あ……やってしまった。
そう思った時には既に遅かった。彼のトレードマークである毎日セットされた前髪が崩れてしまっていた。いや、崩れてしまったというよりは崩してしまったという方が正しい。それに、ポタポタと滴る水が悲惨さを物語っていた。

「……覚悟は出来てるんですか」
「み、水も滴るいい男……なんちゃって、」
「言いたいことはそれだけですか」

濡れたことで少し下がった眼鏡を、いつもと同じ仕草で上げると、反射でレンズが光った。それがまた怖くて、無意識にたじろいでしまう。
あぁ、これが他の部員だったら笑って許してもらえるに違いないのに、よりにもよって、木手に水をぶっかけてしまうなんて。
あまりの暑さに打ち水しようなんて、余計なことしなければ良かったと後悔の念に襲われてたところで、聞いてるんですか!と怒られる。回想に浸ってる場合ではなかった。

「えへ、ご、ごめんね?いまタオル、持ってくるね?」
「覚悟は出来てるんですか、と聞いたでしょう」
「いや、ほんと、すぐ!すぐ持ってくるから!」

逃げるわけではない、そう、いくら暑いとはいえ濡れたままというわけにはいかない。脳内でそう言い訳しつつ走り出そうとした瞬間、手首を掴まれた。あぁ……遅かった、逃げられなかった。

「周りを確認せずに、水を撒くなんて良い度胸ですね、俺がそう簡単に逃がすとでも?」
「……逃がしてくれないですよね〜、ですよね〜」
「全く、本来ならゴーヤ食わすよ、とでも言ってやりたいんですが」
「私、今年からゴーヤ食べれるようになっちゃったもんね」
「ええ、ですから君にはゴーヤは効きませんから、」
「効かないから……?」

ごくり、と喉が鳴る。一体なにをされるんだろうか、こんな事ならゴーヤ食べれるようになった!なんて嬉々と教えたりなどしなければ良かったと少し前の自分を恨む。
彼のことだ、ゴーヤよりも怖いものが待ってるに違いない。まさか、まさか、島とうがらしとか……? そこまで考えたところで、暑さのせいではない汗が一筋背中を伝った。

「ゴーヤが効かない君には、……こうしましょう」
「え……!ちょ、ぬ、濡れる!」

掴まれていた手首をそのまま引っ張られて、びちょびちょに濡れている木手の身体にぶつかったと思ったら、間髪入れずに抱きしめるように腕を回された。
一体なに考えてるの!と、身長差のせいで頭上にきた木手の顔を睨もうと見上げて、想像以上の近さに驚く。な、な、な、と言葉にならない声しか出てこなくて、その代わりにどんどん赤面していくのが感覚で分かる。セットが崩れた髪がなんだかいつもと違う雰囲気と、色気を醸し出していて妙に意識してしまう。

「これで君も濡れ鼠ですね」
「……最悪」
「ぬらぶしらんけーよ」
「え、なに、どういう意味」
「さぁ、早くタオルを取ってきなさいよ」

うちなーぐち、分からないって知ってる上で耳元で囁くなんて反則。なに言われたかも分からず、その吐息にドキドキしてしまったのに、そのまま何の余韻もなく引き離されて、頭の処理が追いつくまでに数秒かかってしまった。

「木手のふら〜〜!」

こんなに私はドキドキしちゃってるのに、何でもないような平然とした態度が悔しくて、言い逃げしながら今度こそタオルを取りに走り出した。


調子にのらないでくださいよ
いつまでも、俺がゴーヤ頼りだと思ったら大間違いですから

ぬぶしらんけーよ:調子にのるな
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