかった。気遣いができて物分りのいい彼女でありたいとか、わがまま言って面倒くさがられて捨てられたくないとか、そんな下らない見栄のような、おこがましくて自己中心的な考えで結局自分を苦しめている。乾いた自己への嘲笑が、一人きりの部屋に吸い込まれる。落ち込んだ時はいつも彼が優しく撫でてくれるのに、今日は冷たい空気が肌を掠めるだけだった。

いつまでもこんな事をしていたって仕方がないし、着替えて今日は寝てしまおうとベッドから足をおろした時だった。さっきまで静かにそこにあったスマホが突然楽しそうな音楽を奏でて震える。
この音楽はHiMERUくんからの着信音だ。若干震える手をバチンと叩いて活をいれてから通話ボタンを押す。私が言葉を発する前に、彼が食い気味で私の名前を呼んだ。彼の呼気が荒くて、ついさっきまで走っていたのだろうかと疑問に思う。

「今いいですか」
「お仕事終わったの?」
「すぐに終わらせて現場を出ました。貴女は大丈夫だと言いましたが、HiMERUがどうしても今日、貴女に会いたくて」
「え?」
「記念日、楽しみにしていました。貴女と二人で、明日でも明後日でもなく、今日祝いたいとHiMERUは思っていたのですが……貴女は、どう思っていましたか?」
「あ、わ、わたし、は」

すっかり息は整ったのか、落ち着いて丁寧に彼は言葉を並べている。どう思っているかなんて、そんなの決まっている。寂しかった、一緒に居たかった。今日が特別な日だから、本当は今日HiMERUくんに会いたかったし、デートだってしたかった。特別可愛くおめかしした私を見てほしかったし、それを見て、いつもみたいに優しく笑ってほしかった。そんな一日にしたかったよ。でも、どうしてもその言葉が喉に引っかかってしまって出てこない。

「実は、HiMERUは今、貴女のマンションまで来ています」
「……ん?!」
「いつも我慢させてばかりで、それでも貴女は文句一つ言わずにいてくれていました。……HiMERUは、本当は今日、貴方の好きなことだけをして過ごすつもりでした。寂しいのに我慢ばかりする優しい貴女に甘えてほしかったのです」
「ひめるくん、」

寂しがっていたことなんて、彼にはお見通しだったみたいだ。
彼はいつだって忙しいはずなのに、私のことを一番に気にかけてくれていた。寂しくないですか、今から会いませんか?無理せずに何でも言ってください。気遣ってくれる彼を「大丈夫」だと言って突っぱねていたのは私だった。忙しい彼に無理をさせたくなくて断っていたけど、思い返せば、その気遣いは全部空回っていて、心配ばかりかけてしまっていたのかもしれない。『甘えてほしい』そう言った彼の言葉があたたかく、優しく溶けて頑なだった心を解していく。

「あのね、さ……三十分後に来てほしい」
「……今ではなく?なぜ?」
「顔グズグズなの。服も髪もグチャグチャだから恥ずかしくて」
「HiMERUは今すぐ会いに行きたいです」
「甘えてって言ったのに。わがまま聞いてくれるんじゃないの」
「一刻も早く貴女に会って泣かせてしまったことを謝りたいのです」
「泣いたとは言ってないじゃん」
「ふふ、いえ、HiMERUにはわかります」
「……ねぇ、ここでHiMERUくんの言うこときいたら、聞き分けのいい女になっちゃうでしょ。三十分後に来てよ、これは私のわがままだよ」
「わがままを聞くのはHiMERUが貴女を抱きしめてからです」
「……はは、なにそれ、もう仕方ないなぁ」

空は真っ黒に染まっていて、月がぼんやりと浮かんでいる。ベランダに出て夜の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むと、さっきまでとは違って随分と息がしやすくなったように感じた。下に視線を向けると、よく見慣れたシルエットが私の部屋を見上げている。彼を視界にとらえただけで胸がいっぱいで、まるで私達二人だけを残して世界の時間が止まってしまったんじゃないかとさえ思う。
HiMERUくんの前ではずっとかわいい女の子でいたかったのに、こんな姿見られたらそれももう叶いそうにないなぁ。でも、まぁそれでもいいや。

「ねぇ、HiMERUくん」
「はい、何でしょう?」
「はやく会いたい」

愛しい彼が、次のひと息を吸い込む前にマンションの入り口に向かって駆ける。
早く抱きしめて。今日はずっと一緒にいてほしい。このわがままなら、HiMERUくんはきいてくれるかなぁ。

title 秋桜
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