キスと口づけ、どっちがほしい?



隣に座る彼に視線を向ける。
スッと伸びる長いまつげ、空みたいに青く澄んだ綺麗な瞳が、整えられた燃えるように赤い前髪の影からちらりと覗く。美しい顔立ちだと常々思っていたけど、横顔も驚くほどに整っていて完璧そのものだ。穴が空きそうなほど見つめているのに私からの視線に全く気がつかない彼は、いつも通り調子良く話を続けていたのだが、なんの拍子か合間にふっとこちらを見やる。「目が合った」そう思う間もなく、パチリと彼と視線が絡んだその瞬間に、まるで時間が止まったみたいな感覚になった。急に胸がドクドク高鳴って、熱くて、彼がひどく眩しくてどうしようもなく惹かれて。
気づいた時には衝動的に、無意識的に、彼の唇を奪ってしまっていた。

「……あ?!」
「あっ、」

ちゅ、と軽く響いたリップ音。可哀想なくらいに顔を赤くする彼に、ごめんなさいと心から思うと同時に、それと同じくらい……いやそれ以上に、激しい興奮と高揚感が心を支配していた。
私たちを包む熱を孕んだ空気、まだ欲しいと貪欲に訴えるようにほんのり濡れた唇がジンジンする。目をそらすこともできずに見つめ合ったまま、私たちの時間は静かに流れていくのだった。





彼と付き合って初めて気づいたことがある。それは燐音くんは案外貞操観念ががっちりしている……というか『お堅い』ということだ。ちょっと誤解を生んでしまう表現だったかもしれないけど、これは燐音くんがめちゃくちゃ軽いと思っていたというわけではなくて、思っていたよりも何倍も物事の順序や男女交際についてガチガチの考えを持っていた……という意味だ。手をつなぐ、腕を絡めるまでは良かったんだけど、軽くハグをするあたりから少し怪しくなって、キスの時点で私たちは完全に一回立ち止まることになった。
キスを期待したその時の雰囲気は、それはもう最高に良かった。二人きりの部屋で、お互い触れるか触れないかくらいに距離も近くて、なんとなくクラリとしそうな甘い空気が漂っている。ついにキスするのかな、なんて浮かれてこれ以上ないくらいドキドキした。それはもう心臓が爆発してしまいそうなくらいには。どんどん近づく二人の距離、もう鼻が触れてしまいそうなその時に、彼はハッとして私の肩を軽く押すと、急に距離をとって言ったのだ。

「お、っと、キスは結婚してからだろ……!」

ポカンとする私をよそに、彼は少し照れた様子で「今のはマジで危なかったっしょ……」なんて、セーフがどうとか言いながら自己完結している。何がセーフだ、ここまできてキスしないなんて私の心象的にはまごうことなくアウトである。
私も一応年頃の女の子な訳で。距離を取られたことに軽くショックを受けながらもキス、嫌だったのかな?とか、なんか萎えることしちゃったのかもとか一瞬考えたけど、きっとそれは多分違う。彼は本気でキスは結婚してからするものだと考えているのだ。
そういえば他の人にも以前そういったことを言っていたのを、聞いたことがあったような気がする。その時はノリで言っているのかな、元気だなぁなんて思っていたけど、きっと本気でそう考えていたのだ。頭の中の考えと、追いつかない心がピタリと合致した瞬間、ピシャーン!と雷が体に真っ直ぐ落ちたような衝撃が走る。……もしかしてこれは本当に、結婚するまでキス出来ないのでは?!


……婚前キス拒否事件後から数日間、私は悶々としていた。悶々としてたなんて言ったら欲求不満みたいだけど、そういう事じゃなくて、キスしちゃダメと言われたらなんだかキスしたくなるし、一回そういう事を意識してしまったら、ふとした時に思い出してキスしたいなって気持ちになって彼の唇をつい見てしまう……みたいな、そんな人間の心理とかなんじゃないかなと思う。
……いや、まぁでも、気持ちが落ち着いている時でも燐音くんを見るたびにキスしたいとか、触れたいとか、そんな事ばかりを考えてしまうのだから、やっぱり私は不埒な人間なのかもしれない。

「……なァ、ぼーっとしてね?具合悪ぃ?」
「ううん、何でもないよ大丈夫!」

気持ちを悟られるのが恥ずかしくて誤魔化すようにゆるりと笑うと、燐音くんも安心したように表情を優しく崩す。燐音くんの優しい笑顔が好きだけど、この時ばかりは罪悪感でいっぱいになる。取り繕うたびに心の中で燐音くんに謝っていたけれど、なんとなく胸の中で燻る熱っぽさは消えるどころか日に日に大きくなっていっていた。

この気持ちはいつかどうにかなると思っていた。だが、思っていたよりもどうにもならない部分が大きくて、それが積み重なって、突然彼の唇を奪ってしまうという私の人生史上最悪の大失態をおかしてしまったのだ。





何回反省しても酷い、こんな、人の唇をいきなり奪うだなんてまるで痴女だ。自分が行ってしまった行為のあまりの愚かさに目眩がして、ショックで視界がブラックアウトしそうになった。
現実逃避するようにしばらく瞑っていた目を薄く開くと、何故か燐音くんの美しいかんばせが私の顔の間近まで近づいてきている。彼の前髪が私の肌を撫でるように触れて思わず「わっ」と声を出して後ずさった。咄嗟に離れて出来た空間を見つめて、彼は不満そうに少し眉間にシワを寄せる。

「え?燐音くん、待って、なんで?」
「何でって何がだよ」
「キスは、けっ、結婚してからって」
「俺っちの麗しい唇奪った人がそれ言う?」
「そ、それは……」

モゴモゴと口元をまごつかせる私を見て燐音くんは大層愉快そうに笑うけど、生憎今の私には彼に言い返す言葉が何も見つからない。
私が咄嗟に離れてしまったせいで宙に浮いていた彼の手が、私の頬にゆっくりと触れた。火傷してしまいそうなくらいに熱くて少し震えた指先が、彼の緊張を物語っている。ほぼ反射のように、パッと彼を見上げると、少し不安そうに彼の瞳がゆらりと揺れた。

「……なァ、責任取って俺っちと結婚してくんね?……なんて」
「いいの?」
「タンマ、今のは口説き文句にもなんねェわマジでカッコ悪ぃ……」
「ふふ、そうかな?可愛いよ」
「ヤダ」
「嫌かぁ〜」

頬に触れる彼の手に私の手を重ね合わせる。動揺するように彼の体が揺れたから、私はまたやっぱり燐音くんは可愛いなぁなんて思ってしまう。
いつの日か友達が「男の子を可愛いと思ったら終わり、もうそこからはどうしようもなく愛おしくてたまんなくなっちゃうんだよ」なんて言っていたことを思い出す。その通りだ。私よりもうんと大きくて男らしい立ち姿の彼のことを「可愛い」だなんて、きっと私はどうにかしてる。でも、私の言動で表情を変える彼がどうしょうもなく可愛くて、愛おしくってたまらない。

「こんな酷いプロポーズだけどよ、俺っちはマジでお前と結婚したいと思ってる」
「うん、嬉しい、私も燐音くんと結婚したいよ」
「幸せにする」
「私だって、燐音くんのこと世界一幸せにするからね」
「俺っち、愛されてンなぁ」
「当たり前でしょ。……そうだ、あのね、私、燐音くんとしたいこといっぱいあるんだ。まずは一緒に住みたいし、それと、」
「あ〜、ちょい待って。後で聞いてやるから」
「へ?」

「なに」と紡がれるはずだった言葉を押し込むように唇が触れた。ちゅ、と部屋に落ちた柔らかな音が、妙に頭の中を反響して離れない。触れた唇がゆっくりと離れて、彼とゼロ距離で視線が絡む。彼の瞳は驚くほどに熱を孕んでいて、有無を言わせぬ強い意思を持って私を見つめている。その瞳の中の私は、口も半開きでポカンとしていて、彼に見られていることが恥ずかしくなるくらい間抜けな顔をしていた。

「や〜っとちゅー出来ンだからよ、ちょっと静かに、イイコにしててくんね?」
「ま、だ、結婚してない、のに」
「すぐにするからいいっしょ」

咄嗟に出た可愛くない言葉だって、彼の言葉に包まれて飴玉みたいに甘い残り香を残してパチンと弾ける。触れる指先が、彼の言葉のひとつひとつが、優しくてあたたかくて、胸がいっぱいでジワリと涙が滲む。「俺っちのお嫁サンは泣き虫だなァ」なんて言いながら優しく涙を掬う彼の指に、涙は止まるどころかさらに溢れ出てくる。この甘やかな幸せは、これから一生私たち二人だけのものになるのだ。

「……なァ、キスと口づけ、どっちがほしい?」
「……どっちも」


title 確かに恋だった
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