その時代に足を踏み入れた鶯丸はただただ懐かしい土地だ、と感じていた。
 夏の訪れを告げる風が爽やかに吹き、燦々と降り注ぐ太陽はじんわりと道行くふたりをあたためている。
 もう少し日が高くなれば、きっと子どもたちが走り回りはじめるのだろう。かつてここにあった当時の情景を思い起こしながら、鶯丸はこの道の先にある、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた古ぼけた神社に思いを馳せた。
 あの頃己があった場所、時代に再び足を運ぶようになるとは思ってもみなかった。そんな思いがふつふつと浮かんできて、鶯丸は何とは無しにこの遠征の同行者にちらりと目をやった。思えばこの刀とも長い付き合いだ。けれどもこの時代のことをこの刀に話したことはない。
 ともに遠征を命じられた鶴丸国永は、物珍しそうに村々を観察しながら歩みを進めていた。時折楽しげに話しかけてくる声を聞きながら、鶯丸は当時のあのうつくしいときを思い出している。




鶯音を入る






 季節は夏。みんみんと鳴く蝉の声のにぎやかさに思わず笑みを漏らしながら、鶯丸は神社の境内へと続く石階段に腰かけていた。
 周囲は木々に囲まれており、その木々の隙間からうっすらと木漏れ日が差し込んできらきらと辺りを照らしている。もう何年も鶯丸はこの土地にあるが、何年経とうとも、肉体を持たない付喪神であっても、この暑さに慣れることはない。木々が陽の光を遮ってくれ、なおかつ風通しの良いこの場所は暑い夏の日の唯一の癒しだった。

 ふと周囲を見渡せば、えっちらほっちら荷を運んだり汗を拭いながら畑を耕したりせわしなく働く領民たちの姿が見える。じめじめと暑い夏とは裏腹に、冬になればこの村は雪に囲まれて外の世界と遮断されてしまう。そんな困難な土地でありながら、それでも力強く生きるこの村の民のことを、鶯丸は愛おしく思っていた。
 そんなことを考えていると、石階段に座り込む鶯丸の隣を子どもたちが笑い声を上げながら駆け登っていく。階段に腰掛ける者の姿をまるで気にも留めない人の子の振る舞いに、鶯丸はひとりくすくすと笑い声を漏らした。

 ぽたりと汗の伝う心地がして、鶯丸はその首元を手のひらで拭う。いくら夏の真昼間とは言え、今日はいっとう暑い日で、じりじりと照りつけるような太陽が煌々と降り注いでいた。夏らしく薄物の着流し姿で出てきたものの、どうにも今日の暑さは桁違いのようだった。

「いやはや、さすがに堪えるな」

 思わずそう呟いて、そろそろ城に戻ろうか、と鶯丸は重い腰を上げた。ここで何もしていない己がくたびれているのも、必死に畑を耕す領民たちに悪いだろう。自らの姿が人に見て取れるものではないことを知り尽くしているにも関わらず、鶯丸はときどきそういう考え方をする。大包平に知られたら笑われてしまうかもしれない、といつものように兄弟とも言える刀に思いを馳せて一歩目を踏み出した、そんなときに事は起きた。

「お兄さん、とても暑そう。大丈夫?」
「……これはこれは。どうもありがとう」

 まるで鈴を鳴らすかのような、そんな声が聞こえて思わず振り向くと、ひとりの少女が小首を傾げてこちらを見つめている。鞠をぎゅっと胸に抱えたその少女は、少し迷ったそぶりを見せながら、その着物の袂から手ぬぐいを取り出すと鶯丸に差し出した。少しだけ面食らいつつも、鶯丸はにこりと笑みを浮かべ少女に礼を言うとその可愛らしい花柄の手ぬぐいを受け取った。
 齢は六つ、七つくらいだろうか。朱色に花を散らした着物姿は幼気だが、その生地の質を見るに良い生まれのように見えた。

「いやあ、助かった。ところできみ、俺が見えているんだな」
「どういうこと?」
「いや、なんでもないさ。ひとりで遊んでいるのか?」

 きょとん、とした表情を見せる少女に笑みを返しながら、鶯丸はそう取り繕った。幼子が見えざるものを見てしまうというのはよく聞く話だ。この子もきっとその類なのだろう。ならばそれを思い知らせてしまうのも、きっと良いことではない。そう考えて、鶯丸は再び石階段に腰掛けてその少女の返事を待つ。いろいろと理由付けをしてみたものの、鶯丸にとって人間と話すのは初めてのことで、そちらへの興味が勝ったと言う方が正しかった。

「兄様はお家の手伝いに出ていて今は遊べないの」
「そうか。兄がいるんだな」
「うん。だから私は鞠つきの練習」

 幼子らしい要領を得ない会話をしながら、少女は手に持っていた鞠をついて見せた。けれどもそれは決して上手とは言えないもので、鞠はあらぬ方向へころころと転がっていく。少女の手から離れた鞠を鶯丸が手を伸ばして取ってやると、少女は口を一文字に結んでむっとしているようだった。はは、と笑ってその頬に手をやり顔をほぐしてやれば途端に少女はしゅんとした表情を見せる。

「お兄さんは鞠つきできる?」
「俺か? うーん、そうだな……。よし、久しぶりにやってみようか」

 少女の頬にあてていた手でその頭を撫でてやりながらもう一方の手で鶯丸はぽんぽんと鞠を戯れさせる。そのようすを見て、少女は目をきらきらと輝かせた。かわいらしいその表情に顔がほころぶのを感じながらも、鶯丸はそのまま鞠をつき続ける。久しく鞠つきなどやっていなかったが案外体は覚えているものだなあ。そんなことを考えながら、ついていた鞠をそっとすくい上げて動作を終えた。

「お兄さんとっても上手ね! どうしたらそんなふうに鞠をつけるの?」

 少女はぱちぱちと覚束ない拍手をしながら、興奮しきった表情で鶯丸にそう問いかけた。少女の輝く笑顔に鶯丸も頬の緩む心地がする。

「うーん、どうしたらと言ってもなあ。こういうものは習うより慣れろ、かな。見ていてやるからやってみるといい」

 そら、と少女に鞠を返して、もう一度ついてみるようにうながした。よーし、と意気込んで少女が鞠を二、三度ついたところで畑に続く道の方から「おーい」と少女を呼ぶ声が聞こえた。その声におどろいた少女は鞠つきの手を止めてしまって、鞠は行く当てもなくころころと転がっていく。

「わ、兄様だ」
「家の手伝いとやらが終わったのでは?」
「うん、そうみたい!」

 うれしそうな表情を浮かべて鶯丸が拾っていた鞠を受け取ると、少女は今にも駆けださんとばかりに兄のほうをうかがっている。よほど仲のいい兄妹らしい。結んだ縁を大事にする、人間のこういうところを鶯丸は好ましいと思っていた。
 さて、俺も行くとするか、と少女を見送ろうとするべく立ち上がると、少女ははっと鶯丸のほうを振り返った。

「お兄さん、もう行っちゃうの? 兄様ともお話しましょう?」
「そうしたいのはやまやまだが、俺はきみの兄君とは話ができないかもしれないしなあ」
「ええ、そんなあ。鞠つき、教えてもらいたかったのに。お兄さん、明日もここに来る?」

 不安そうな表情を浮かべ、少女は鶯丸の袖を引く。思わずうなづいて了承すれば、少女は約束ね! と笑って見せた。

「わかった。明日も来るから、もうお行き」
「うん! お兄さん、また明日!」

 そう言って駆け出した少女にゆるゆると手を振りながら、鶯丸は珍しいこともあるものだ、とひとりごちる。付喪神という存在として生まれて、まさかこうして幼子と言葉を交わす日が来るなどとは思ってもみなかった。そんなことを思いながら、鶯丸は自らが置かれている城へと足を向けた。その横ではわあわあと声を上げながら、しかし鶯丸には気が付かないようすで子どもたちが駆けて抜けていく。

 夏の盛りを告げる蝉の音は、先刻と変わらず続いていた。












「わあ、ほんとうに来てくれたのね!」

 あくる日、神社へと続く石階段へゆるゆるとやってきた鶯丸の姿を見とめると、手持ち無沙汰に鞠を転がしていた少女がぱあ、と表情を明るくさせた。たったひとりで、来るともしれない自分のことを待っていたのだろうか。わかりやすく目を輝かせる少女に鶯丸は軽く笑みをこぼす。美術刀として作られ、当時も主の家で大切にされていた鶯丸にとってこうした明確な好意はうれしいものだった。

「ああ、約束しただろう?」
「ふふ、今日こそ上手な鞠つきのしかたを教えてもらわなきゃ!」
「そうだな。そら、やってみるといい」

 そう言ってうながすと、少女はよーし、と意気込んでぽん、と鞠を跳ねさせた。二、三度ちいさな手のひらと地面を行き来した鞠はしばらくすると均衡を崩して転がっていく。どうにも少女にはまだ鞠をつく拍子がつかみきれていないらしい。昨日の再現のようなその光景にくすくすと笑いをもらしながら鶯丸は少女の背後に回り、そのちいさな手に自らの手のひらを重ねて声をかけた。

「よし、もう一度やってみようか」
「う、うん」

 戸惑う少女の手のひらは、当然のことながら鶯丸のそれよりも一回りも二回りもちいさかった。鶯丸はそもそも刀であり、付喪神として形どっている姿も大人の男のそれである。人間の幼子の手は壊れそうなほどにちいさく感じられて、鶯丸はことさらに優しくその手を包み込んだ。
 そうして鶯丸はふわりと鞠を投げ込むと、少女の手とともにとらえて何度かついて見せる。鶯丸の突然の行動にその手はこわばっていて、彼にしては珍しく、失敗したかもしれない、などという思いが脳裏を横切った。しかし、最初こそこわばっていた少女の手は、そのうちに緊張もほぐれたようでとんとんと軽やかに拍子を刻むようになっていく。

「ほら、できたじゃないか」
「うん! こんなに続いたの、はじめてだわ」
「習うより慣れろと言っただろう? ……それじゃあ手を放すぞ」

 鶯丸の呼びかけに、少女はくちびるをキッと結んで頷いた。それを見た鶯丸はそっとその手のひらを放すとそのまま腕組みをして少女の背後から鞠を覗き込んだ。
 少女はと言えば、緊張した面持ちで先ほど鶯丸と共にやっていたように鞠をついている。いーち、にーい、さーん、と鞠をつく回数を数えていくうちに、少女の表情はだんだんと明るくなっていった。

「見て、お兄さん! ひとりでも出来たみたい!」
「……ああ、そうだな」

 そうして十を二回数えたころ、少女は跳ね上がってきた鞠を器用に抱えると、鶯丸を見上げてそう言った。花の咲くようなその表情に、鶯丸は胸に暖かなものを感じた。少女のちいさな額に汗ではりつく前髪をかき分けてやると、少女はくすぐったそうにふふふ、と笑っていた。












 季節はすっかり秋めき、冷たい風が吹き始めている。木々の葉は赤く色づき、風に合わせてひらひらと揺れてはその葉を落としていた。
 そんな風景をゆるりと見やりながら、鶯丸は何をするでもなくただぼうっと歩いていた。こういうとき、付喪神の毎日というのはほんの少しだけ退屈だと感じる。

 持ち主と言葉を交わすこともできず、また近ごろでは同じ刀剣の付喪神と触れ合うこともほとんどない。自分を見ることのできる人間がいることは確かだったが、自分と話をすることでその人間の、人間としてあるべき時間を奪ってしまうのはしのびないことだった。

 そんなことを考えながら鶯丸が目的もなくふらふら足を進めていると、視界の端にいつか見た人の子の姿が映る。あの夏の日、鞠つきを教えてくれと鶯丸にせがんだ少女だった。どれ、声をかけてみようか。そう思って足を進めたものの、少女の周りにいる子どもたちの姿を見つけて少し、ためらった。これでは先ほど考えていた通り、少女の人間としての縁に傷をつけてしまうかもしれない。そんなふうに思い至り、鶯丸は足早にその場を離れようとする。しかし、それよりも早く、その子どもたちは笑い声をあげながら走り去ってしまった。

「……やあ」

 そうしてひとり取り残されてしまった少女に鶯丸は声をかける。少女はと言えばいつか見たようにくちびるを一文字に結び、そして見たことのないさびしげな表情でそこに立っていた。

 その日から何を言うわけではなく、鶯丸と少女は毎日のように顔を合わせ、ひとつふたつと言葉を交わすようになっていた。
 いつだったか鞠あそびをした神社の石階段を登り、人のいない社務所の裏で並んで座り込むと、鶯丸は寒さをしのぐために羽織っていた濃い藍色をした羽織を少女の頭から被せてやった。少女はむずかるような声を上げていたが、秋の風は大人の体躯をした鶯丸にとっては心地の良いものでも身体のちいさな少女にはいささか冷たすぎる。鶯丸はその声に構うことなく、被せた羽織の上から少女の頭をぽんぽんと撫でた。

「お兄さんには兄様みたいな人はいるの?」

 その日は鶯丸も一度見かけた少女の兄がなかなか少女に構ってくれないだとか、それでも優しいところもあり、ときどきお八つ時を共にするときにはお菓子を分けてくれるだとか、そういう取り留めもないことを少女がつらつらと語っていた。少女はどこか物憂げな表情で膝を抱えて座っている。そのとなりで鶯丸はただ静かに相槌を打ちながら、ひらひらと舞う赤い葉を見つめていた。

「俺に兄弟がいるかということか?」
「うん、お兄さんの家族の話、聞いたことがなかったから」
「まあ、兄弟みたいなやつならいるな」
「そっかあ。お兄さんの兄弟はどんな人なの?」

 厳密に言えばそうではないのかもしれないが、鶯丸にとって兄弟と言えるのはかの旧友の存在だった。他の刀のことを気にして空回りする、あの旧友はいったい今どうしているのであろうか。彼はある家で鶯丸同様大切に扱われているらしいとも聞くが、鶯丸はもうずいぶんと長い間彼自身に会えてはいない。それでも便りがないのは元気でやっている証拠なのだろう。鶯丸は自身の生活を楽しみながら、ふとした瞬間に彼の大きな笑い声を思い出した。

「そうだなあ。毎日のように馬鹿みたいなことをしていて、とにかく見ていて飽きないやつだった」
「ふうん? 兄様とは違うのね」

 兄様はいつもお利口さんって父様にも母様にも褒められているもの、と少女は呟いた。その口調にものさびしげな心地がして、鶯丸はふむ、と口の中で呟いた。秋だからなあ。そんな言葉がふと思い浮かぶ。夏の盛りのにぎやかさを過ぎると、その風の冷たさや金木犀の香りに寂寥を覚えることがある。そしてそれは、どうにも人間になにかこみ上げるものを寄越すらしい。

「きみの兄君ほどしっかりはしていなかったかもしれない。けれどその一方で、いろんな柵を気にしがちでもあったかな」
「しがらみ?」
「きみにはまだ少し、むずかしいかもしれないが」

 もみじが一枚、ふわりふわりと落ちてきて、少女の黒髪にぽつんととまった。そのさまはまるで少女の、そして鶯丸の感傷を表しているようでもあった。鶯丸はその葉をつまんで取ってやるとそのままそれを少女の耳もとにかけてやる。その気配を感じたのか、さびしげに膝を抱えていた少女がぼんやりと鶯丸を見上げたのがわかった。

「今はその人と、一緒に暮らしているの?」
「いや、もうずいぶんと長く会ってはいない」
「お兄さんは兄弟と離れて、寂しくない?」
「あいつはあいつで元気でやっているだろうし、俺は俺で良くしてもらっているからなあ。寂しいと思ったことはないぞ。それに、きみとこうして毎日のように話をしているしな」

 鶯丸がつとめて明るくそう告げると、少女はどこかふんわりと柔らかく笑った。

「それじゃあ、これからもこうして遊んでくれる? 私もお兄さんとお話していたいもの」
「そうだな。そうしようか」

 少女の問いかけに快く了承して鶯丸は考える。楽しいながらも退屈な毎日を過ごす鶯丸としては願ってもない誘いだが、鶯丸とふたり、毎日こうして言葉を交わすだけの日々の先に何があるのだろう。
 人と付喪神という、本来なら交わることのないモノ同士が慰めあったところで、この少女のさびしさが晴れる日は訪れるのだろうか。
 そんなことを考えながら、鶯丸は自ずと口を開いていた。

「その代わりといっては何だが、俺と約束してくれないか」
「約束?」
「こう見えて俺は幾分忙しくてな。毎日きみと会うのは少々難しい。だからきみは、会えない日は他の友達と遊んで、そうしてその話を俺に聞かせてくれ」
「……」
「俺はきみの話を聞くのが好きだからな。きみがいろんな人と会って、その話を聞かせてくれるのが一番うれしいんだが……むずかしいだろうか」

 少女をうかがうように、意図的にそんな表情を作って鶯丸はそう問いかけた。少しだけ、ずるいことをしているという自覚はあった。けれど、そうして少女のため、と何かをしてやりたくなるくらいには少女に入れ込んでいることもまた、確かだった。

「……わかった。お兄さんのために、いろいろお話してあげるね」
「ああ、ありがとう」

 そう言うと少女は抱えていた膝に顔をうずめてしまう。きっとその中で、いろいろな思いがうずまいているのだろう。そうは思いつつも、鶯丸は何も言わず、ただ少女のそのつややかな黒髪をそっと撫で続けていた。 












 ほんのちっぽけな約束だったように思う。けれどあの約束をしてから数年の歳月が経過してからも、鶯丸と少女──今となっては立派な娘へと成長している──との逢瀬、とも言うべき時間は続いていた。

 雪深い土地である。冬場は雪のせいで他の藩との連絡すら取り辛いという状況で、当時の主が食糧の確保や疫病の流行に難儀していたことをよく覚えている。そんな土地だったから、隣に住む人とすら会うことがむずかしいという日も多くあった。しかしそうした人々の事情は鶯丸の意に介さぬもので、そんな日には、鶯丸は娘とのかつての約束も忘れてゆっくり言葉を交わす時間を持っていた。

 その日、鶯丸は娘が待つ屋敷へふらりと姿を現した。ここ数日、娘は屋敷を空けていたため、顔を合わせるのは久しぶりだった。

「やあ、久しいな」
「いらっしゃい、お兄さん」

 そうしていつものように微笑んで娘は鶯丸を出迎える。あの稚かった幼子は、うつくしい盛りの年齢を迎えていた。濡れ羽色の髪に雪国らしい透き通るような白い肌は、人を惹きつける、なんとも言い難い香りを放っている。

 ただ純粋に、きれいになったなあと思う。それこそ鶯丸はその長い生においてきれいなもの、うつくしいものなどたくさん見てきたが、この年頃の娘には何か独特のうつくしさがあると感じていた。

 あれから、少女は約束通り鶯丸に周囲の子どもたちの話を聞かせてくれるようになっていった。あのころ少女が周りから浮いてしまっていたのも、おそらく一過性のものだったのだろう。少女が少女なりに努力して子どもたちの輪の中に入っていくようになってからは、ずいぶんと早く周囲と打ち解けていったように思う。子どもたちに煙たがれ、泣きごとを言いに鶯丸のもとを訪れることがあっても、その翌日にはまた輪の中へ飛び込んでいった少女の姿は鶯丸だけでなく、周囲の子どもたちの胸をも打ったようだった。

「ここ数日姿が見えなかったが、どこかに行っていたのか?」
「うん、隣村にちょっとね」

 そんなことを話しながら、娘は火鉢に炭をくべている。娘が火箸で立てた炭はぼうっと音を立てて燃え始め、ほのかな暖かさを感じさせた。

「隣村? この雪のなかで? それは大変だったな」
「あちらの人が籠を出してくれたから、私はそう苦労していないわ」

 火鉢に炭をくべながら、娘は物憂げな表情を見せた。娘はぱちぱちとはぜる音のする火鉢の様子を確認しながら、外からやってきた鶯丸に火のあたる場所を勧めてきたが、その顔色がひどく落ち込んだように見えた。例えるならそう、まるで出会ったころぽつんと膝を抱えていたときのような。そんな懐かしい記憶が思い起こされる面差しに、何があったのだろうかと考える。考えながら、鶯丸には何とか思い浮かんだ言葉を口にすることはできなかった。

「お兄さんは」
「ん?」
「お兄さんは、出会ったころから変わらないね」

 ふと娘はそう口を開いた。炭などとうにくべ終えたと言うのに、火箸を動かす手を止めることはない。
 出会ったころから変わらない。きっと娘が言っているのはその気質ではなく姿のことだろう。付喪神である鶯丸は年をとることはなく、数年の月日が経過しても、髪型の一つも変わりはしない。人間ならばありえないことだ。

「……まあ、そうだろうな」
「ねえ、聞いてもいい?」
「……いや、やめておいてくれ」

 言外に鶯丸が何者なのかを問うているのだろう。それははっきりとわかったが、それを答えるにはもうずいぶんと時間が経ちすぎていた。
 人の手によって作られて、人の手によって使われる。鶯丸はどこまでも刀だった。刀の付喪神という存在をどれほどの人が受け入れるだろうか。同じ時を過ごし、少女のことを信頼してはいても、人ならざるものに対する人間の反応を悲しいほどよく知っている鶯丸にはその問いかけに答える勇気がどうしても出なかった。

「そうよね、何となくそう言われる気がしてた。……昨日はね、隣村の村長さんとその跡取りの方にお会いしてきたの」

 ちいさな声でそう呟くと、娘は手持ち無沙汰に触っていた火箸を置いてじっと火鉢のほうを見すえていた瞳を鶯丸に向ける。その瞳にきらりと光る熱が見て取れた。その熱は火鉢の火を写したものか、それとも別の意味を持つのだろうか。そんなことを考えながら、鶯丸はなんとなく、娘がその話をした真意を察した。

「……そうか」

 人が縁をつないでいく上で、きっとそれは欠かせないものなのだろう。刀剣である鶯丸には無縁のものだったがそれくらいは理解できた。理解できたからこそ何も言うことはできなかった。
 もし鶯丸が人間だったなら、それ以上の言葉を返すことができたのだろうか。美術刀として作られた鶯丸には、人の思いを受け取ることはできても返すことはできなかった。しかし、もし思いを返せる立場だったとしても、きっと、鶯丸は何も言わなかっただろう。

 彼のほうにも刻々と時間が迫っていた。












 寒さの極まる冬が過ぎ、鶯が鳴き始めたころのこと。その日、鶯丸はこれまでと同じように娘のところへ向かっていた。
 歩きなれた道を、歩きなれた速度で歩いていく。ただひとつこれまでと異なることがあるとすれば、普段の着流し一枚という簡素な姿が羽織袴をきっちり着込んだものになっていたことくらいだろう。
 勝手知ったるようすで娘の住まう屋敷の門扉をくぐり、奥の間へと進んでいく。道中彼女の兄らしき者とすれ違ったが、鶯丸が見とめられることは終ぞなかった。

「あら、いらっしゃい」
「ああ、おはよう」

 鶯丸が娘のいる奥の間へ足を踏み入れると、娘はその縁側に座り込み、何か書物に目を通している。
 そうして鶯丸の来訪に気がつくと、近ごろくもりがちだった表情がめずらしく、ぽかんとあどけない面差しを見せた。

「なんというか……。めずらしい恰好をしているのね」
「まあそうせねばならん事情があってな」
「でも似合っているわ」

 そう言うと娘は目を細めて笑う。まるで幸せが溢れるような、娘のそんな表情を、昔から鶯丸はいっとう好んでいた。

「今日はどうしたのかしら」
「なに、きみに少し言っておきたいことがあるんだ」

 鶯丸がそう言うと、娘は開いていた書物を閉じて鶯丸に向き直ろうとする。鶯丸はそれを片手で制して娘の隣に腰かけた。
 ふたり縁側に並んで、庭に咲き始めた梅を眺める。思えばこの数年、こうしてこの娘と季節を楽しんできた。出会いの夏から巡り巡って今日の春の日を迎えたことが、なぜだか昔から決まっていたような気がして、つんと鼻の奥を刺す痛みに気がつかないふりをした。

「きみにはこれまでずいぶん世話になった」
「あら、それは私の台詞よ。鞠のつき方も教えてもらったし、きっとお兄さんがいなきゃ私は今でも友達のひとりも作れやしなかったわ」
「それはきみが努力したからできたことだろう」

 娘のその言葉に鶯丸はひどく懐かしさを感じた。たった数年前のことである。刀である鶯丸にとっては矢が飛んでいくようにはやい年月であるはずなのに、この数年間はまばゆくて、まるで色とりどりの花が咲いたように満ち足りていた。

「あの約束を覚えているか?」
「……ええ。もちろん」
「……すまないがあの約束、もう守れそうにない」

 鶯丸がそう切り出すと、娘はたった一言「そう」とだけつぶやいた。その目は鶯丸のほうを見ず、ただひたすら芽吹きはじめた梅の花を見据えている。暖かな春の空気が二人を包む。鶯丸もどこか娘の表情をうかがうことができなくて、その花をじっと見つめていた。

「行ってしまうのね」
「ああ」
「私が思っていることに気が付いていたんでしょう、ひどいひと」
「なに、きみも例の奴のところへ行ってしまうのだろう。お互い様さ」

 そう言って鶯丸は笑った。自分でも下手な表情をしていることには気づいていたが、そうでもしないとやり切れない思いだった。
 鶯丸は人間にはなれないし、娘も刀にはなれはしない。刀である自分は、愛を受け取ることはできてもそれを返すことができはしない。それが、こんなにももどかしいことだとはこれまで思ってもみないことだった。

 やるせない思いを抱えながら鶯丸が立ち上がると、隣に座る娘から「ねえ」と声がかかる。思わずそちらを向けばいつぞやのようにさびしげな表情をした娘と目があった。
 まさか俺がこの子にこんな表情をさせる日がくるなんて。鶯丸はそっとそう心の中でつぶやいた。思えば娘のそんな表情を見たくなくて、今までこうして時を重ねて来たのだろう。

「ねえ、名前も教えてくれないの?」
「名前、か……」

 どう答えようか、少し悩んだ鶯丸の視界の端に、自分の由来となった小鳥が写る。本来の名を名乗っても良いが、この別れを悲しみで終わらせることは本意ではない。そう考えたときに、この鳥の別名を思い出して、鶯丸はにやりと笑った。少々気障かもしれないが、別れのときにはこれくらいがちょうどいい。

「……そうだな、春告鳥とでも名乗っておこうか」

 雪深い土地で暮らしていくきみのこれからが、暖かなものとなるように。
 俺はこの名を持ってして、きみに春をもたらそう。

 そんな真意を知ってか知らずか、少女はくすくすと声をあげて笑っていた。












 あれから何百年かが過ぎ、鶯丸はかつてとは異なり肉体を持って本丸、と呼ばれる場所に存在していた。
 歴史を変えようとする輩と戦うべく、審神者なる者に呼ばれた鶯丸は付喪神としてと言うよりも刀剣男士として日々刀を振るっている。
 そんな毎日を送っていたさなか、審神者からある時代への遠征の任を命じられたのは鶯丸が刀剣男士として顕現してから一年ほど経ったころのことだった。

「……少し寄り道をしてもいいだろうか」
「そういやこのへんはきみが昔暮らしていた場所だったか。もちろん構わないさ」

 審神者に命じられた遠征任務とは、歴史改変の有無を調査することだった。
 これまで行ったことのない土地で歴史改変が行われていないかをその時代を知るものの力を借りて調査する、というのが審神者たちを管理する政府から下った命令らしく、それにならって鶯丸は同じ本丸に顕現していた鶴丸国永とともに、かつていた土地への調査を任じられていた。

「ありがとう」

 そう言うと鶯丸は家々の立ち並ぶ村を通り抜け、ざくざくと音を立てるように進んでいく。その後ろをゆるゆると歩きながら、鶴丸国永はめずらしいこともあるもんだ、と考えていた。
 遠征に行くときには、刀剣男士たちは審神者に術をかけられ、一般人からはその姿が認識できなくなる。そのためどれだけ音を立てようとも見咎められることはないにしろ、鶯丸がそんなふうに振る舞うところを、鶴丸国永は見たことがなかった。鶯丸とは長い付き合いだったが、鶴丸国永にとっての鶯丸はいつもおだやかに笑って茶を飲んでいる、そんな刀剣だった。

 そうして歩いていくうちに、鶯丸たちは山のふもとにある神社へと近づいていく。そこでは人々が集まり楽しげに言葉を交わしていた。

「おや、めでたい。婚礼でも行われているのか」

 その人々が常着ではなく晴れ着を着ていることから、鶴丸はそう呟いた。この時代、これほどまでに盛大な婚儀が行われるというのだから、村のなかでもそれなりの地位にいる家同士の婚礼なのだろう。そう思ってこの土地を良く知る隣の男へ問いかけようと鶯丸を見やった。そして鶴丸はおや、と思う。
 なるほど、今日は本当にめずらしいこと尽くしだな。鶴丸国永は口の中でそっとそう呟いた。鶯丸が何か言いたげに、けれどそれを言葉にできないようすで迷うような表情をする。この刀のそんな姿を見たのははじめてだった。

 そうこうしているうちに、神社のほうから白無垢姿の女性と紋付羽織袴姿の男性が出てくるのが目に入った。彼女らがこの婚礼の主役らしく、人々から祝いの言葉をかけられている。それを笑顔で受け取る女性は晴れの日を迎えた花嫁らしく、ひどくうつくしかった。
 ふと、その女性の目線がこちらへと向けられる。神職でもないであろうこの女性に己の姿が見えるはずもない、と鶴丸は構わずその女性を観察していた。微笑をたたえた女性はやはりうつくしかったが同時にどこかさびしげなようにも見える。生家を出ることになるのだから仕方のないことかもしれない、と思いつつ鶴丸が観察を続けていると、何かを見つけたように女性の目が見開かれたのが見えた。

 いったい何を見つけたのだろう。そんなことを考える間もなく、次の瞬間、どこからともなく強い風が吹いた。神社の周りに生い茂る木々が揺れ、神社を覆い隠してしまう。そうなってしまっては、鶴丸と鶯丸の立つ場所からからはもう神社のほうを見ることはできなかった。

「……行こうか」

 隣に立つ鶯丸がぎゅ、と目を閉じほんの一瞬何か思いを巡らす表情をして、それからほんの少しだけ笑って、そう呟いた。そうして鶯丸はそのまま踵を返していく。それを追いかけながら鶴丸は考える。先ほどの女性のこと、今日ここにともにやってきた友のこと。考えながら鶴丸は、先を歩く鶯丸に追いつきそうで追いつかないような、そんな速度で歩き続けている。



 それは、鶯のさえずりが聞こえなくなる季節のことだった。


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