あの日の群青



※㌩ドル
中学→大学の年齢操作と捏造あり





「……あっ!」
「……え?」

海に、無理矢理つれて来られた。
それがひどく憂鬱で、みんなが楽しそうにしている海辺に似つかわしくないと分かっていながらも、俯向いて足先を眺めて歩く。爪先だけは、綺麗なペディキュアで彩られていて、夏の海に浮かれているみたいだった。はぁ、と陰鬱なため息を吐くと同時に、すれ違いざまに引き止めるように叩かれる肩。夏の海に浮かれた人のナンパだろうか。いかにも暗そうな私に声をかけるなんて趣味が悪いなぁなんて呆れながら視線を上げて、一番に視界に飛び込んできたのは目に優しい桜色の髪。見覚えのあるそれにハッと息を呑んでじっくりと顔を見てみると、揺れるアメジストの瞳と視線が絡んだ。目が痛くなるほどに眩しい空の青と桜色の髪のコントラスト、心のうちを全部見透かされているような宝石みたいな瞳。
……私がかつて、叶わないと思いながら焦がれたものが、すべてをそのまま再現したように目の前にある。嘘や、そんなわけあらへん。もう一生、会えることなんてないと思ってたのに。私が彼の名前を呼ぶよりも先に、彼が私の名前を呟く。コクリと頷くと、彼は頬を緩めて微笑んだ。

「お久しぶりやね。また会えて、嬉しいわぁ」

大学生になった彼のその笑顔は昔と変わらないような、でもちょっと大人になっているような、そんな印象を受けてほんの少しだけむず痒い。

「わ、たしも、また会えて嬉しい」

絞り出した声は思ったよりも小さくて、少し裏返ってしまって情けなくて、恥ずかしくて消えてしまいたくなった。



中学生の頃から夏は嫌いやった。
暑いし、汗かくし、どんなに可愛くなるように髪をセットしていっても一瞬で全部崩れてしまうし。虫はでるし、食欲は失せるし、その他エトセトラ。そして極めつけに夏嫌いの、プール嫌いの私がプール掃除まで命ぜられとる。信じられへん、ありえへん。なんで嫌いなプールの授業のために掃除せなあかんねん。断りたいけど、有無を言わさんような先生の圧には逆らえなかった。何より、一緒に掃除するよう言いつけられたのが、ずっと気になっていた桜河くんで、断ったらなんだかもったいないかもなんて気持ちにもなっとった。まぁ、桜河くんが断ってたら、この下心も全部無意味やったんやけど。
ドキドキしながらプールサイドに向かったら、そこにはもう彼がいて、デッキブラシで汚れたプールサイドを磨いていた。こんなにも暑苦しいのに、彼の周りだけ爽やかな風が吹いているような、清涼な空気が流れてるような気がして、思わず唾を飲み込んだ。かっこいいなぁと思いながら眺めとったけど、私の周りの空気は当然信じられへんくらいに暑いから、滝のように汗が流れてくる。折角のいい気分を害されて、若干不機嫌になりながら流れる汗を拭うと、彼はやっと私に気づいたらしく、同じように汗を拭いながら私の方に歩を進めてきた。

「先に始めてしもてたわ。堪忍な」
「ううん、こっちが遅くなってしもてごめん」
「わしが早う来てしもただけや。……にしても、こんな日に掃除さすやなんて鬼やな、先生っちもんは」
「ほんまにね。体育委員やから頼むわ〜って言うてたけど、横暴もええとこやわ」
「どつきまわしたろかっち思ったわ」
「ふふ、分かるわ」

特になりたくもない体育委員になったのも、桜河くんがなってたからだった。いつからやったかは忘れたけど、ええなぁと思った頃には、笑顔も声も優しいところも、ちょっと口が悪いとこも全部気になって、好きで仕方なくなっとった。彼を通して見る世界はいつだって鮮やかで綺麗で、隣にいると落ち着いて心地よかった。彼が他の女の子と話してたらモヤモヤしたし、ずるいなぁって一丁前に嫉妬までした。

好きになったきっかけは多分、隣の席になった時に楽しかったから〜とか、そんなしょうもなくて単純なことやったんやと思う。今となってはどこから好きが始まっとったんかわからんけども。そんな小さなきっかけから、私の恋心は短期間で急速に成長していったのである。何にせよ、同じ委員会になれば関わり増えるかもなんていう私のほんの少しの期待は、プール掃除という最悪の形で実を結んだのだ。まぁでも、桜河くんと二人きりでできるんやから、先生には感謝した方がいいんやろか。

「こぉら!ぼーっとしとったら終わるもんも終わらんで」
「ご、ごめん」
「暑いし、早う終わらせて冷たいもんでも買って飲んで帰りたいと思わへん?」
「せやねぇ、先生におねだりしてみる?」
「コッコッコ♪それはええ考えやわ」

先生に終わったあとのご褒美をおねだりする提案をしたものの、桜河くんとの時間が名残惜しくて一生このまま終わらんかったらええのにとさえ思っとる自分がいる。これは、桜河くんには絶対言われへんけど。

ホースから勢い良く押し出された水が、バチバチとプールサイドに落ちて弾ける。足元に跳ね返る澄んだ水飛沫は、涼し気な見た目とは裏腹に空気に熱せられてほんのりと生ぬるい。なんとなく憂鬱で、手を止めて少し視線を上げた先では桜河くんが一生懸命に掃除をしていた。
目が痛くなるほどの青に浮かぶ彼の優しくて柔らかな桜色の髪。ふわふわと時折吹く熱風とも言える風に、絹糸のような髪がサラサラと揺れている。夢でも見てるのかと思うくらいに、綺麗で印象的な青とピンクが脳裏に焼け付くように刻み込まれる。彼には穏やかな春がよく似合うとは思っていたけど、色彩が鮮やかでくっきりとした夏の姿も格好良くて、どうしようもなく胸がいっぱいになる。好きだ。どうしようもなく彼が好きなのに、それを伝える勇気はない。手を止めていた私に気づいた彼が「どないしたん、疲れた?熱中症なったら危ないし休んどくか?」と、心配そうに呼びかける。心配をかけているというのに、このままずっと私だけを見てくれたらいいのになんて、そんな最悪なことを考えてしまっている。

「ありがとう大丈夫!さっさと終わらせてしまお!」

思ってもいない言葉が、案外簡単に口から紡ぎだされた。ちゃんと笑えとるやろか。こんな苦しい思いをするなら彼に全部言えたらいいのに、私はやっぱり臆病で結局最後の最後まで彼への想いは何も言えず終いだった。


その後も私は何も出来ずに、ただ友人として、同じ委員会の仲間として中学を卒業した。高校に進学したら話す機会が格段に減って、少しさみしかったけど、やっぱり目ではいつも彼を追っていた。さらに大学に進学すると学部も離れてしもて、もうずっと会われへんのかなぁなんて思ったけど、それでもいつも心の隅には忘れられない彼がいた。



ずっと、ずっと、想い続けとった彼が、今、目の前にいる。まさか、来たくもなかった海で彼と再会できるなんて思ってもみなかった。したくもなかったプール掃除で彼と一緒の時間を過ごしたいつかの日と同じように、胸が高鳴る。嫌いな海で沈んでいた心は、好きな人との再会であまりにも単純にふわふわと浮ついた。似た人なんかやない、紛れもなく私が好きな桜河くんだ。

「ぬしはんは、なんでここに?」
「サークルの付き合いでな。あんまり来たくなかったんやけど半ば無理矢理つれて来られてん」
「それは気の毒やなぁ。……さっきすれ違った時、まさかほんまにぬしはんやと思わへんかったけど、引き止めてよかったわ」
「私やと思わんかったん……?」
「中学の頃のプール掃除の時、夏は嫌いやし、海もプールも嫌いやっち言うてたやろ」
「覚えとったん?」
「当たり前や」

言葉通り、柔らかな笑みを携えながら当たり前みたいな顔をしてそういう彼に胸がドキドキしてどうしようもなく痛い。甘くて優しい言葉なのに、胸を突き刺す殺傷性を持っていた。プール掃除の間の、暇つぶしみたいな何気ない会話も覚えとってくれたんやと思うと、もしかして…なんて自意識過剰で期待してしまう自分がおって恥ずかしいけど、こんな情けない思考回路がどうしたって止められへん。

今日、無理矢理やったけどつれて来られてよかった。嫌々やったけど、水着買ってよかった。かわいい水着を着て、髪の毛も何となくやけど可愛くしてよかった。嫌で仕方なかったことが、全部プラスに塗り替えられていく。桜河くんの優しげな眼差しに、またあの頃の記憶をゆったりと呼び起こされていくような感覚になった。

「なぁ、桜河くん」
「ん?」
「あんな、私、夏は嫌いやし、海も嫌いやけど、今日ちょっとだけ好きになれた気がするわ」
「……なんで?」
「桜河くんに会えたから」
「期待してまうで、そんなん」
「して欲しいから言うてるんよ」

期待してしまうという彼の言葉に、私が期待してしまいそうになる。それって、ちょっとでも私のこと好いてくれとるってこと?私が今、一歩踏み出したら桜河くんは手を取ってくれるん?柔らかなそのアメジストの眼差しを、他の人には向けんといてほしい。今の桜河くんの表情は、私だけに向けるものであってほしい。ワガママな感情が湧き上がって、不意に泣きそうになるのを隠すように口角を上げた。

容赦ない太陽の光に肌がジリジリと焼かれる。痛いし、明日はきっと赤くなってしもてるかもしれへんけど、今はそんなことちっとも気にならん。火照ってくらくらするけど、日照りに熱されてそうなってるのか、桜河くんとの再会に浮かれてそうなっていのかよく分からん。ただ、気分は悪いどころかむしろいい。もうずっと、この空間に身を漂わせたいとさえ思う。

「なぁ、ぬしはんは、プールまだ嫌い?」
「……プールは、桜河くんとプール掃除した時にちょっと好きになったんよ」
「ずるいわ、それ」
「うん、ずるくてごめん」

今度は絶対に手放したくない。きっとこれは神様がくれたチャンスなんや。あの日の青に、桜色に、手を伸ばせずに焦がれるだけの毎日なんてもう嫌や。
彼のアメジスト色の瞳は、私を、ただ私だけを一心に見つめている。見透かされているような瞳が昔はすこし怖かったけど、今は全部見透かされていたらいいのにとさえ思う。私の気持ち、全部全部彼に届いてたらいいのに。

彼の背後の青空が、プール掃除をしたあの日よりもひどく眩しく見えた。

title 秋桜
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