桐条ちとせという人間は、玲にとって完全に未知数の人間だった。
マトリに関係する書類を持ってきたちとせと話したことがきっかけで、顔を見れば話すようになり、気づけばランチや飲み会に共に行くようにもなっていたのだが。それなりに親しくしていても、ちとせをすべて理解するのは難しく、玲は今目の前にいるちとせを見て、こんな一面もあったのかと驚きを隠せなかった。
ちとせは、曲がりなりにも桐条家の令嬢だ。玲からしてみたら一生会うことも会話することもない高嶺の花のような存在であるちとせなのだが、本人は警察官として働いており、毎日死にそうな顔色でデスクワークをしているか、忙しなく走り回っている。
令嬢らしからぬ奔放さと親しみやすさもあり、玲は「ほんとにこの人桐条家のご令嬢なのだろうか」と悩んだものだ。
ちとせは童顔であり、10代だと間違われてもおかしくないなと思う容姿だったが、スーツを着て毎日死にそうな顔をしていたためいっそ30代に見える時もあった。そもそも令嬢なのだから働かなくてもいいのではないかと玲は何度も思ったものだ。
「玲ちゃんいらっしゃい!」
いつもと同じ人懐こい笑顔でそう言ったちとせは、死にそうな顔色ではなく化粧をしているからか、血色の良い顔色で玲を迎えた。
いつものスーツではなく、胸元が白いレースになっており、ウエストに大きなリボンがあるオレンジのワンピースを着たちとせは、玲の手を握って「待ってたよー!」といつもの調子で手をブンブン振る。
ハーフアップにして毛先を巻いてあるらしい髪に、その髪に飾ってあるレースの髪留め。化粧もそれは美しく施してあるちとせは、死にそうな顔色を常に見ていた玲からしてみればまるで別人だった。話さなければちとせだとわからなかったかもしれないほどに。
玲は玲でワインレッドで、シルエットが綺麗だからとちとせに勧められたワンピースを着ていて、化粧も髪も桐条おかかえのメイクアップアーティストが施しているのだが、自分の変わりようの比ではない。自分じゃないみたいだ!すごい!!と感動していたが、ちとせの見た目はそれどころではなかった。
そこで、確かに玲の目の前にいるのは“桐条ちとせ”という一人の令嬢なのだ、と思い至ることができたのだ。
「ね、ねえ私ほんとにここにいてもいいの……?」
令嬢という意識が薄れ、本人も言っていたため完全に一般人の感覚であるちとせがほんとに令嬢だったことを意識した瞬間、玲は自分が豪華客船の中にいることがひどく億劫に思えてしまった。
コネクションを作っておいで、とは玲の上司である関の言葉だ。マトリに入って日が浅い玲は、マトリの仕事に必要そうなコネもなければ顔見知りもいない。そこにちょうど桐条家がひらくパーティがあるからと、ちとせから声がかかったのが発端だった。
ちとせはちとせで「利用できるコネは使って損は無いよ!」と、これまた新人警察官とは思えないことを言ってのけたのだが、パーティに参加してはじめてその時のちとせの言葉を玲は理解した。ちとせは、曲がりなりにも、桐条家の令嬢なのだ、と。コネは使って損はない、という言葉も飛び出してくるだろう。
「えっ当たり前だよ!?私が呼んだし姉さんも許可くれたし!」
「ね、ねえさん……って、桐条美鶴さん……?」
「あとで挨拶したいって言ってたから落ちついたら行ってみよう」
テレビの画面越しでしか見たことのない桐条家当主の顔を思い出そうとするが、パッと玲の頭には浮かんでこなかった。
「今日の玲ちゃんの目的は、私の友達としてここで顔見知りを作ることだし、そう身構えないでいいよー」
「う、うん、頑張る!」
「まあ、中にはちょっとアレだなって人もいるけど、そこは玲ちゃん、自分の目で見極めてみて。ちゃんと助けるし!」
急に上がったハードルに、玲はひぇ、と息を飲みそうになった。が、来てしまったものは来てしまった。コネクションはこれから必ず必要になる上に、ちとせと知り合えなければこんなチャンスも巡ってこなかったのだ。コネは利用して損は無い。ちとせの作ってくれたこのチャンスを損にしないよう、玲は密かに拳を握る。
「どこかに樹くんとか貴臣くんとか……あとは壮馬さんとかもいたかな?会えたらいいね!」
とんでもないメンバーを名前で呼ぶちとせにゾッとしたものを感じたが、玲はちとせが船内に入っていくのに続いて拳を握ったまま玲も足を踏み入れた。
パーティ会場に入って早1時間程が経った。その短時間で、玲はまたちとせに対する見方を改めないといけない、と自分のコネクションを作るのをよそに心底から思っていた。
グラスに入った白ワインを揺らしながら、ちとせは玲を伴って会場内を歩き回っていた。挨拶回りなのだと言っているが、どうやらそれも重要なものらしくちとせを見るなり我先にとやってくる豪華なドレス、高そうなスーツを着た招待客にちとせは笑顔で応対している。
中には外国人も多く居たが、隣の玲がどこの国か分からないような言葉をちとせはさっと喋ってしまうのだ。聞き馴染みのない言葉に、玲は愛想笑いをするだけで精一杯だった。しかしちとせが適当なタイミングで玲に話を振り、玲を紹介し、玲もたどたどしく英語で自己紹介をするという流れに、さすがに1時間経つと慣れてくる。
今はちとせのほうから女性に話しかけ、楽しげに会話をしているのを玲は緊張しながら眺めていた。いつ話を振られてもいいように身構えていたら「よう」と突然背後から肩を叩かれ、玲はドキリと心臓がはねた気がした。が、それも一瞬で、聞き覚えのありすぎる声に振り向くと、そこにはほぼ毎日顔を合わせるマトリの先輩――青山樹が高級そうなスーツを着て立っているところで。
「あ、青山さん」
「はは、すげー顔」
開口一番そう言われ、さすがに玲も口を噤んだ。緊張しすぎてすごい顔をしている自覚はあったが、ちとせはからからと笑い飛ばしてくれたためそこまで気負わずにいられた。青山は面白そうに笑うだけだ。
「どうだ?パーティ」
「き、緊張しますよ、さすがに。それに……」
ちらりと玲はいまだ女性と談笑しているちとせを見て、それからなんとも言えない表情をした。その視線の意味に気づいたのか、青山は談笑しているちとせを見てからにやりと笑う。
「驚いただろ、普段と違いすぎて」
「はい。……ちとせちゃん、本当にご令嬢だったんだって改めて思いました」
立ち姿、歩き姿でさえちとせに隙がないのだ。完璧に身につけているのであろうこういった場所でのマナー、普段の様子とはかけ離れたそれにはさすがに驚きが隠せない。途中、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花、という言葉を思い出すほどだった。と言っても、今ちとせが話している女性もそれは凛とした、同性でもかっこいい、隙がないと思うほどの女性なのだが。
「化粧で誤魔化してなかったら顔色はいつも通りなんだろうけどな」
「樹くん聞こえてるよ」
振り返って笑ういつも通りの口調のちとせではあったが、やはりそこに隙は全くなかった。それに青山は苦笑をして、ちとせが話していた女性へ「お久しぶりです」と頭を下げた。玲はそれに驚きはしたものの、青山もこういったところへの参加はよくしているのだろう、と結論づける。
「いや、こちらこそ。本日は来ていただいてありがとうございます。楽しんでいただいているでしょうか」
凛と立つ女性は、やはり隙なく青山へ声をかけた。ゆるく巻いてある赤茶色の髪が、ふらりと揺れるのでさえ綺麗だなと思うほどだ。
「うちの新人まで誘っていただいてありがとうございます」
「お、お招きいただきありがとうございます。泉玲です」
青山の登場に完全に油断していたが、なんとか玲は自己紹介をすると、女性ははたと気づいたように「すまない」と視線を落とす。うつむきがちになったその目を飾るまつげが色っぽく女性の頬に影をさした。そして、女性の言う来ていただいて、という言葉に玲はここ一番の緊張を味わっていた。
「桐条美鶴です。いつも妹が世話になっているようで」
ちとせと楽しげに談笑していたのは、どうやら桐条家当主だったらしい。あまりにも若いその当主に、玲は頭を下げてこちらこそ、と急いで口を開く。同年代くらいだろう、と玲は思うが、同年代とは思えないほどの落ちつきぶりである。自分が当主をする、と考えると想像もつかなかった。
「では、私はこれで。楽しんでいってください。ちとせ、私は行くが……」
「あ、うん、ごめんね忙しいのに!私も適当にするから」
「いや、……たまには家にも顔を見せてやってくれ。皆喜ぶ」
「は、はーい」
では、とカツカツとヒールを鳴らして去っていく美鶴に、玲はほうと肩から力を抜いた。存在感のありすぎる桐条家当主に、知らず肩に力が入っていたらしい。緊張を誤魔化すようにぐいっとワインを一口飲めば、喉を甘い液体が通っていくのがわかった。
「うわ、おいしい……」
「あ、その赤ワインおいしいよね。こういう時に出すワインってうち大体決まってるんだけど今日のやつは私も好き。甘くて香りがいいんだよねー」
「つってお前のは白ワインだろ」
「白ワインのほうが基本好きなんだもん」
言って、ちとせは自分で持っていた白ワインを上品に飲んだ。以前マトリとちとせでバーに行った時はこんなにちとせは上品に飲んでいただろうかと玲は考えるが、目の前にいるちとせがあまりに令嬢すぎて、過去一緒に飲んだ時のことを思い出せなかった。
「樹くんは挨拶終わった?」
「いや、まだ途中だな」
「私はあらかた終わったからあとは壁の花でいいしなー……玲ちゃん気になる人とかいる?リスト渡してたよね」
リスト、というのは小声だったが、玲にはしっかり聞こえた。パーティに来るにあたり、ちとせから出席者のリストを見せてもらっていたのだ。気になる人はあらかじめちとせに伝えていたため、自然にちとせが挨拶回りをしてくれたおかげで顔を合わせたかった人と、というよりもそれ以上の人と顔を合わせることが出来た。これ以上、ともなれば高望みしすぎではと玲は思う。し、何より自分の緊張が限界だった。
「ううん、ありがとう。私もちとせちゃんと壁の花でいいよ」
「よしっ!そうと決まればご飯食べよう!向こうのテーブル目の前で魚さばいて……」
そこで、ちとせの動きがピタリと止まる。そして先ほどと同じようにグラス片手に一人の男性へと近づいていった。ちょっと待っててね、と笑顔を残して。ちとせが向かう視線の先には玲も知っている議員が一人いる。
うわ、また有名どころだ!と玲は思っただけだが、青山はちとせの視線とその雰囲気に、小さな違和感を感じる。が、少し向こうでその議員と話しているちとせはいつもと変わらず楽しげに談笑しているだけだ。
「あんな大物と普通に話すちとせちゃんって……」
「腐っても桐条家の令嬢だな」
スキンヘッドに眼鏡をかけた、ともすれば一瞬怖そうに見える議員ではあるのだが、ちとせと話している顔は穏やかなものだった。周りにいる他の招待客とも何やら話し、ちとせは優雅に礼をするとこちらへ戻ってくる。その表情はさっきと変わらず笑顔だったが、どこかホッとしたような色も読み取れて、青山は内心だけでふぅんと思う。
ちとせにしては珍しく苦手なのか、もしくは仕事的な意味で何かあるのか。だがこんなところで聞くわけにも行かず、青山はそのまま2人にまた後でな、と言い残すと客の中へ消えていった。
「樹くんもいなくなったしご飯たべよ、おなかすいたよね玲ちゃん」
ちとせにいわれて、玲は自分が空腹だったことにやっと頭が働いた。慣れない場所と緊張ですっかり忘れていたその感覚に、ひとつ頷けば、ちとせはたのしげにわらって「あっちで魚さばいてるからいってみよ!」と玲をつれて会場内を移動しだした。
途中にも何人かから挨拶をされたちとせは、そこでもそつなく挨拶をこなし、そして流れるように玲を紹介して、けれど最初よりもずっと短くそれを終わらせると目的の場所であるテーブルへとたどり着いて、ふうとため息をついた。疲れているようではないが、化粧のおかげかもしれないと玲はそっとちとせの頬にふれる。
「大丈夫?」
「へ!?あ、なんかついてた?」
「あ、そうじゃなくて……疲れてるみたいだったから」
言えば、ちとせはおどろいたような表情をしたあとに、苦笑を漏らす。ごめんねえ、とふにゃりと笑ったちとせは、この会場に入ってから初めて隙のある表情を見せた気がする、と玲は心の隅で思った。
「普段やらないことやるとどうしても」
小声で、どこか恥ずかしそうに笑うちとせに、玲も納得する。隙の見えた笑顔は一瞬で、もうさっきと同じ隙のない笑顔に戻っていたが、それが桐条家の令嬢であるということなのだろう、とそこも納得することにした。
「焼酎あるよ玲ちゃんワインもう少ないし焼酎にチェンジしようよ!」
料理の並ぶテーブルまわりにやってきたと思えば、ちとせがグラスを一気にあおってそう言った。玲のグラスのワインも残り少なかったのでそれを飲み切って、見計らったかのようにやってきたスタッフへ、ちとせをならってそれを渡す。ちとせの視線の先にあるのは何種類もある焼酎で、どうぞ、と男性スタッフがちとせにむかってあいそよく笑っていた。
「う、うわ、種類がすごい」
「お刺身食べたいしなあ、玲ちゃんなにか食べたいのある?」
「私もお刺身でいいよ、お酒も、えっと、ちとせちゃんとおなじので」
「じゃあお刺身に合うやつ、おすすめある?」
あまりの種類の多さにさすがの玲も選びきれないと思い、判断を、こういう場に慣れているのであろうちとせにまかせることにした。当のちとせは、スタッフが焼酎をそそいでくれるのをじっと見ながら待っているようだが。すでに意識は刺身に向いているのであろうちとせに、玲は笑う。
自分にとって一番大きなコネクションはもしかしたらちとせなのではないかとかんがえながら、ちとせのもってきたグラスを受け取った。
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