あの子にとって優しい世界であるように



※学パロ





『誰にでも優しい子』
ただのクラスメイトだったその女の子の事が、特段気になるわけではなかったんすけど、いつも柔らかく笑っていて、嫌な顔一つせずに頼まれごとをなんでも引き受ける彼女を何となく目で追うようになっていた。
まぁ、でもそれは、健気で献身的なそういう姿が好きになったとか、恋愛感情が芽生えたとか、そういうわではなく。だって、僕の関心事はいつだって食に関する事で、人に対して心動かされるほどの何かがあったことなんてあまりなかったし。……ただ、いつも笑っていて、何でも受ける彼女のお人好し加減が、この時は何となく心配になってしまったから。だから、ほんの少しだけ彼女のことを目で追うようになってしまっていた、ただけそれだけのことだったんすよね。





下校中に食べようと思ってカバンに入れていたはずのお菓子が無かった。確かに入れたはずなのに……と、己の行動を思い返すと、お菓子をカバンに入れようとした瞬間に、燐音くんにいつもよりしつこく絡まれて入れ損ねていたことに気がつく。僕とした事が、最優先事項をおろそかにするだなんて不覚っす。手っ取り早く買い食いをしても良かったけど、今月はお財布がピンチだし何よりそのお菓子が食べたくて仕方がない口になっていたから学校に引き返す事にした。

「……?まだ誰かいるんすかね」

学校に戻った頃には部活動をしている人たちの片付けも大方済んでいて、最終下校時刻間近なんだなと辺りに視線をやりながら呑気に思う。こんな時間だし、どうせもう誰も教室には居ないだろうと思いながら扉の前まで来たとき、ザッと椅子を引いて立ち上がる音が聞こえた。別に気にせずに入っても良かったんだろうけど、なんとなく入るのが躊躇われて、たまたま少しだけ隙間があった廊下に面している窓から静かに様子を伺う。静寂に包まれた教室には、人が良い彼女がたった一人でそこにいた。サラリとした髪が表情を隠していて、何を考えてるのかよく読み取れない。そうしているうちに「はぁ……」と酷く疲れきったようなため息を彼女はこぼした。

「あのぉ〜、まだ、居たんすね」
「……椎名くん?」

どうして声をかけてしまったのかは分からない。でも声をかけなきゃいけないって、本能的にそう思った。
声に反応して、パッと僕に向けた彼女の顔は、一瞬絵に描いたように驚いた表情をしていたけど、すぐにいつもと同じ笑顔を浮かべた。酷く疲弊していた声や雰囲気を感じさせないほどに、優しく柔らかだった。さっきのは、本当に無意識のため息だったんだと思う。目の前で笑ってる彼女自身も、きっと何も気づいていない。ため息をついていたこととか、そうなるくらいに心がちょっとずつ削られてる事とか。
別に特別彼女と仲がいいわけでもないし、僕には関係のないことだと思っていた。それなのに、僕しか知らないであろう彼女のその危うさにひどく肝が冷えた。追い詰められて一人で泣かないように手を差し伸べたいって気持ちが、この時確かに僕の中で芽生えたんすよね。






「頼まれてたのはこれくらいっすか?」
「うん、ありがとう。もうこれ綴じたら終わるよ」

パチン、パチンと彼女はホッチキスで手際よく書類を綴じる。これもまた、頼まれ事のようだった。毎日毎日こんな感じで、人に頼まれた何かをしている。本当に度の過ぎたお人好しっすよ、彼女は。
あの日を境に彼女と交流するようになってから、自分が思っていたよりも遥かにたくさん彼女が色々なことを引き受けていることを知った。たくさん頼られる分、彼女はみんなからの信頼を集めていたし、誰もが彼女を心から好いているようだった。彼女を放っておけないと思った僕でさえも、彼女の朗らかな雰囲気や纏っている柔い空気につい気が緩んで、お腹が空いたときに彼女を頼ってしまったりすることがあるから、本当に人のことを言えた立場ではないんすけどね。でも、助けたり助けてもらったり、そんなことを繰り返すうちに彼女と少しずつ仲良くなっていった気がする。……そうだったらいいなぁって僕は思ってるんすけど。

彼女は人に頼ることが一等苦手なようだった。なんでも一人でしてしまって、抱え込んで、自分の時間を削っても他人のことを優先しようとしていた。それが苦にならないと彼女自身は思っていたのかもしれないけど、実際僕が見た彼女はひどく疲弊しているようだったし、知らぬうちに心を摩耗してしまっていたんだろうと思う。優しいのは彼女のいいところだけど、同時に悪いところでもあった。もっと、自分のことも甘やかしてあげてもいいのにって僕は思うんですけど。でも、彼女はどうしても自分のことを甘やかすのが苦手みたいだから、その分僕が彼女をめいいっぱい甘やかしてあげようと、関わってすぐに心に決めた。特別仲が良いとかそういうわけじゃないと言っておきながらなんだか変な感じなんすけど、あの光景を見たときから、彼女の翳った雰囲気が頭から離れなくて、そのまま知らないフリをして放っておくことがどうでしても出来なかった。

「これ職員室に運ぶんすよね?」
「うん、でもこれくらいなら運べるから私行くよ。これだけお手伝いしてもらっただけで十分」
「んー、でもでも!僕が運びたいなって思ってるだけなんで。それでもダメっすか?」
「だ、ダメというわけでは」
「なら、僕が運びますね〜」
「あっ、まって、椎名くん!」

整えた書類を職員室に運ぼうとする彼女を緩く引き止める。また一人でやろうとしていたみたいだった。たしかに一人で運べない量ではないけど、女の子が運ぶには少々しんどい量ではあると思うんすよね。でも僕が運ぶと言っても当然遠慮されてしまうわけで。
……彼女は人がいいから、ダメ?って聞いて強く押すとダメだと言えないことを僕は知っている。本当にずるいけど、それを知ってて、僕は彼女に「ダメ?」って聞いてよくゴリ押ししてるんすよね。彼女もなんとなく強引に押されてるように感じてるようではあったけど、人からの厚意を無碍にできない人だから、やっぱりYESと頷くだけだった。

彼女をいいように使ったり、その優しさが当然のようだと思う人たちに憤っていた時もあったんすけど、最近はそういうことよりも彼女が頼られるおかげでこうして一緒にいられる時間が増えるから、感謝のほうが大きくて自己嫌悪に陥ってしまっていた。僕が助けるから、他の人は手を出さないでほしいとさえ思ってしまっているだなんて、大分ヤバいでしょ?結局のところ僕も、自分のことを一番に考えちゃってるんすよね。

綴じた書類を僕が持っていくと言っても、彼女は首を縦には振らず、二人で持っていくことになった。隣を歩く彼女にほんの少し視線を向けてみても、若干顔を下げているせいで垂れている絹糸みたいに艷やかな髪がゆらゆら揺れて、彼女の顔を隠してしまっている。よく笑っている彼女だけど、同じくらいこうして表情を隠してしまっていることも多いように思った。彼女が何を思っているのかよくわからない。ただこの時は、漠然と、窓から差し込む夕陽が彼女をほんのりと赤く染めているのが綺麗だと思った。

「椎名くんはいつも良くしてくれるし、私すぐ頼っちゃってだめだね」
「ダメじゃないっすよ。僕が頼ってって言ってるんですから、君は遠慮なく頼ってくれたらいいんすよ」
「そうかなぁ」
「はい!そうっす」

クスクスと控えめに笑うこの子のことを、たまらなく愛しいと感じるようになったのはいつからだっただろうか。僕にとっての一番は食べることだったはずなのに、ふとした時に彼女のことを考えるようになっていた。彼女が笑えば僕も嬉しくなって、彼女が無理をしていないかいつだって気になるようになっていた。

僕じゃ力不足かもしれないけど、だけど、誰かのために頑張るあの子が、ほんの少しでも頑張らなくていい場所になりたい。頼ってもいいんだって思えるような場所になりたい。……理不尽なことがたくさんある世の中だけど、人一倍誰かのために動こうとするあの子の世界は、優しくて幸せいっぱいであってほしい。
ただそれだけを、僕は神様に縋るように願ってしまうのだ。

title 秋桜
ALICE+