じわじわと朝よりも暑くなってきた外気に、ちとせはひとつため息をついて空を見上げた。目元を手で隠して、木々の間から見える太陽を見上げてから目を細める。

「何年経ったんだろうなあ」

 目元を隠していない手には、色とりどりの花で作った花束がみっつ抱えられている。太陽を見ていた目を、ちとせは自分の行こうとしていた方向へと向けて、口元だけで笑みを作った。向かう先には墓地がある。毎年、決まった時期にちとせはその墓地へ通っていた。彼岸、命日、お盆。例外として相談したいことがある時などにも足を運ぶことのあるその墓地、その墓には、荒垣真次郎、有里湊、望月綾時が眠っている。

「はあ、あつい、こんなに暑くならなくてもいいと思うんだけど」

 スーツのジャケットを脱ぎ、ブラウスだけでちとせは墓地の中を歩いていた。目的地は奥まった場所にあり、親戚のいなかった有里湊の墓守は、いまは桐条の家がしている状態だ。といっても、毎月のように誰かが足を運んでいるので常に綺麗に保たれてはいるのだが。同じ敷地内にある、荒垣真次郎の墓も、また同じような状態である。
 ちとせの墓参りは、いつも荒垣真次郎の墓参りから始まる。湊と綾時の墓の方が奥まった場所にあるためなのだが、何年も、何度も続けてきたこれはもはやちとせにとっては息を吸うように自然な流れだった。

「シンジさーん、きーたよー!」

 明るく言いながら、そのこぢんまりとした墓へ入り、既に供えられていた色とりどりの花を見て「みんな早いなあ」とちとせは笑う。ガーベラやかすみ草、それこそ荒垣には似合わないであろう可愛らしい花たちに、ちとせは「かわいいじゃんシンジさん!」と小声で笑う。
 「大きなお世話だ」と呆れたように、けれどどこか優しく返す言葉がちとせは聞こえてくるような気がして、機嫌よく持っていた花束のひとつをその場で広げる。

「かすみ草はかぶっちゃったなー、私のはピンクだからいっか。んっふふー、今日は各種色をそろえたチューリップだよー!」

 母の日はカーネーション持ってきたしね!とちとせは言いながら、既に飾られている花の間に持ってきた花を丁寧にさしていく。
 しばらく花と格闘していたちとせは、満足いくように花を飾り、一度立ち上がってから腕組みをしてウンウンと頷いた。最高に可愛い、と一言添えて。やはり呆れ顔の荒垣がちとせの脳裏には浮かんだが、お構い無しに花束と一緒に持ってきていた線香を取り出してそれに火をつけた。

「今ってお花屋さんなんでもあるよね、季節関係なく。おかげでいつでもシンジさんに可愛い花が届けられるってもんだけど」

 んふふと楽しげに笑いながら、線香もそなえてちとせは目を閉じる。静かに両手を合わせて、しゃがんだままの格好でじっとそのまま呼吸を繰り返した。

「……、シンジさん、お母さんと見込んで相談なんだけど」

 はあ、とため息をついてちとせは手を離して、しゃがんだままの格好で頬杖をついた。誰がお母さんだ、と呆れた声の荒垣がちとせにはみえた気がしたが、気にしないことにして。

「好きな人、できていいのかなあ。好きになってもいいのかなあ……私なんかが、……とか言うと怒られるんだろうけど」

 ちとせは、人を好きになることはないと思っている。思っていた。荒垣真次郎を失い、有里湊を失い、望月綾時を失い、助けられなかった命がいくつもあった。
 中学でも高校でも、それは嫌という程ちとせは思い知っていた。湊は自分が殺したわけでもないのにいつまでも自分が殺したと思っているし、小西早希についても、もっと早く気づいていれば、テレビの中に入っていれば助けられたはずだったのだ、と。違うのだと、そうではないと頭ではわかっているものの、心が未だについていっていない。
 シャドウワーカーに所属を決めたのも、警察官としての橋渡しになりたいと願ったのも、桐条のためだった。桐条に引き取られることが決まってから、ちとせは死にもの狂いで勉強をして、常に成績はトップに居るようにした。語学の勉強も教師をつけてもらい行い、美鶴の助けになるように頑張ってきた。その他にもマナー、立ち居振る舞い、マイナスになるものがないように。
 美鶴の足を引っ張らないようにとがんばってきたそのすべてを美鶴のために使うべきだと思って。
 湊のことを、心底から好いていたちとせだったが、湊が死んで数年経ってもそれが家族愛だったのか、恋愛だったのかわからずにいる。思い返してみると、恋愛として好きだったのは綾時だったのではないかとも思うのだが、ちとせはもうその二人に会えないので確かめようもない。
 
「好きになるの、怖い」

 高校で、かけがえのない仲間を手に入れた。中学で、大切な家族を手に入れた。だからこそ、前向きになれるようになった。上辺だけでも。頭だけでも。
 けれど誰かを大切に想えば想うほど、失った人のことを思い出し、ちとせは胸が締め付けられる思いをしていた。あんな思いをしたくない、と思うのと同時に、自分が好きになった人はいなくなるのではないか、という恐怖感も持っている。そして好きになる人に、自分のしている仕事を大っぴらに言えない、というのもちとせにとっては懸念事項だった。
 こんな中途半端な自分では、人を好きになるどころかそんな余裕すらないと思っていたのだ。

「……好きになっていいよって、言ってほしいんだろうなあ。いや、こんなの言ってる時点でもう好きって言ってるようなもんだよね……」

 決して、美鶴やゆかりたちの前では吐けない言葉だった。返事が返ってこないからこそちとせの相談相手はほぼ荒垣と湊、綾時であり、内容も荒垣と湊、綾時で言い分けている。本人は全くの無意識ではあるが。
 ここ数ヶ月、マトリと関わることが増えていた。
 りせから入った情報によるところは大きいのだが、麻薬常習犯のとある映画監督がりせに薬の勧誘と、声をかけてきたのだという。そこからちとせに相談がかかり、その映画監督が、現在ちとせが調べているシャドウ関連の事件未満のものに関わっている可能性が高かったため、ちとせの課とマトリとで共闘することになったのだが。
 だからこそ、ちとせは困っていた。必然的にちとせがマトリと関わることが増える。ちとせの上司である男は基本的に課から出られるような仕事量ではなくデスクワークが多い。他の人員も別の事件にかかっているとなっては、ちとせしかマトリと連携、連絡をとれる人間がいなかった。
 なおかつりせというキーパーソンから、ちとせ先輩がいい、というご指名付きなので、ここ数ヶ月でマトリ、それも声のかかった課の課長である関大輔と関わることが増えたのだ。
 相談してきたりせの護衛に付き人に扮して行くにしたって、りせはちとせを指名しており、けれど麻薬に関してはちとせはちんぷんかんぷんだった。そうなるとサポート役兼麻薬に関してはプロであり、連携も取りやすい関大輔がちとせとペアになることが増える。
 そしてお互い連携をとりやすくするためにと、事件を調べている間、課長同士の粋な計らい(本人談)でちとせのデスクはマトリに置かれることになったのだ。

「いやほんとうちの課長ありがた迷惑だよね」

 ぽつりとこぼして、ちとせは大きくため息をついた。
 マトリに馴染むのは早かった。ちとせ自身人と関わることが嫌いではなく、マトリのメンバーもノリがよく人見知りしなかったのもある。早々に歓迎会という名の飲み会なんかも開催され、ちとせが余計に溶け込むのも早かったのだ。

 関われば関わるほど、ちとせは自分が関に惹かれるのがわかっていた。関わるまいと思っても仕事の都合で一緒に行動することも多く、挙げ句泉玲というマトリの新人に護衛術を叩き込むのにちとせも、関がよく行く道場へ呼ばれ共に汗水を流すことにもなった。
 夜遅くなれば玲をほかのメンバーに任せ、関はちとせを家まで送ることも多々あった。「いや私ゴリラだし大丈夫なんで!」と断ってもひらりと関はちとせの訴えをかわし、いつの間にか送られることになるのがほとんどだったので、途中からちとせは諦めてしまったのだが。
 関の優しさに触れるたび、弱さに触れるたび、ちとせはどうしようもない気持ちになった。器用に見えて不器用な面も、真面目に見えて適当に返事をするところがある面も。知るだけ好きになっていくのだ。

「シンジさん、私」
「桐条?」

 ちとせが口を開いた瞬間、それに重なるように驚いたような声がかかる。それにちとせはびくっと肩を揺らして、勢いよく立ち上がるとくるりとそちらを向いていた。
 ジャケットを着ずに、小さな花束と口の開いてないビールの缶を持ったままそこに立っていたのは、ちとせが今まさに考えていた関大輔だった。

「せっ、せ、せせせせきさん!?な、なんでこんなとこに」
「いや、桐条こそ」

 会話を聞かれていたのではないかと挙動不審になるちとせとは違い、関は冷静に現状を判断しているらしかった。じっと、ちとせの足元にある花やちとせ、墓の様子を見て、少し考えるような素振りを見せたものの、関は「きれいにしてるんだな」と柔らかく笑う。
 それが後ろにある荒垣の墓だろうとちとせはわかり、ぱっと墓に振り向いて、それからあわあわとした様子で「み、みんなくるので!」と足元にある花や線香を拾い上げる。

「せ、関さんこそ!あの、……お墓参り、ですか?」
「ああ。……この間話しただろう?その件で」
「あ、そういえば最近よくテレビで流れてますね」

つい先日聞いた話をちとせは思い出し、最近テレビでとりあげられている、関の言うこの間、の話も思い出して納得する。関の友人が、麻薬のオーバードーズで亡くなったという事件だった。もう何年か前になるんだ、と言っていたのはちとせの記憶に新しい。
 そのついでに、関の過去の話も流れるように聞いていた。いらぬ疑いの晴れた、関言うオッサン、という何年も前の事件の話を、ちとせはふとおもいだしていた。オッサン、とやらのお墓は京都にあると言っていたので、この間言っていた件は知人のほうだな、と内心思う。
 ちとせの目の前にいる関を見上げて、それからちとせは関が少し穏やかな表情をしているのを見てから、自分の持っている花束へと視線を落とした。

「私もお参りしていいですか?」





「本当にいいのか?まだ供える場所があったんじゃ」
「だいじょーぶですって!お線香だけでも多分なんにも言わないしむしろ可愛い花こなくてほっとしてそう……あっそれはそれでもやもやする……後日改めて可愛いの持ってこなきゃ……」

 関についていき、荒垣の墓から少し奥にある墓にちとせは持っていた花束をそなえた。色とりどりのチューリップとかすみ草が、少し暗かったその墓に供えられ、ぱっと明るくなったような気がしてちとせはにこにこと笑った。

「うん!いい顔!」
「顔?」
「あっごめんなさい、つい癖で」

 関がビールと線香をあげている横で、ちとせは両手を合わせて目を閉じる。関がオッサンの件を含めた自分のことをちとせに言ったのは、つい先日のことだった。りせの護衛任務のためにそばに居たのだが、暇な時間ができ、お互いに軽く身の上話をする流れになったのだ。
 けれどマトリと関わることになった時点で、ちとせはマトリのメンバーのことをそれなりに調べていた。経歴、人間関係、性格、家族構成、その他諸々。
 自分の課以外と関わるのが初めてだったためボロを出さないのが目的だったのだが、調べている時点で、関についてちとせは知ってしまっていた。友人と、オッサンの話も。オッサンがどういう状態でメディアにとりあげられていたのかも。
 最近になってその件もうまい方向へと向かっていったのだと関はちとせの話したのだが、その穏やかな表情を思い出して、ちとせは目を閉じたまま笑った。
 ちとせが目を開けた時、関はまだ手を合わせたまま目を閉じていた。真剣な後ろ姿に、そりゃまあ言いたいことも報告もあるよなあ、と思ってじっと見ていると、ちょうど風がふいて生けた花を、関の髪を、木々を揺らしていった。
 




「湊ー、綾時くーん、来ーたよー!」

 ちとせは自分の目的であった湊と綾時の墓へと、関を連れてやってきた。と言うのも、関自身が「俺も行ってもいいかな」と言ってきたためだったのだが。
 身の上話をする上で、失くした従兄弟がいるという話はしていたため、ちとせはまあいいかと思って関をそのまま同行させていた。それに賑やかにした方が、湊も、綾時も喜ぶと思ったのだ。
 墓に入ると、荒垣と同じく色とりどりの花や供え物が既に置いてあり、ちとせは「やっぱこっちのが賑やかだなあ」と楽しげに笑う。二人分の花なのだから、賑やかなのは当然なのだが。
 墓参りだというのに楽しげにしているちとせを関は不思議に思いながらも、ちとせにならってその墓へと近づくと、確かに先ほどちとせを見つけた時の墓よりも賑やかしいと感じた。
 そなえてあるものは同じだが、量が向こうよりも多いのだ。花にしろ、供え物にしろ。ひとつの墓しかないのに。それに加えて黄色の花が多いのも、関の目に止まった。

「この前言ってた、従兄弟の?」
「そうです!……それと……、うーん……ここにはいないんだろうけど、もうひとりも」

 そう言って線香へ火をつけるちとせの横顔に、関ははっとした。普段見ないようなさみしげな色に、なにか声をかけようと思ったものの、次の瞬間にはからりと笑うちとせが関へ「よければ」と火のついた線香を渡したためそれもできず。

「湊、綾時くん、なんと今日は私が仕事でお世話になってる人とばったり会ったからつれてきちゃいました〜!ふふーん、ちゃんと私も社会人してるんだぞ〜」

 楽しげにちとせはそう言うと、線香をそなえて両手を合わせる。しばらくそうしていたものの、ちとせは思いのほかあっさりと立ち上がると関に場所を譲る。嬉しそうに笑いながら、その墓をじっと見つめている。
 ちとせにならい、関も線香をそえて手を合わせた。ちとせにとってのこの墓で眠る人間は、一体どんなものだったのか。墓の様子を見ただけで、わかるような気が関はした。
 きっと何年も経っているであろう墓石は綺麗に保たれていて、枯れた花はひとつもない。賑やかな、目に鮮やかなその墓は見ただけでここで眠る人の人間性が見えるような気がした。死してなお、大切にされているのだ。ちとせだけではなく、きっと多くの人間から、忘れられることもなく。
 先の墓もそうだったが、明るく、賑やかしかった。ちとせも笑顔でやってきて、楽しげに話しかけている。まるで生きている人間に話しかけるように。




「じゃあ湊、綾時くん、また来るね。今度はうんと可愛いの持ってくるから覚悟してて」

 しばらく関が手を合わせるのを眺めていたちとせだったが、関が立ち上がったのを見て、墓にそう言うと関を見上げて「ありがとうございます、関さん!」と嬉しそうに笑った。

「いや、俺も急に言って悪かった」
「私だってさっき関さんのお友達に挨拶させてもらいましたよ、急に」
「……いや、あいつはいいんだ。桐条を合わせたかったのは事実だし」
「……?そうですか?」

 思わず関は口元に手を当てるが、関の言葉の真意にちとせが気づいた様子はなかった。それに安堵したと同時、どこか寂しさを覚えて関は苦笑する。
 墓を出て関の横を歩くちとせは、足取りも軽く機嫌もよさそうだった。故人を悼むために来たというよりも、故人のところへ遊びに来たという言葉が似合うようなそれに、関はまた不思議な感覚になった。

「桐条は……」
「はい?」
「いや、随分楽しそうに墓参りをするんだと思って」

 墓地から出たところでそう言うと、ちとせは少し考える素振りをして、うーんと唸る。

「折角会いに行ったのに、暗い顔してたら心配させる気がしません?それに……あー、うーん……」

 少し言いよどむ様子に、関は黙ってちとせを見つめる。しばらくうーん、と唸っていたちとせは、何かを決めたように、まっすぐ関を見上げた。今まで見たことのないようなそのちとせの顔に、関はどきりと心臓が嫌な音を立てたような気がした。それほど、似合わない、瞳の奥に暗い色のある表情だったのだ。

「私はちゃんと元気だよって、教えてあげたいし」
「桐条……?」
「関さん、うちの課のこと、どこまで知ってますか?」

 うちの課のこと、と言ったちとせの言葉を、どういう意味で言ったのかと関は考える。ちとせの属する特別捜査支援課、というのは、起こった事件、未解決事件、不審な事件、または事件になりそうな小さなもの、噂話を整理し、必要があれば自らの足で解決していようと調べに行くところだ。
 まあそれは表向きは、だが。
 シャドウワーカーの分室であり、ペルソナやシャドウに関係するかを、その“事件の整理”により洗い出していることを知る人間は、警察内部にも数える程度しかいない。美鶴にとって信頼に足る人間でない場合、警察上部すら知らないことだった。
 それはマトリである関も同等で、ちとせの仕事内容、特別捜査支援課の内部事情などは表向きのことしか知らない。警察内部からは心霊課と呼ばれて気味悪がれていたものの、ちとせが入ったことにより支援課の気味の悪さも薄らいできた、とは最近の噂話だった。

「広い範囲での色々な事件の整理、情報収集……そういうことしか知らないな」
「まあそうですよね……うーん、どうしようかな……」

 何かを決意し、関にその何か、を話そうとしているのを関はわかったが、当のちとせはどう話したものかと思案しているようだった。ここ数週間、久慈川りせの依頼で共に過ごしていたが、関はちとせのそういった表情を見るのははじめてだった。

「……関さん、この世界には、知らなくていいこととか、知らない方がいいことってあると思いますか?」
「それは、もちろん」

 ちとせの質問の意図はわからなかったが、関はすぐにそう口にした。麻薬の流通ルート、売人、そんなことだって知らない方がいいこと、の、ひとつである。悩むこともなくすんなり答えた関に、ちとせは私もそう思います、と目元を緩める。
 それからちとせはちらりと周りを見て、誰もいないことを確認する。平日の昼とはいえ、ちらほら人影はあるため、またちとせはうーんと唸ってしまった。人に聞かれると良くない話なのか、と思った関は、駐車場に停めている車で話すかとちとせを自分の車へと連れていくことにした。うだるような暑さの中外で話すこともないだろうと思ったのもあるのだが。
 ちとせはお礼を言って車に乗りこみ、ずっと停めたままも、というちとせの提案でちとせの部屋へと行くことになった。関は一瞬部屋に上がることをためらったが、それよりもちとせがなにか話したいことがあるほうが重要に思えたため、特に何も言わず、ちとせの言うままにちとせの部屋へとあがることになった。
 車の中でも終始無言で、どう言ったものか考えているらしいちとせの横顔を見ながら、関は普段とは違うその様子に、不安を覚えた。




「りせちゃんのこともあるし、関さんには話した方がいいんだろうなって、ずっと思ってたことがあって」

 ちとせの部屋につき、ちとせが冷たいお茶を関に出してからすぐに話し出した。捜査に関係することなのか、と一瞬関は気を引き締めるが、またそれとは別なのだろう表情をちとせがしているのを見て、別の意味で体に力が入るのがわかった。

「私の独断でお話します。課長も姉も多分いいって言うし、関さんの周りだと渡部さんと服部さんも知ってるかな、多分……。まあそんな感じの、信じられないようなことをお話するんですけど……」

 そこでちとせはお茶を1口飲む。からん、とコップの中で氷が崩れる音が、嫌に関の耳についた。

「結構前ですけど、無気力症候群って覚えてますか?あとは、無気力症候群が流行った数年後にあった、アンテナに死体を逆さ吊りにしてた連続殺人事件」
「無気力症候群のほうはよく覚えてるな。当時薬の方面でも疑われていただろう?何年か前に関連記事を読んだよ」
「あー!なってましたね、危ない薬なんじゃないかー、みたいな!」
「結局は社会現象として片付けられてたけど……」
「このふたつの出来事、私の……というか、私の課で今も取り扱ってるものなんです。もっと前で言っても関連して出てくるものはあるんですけど記憶に新しいのはこのふたつくらいかな」

 全く関係性もなく、社会現象として流行り、今は収束している現代病と、犯人も捕まって解決した事件を取り扱っている、と言ったちとせに、関は首をかしげた。関係性が見えない。無気力症候群は未解決事件に分類しようと思えばできるためまだしも、宙吊り連続殺人事件のほうは、内容的にもちとせの課ではなく警察、それこそ捜査一課が担当しているのが普通なのだ。それを、未だにちとせの課が扱っているというのは不思議に思えた。

「無気力症候群、連続殺人事件、どちらも当時の私たち……私は、その原因の中にいました。いや、うーん、原因を知ってた、なのかな……。だから取り扱ってるとかではなく、経過観察が必要だったりするって意味での取り扱ってる、なんですけど」

原因の中にいた?原因を知っていた?関の中に浮かぶ疑問に、ちとせは苦笑をする。

「心霊課って呼ばれてるのはあながち間違いじゃないんです。私たちが調べて、未然に防ごうとしている類の事件にはシャドウ、というものが関わってきます」
「シャドウ?」

 聞きなれない単語に、関は眉間に皺を寄せた。ちとせはそれを見て、苦笑をしながら無気力症候群のこと、連続殺人事件のこと、今自分がしている仕事のことをわかりやすく、かいつまんで説明していく。
 すべてを説明していたら日が暮れて、翌日の朝になりかねないと思ったために簡潔に、だったのだが、関はちとせの話を聞いていくうちにだんだんとその肩に力を入れていく。わからないことはその都度関も尋ね、ちとせも説明をする、ということを繰り返していたのだが、いくらかいつまんで話してもどうしても長くなる話で。とりあえず話し終わるころには、もう夕方になってしまっていた。

「だから関さん、もし、まわりでおかしなことがあったり、あまり見ない人を見るようになったら教えてください。多分大丈夫、なんて思わずに」
「……それは、俺も何か、桐条の追っている事件にかかわることになる可能性が高いということか?」

 話が終わることには、関の眉間にあった皺はきれいに消えていた。が、もっと別の、ちとせに向ける視線が、昼間とは少し違う色になっていることにちとせはきづかないふりをした。ありえないことをしゃべったのだ、普通の人にとっては。だからちとせは、これで嫌われても、気味悪がられても問題はないと思ってすべてを話した。気味悪がられたとして、関がこの話を言いふらすような人間ではないのはわかっていたため、ちとせもすべてつつみかくさずに言ったのだが。
 一種の、賭けのつもりもあったのかもしれない。万が一この話が関に受け入れられたら、好きになってもいいのかもしれないと思えるようになるのではないかと。

「わかりません。……でも、用心してください。今までの話を信じてもらえるのであれば、今のところ私たちのしてることが追っている誰か、にバレている感じはしないですけど」

 言いながら、追っている誰かを追っている怪盗団、にはなんとなくバレているような気がするけど、とちとせは心の中だけで付け加えた。メメントスのことも、今、何が起ころうとしているのかも関には言わなかったのだ。言って、無駄に心配をさせるわけにもいかないだろう、と考えてのことなのだが。

「わかった」

 たっぷり間をとって、関は一言だけそう言った。なんとなくちとせは関の顔が見れずにうつむいたまましばらくいれば、ふと空気の動く音と同時に、ちとせの頭に何かが乗る感覚。その乗った何か――関の手は、ちとせの頭を優しく撫でて「ありがとう」と一言だけ言った。
 思わずそれにちとせは顔をあげると、優し気な目をした関と視線がまざる。思わぬ優しいその視線に、ちとせは一瞬うろたえる。と、その間も関の手は優しくちとせの頭を撫で続けていた。

「話すのに、随分勇気がいる内容だったから。それと、俺を信用してくれて」
「……関さ」
「桐条、腹、減らないか?」
「えっ」

 思わずじわりと泣きそうになったのだが、急に変わった話題と離れていく手を見ながら、ちとせは首をかしげていた。お腹が減らないか、と言われ意識をお腹へもっていけば、確かに空腹感はある。「へりました……」とわけもわからず言えば、関は柔らかく笑って「どこか食べに行こうか」といつもの調子で言った。
 え、ともう一度ちとせがいえば、今度は関が首をかしげて「どうかな」と笑う。
 いつも通りのそれに、ちとせは胸の奥になにかが広がるのを感じた。できることがあれば手伝おう、や、大変だったんだな、なんて、そんな言葉をかけるわけでもなく、当然のようにちとせの言葉を受け入れた関に対して、胸の奥になにかがひろがっていく。
 関の手が届かない場所での話だったことを、関は理解して、ただ受け入れた。ただそれだけのことだ。拒絶されると思って、諦められると思って、それでも関に賭けてみたくて話した内容を、ただ、受け入れただけのことが、ちとせにとってひどく嬉しかった。

「お、おなかすきました!」
「なら、どこか食べに行こうか。最近また徹夜だったんだろう?青山が心配してたよ、食べてないんじゃないかって」
「うっ、い、樹くん母親かってレベルで私に食事摂れっていうんですよね」

 一応ちゃんと食べてるんですよ、とちとせは言ったが、そのあとにつづく「菓子パンとかを」という言葉はぐっと飲み込んだ。オフィスにこもりきりの時はほぼ食べずにいるし、外に出てもルブランに行くきりのためよくてカレーを食べる程度だった。今日の休みのために、ここ一週間ほどずっと。ルブランでたまに会う女子高生にも「あれ?痩せました……?」とつい先日は言われてしまったのだが。

「車で来てるし、早い時間だから少し遠くでもよさそうだな。俺のおすすめのところでも?」
「は、はい、大丈夫です」

 立ち上がる関に続いて、ちとせもあわてて鞄をもって立ち上がる。いつも通りに接する関に、ちとせは家の鍵をかけてから「ありがとうございます」と言えば、関は「俺が行きたいだけだから」と目を細めて笑った。そっちじゃないんだけどな、と思うものの、そうとられるようにお礼を言ったのも事実なので、ちとせはそのまま関について関の車へと乗り込んだ。

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