久慈川りせの護衛の件での相談があり、関は警察署内にある特別捜査支援課を目指していた。最近は基本的にマトリ側で書類仕事をしていることが多いちとせではあったのだが、本来の仕事である支援課のほうが立て込みだすとマトリのデスクでは都合が悪いと、一日中支援課で仕事をしていることもある。今現在もその”立て込んでいる”最中であるらしく、ちとせの上司である支援課課長の石動も別件で出払っているらしい。ちとせいわく「ここ一週間メモでしか存在を確認していない」ほど姿を見ることがないのだと言う。
 基本的に支援課は、課長である石動とちとせでまわっているも同然である。書類仕事、他の部署との連携。その他もろもろの警察署内での仕事はこの二人が行っていた。
 他の人員も書類仕事をすることはあるのだが、どちらかといえば外に”危険ではない”情報を集めに行っているほうが多いのだ。その情報も、ちとせと石動で整理し、誤魔化せるものは誤魔化して一課にまわすこともある。
 デスクはいくつかオフィスにあるものの、その姿を見たことがない、というのも支援課を心霊課と呼ばせる所以になっている。もちろんそのデスクの上も、床も、何かよくわからないスペースも、基本的に支援課は書類に埋もれているためどこにデスクがあるのかは当人たちにしかわからないのだが。
 そんな書類だらけなうえ、ちとせと石動以外を見ない課に、関は足取りも軽く向かっている。他の課、もしくは部署から言わせてみれば「あの部屋こわい」「窓ないし」「かわいい子は入ったけど」「ゴリラ飼育してるって聞いた」など妙な噂話があるため近寄りたくない部署ナンバーワンだ。そんな場所に足取りも軽く向かっているのは、そこにちとせがいるから、が関にとっての一番の理由だった。
 先日、ちとせから支援課のこと、ちとせのことを聞いた関は、驚きはしたものの、だからといって何かが変わるわけでもなく、いつもどおりちとせに接していた。だが、話を聞いて、関はちとせのときどきおとなびた表情をする理由も、さみしそうな目をする理由も、がむしゃらにただ前だけを向いている理由も、そしてやたらに強い――それこそゴリラと称されるほど――理由も、すべてに合点がいったのだ。ああ、なるほど。そのすべてが、今の彼女を作ったのか、と。
 それと同時に、以前からちとせに感じていた、胸の奥でずっとくすぶっていたものに、関は名前をみつけた。見つけていたが、見ないふりを続けてきたそれを認めた、というほうがいいのかもしれない。
 頑張っている姿を見ると甘やかしてやりたくなり、そのまま自分の腕に閉じ込めて泣かせてやりたくもなる。笑顔でいてほしいのに、泣くところも見たくなる。いろいろな表情を見て、隣で過ごして、そのまま隣にいてくれたらいい。矛盾していたり、身勝手だったりする想いにしていた蓋を、関はちとせの話を聞いてやっと外すことができた。

「有里さ、やっぱりだれかと付き合ったりしないの?」

 廊下の角を曲がり、支援課のドアがある少し向こうにある自販機スペースから話し声がして、関は思わず立ち止まっていた。聞いたことのない男性の声に、関は思わず曲がった角を逆戻りする。ここから出て近づいていけば、自販機スペースに近づくものの姿は見ずに支援課には入れるだろうが、ノックは確実にするためその音でその会話を止めてしまうことにはなるが。
 職場でどういう会話を、と思うが警察署内であるためそれを強く言えるわけでもない関がどうしようかと考えあぐねていると「えーだって私仕事が恋人みたいになってるもんなー」と元気のいい声が聞こえてきて、完全に動きを止めた。
 今まさに会おうとしていたちとせの声に、関はふと息をつめる。有里?という疑問が胸の奥に沸いた。
 息をつめたもののバレても問題はないうえに、立ち聞きしていたほうが悪いな、と今すぐ出ていって素知らぬふりをしてノックをすればいい。そう思って一歩出ようとすれば、男の声が「俺とかどう?」と楽し気に、けれど真剣みを帯びた声音で言った。

「仕事が恋人の私を狙ってるっていうのね!これじゃ私浮気だよ!」

 冗談めかして言うちとせの声だったが、関はやはり出ていくことができずにそのまま立ち聞きすることになってしまった。冗談で流そうとしているらしいちとせの意思はわかったが、男の声はあきらめることなく、むしろますます真剣みを帯びて「有里」と、ちとせへ向けて言う。
 さすがにそれは茶化せないと思ったらしいちとせも、そのまま黙ってしまい、どうやら男の話を聞くことにしたらしい。

「冗談じゃなくて、本気で。俺と付き合ってほしいんだけど。……中学の頃からさ、好きだったよ。見てて痛々しくて、なんとか元気にしたいって思ってたら転校してさ。もう会えないんだろうなって思ってたけどまさか同期とは思わないし。今の有里はあの頃と比べたらそりゃ元気で、転校してよかったんだなって思って」
「うん」
「けど会って話していくうちに、やっぱ好きだなって思って。……だからさ、俺と付き合ってほしい」

 真剣みのある声の中、最後の一言だけはどこか照れたような響きに、立ち聞きをしていることをこんなにも後悔するなんて、と関は思っていた。本気の声だろうそれに、喉の奥が詰まったような感覚になる。足を動かして、どこかで時間をつぶしてまた来ればいいだろう。そう頭では思うのだが、関の足は一向に動く気配がなかった。
 沈黙しているちとせが、どんな表情をしているのか、関にはわからない。照れているのかもしれない、断る理由を考えているのかもしれない。ちとせへの気持ちを認めた瞬間にやめてほしいな、と自嘲めいた笑みを浮かべたが、そのあとに続いたちとせの言葉に、関はさっきとは違う意味で固まることになる。

「……私、好きになりそうな人がいるんだ。気持ちは嬉しいけど、ごめんね」

 真剣なちとせの声に、男が「好きになりそうな人?」と疑問を飛ばす。

「有里、告白断る時いっつも好きだった人がいたから、って断るって聞いてた」
「それ聞いて告白したの?」
「言わないで後悔したくなかったし、なんかふられたけど、有里にそういう人ができるって思ったら安心した」

 呆れたなあ、と笑うちとせの声はまだ緊張感は抜けていないものだったが、それでも何か吹っ切れたように小さなため息をついた。しょうがないな、と言いそうな、それでも暖かい何かを感じる声だ。
 男のほうも断られるとわかっていたのか、話す声にとげがあるわけでも、なにか未練のようなものがあるわけでもない。どちらかといえば、断られること前提で言った、というような空気さえ感じるほどだった。

「言わないで後悔かあ、いや、ほんとにそうだと思う。……伝えてくれてありがとう、ほんとにね、嬉しいんだよ」
「知ってるって。……あのさ、答えづらかったらいいんだけど」
「うん?」
「好きだった人のこと、忘れられたってこと?」

 好きだった人がいたのか、とか、好きになりそうな人がいるのか、とか。自分は知らないのにあの男は知ってるのか、とか。いろいろなことが関の頭の中を巡るが、男の質問が聞こえ、関はまた意識をそちらへと戻す。ちとせはしばらく黙ったまま何か考えていたようだったが、ふ、とため息をついた。表情は見えないためどんな表情をしているのかはわからないが、関はじっと気配を消したままその続きを待つ。

「佐川だから言うけど、忘れることは絶対ないと思うんだよね」
「まあ、そうだよな」
「誰のことかわかってるって感じだ」
「そりゃ、実際見てるしなあ」

 喉の奥で楽しそうに笑う男――佐川に、関はまたもやもやしたものを感じた。ちとせの好きだった人を知っているのか、と。昔のちとせを知っているのか、と。立ち聞きではあるものの、話を聞いているうちに佐川とちとせが中学の同級生だろうことはわかったものの、それでも関の中で消化しきれない何かがあるのは確かだった。

「私は私が生きてるかぎり、その人たちのこと忘れることなんてできないよ」
「……でも、今は好きな人がいるんだろ?」
「す、すきになりそうな人だよ!」

 なんでコイバナしてるんだろ!?とちとせは照れたように笑っている。好きになりそうな人がちとせにいるという現実だけでまた、関の中に吐き出せない何かがたまっていく。支援課までの道のりは足取り軽くやってきた関だったが、今は鉛のように重い。帰れもせず、出ていくこともできないのだ。はあ、とため息をつきたい気持ちをなんとかこらえ、関は表情を引き締める。と言ってもほぼ表には出ていないので、その変化も微々たるものではあるのだが。

「どんな人?とか聞いてもいい?」
「佐川なんかぐいぐい来る……」
「ふられた男のわがままだと思って」
「なにそれ」

 くすくす笑うちとせの声に、佐川もくつくつと楽し気に笑っている。告白をして、告白をされた男女の会話だとは聞いていて到底思えないそれに、関はやはりため息をつきたいのをこらえていた。それだけの信頼関係が、ちとせと佐川の間にあるのだろうということを、まざまざと見せつけられている気分だった。関の知らないちとせが、そこにいることに、多少なりともショックを受けていることもある。誰にも言えない秘密を打ち明けられ、ちとせを知ったような気持ちになっていた自分に、少々浮かれすぎだ、と自分で叱咤をした。

「誰にも言わないでよ」
「言わないって」
「……今、仕事でお世話になってる人でね」
「え、石動さん?!おまえいくらおじさん好きだからってさすがに」
「ちっがう!そりゃ課長は渋くてほんわかした最高のおじさんだけど!結婚したい男トップファイブに入るレベルだけども!」

 お互いに笑いを含んだ会話に、関はやっと足を動かそうとする。あとで来ればいいだろう、と。ちとせのすきなひとの話を聞いて余計にヘコむ必要性もないし、ここで時間をつぶさなくてもいいだろう、そう思って。一歩、踏み出しかけた時にちとせ言った言葉に、関は足をとめた。仕事でお世話になっている人、と言う。
 ちとせは、今現在マトリとしか連携をとっていない。支援課の中でもありうるが、支援課で石動とちとせ以外の人間を見たことも、ちとせが支援課の中で親しく誰かと話しているのも関はほぼ見たことがなかった。そして仕事で世話になる、ということは、マトリのメンバーも含まれていることになる。動かそうとしていた足は、自然と止まっていた。

「……この間、墓地でたまたま会って。お墓参り一緒にしてくれたんだ」
「……有里さんの?」
「うん。そのあと、まあ、いろいろあって、私のこと話して。嫌われたらそれでその人のことは諦めようって思ってたんだけど、そのあともびっくりするくらいいつも通りでね!……なんか、ああ、……すきになってもいいのかなって、思って」
「うん」

 佐川のうん、という言葉がひどく優しいだとか、有里さん、という苗字だとか。いろいろと思うところはあったのだが、関の内心は、それどころではなく。ぐるぐると回るちとせのすきなひとの話に、思い当たるのは一人しかいないのだ。まさか、という気持ちと、本当に?という気持ちが交互に浮かんでは消えていく。

「……俺さ、しばらくはやっぱ有里のこと好きだと思うんだよな」
「うん」
「でも、そうやって誰かを好きって言ってる有里のこと、好きだなって思うから、なんか末期だなって思ってる」
「ねえ佐川ちょっと優しすぎない?」
「お、惚れてもいいけど?」
「あはは」

 楽しそうに笑うちとせの声に、関はさっきとは違う意味で動けなくなってしまっていた。足が動かず、さっきまであったもやもやとした気持ちではないものが胸の奥にじんわりとひろがっている。が、いつまでも廊下で立ち聞きをしているわけにもいかず、関は顔を引き締めると、意を決して一歩、支援課のほうへと足を踏み出した。話も途切れているし今がチャンスだろうと思ったこともあるのだが、タイミングが良かったのか、関が角から出たところで、自販機スペースからちとせと佐川が出てきた。驚いたような表情をしたちとせが「せ、関さん!?」と声を出せば、隣の佐川はぺこりと関にたいして「おつかれさまです」と礼儀正しくお辞儀をする。背が高く、短く切った黒髪のさわやかな印象をうける青年に、関も「おつかれ」と笑う。

「丁度よかった、明後日の件で相談したいことがあって」
「あ、はい!書類よけるので、課の中でよければどうぞ!」
「じゃあ"桐条"、また」
「うん。佐川、ありがとう」
「おー。今度中学ん時の同級生と飯でも行こうな。みんな会いたがってたし」
「! ほんと?また連絡して!」

 そう言って大きくちとせは手を振ると、佐川も片手をあげてから廊下の角を曲がって姿を消した。ちとせはなにごともなかったように課のドアをあけてから「どこの書類よけようかな……」と小さく呟く。顔を覗かせて支援課の中を見てみれば、いつも通りに書類は積み重なっているし、ところせましと置いてある書類を片づけるような場所が果たしてあるのかと関ですら疑問を抱くほどだ。
 しかしちとせはまあいいか、とちいさく呟いて縫うように書類の間を通っていくと、いつもちとせが座っている、比較的書類の少ないデスクの前へと関を誘導した。それに続いて関も書類を崩さないようにちとせへついて歩き、どこからか持ってきたらしい椅子をすすめられて腰掛けた。
 デスクの周りは他と同じく山積みの書類があるものの、デスクの上にはパソコンがあり、その横にちょこんと置いてあるかわいらしいメモスタンドにはかわいらしいメモが挟んであった。そしてメモスタンドとは逆に置いてあるガラスでできた小物入れには飴やお菓子がいくつか入っている。普段ちとせのデスク付近に近寄ることのない関は、ちらりとそれを見て目を細めた。いつもであれば書類の間をぬってちとせが出入口までやってくるのだが、今日の話の内容的にそういうわけにもいかない。

「相変わらずだな、書類の山」
「片付かないんですよねえ、優先順位の低いやつはどうしても」

 言いながら、ちらりと全く崩れない書類の山を見てちとせは一瞬遠い目をする。が、すぐに持ち直し「明後日ってりせちゃんの件ですよね」と話を仕事へと向ける。そこからいくつか明後日の動きを確認して、流れも確認する。仕事の話だからか、ちとせは普段通りで話をして、関自身も仕事の話をしている間は特にさっきの話を思い出すこともなかったのだが、一通りの確認が終わり、これで離れるのも、と思った関から「久慈川さんは桐条の後輩だっけ?」という質問が飛び出していた。
 そうなると雑談に話は入り、ちとせが嬉々としてりせが可愛い、もう一人後輩の女の子が可愛い、高校の時のエピソードなど楽しそうに話し出す。時折関に話を振っては楽しそうにしているちとせを、関は目を細めて眺めていた。くるくる変わる表情に、時々身振り手振りを加えて話す様子が、心底から可愛い、と思って。
 楽し気に話していたちとせが、ふと、関と視線を合わせる。と、一瞬、ちとせの視線が泳いで、けれどすぐに関に戻って「すごくおもしろかったんです」といつものように笑う。視線が泳いだのも一瞬で、ちとせのことをよく知らない人間からしてみたら気付きもしない変化だったのだが、おや、と関は思った。
 ちとせが、合った視線をよけることは珍しいのだ。けれど特に何かをしていたわけでもなく、ただちとせの話を楽しいと思って相槌をうちながら聞いていただけのことで。

「関さん、聞き上手だから話過ぎた気がします」

 言いながら関を見るちとせは、いつもどおりに笑っていたが、その瞳が照れをふくんでいるのを見つけて、関は口元を不自然に見えないように手で隠した。目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ、と思う。目があって、ちとせは照れて視線を泳がせたのだろう。そういう結論に至り、関はにやけそうになる口元を必死におさえ、万が一があっては、と思って手で隠す。関自身が優しい表情でちとせを見ていたことには気づかずに。
 
「いや、桐条の話を聞くのは楽しいよ。また聞かせてほしい」
「わ、私でよければ」

 今度こそ恥ずかしそうに笑うちとせに、関はいっそう目を細めて笑う。俯きがちに笑うちとせの表情がもっと見たい、と思い無意識でちとせの頬に手を伸ばし、自分に向けるように誘導すれば、驚いたような表情のちとせと視線が合った。途端、ぶわ、と頬を真っ赤にしたちとせが「せ、せきさん、あの」とたどたどしく口にする。あ、まずい。そう思った時には関の手がちとせの肩にふれて引き寄せよう、とした瞬間、関のスマートフォンが着信を知らせる。
 内心助かったと思いながらも、関は苦笑をして「それじゃあ桐条、また明後日。迎えに行くよ」と言って支援課から出る。電話の相手は青山樹で、本当にいいタイミングだった、と思いながら「もしもし」とその電話に出た。

「な、なんだったんだ、い、いまの」

 真っ赤になったまま頭を抱えるちとせは、書類整理も思うようにできず、その日一日使い物にならなかった。

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