無題


 懐に忍ばせた『甘い宝物』の存在を思い返すたび、ろうそくの炎で照らされたみたいに胸の内側がじんわりと温かくなる。彼との約束の場所へ向かうわたしの足取りは、いつもの何倍も軽やかだった。気を抜いたら上機嫌に鼻歌まで零してしまいそうになるくらい。
 ――ほら、お土産だよ
 お買い物から帰ってきたお祖母さまは「おいでおいで」とわたしを手招きすると、紙に包まれた何かをわたしのてのひらの上に、ぽん、とのせる。それがお気に入りの茶菓子屋で売られているお饅頭であることにすぐに気付いたわたしは、顔を上げ、喜びのままお祖母さまの身体にわっと飛び付いた。そんなわたしを受け止めて、お祖母さまはカラカラと楽しそうに笑うのだ。
 ――あまり遅くならないうちに、帰っておいで
 優しい温度を保つ見送りの言葉にこくりと頷いて、春の陽気の下、わたしは自宅をあとにした。

 寺の境内へと繋がる石階段のいちばん上。若葉色の着物を身に纏った彼――総司くんは、自身の膝の上に頬杖を突いてぼんやりと辺りの景色を眺めている。退屈を隠そうともしない彼に、意図せず、ふふ、と笑みが零れた。なんだか野良猫みたいだと思ってしまったから。
 そんなわたしの気配に気付いたのだろう。丸い頭が揺れて、ゆっくりと視線が下ろされる。何故かすこしだけ機嫌が悪そうな彼とぱちりとまっすぐに目が合い、思わず「わっ」と声が漏れた。……きっと、この反応も彼の不服を買ってしまうんだ。
「……おそい」
 むすっとした表情を浮かべ、彼は、不機嫌を滲ませたままぽつりと言葉を落とす。
 遅いも何も明確な時間を約束した覚えはないのだけれど。しかし、それを口にしたらますます総司くんの機嫌が悪くなることは火を見るよりも明らかだ。だから、何も言わずにじいっと彼の丸い瞳を見上げるだけに留めておく。
(しょうがないなあ)
 気付かれないようにちいさく息を吐いてから、わたしは目前の石段によいしょと足をかける。そのまま、彼が座っている一番上まで階段を登ると、あひるみたいにくちびるを尖らせて不貞腐れている総司くんの隣にちょこんと腰を下ろした。
 前を向いたままこちらに視線を向けようとしない総司くんの横顔へ、明るく声をかける。
「何かあったの?」
「……べつに」
 頬杖を突き、彼はちいさくそう吐き捨てた。……うーん、これは、長引くとめんどうくさいやつだ。大方、最近道場を出入りするようになったという『彼』が関係しているのだと思うけれど。
 口を開けば『近藤さん』の話ばかりしていた総司くんが、近頃よく話題にするおとこのひと。名前はたしか『ひじかた』と言ったはずだ。彼が近藤さん以外のひとに感情を動かされるところをほとんど見たことがなかったので、初めてそういう彼を目の当たりにしたときは何となく新鮮な心地になったりもしたのだ。珍しいこともあるものだなあ、なんて。
 総司くんは、半ば八つ当たりのような態度をとりながら、それでもわたしが隣に座ることは許してくれるらしい。やっぱり猫みたいだなと密かに思ったけれど、口にはせず、ただ彼の整った横顔を眺めるだけにとどめておく。
「あっ」
「……なに」
 唐突に声を漏らしたわたしを訝しむように、総司くんがちらりとこちらを一瞥する。その視線を正面から受け止めながら、ふふ、とくちびるの端を持ち上げたわたしは、胸の合わせに手を入れて紙に包まれた饅頭を取り出した。
「なに、それ」
「お饅頭! 大きいから、半分こにして食べようと思って」
 そう言うと、総司くんの表情はふわりと甘くゆるめられた。「いいの?」と掬いあげるようにわたしの顔を覗き込んだ総司くんは、普段の彼よりもずっと『年相応のおとこのこ』に見える。饅頭ひとつですっかり機嫌が直ってしまったところとか。
「うん、待ってて」
 得意げに頷いて、早速紙の包みを剥がし始める。わたしの手元をじっと見つめる総司くんは、お預けを食らっているちいさい子どもみたい(実際、わたしたちは子どもなのだけれど)でちょっぴりかわいい。ひとりでにゆるむ頬をそのままに、取り出した饅頭を両手で持ち直した。真ん中のあたりに親指をかけて、よいしょ、と力を込める。――けれど。
「あ、」
 ふたつの声がぴったりと重なって、思わず顔を見合わせてしまった。お世辞にも『半分』とは言いがたい位置で割れた饅頭を前に、ぱちりぱちりと瞬きを零す。
「……ぷっ」
「……」
「ごうかいな『半分』だね」
 固まるわたしの横で、総司くんはケラケラと笑いながらそんなことを言う。さっきまで不機嫌を丸出しにしていたひとと同一人物だとは思えないくらい。それから、わたしの手の中でじっと佇んだままの饅頭へ視線を落とした彼は、大きい方の片割れをひょいと奪っていった。
「うん、おいしそう」
「……」
 白くて艶々した生地には、隅から隅までぎっしりと餡子が詰まっている。素材の味が生かされ、甘さもちょうど良いと評判で、わたしもすっかりこのお店の饅頭の『とりこ』だ。……だから、総司くんにも食べさせてあげたいと思っていたのだけれど。
「はい」
「……?」
「食べないの? 好きなんでしょ」
「えっ、あ、うん」
 ずいと差し出された饅頭を前に、わたしはぱちぱちとふたたび瞬きをくりかえす。彼の行動の意図はよくわからなかったけれど、目前の饅頭を放っておくわけにもいかず、わたしはおずおずと口をひらいた。
「……む、」
「おいしい?」
「……うん」
 もぐもぐと咀嚼をするたび大好きな饅頭の味が口いっぱいに広がる。そんなわたしの様子を彼は満足気に眺めていた。にこにこと人好きのする笑顔を浮かべ、これでちょうど『半分こ』だね、と嬉しそうに口にする。
 なんだかんだ優しい彼に今日もまた救われた心地になるのだ。なんとなく悔しいから、それをわざわざ口に出すことはしないけれど。
 じいっと彼の顔を見つめていたわたしに、彼は「なに? もうあげないよ」と意地悪な表情で言葉を続けた。それから、残った饅頭にぱくりと噛み付いて、もぐもぐと幸せそうに食べ始める。
「ほんとうだ。おいしい」
「……でしょ。お気に入りなんだ」
 すっかり饅頭に夢中になっている総司くんを、わたしは眩しく眺めている。また一緒に食べられたら良いな、なんて、ちいさな願いを胸の中に仕舞い込みながら。