長く続いて行く逃亡生活。幼な子二人を連れて身を隠す日々は少しずつ、私たちを蝕んでいた。
その日の私たちはもう疲れ切っていて、宿泊先の寂れたホテルに着く頃にはもう頭が全く回らないほどだった。美々子と菜々子を寝かしつけ、傑と二人、ホテルのベットに横になる。ちいさな子どもたちの寝息に眠気を誘われて、思わず欠伸を噛み殺したそのとき傑が言った。『そうだ、家を借りよう』と。
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翌日、妙なところで行動力を発揮する傑が孔時雨なる人物に声をかけて、保証人のいらない不動産屋を紹介してもらった。美々子と菜々子を信頼できる伝手に預け、寂れたビルが立ち並ぶ一角にあるその店を訪れる。孔から事情を聞いていたらしい如何にも怪しげな不動産屋の男が、まずはじめに案内したのがこの二階建ての一軒家だった。
「築四十年、少しばかり古いですが戸建ての三LDKで家賃は三万。いかがですか?」
胡散臭い笑みを浮かべた不動産屋はそう告げると、前方にある、ある一つの家を指し示した。
不動産屋の指の先、ほんの数メートルほど離れた一角にある、寄棟造りの木造住宅。どんな街にでもある、ありふれた印象の一軒家のまわりを、オレンジ色の小さな花を咲かせた生垣がぐるりと囲っている。
す、と目を細めてその家を観察していた傑が、口元に笑みを携えてそっと問いかけた。
「立派な家ですが、なぜこんなに安いんですか?」
「いやあ、実は“出る”んですよね。いわゆる事故物件ってやつです」
まァおたくらみたいな訳アリにはちょうどいいでしょう? なんて言葉を続けながら、不動産屋はその家の門扉の鍵を開ける。甘い香りのする生垣の横を通り、その家の敷地に一歩足を踏み入れたところでその事故物件のタネも仕掛けもすぐに理解した。なんならこの家に近づいたその瞬間から気づいてはいたけれど
――――、などと考えながら、傑のほうに視線を向ける。すると同じくこちらを見ていた彼と目があって、ほとんど同じタイミングで頷きあった。
不動産屋の案内で、その家のなかをじっくり見て回る。築年数が経っているため少々古いものの、洗面所や風呂といった水回りにはリフォームをいれているらしく使い勝手は悪くないように思えた。なんならいつ建てられたのか想像もつかないくらいの高専の寮の設備のほうがよっぽど古かったくらいだ。
「いいね、ここ。部屋数も多いし、あの二人の部屋も用意できそう」
「ああ。軌道に乗るまではできるだけ節約したいしね」
こっそりと傑にそう囁けば、彼も同じことを考えていたと言わんばかりの調子で頷いた。
ここにします、と傑が告げると、不動産屋はにんまり笑って契約について話し始めた。その辺りのことは傑に任せることにして、私はもう一度じっくりと建物内を物色する。
一階の突き当たり、LDKの部屋の一番奥にキッチンがあった。洗面所と同様にリフォームされているらしく、人工大理石の白が輝いて見える。建物の古さと比べてどこかちぐなぐな印象を与えるキッチンに立って、これからは私が料理を作ってくんだろうか、なんてくだらないことを考えた。
傑はそのきっちり何でもこなしそうな見た目に反して家事の類いはてんで駄目だ。料理なんかも作れないわけではないけれど、どこか粗っぽい、いわゆる男飯、といった調子で、はじめて食べたときにはとてもびっくりしたことを覚えている。そういえば、意外にも五条なんかは家事が得意で繊細な料理をしていたな、なんてことをついでに思い出した。あのときは硝子とそのギャップに笑ったっけ。
つい数ヶ月前の出来事が、今となっては遠い過去の記憶のように思えてしまう。少しだけ感傷に浸っていると、不動産屋と話し終えたらしい傑がゆっくりとこちらに向かってきていることに気がついた。
「終わったよ」
「あれ、あの人は?」
「鍵を渡して帰って行った」
「へえ、家なんか借りたことないからわからないけどそんなにすぐ住めるものなんだ?」
「さあ。けどまあ、“訳アリ”専門で家を貸してるらしいからね。こういうものなんだろう」
ふうん、と相槌を打って、私は真っ正面から傑のその整った顔を見据える。ほんの数日前までは翳りを見せていたそのかんばせも、今ではいくらか調子を取り戻したようにも見えて、少しほっとした。今までは固く結ばれていたその長髪がゆったりと下ろされているさまは未だに見慣れないけれど、きっとこの先すぐに馴染んでいくのだろう。
「とりあえず、二階に行ってみる?」
「……そうだな」
傑は頷くと、LDKを出て階段を上る。二階には八畳の洋室と四畳半の小さな和室が隣り合って並んでいる。傑は迷うことなく和室に続く扉を開けて、緩慢な動作で一歩足を踏み入れた。彼の入った後ろから、そっと部屋の様子を覗き見る。
あ、押し入れの中か、と心の中で呟くと同時に、傑がその押し入れの襖を開いた。ぎょろっとした一つの目玉と目が合って、けれどその目玉が何かをする前に、傑が伸ばした手のひらに吸い込まれてしまう。
「三級?」
「ぐらいだろうね」
手のひらの上にある呪いの塊をひどく冷たい目で見据えながら、傑は大きく口を開ける。もう幾度となく見てきたその行為だけれど、どれだけ回数を重ねようと慣れることはできなくて、いつも目を逸らしてしまう。どこか神聖な、静謐を湛えるような佇まいをした彼が、人々の負の感情を丸飲みするさまはなんだかとても目に毒で、背徳感すら感じさせた。
「ここ、人でも死んでるのかな」
「そんな感じがするな。この部屋事体が呪霊の撒き餌みたいだ。……住むの、嫌になった?」
「ううん、あんまりなんにも思わないや。傑にとっては都合が良いんじゃない?」
この狭い和室にはたった今傑が飲み込んだモノ以外にも、複数の呪霊の残穢が残っている。なんの変哲もないただの住宅にこれだけ呪霊が集まるとは考えにくいので、きっとこの部屋で何かが起きて、それがきっかけで呪いが吹き溜まり始めたのだろう。それが事故物件の正体だ。
古い新聞でも調べてみれば昔この場所でなにが起こったのかはわかるかもしれないな、と考えながら、傑の言葉に相槌を打った。彼の呪霊操術は使役できる呪霊を増やすこと自体がアドバンテージとなる。そういう意味ではある種効率的に呪霊を集めることのできるこの家は私たちにぴったりの物件だ。
「まあ、そうだね。君が気にしないならよかったよ」
「正体もわかりきってるしね。けど、あの子たちは嫌がるかな?」
「一階の部屋を使ってもらうようにしようか」
和室を出て、階段を下りながらぽつりぽつりとそんなことを打ち合わせる。高専と袂を分かつことになってからたった数日後の出来事だった。
なんだか来るところまで来てしまったな。前を歩く傑の大きな背中を見ながらそんなことを考えた。かつての私であれば曰く付きの部屋を嫌だと突っぱねていたかもしれないけれど、両親をも殺めた今、そんなことを言い出すのは滑稽な話だろう。
「碧、」
「どうしたの?」
一階に降り立ち、玄関に向けて数歩進んだところで傑が不意に足を止める。
ゆっくりとこちらを振り向いて、傑はやさしく私の手をとった。彼の武骨な指が私の左手を拾い上げ、そのままひとつ、口づけを落とす。薬指に落とされたやわらかい感触。愛の誓いを思わせるその行為に少しだけ驚いて、けれどそれを彼に気取られないようにじっと彼の顔を見つめると、彼の切れ長の瞳と目があった。少しだけ寂しげな、そんな色を宿している。
「傑」
「ん?」
「大丈夫だよ」
その瞳に映る寂寥が彼をどこかに連れ去ってしまうような、そんな錯覚を覚えて、私はまるで自らに言い聞かせるようにそんな言葉を呟いた。それを聞いた傑は、わずかに目を見開いて、それから硬くこわばっていた表情をゆっくりと解いていく。
「大丈夫」
同じ言葉を繰り返し、彼の涼しげな面差しをそっと見据える。傑は逡巡するかのような速度でまばたきをして、それからフッと、力なく微笑んだ。
傑の大きな身体越しに見える、玄関のガラス戸には生垣のオレンジの花がぼんやりと映し出されている。その花の存在を思い出して、私はただ、怖い、と思う。
九月の終わり、生垣に植えられた金木犀の花が甘い芳香を漂わせる季節のことだった。