声が揺れている

 呪術師の仕事は、いつだって汚れが付きものだ。
 人の負の感情を祓うこの仕事は、肉体的にも精神的にも厳しく、汚いもので、ひと仕事終えたころには泥や汗に塗れてしまう。
 オマエの要領が悪いんじゃねえの、なんて失礼なことを言い放った五条を小突いたのは、いつのことだっただろう。きっちりその脇腹に拳をヒットさせた覚えがあるから春先だったかな、なんて当たりをつける。
 今となっては懐かしい思い出だ。本日宿泊する旅館の温泉で汗と汚れを流し、部屋に戻る道すがら、そんなことを考えた。

「おかえり、良いお湯だった?」
「うん。ただいま、傑」

 部屋の戸を開けると、私と同じ、旅館に備え付けられた浴衣を着た男がこちらを向いた。座卓の前で胡座をかき、退屈そうな手つきでテレビのリモコンをいじっている。
 私は彼の隣の座布団に腰をかけると、座卓の上の盆に乗った饅頭に手を伸ばした。
 
「旅館の部屋に置いてあるお菓子ってなんでこんなにおいしいんだろ」
「希少性じゃないか。ふだん饅頭なんてなかなか食べないし」

 茶色の温泉饅頭を包む薄いフィルムを剥がしながら呟いた言葉に、彼――――夏油傑がリモコンを操作しながら夢も希望もない相槌を打った。
 地方の寂れた旅館で視聴できる番組は限られている。古いドラマの再放送と、東京ではあまり見ることのないタレントがはしゃいでいるバラエティ、それにローカルのニュース番組なんかを慌ただしくザッピングしながら、傑はぼうっと何かを考え込んでいた。

「そう? お土産の定番だから、割と食べてる方だと思うけど。灰原とかよく買ってきてくれたじゃん」
「でも自分から買ったりしないだろ」
「まあね。ところで何見てるの?」
「ローカルニュース」
「へえ。おもしろい?」
「別に。ちょっと懐かしい気もするけどね」

 先ほどまで忙しなく切り替わっていたテレビ画面は、今は一つの番組を流し始めていた。明るい表情をした地方局のアナウンサーが今日の天気を快活に伝えている。私にとって馴染みのないこのアナウンサーも、彼にとっては昔からよく知る人なのかもしれない。

「……無断外泊しちゃった」

 そう呟いて、彼の横顔を見る。風呂上がりの少し水分を含んだ髪が、傑の整った面差しに影を落としていた。彼はおもむろに顔にかかった前髪をその手でかき上げる。なんとも色気のある仕草に少しだけ胸が高鳴って、それがとてもおかしく思えた。
 傑は何も言わず、ただじっとテレビ画面を見つめていた。ローカルニュースは天気予報を流し終え、今度は地域のトピックスを放送し始めている。なんでも最近できた結婚式場の特集のようだった。
 古びた旅館のブラウン管テレビの中で、きわめて幸せそうな花嫁が微笑んでいる。その光景を見て、あることを思い出した。

「そういえばさ、」
「うん」
「小さいとき、結婚式場の近くに住んでたんだよね」

 今日の傑はどうにも口数が少なかったけれど、それでも今度はこちらに顔を向けてくれた。こんなときですら、彼は他人のことばかり優先する。

「田舎だしのんびりしたところだったから、こっそり覗きに行ったりなんかしてね。花嫁さんも近所のお姉ちゃんとか、そういう知ってる人ばっかりで」
「うん」
「よく知ってる人なのにウエディングドレスを着るだけで、とびっきりきれいに見えるんだよ。あれ、どういう現象なんだろうね」
「……君も着てみたい? ウエディングドレス」

 彼の手が私の髪に触れ、顔に垂れた髪を耳にかけた。そのままその大きな手が私の頬を包み込む。いつだって自信に満ち溢れていた、そう見えていたこの男が、こんなにも寂しげな表情をするなんて、いったい誰が信じるのだろう。
 きっとあの五条悟ですら知らないその真実を独り占め出来ることに奇妙な優越感を覚えて、私はこっそりと笑った。

「うーん、どうだろう。人並みに憧れはあるかな」

 彼の問いかけに答えながら、私はあることを思い出した。あれは、二年生に上がってしばらくしたころだった。



 とある任務で赴いた古びた教会。ひっそりと信仰されていた宗教の、迫害された信徒の怨恨が呪いとして渦巻いていたその場所に、私はこの男と二人で佇んでいた。
 がらんどうの教会には朽ち果てた祭壇と椅子のみが埃を被って鎮座している。その奥にいたものを、彼が操る呪霊が瞬く間に噛み砕いて、手に取り、飲み込むさまを私はじっと見つめていた。
 かみさまのような男だと思った。はめ殺しの窓から差し込む光が後光のように見えて、私はあわてて目を擦る。

『あれ、どうかした?』
『いや、目にごみが入ったみたいで』
『擦ったら駄目だよ。腫れたら大変だろう』

 そう言って、涼しげな目元をそっと細め、彼はふんわりと笑った。おだやかで、優しい人。その瞳と目が合った瞬間、たまらない気持ちになって、私はそっと目を逸らした。

『……夏油は、優しいね』
『そう? 硝子には悟とまとめてクズ呼ばわりされてるけど』
『あー。いや、まあ、硝子がそう言ってる意味もわかるよ』

 誰よりも優しい人だと思うけれど、彼の性質すべてが優しさだけでできているわけではないことは、私もよくわかっている。決して清廉潔白な人じゃない。こうと決めたら例え悪事であろうとやり遂げてしまう、そういう意志の強さを、頑固さを、彼は兼ね備えている。
 五条との喧嘩がヒートアップして高専のアラートを鳴らしたり、はたまた気に食わない呪詛師をにこやかに煽ったり、同級生として一年も一緒にいれば、そんな姿を見るのは日常茶飯事だった。

『悪ふざけがすぎるな、って思うときももちろんあるけどさ。絶対に夏油は助けてくれるから』

 この日だってそうだ。一級呪霊の討伐任務。当時すでに一級術師まで上り詰めていた彼と、ようやく二級に昇級したばかりの私が組まされたのは、おそらく私の経験値を上げるためだろう。
 夏油傑なら、あるいは五条悟なら、難なく祓い切ったであろうその呪霊を討ち漏らし、反撃を食らいそうになった私を、彼は何も言わずに助けてくれた。

『今日君と来たのが悟だったとしても助けたと思うよ』
『あいつは助けたあとにこれ見よがしに何か言ってくるじゃん。まあ私が弱いのが悪いんだけど』
『君が特別弱いわけじゃないだろ。ただ討伐対象とのレベルが噛み合ってなかっただけで』
『ほら、慰めてくれるでしょ』

 やっぱり、優しい。そう続けて彼のそのやわらかい眼差しを見据える。

『私が気落ちしないように、気遣ってくれてる。そういうとこ、尊敬してるんだよ』

 そう告げると、彼は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。いつだって余裕に満ち溢れたこの男にしては珍しい表情だった。

『はは、ありがとう。君に好かれたくてやってたから、そう言ってもらえると嬉しいよ』

 そう言って、彼が破顔する。きわめて楽しそうなその笑みを見て、どき、と胸が高鳴った。そこから一拍遅れて彼の言葉の意味を理解する。
 この男、いま、なんて言った?

『は?』
『君の術式なら攻撃されてもカウンターで呪霊を祓えることも知ってるし。助けたのは私のエゴだよ』
『あの、夏油?』
『君が好きなんだ。だから危険な目にあってほしくない』

 つらつらとそんなことを告げる彼の目はまっすぐ私を射抜いている。彼の瞳が熱を持ち、どろりと溶けるように弧を描いた。

『私に君の人生を預けてよ』

 それは確かに愛の告白だった。まるでプロポーズにも聞こえる、あまりにもロマンチックなその言葉。その意味を理解した瞬間、びっくりしてぽかんと口を開けてしまったことを今でもよく覚えている。
 ああ、このときはどう返事したんだっけ? そんなことを考えて、あまりの衝撃に意味のわかる言葉なんて返せなかったという、朧げな記憶を思い出した。



 今になって思い返してみれば、二人で任務に当たったのはあのときのたった一度きり。彼と私が組めば、私が何かをする間も無く彼がすべてを祓ってしまうことを、夜蛾先生に見抜かれていたのかもしれない。

「ねえ、傑。私の人生をあげるから、傑の人生を私にちょうだい」

 物言いたげな、けれども一切を口にしない彼のかんばせを見る。とてもきれいな、この世の穢れなど何も知らないような、そんな清廉なつくりをしている。
 これまでの私なら、きっとそう表現するべきは五条のほうだと思っただろうけど、今は違う。この男こそ、そう称されるに相応わしいと、ほとんど直感的に感じていた。
 世界の不条理すべてを背負ってしまう、潔癖な魂。自分がそうと決めたからには、呪力を持たない両親すら手にかけてしまう廉潔な彼の心が愛おしくて、そっとその右手を握る。

「傑。これから、どうしようか」

 短く切り揃えられた爪に触れ、そのまま武骨な指をなぞっていく。そっと呟いた言葉は彼に拾われることのないまま地に堕ちていった。

「ねえ、傑」
「……君は戻ったほうがいい。今ならまだ間に合う」
「間に合うと思う? ほんとうに?」

 彼が罪を犯した現場の調査に駆り出された私は、同行していた補助監督に彼の残穢を発見したことだけを伝えてそのまま行方をくらませた。この行動が高専側にどう判断されるか、わからない男ではないはずだ。

「何で着いてきたんだ」
「そんなの決まってるでしょう」

 彼の切れ長の瞳をじっと見つめる。もうずいぶんと痩せてしまったその顔を、目に焼き付けるようにただ見据えていた。世界じゅうのどんな聖人よりも清くうつくしいこの人が、心を痛めて窶してしまったこの瞬間をずっと覚えていよう。そんなことを思った。

「傑のことが好きだからだよ」
「君は馬鹿だな、本当に」

 彼はそう言うと、私に触れられていない、空いた方の手で顔を覆う。男らしい、大きな手。この手のひらが弱きものを助けるところを、もう何度見てきただろう。彼の手のひらは最後にあの女の子たちを拾いあげて、そしてこれまでの役目を終えた。
 きっとこの手のひらは、これから彼の望むものだけを守り、助けていくのだろう。それでいい。彼が守りたいものこそが、ただそれだけが、この世の大義に違いないのだから。

「……ウエディングドレスすら、着せてあげられないよ」
「いいの。傑の隣にいられたら、それで」

 私の言葉を聞いて、彼はくしゃりとその顔を歪めるように笑った。

「私が良くないんだ」

 そう告げると、彼は私の手を握り、自らのほうへと引き寄せた。重力に従うように、私の体は彼の胸へと吸い寄せられる。浴衣の薄い布越しの厚い胸板から、とくとくと響く心臓の音が聞こえていた。
 あたたかな、いのちの音。それを聞いているとたまらなくなって、私は彼の広い背中にそっと手を回した。彼もそれに応えるように、私をぎゅっと抱きしめる。

「迎えに行こうか、あの子たちを」
「……そうだね」

 ここへ来る道すがら、私の両親のもとへと預けてきた二人の女の子のことを考える。集落の人間を皆殺しにした傑にやっとのことで追いついたとき、彼の両手には小さないのちが握られていた。
 あの子たちを迎えに行って、両親にお礼を言って、それから。
 悪い人たちじゃなかった。むしろ、幼いころから見えないものに怯える私を害することなく育んでくれた、愛情深い人たちだった。
 お父さん、お母さん、ごめん。これからやることを、優しいあなたたちに見せることはできないの。
 彼の腕の中で、そんなことを考えていた。

 いつのまにかニュース番組は終わり、ブラウン管テレビは古い映画の再放送を流していた。薄暗い、年代物の荒い映像の上部に、ふと不釣り合いな白い文字が踊る。つい先ほどまでお邪魔していた彼の実家の地名と、二人の人間の死亡報告。

 それはまるで、彼の決意の不器用なうつくしさを象徴するような、そんなワンシーンだった。

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