愛ばかり縋るの

 一回、二回、三回。
 どうにか三度攻撃をいなしたその後で、持っていた呪具を弾き飛ばされた。目の前に立つ呪霊はケタケタと笑うように身体を震わせて、私に襲いかかってくる。一級呪霊。格上の相手。何だか最近こんなのばっかりだな、と愚痴りたくなってしまうのも許して欲しい。
 まず足をやられて、倒れ込んだ私の上に呪霊が覆い被さった。見ようによってはずいぶん倒錯的な光景だ。相手が呪霊っていうのがいただけないけど、なんて現実逃避をしながら、回避策を模索する。
 呪具でいなした三回分と、右足に食らった一回分、計四回のダメージの蓄積。うーん、一級呪霊を祓うには足りないかも、と心の中で呟いて、それでもぎゅっと拳を握った。
 攻撃を受けた数だけダメージを溜め込んで、放出する。それが私の術式だ。ふだんは呪具を使って放つ呪力の底上げをするけれど、今この状況においては渾身のカウンターパンチで乗り切るしかない。
 あーあ、なんでこんな外れくじみたいな術式を持って生まれたんだろ。自分の能力の不便さを嘆きつつも目前に迫る呪霊の顔にパンチをお見舞いしようとしたそのとき、呪霊の頭部がごっそり消えた。えっ、消えた?

「何をやってるんだ、君は」

 そんな台詞と、今までこの場にいなかったはずの見知らぬ呪霊が同時に現れる。本日初登場のその呪霊が私の上にいた一級呪霊の頭をごりごりと咀嚼する横で、声の主は呆れたようすで佇んでいた。

「夏油! 助かったよ、ありがとう」
「そんなにボロボロになって。ほら、立てる?」

 本日の任務に共に駆り出されたうちの一人――――夏油傑が森の奥からこちらに近づいてきて、片手を差し伸べた。
 どうやら自分が追っていた呪霊の祓除を終え、助太刀に来てくれたらしい。ありがたい。そんなことを考えながら、その手を借りて立ち上がろうとしたところで、ズキッというなんとも嫌な痛みが右足に走った。
 やばい。直感的にそう思って、私はその足を庇うように尻餅をつく。

「折れてるね」
「わー、やっぱり? 嫌な音したんだよなあ」

 座り込んだ私の横にさっとしゃがんで夏油が足の具合を検分する。私はと言えば、今更になって足の痛みを強く感じ始めて大きくため息をついた。
 きっとさっきまではアドレナリンかなんかが出て、痛みを感じにくくさせていたんだろう。で、異様に強いこの同期の男が現れたから安心して痛みを訴え出したわけだ。
 何とも単純な自分の身体に呆れながら、そっと目の前の男に声をかける。

「ごめん、夏油。硝子連れてきてくれない?」
「それより先に応急処置をしないと」

 彼はそう呟いて立ち上がると、近くに落ちていた木の枝から添え木になりそうなものを拾い上げた。
 幸運なことに、今日の任務は硝子と、ついでに言えば五条も一緒だった。一年のころは度々あったものの、高専の同期四人が揃い踏みを果たしたのはいったいいつぶりだっただろう。
 今はもう廃村になった山奥の村に巣食う呪霊の祓除。それが本日の任務だった。事前の報告では、数こそ多いものの呪霊の等級は高くて二級。すでに特級という特異なステージに手が届きそうな五条や夏油、それに貴重な反転術式の使い手の硝子まで連れてくる必要があるのかと訝しみながらここまでやって来たけれど、現地についた瞬間、その理由を理解した。

「……たかだか二級呪霊の祓徐に私たちはともかく硝子まで付いてくるのは変だなあって思ってたけれど、こういうことだったんだね」

 能力を低く擬態する、特殊な術式。加えて複数の分身を村じゅうに展開していたその呪霊を退治するのはそれはもうあらゆる意味で骨の折れる作業だった。事前情報で聞いていた以上の能力を持つ呪霊の登場には驚いたけれど、おそらく高専側はこのことを把握して硝子を随伴させたのだろう。
 高専上層部と補助監督と呪術師との間を情報が行き来する間に内容が変遷してしまう、そんな情報の行き違いはままある話だ。

「一級呪霊が二級呪霊の皮を被ってるなんてなかなか見れるものじゃないから、私は興味深かったよ」

 頑丈そうな木の枝二本を片手に携えてこちらに戻ってきた夏油は、そんな言葉を口にしながら空いているほうの手を「ん、」と差し伸べた。彼の求めているものがすぐに思い当たって、私はスカートに忍ばせていた大判のハンカチを夏油に渡す。手を拭いたり、汗を拭ったりするだけではなく、怪我の手当てにも活用できる白い大きなハンカチは怪我の絶えない術式を行使する私にとっては必需品で、同級生である彼も私が常にそれを持ち歩いていることはよく知っていた。
 夏油はハンカチを受け取ると、私の足のそばに添え木二本をそっと並べる。そのあとで、触るね、と断ってから私の足を静かに持ち上げた。

「いたっ……」
「ごめんね、すぐ終わるから」
「いや、夏油が悪いわけじゃないから気にしないで……」

 ふう、と深く息を吐いて思わず走った痛みを逃がしているうちに、彼はハンカチを使って手際よく添え木を固定した。私が渡したものと、夏油が自分の制服のポケットから出したハンカチ二枚。足に結ばれた濃紺のそれを見て、何だか申し訳ない気持ちになる。

「ごめん、迷惑かけて。ハンカチ、洗って返すね」
「別に迷惑ってほどの迷惑じゃないよ」

 そう言った夏油はさっと立ち上がり、周囲を注意深く見渡した。ここら一帯の呪霊はほとんど祓ってしまったけれど、私が最後に戦っていた一級呪霊だけが彼の使役する呪霊の口の中でまだ生きているようだった。

「それ、取り込むの?」
「まあ、そうだね。ちょっと癪だけど」

 夏油が手をかざすと、一級呪霊がみるみるうちに姿を変え、彼の手のひらの上に集まった。どす黒い、丸い玉。夏油は大きく口を開けてその球体をゆっくりと飲み込んだ。
 人の負の感情が形を成した、呪いの塊。それを体内に取り込み使役する彼の呪霊操術は、夏油傑本人の才能や努力も相まって、非常に高い評価を為されていた。もう何度も彼が呪霊を取り込むさまを見てきたけれど、なかなか大変な術式だと思う。一撃食らわないことには意味を為さない私の術式よりマシか、なんて考えながら彼のほうをぼうっと見つめていると、視線に気づいた夏油がこちらに顔を向けた。

「待たせたね。じゃ、行こうか」
「え? ご、ごめん、夏油。さすがに歩けそうにないんだけど」

 だから硝子を連れて来てくれないかな、と続けると、彼は頭を振って言葉を返す。にこやかな笑顔。何となく、嫌な予感がした。

「私が君を硝子のところに連れて行ったほうが早いよ」
「絶対言うと思った……」



 月明かりに照らされた獣道。麓の村までの道のりはそこそこ険しいけれど、夏油はその長い足ですいすいと進んでいく。
 歩幅が違えばこんなにも歩くスピードも違うのだなあ、なんて現実逃避をしながら、私は彼の肩口にそっと顔をうずめた。

「なに、どうしたの」
「いや、なんかこう、申し訳なさが襲ってきて」
「あはは、気にしなくて良いよ。私が怪我をしたら、君に助けてもらうかもしれないし」
「夏油が怪我をするような場面では、私、死んじゃってるんじゃないかな……」

 小さくそう呟くと、私を背負った夏油がちらりとこちらに視線を向ける。あまりの顔の近さに一瞬びくっと反応すれば彼はため息をついてから、ゆっくりと口を開いた。

「……そんなこと、冗談でも言うなよ」
「あー、うん。そうだね、ごめんなさい」

 そりゃそうだ。私だって同期が死ぬだなんて考えたくもないし、ましてや彼は――――。そんなことを思い出して、私は再び彼の肩口に顔をうずめる。今度は罪悪感からではなく、羞恥心からだ。

 あれは、二週間前のことだった。今にも崩れ落ちそうなその場所で、彼は私のことを好きだと言った。
 雨風に腐食され、ぼろぼろになってしまった教会。唯一残った窓枠から差し込む光。その光に照らされたように佇む、かみさまみたいな人。
 死がまとわりつくような、そんな退廃的な空間で見たその光景は、まるで宗教画に描かれた一場面のようにも思えた。その瞬間、これまで対等に接してきたはずの同級生が急に遠い存在に見えてしまって、そこからずっと彼の告白に返事をすることができないままでいる。

「肝が冷えたよ。君が呪霊に跨られているのを見たときは」

 肩に額をくっつけたまま、そう呟く彼の声を聞いた。静かな、けれどどこかあたたかい、そんな声色。彼の優しさを存分に含んだその声がじんわりと耳の奥に染みていく。
 
「危険な目にあってほしくないって言っただろ」
「……それさあ、いまいち信じられなくて」
「なんで」

 私の言葉に、夏油は不満げにそう問いかけた。いつも冷静でおだやかなこの同級生らしくない、どこか不貞腐れた、そんな年相応な声だった。

「夏油ほどの人が私なんか好きになる?」
「実際なってるから言ってるんだよ」

 そっと顔を上げると、まっすぐに前を見据える彼の横顔が目に映った。口をぎゅっと結んで、拗ねたような表情をしている。そんな表情をしていても、彼の面差しはとてもきれいだった。
 すっと通った鼻筋に、涼しげな目元。五条のようなきらびやかさはないけれど、どこか高潔で篤実な、清らかさを持つ整った面立ち。そんなうつくしいものを見据えていると、自ずとまた、あの教会で目にした神秘的な光景が甦り、そのまま口からこぼれてしまう。

「かみさまみたいって、思ったの」
「どういうこと?」
「あの日、教会に立っている夏油を見てね。いつも助けてくれるし、優しいし。ああ、この人、もしかしたらかみさまなのかも、って」
「私が神様? ありえないよ」
「そうだよね。私もそう思ったから言わなかったんだけど」
「君に優しくしているのは君が好きだからって、そう言わなかった?」

 夏油は小さく笑って言葉を続ける。

「まあ好きな女の子と二人っきりで、しかもその子を背負ってるのに手を出してないことについては讃えてもらっていいけど」
「いや、あの、一応怪我人なんですけど……」

 楽しそうな口調。茶化すような台詞回しが、まるで彼が地に足のついた人間であることを物語っているようで、私はひどくほっとした。
 
「帰ったら夜蛾先生の呪骸と特訓だよ、君」
「ええ〜、やだなあ。というか、危険な目にあってほしくないんじゃなかったの?」
「特訓は別だろ。いつも私が近くにいるわけじゃないんだし」

 そんな言葉を交わしているうちに、いつのまにか山道を抜け、廃村にのあたりへと差し掛かっていた。木々で遮られていた空も今は澄み渡って見える。
 夜空にはまばゆいばかりに星が輝いていた。その星空が高専の寮から見えるそれと重なって見えて、ああ、無事に帰って来られてよかった――――、なんてことを考えてしまう。
 あの日の朽ち果てた教会で見た光景を死と表現するのなら、きっと今のこの瞬間が、生きているということなのだろう。

「で、どうなの?」
「……どう、とは」
「あ、そうやってはぐらかすんだ。ひどい女だなあ」

 軽口をたたく夏油に、抵抗するように足をぶらぶらさせると、こら、怪我に響くよ、と小さな声で怒られた。まるで子どもを叱るような、そんな愛情を感じさせる声色だ。
 ああ、彼のこういう優しさが。そう思ったけれど、往生際の悪い私の口が、最後の抵抗をするように言葉を紡ぐ。

「正直、わからないよ」
「なぜ? 単純な話だろ。君が私を好きか嫌いか、それだけだ」
「言葉にしたら、変わっちゃうでしょ。関係性が」
「私は変えたいと思って言ったんだよ」
「そうだよね、そうなんだけど、」
「何が心配なの?」
「……友情は永遠だけど、恋愛は違うから」
「ふうん、そっか、なるほどね」
「なんで笑うのよ」

 彼はこちらに顔を向けて、それから少し得意げな表情を浮かべてこう言った。

「だってそれ、ほとんど答えだろ」



 集合場所に到着すると、そこには五条も硝子もまだ戻っていなかった。私たちをここに連れてきた補助監督も車をどこかに移動させたようで、あたりには人影ひとつない。彼は背負っていた私の身体を一度地面に降ろすと、そのまま私をゆっくりと座らせた。地面には、片手で私を支えつつも器用に脱いで畳んだ彼の制服の上着が敷かれている。
 ずるい。そんな言葉が頭に浮かぶ。そういう、いかにも大切にされているみたいな、そんな配慮をされると、もう、駄目だった。

「……夏油」
「なに?」

 彼は私の隣に腰を下ろし、こちらを向いた。月明かりに照らされたその面差しが、ふんわりと優しく笑う。
 この学校に入学したころ、夜蛾先生は言った。呪術師に悔いのない死などない――――、と。
 あれは、いったいどういう意味の言葉だったのだろう。それまで呪術なんてものには一切関わらずに生きてきた甘ちゃんの私は、いまだにそ言葉の真意を図りかねている。
 呪術師であるのなら、呪術師として生きるなら。彼の告白など聞かなかったことにして、日々を過ごしていくべきなのだろう。だって、お互いにいつ死ぬともわからない身だ。一生をともに過ごせる保証なんてない身の上なのに、大切な存在を作ってしまうことが、そしてその存在を失うことがただ怖かった。
 けれども彼は私の不安など知りはしないとでも言うように、ただひたすら愛の言葉を囁いた。流行のメロドラマに出てくる安っぽい台詞などとは比べられないほどの、あたたかさを孕んだ言葉たち。
 彼が私のことを心配してくれるから、愛しく思ってくれるから、私は明日からも生きていけるのかもしれないと、ふとそんなことを思ってしまった。

「……私も好きだよ」
「うん」

 胸が苦しくなるほどの愛おしさを感じながら、二週間前の彼の告白に言葉を返す。夏油は、やっと言ってくれた、と笑って、それから耳元に口を寄せてそっと囁いた。

「ね、ちょっと抱きしめても良い?」
「え!? いまここで!?」

 思わず動揺してしまった私に何も言葉を返さないまま、夏油はことさらに優しく私の肩に触れる。節くれだった大きな手が、制服の分厚い布越しにじんわりとした熱を伝えていた。そのあたたかさに、なんだかもう、たまらない気持ちになって私はそっと目を伏せる。それを合図に、彼がぎゅっと強く私を引き寄せた。

「……無事でよかった」

 それは、彼らしくもない、小さな小さな声だった。

「心配かけてごめんね」
「本当だよ。君が術式を使うたびに心配でたまらなくなる」
「あはは、そういう術式なもので」

 そう言って笑ってみせると、彼はうんざりした口調で「笑いごとじゃないんだよ」と呟いた。呆れかえったような、けれどどこか愛情を感じる、そんな甘やかな声。
 その声を聞きながら、この男の心を乱せるなら、この外れくじみたいな術式もそう悪くないのかもしれないという、そんな馬鹿みたいなことを考えていた。

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