満月だ、と意識をしてしまうとどうにもいけない。
 早くこのもやもやした気持ちを感じずにいられたらいいなとは思うのだけど、一度意識してしまえばもうそこまでで、私はいつも一人でふらふらとどこかしらに行ってはぼんやりと月を眺めているような気がする。これでも、昔よりはずっとましになったほうではあるんだけども。
 もちろんそれは仕事がたてこんでない時だけではあるのだけど、課長も、姉さんも、まわりの人たちほとんどが私のことをわかっていて、それが近くなると私に仕事を回さないようにしているのはよくわかっていた。
 満月の日は昨日だった。だから仕事を終わらせたら誰に何か言うわけでもなくふらりと職場を出て、昨日はそのまま辰巳ポートへ行き、ふらふらと歩いて神社でぼんやりしていただけだ。明け方になって家に帰って、ちょっと寝て、それから今朝は仕事へ何事もなく行って。いつもと同じその行動の中、ひとつだけ違ったのが私のスマートフォンだった。
 課長たちも遠慮して私に本当に急ぎの用がない限り電話もメールもしてこないのだけど、昨日は違ったのだ。電源を切っておくとさすがにちょっとな、と思って電源はつけたまま、だけどメールも電話も返さないのがいつもの満月の日の過ごし方なのだけど。
 なり続けるスマートフォン、今どこにいる、と届くメール。まあそれも深夜になったらぴたりと止まって事なきを得たわけで。

「降谷さん怖すぎる……」

 神社の中、一人ぽつりとつぶやいたそれは誰に聞かれることもなく消えていった。なんかあったっけ、こないだ公安に回した書類の件?でも間違ってたとしても、何か質問があったとしてもどう考えてもあれは急ぎの案件じゃない。
 じゃあ恋人のフリの件?いやでもあれは風見さんとだから降谷さんから直接連絡をもらうことはそうないし、あれも急ぐような内容ではない。
 今日は賑やかだなあ、と鬼のようにかかってくる電話を無視していたため今日出勤してから大目玉を食らうのかと思ったのだけど、案外そんなこともなく。というか降谷さんには会ってない。昼間はポアロにいるし、今日は私も外にはルブランに行っただけだった。だから会うこともなく一日が終わろうとしているんだけど。

「うーむ」
「桐条さん」
「ん?」

 半年に一回あるかないかという、定時ちょっとすぎに退社できるという恐ろしい事態になったため、何も心構えはしておらず今日は家で何か作るのも面倒だしコンビニでいいかと思ってコンビニのお弁当を眺めていたら不意にかけられた声に、私はお弁当を見ていた表情のまま振り返っていた。
 ら、そこには少しだけ疲れた様子の風見さんが立っていて、思わず私はたたずまいと表情を直した。かっかざみさんなぜこんなコンビニに!!いや警視庁近いけど!!

「風見さん!お仕事終わりですか?お疲れ様です今日も素敵ですね!」
「あ、ああ……、桐条さんは?今日は……」
「今日は奇跡的に仕事が終わりました、というか課長に帰れって追い出されたっていうか」

 昨日が満月だったから気を遣ってくれているのか、もしくは鬼電してきた降谷さんに見つかる前に早く帰れということなのかはよくわからなかったけど、課長に職場を追い出されるように退社したのは事実だった。
 そして気付く。これは、こないだ居酒屋行きたいなって思ったあれを実行できるチャンスなのでは!?思うが早いか、私は風見さんに一歩近づいて風見さんを見上げた。

「風見さん、これから暇だったらごはん行きません?今日は私のおごりで!」
「いや、さすがにそれは」
「だっていっつも高級なところ連れて行ってもらうし居酒屋くらいなら、こう、仕方ないなって言ってもらいたいっていうか!」

 男として、とかいろいろ考えてしまうとは思うのであまり無理強いはしないけど、風見さんはどうも私の勢いに押されたらしく、風見さんは「わかった」と苦笑交じりに言ってくれた。よし、勝った!
 今日は平日だし、予約とかしなくても適当に居酒屋に入ればいけるだろうけど!ここから近いっていうとどこがいいだろうな居酒屋なら結構知ってる自信はある。おしゃれなお店から小汚いけど味はピカイチなところまで、みんなによく連れて行ってもらうし!

「な、なんかここがいいとかあります!?」
「いや……桐条さんが食べたいもので構わない」

 風見さんの優しい笑顔に「最&高です」と心の中で大喝采を送り、私は近くにあるいくつかの居酒屋を思い出し、とりあえず個室があっておしゃれすぎず、かといってまずいわけじゃないところへ行くことにした。
 顔を見られると微妙かもしれないしな、いやでも降谷さんじゃないしいっか。と思わなくもないけど顔を見られないに越したことはない。一応公安の警察官と、一介の警察官ではあるけど桐条家の次女ポジションの私ではあるわけだし。
 風見さんをつれて、もはや顔なじみになりつつある店員さんに「個室あいてます?」と尋ねたら、快く個室へと通してくれた。「今日はいつもの人たちじゃないんですね〜!彼氏ですか?」という言葉までいただいてしまったが、それには曖昧に笑ってごまかしたけど。違うけど違うとは言えないこの気持ち!!風見さんもそうなのか、どうも、と一言愛想笑いをして部屋に入った。

「ひい、なんかすみません!ここの店員さん結構仲良くて」
「いや……」

 そういうと、風見さんはドリンクメニューを見ながら、つい、と私へと視線をやって、それからふと目を細めて笑った。あまりにも見ない類の優しい顔だったために呼吸が止まりそうなほどびっくりしたものの、風見さんは私の心を、当たり前だけど知らないためにそのままの笑顔で「君の人となりが見えるな」と言ってのけた。
 な、なんだこのご褒美は……。今日は私が風見さんをおごりたくて、いたわろうと思ったのに私のほうがナイススマイルをいただいてしまっている……。

「か、風見さん飲み物決めました?私はとりあえず生にしよっかなって思うんですけど」
「そうだな……では俺も飲もうか」
「おっ風見さんも飲んじゃいます?どんどん飲みましょ!」




 桐条ちとせという女性は、俺にとって未知の生き物と言っても等しい人物だ。
 今まで会ってきたどの女性にも当てはまらない、規格外と言っても過言ではない人物だと思う。
 真面目に仕事をしていると思えば勤務中に――仕事の一部だろうが――いつの間にかどこかの喫茶店へ行っていたり、俺の何を気に入ったのか会うたびに「すてきですね」「かっこいいですね」と堂々と投げかけてくる。
 かと思えば幼馴染二人と深夜の公園で遊んでみたり、明け方の河川敷へ行き石を投げてみたり。
 そしてそんな、言い方は悪いがふざけたことを全力で楽しんでいるタイプでもあるのに、仕事となればだれよりも強い。銀行強盗を一人でつかまえ、人質も無傷だったと聞いたのは桐条さんが警視庁に入ってすぐだった。
 ……ああ、彼女が警視庁に入ったのは今年頭だったか。
 警察学校時代の彼女をそういえば見たことがあったのだが、女性ながらに男性の中に混じっても引けをとらないどころか優秀な成績を収めていたのを覚えている。特に柔剣道や拳銃の扱いに関しては、レベルがほかと違いすぎた。
 そもそも彼女は"桐条家の令嬢が警察官になった"と騒がれていたため、警視庁はおろか公安内部でも少し有名だったのだ。そんな注目されている人物が優秀な成績をたたきだしていけば、さらに注目度も高まっていく。
 ――降谷さんも、警視庁に彼女が入る前から気にしていたのだ。優秀な人材であるなら公安に引き抜きたい、と。けれど裏から手を回そうが、彼女ははじめから入る場所が決まっていたかのように、今の課へと配属された。交番での勤務も免除されて、だ。
 あまりそれに異を唱える人間はいなかったが、異例のことと配属された課に、降谷さんが不信感を持ち、彼が急ぐ案件ではないだろうということで、片手間に桐条さんのことを調べ始めたんだったか。

 まあ、調べたところで出てくるものは当たり障りのないものばかりだったらしいが。しいていうのであれば、中学生の頃になぜか高校の寮へ入っていたりだとか、その頃、亡くなった知人が多いくらいだった。

「風見さんこれめちゃくちゃおいしいんですよ!あ、せせりとか大丈夫ですか?これこっちのタレにつけてですね……!」

 注文したくしの盛り合わせを見ながら、必死に桐条さんが俺にすすめてくるものを取って、口に運ぶ。個室、と聞いていたために少し緊張したが、どうやらそれは俺の緊張し損だったらしい。
 いつもの調子で明るく、せわしなく表情をかえながら桐条さんは今日あったことや最近見たものなどを話している。
 相槌をうつばかりの俺がたまに何か話せば、彼女はおしゃべりをやめてうんうんと頷き、まっすぐ俺を見て話しを聞いてくれる。降谷さんが彼女を調べているおかげでこうして話す機会が増えて、今みたいな彼女の好ましいところもよく見つけられるようになったと思う。
 話を目を見てするところだとか、気遣いのできるところだとか。そういうところが、俺は――。

「……」
「?風見さん?酔っちゃいました?」

 自分の思考に驚きが隠せなかった。取り繕うように「いや」と言ってビールを一口飲むが、この時ほど自分の表情が変わりにくいことに感謝したことはなかったと思う。
 今、一体何を考えただろうか。そういうところが?俺は?……そのあとに続く言葉はなんだというんだ。
 桐条さんと恋人のふりをしているのは、潜入調査のためだ。気持ちを引っ張られることはあってはならないし、勘違いも甚だしい。
 彼女が俺に投げかける「かっこいい」「素敵」という言葉は、もちろん本音ではあるのだろうが、そこに恋愛感情など一ミリも存在していないのは、それを向けられる俺が一番わかっているだろうに。
 俺に向けられる好意は、どちらかといえばアイドルや、尊敬している人間に向けられるものだ。決して、恋愛対象の異性、に向けられるものではないだろう。――それに。
 ふと、ひとつ年下の上司を思い出す。あれだけ気にかけておいて、何もない、というわけでもないだろう。
 聞くところによると経費で落ちるからと桐条さんにドレス一式も買ったらしい。経費で落ちるわけもないのに。
 それだけ入れ込んで、気にかけて、公安の中で回してもいい仕事を彼女にわざわざ回して。
 恋人役は俺にはなっているが、当日はスタッフとして降谷さん含めた何人かも潜入する予定だ。二人でも、むしろ俺一人でもできるかもしれない案件ではあるのだが、他の課の人間を協力者にしたからという配慮らしいが。

「君は……」

 言いかけた時、ちょうど店員が「おまたせしましたー!」とビールをもって来る。それに残念だったような、安心したような気持ちで思わず口元をおさえれば、桐条さんは「ありがとーございます!」とビールを受け取り、そしてちょうど後ろを通ったらしい女性が、その声に反応してか「あれ?ちとせ?」「ちとせちゃん?」と立ち止まった。
 それに桐条さんは驚いたような表情をして、その女性二人の顔を交互に見る。それから俺を見て、その視線をたどってきたらしい女性二人とも目が合った。
 一応、と思って頭を下げると、女性二人もこんばんは、とあいさつを返してくれる。……確か、岳羽ゆかりと、山岸風花だったか。彼女を調べた時の調書に、写真が載っていた気がする。

「てか、なんでこんなとこにいるの?今日って……」
「あ、ゆかりちゃん、それは昨日じゃなかった……?」
「でもいつもなら翌日とかも……」

 不信、というよりも、どこか心配そうに桐条さんを見る二人に、桐条さんは俺に一度目配せをしてから、立ち上がって二人へ近づいていった。それからそのままスライド式の敷居をしめて、廊下で何やら話しているようだった。
 昨日、といえば。いやに降谷さんが、不機嫌に桐条さんを探し回っていた。かと思えば、今日の夕方見かけた降谷さんはどこか考え込むような顔をしていたが……。

 しばらくしたら「また連絡してよね」という女性の声が聞こえて、桐条さんが「すみません風見さん!」と土下座をする勢いで帰ってきた。それに「気にしないでいい」と伝えると、それでも彼女は恐縮したように「ありがとうございます」と体を縮める。

「中学の頃の……えっと、知人なんですけど、って、知ってるか……」
「……君は、どこまでこちらのことを?」
「え?うーん、降谷さんが私のこと調べたっていうのはまあ、知ってます。あとは降谷さんが知ってる内容も」

 えへへ、と照れたように笑う桐条さんだったが、言っていることは決して照れるようなことではない。公安の内部事情を知られているということだ。
 ……決して敵ではないし日本を害する組織ではないが、用心するに越したことはない、と言っていた降谷さんの言葉を今更ながらに思い出してしまった。侮れないのだ、この、桐条ちとせという女性は。
 明るく元気な印象ではあるものの、デスクワークや情報収取能力にもずば抜けて長けているのだ。あの課の中では石動さんがそうであるように、彼女もまた、あの課の人柱なのだろう。

「まあ、大したことはしてないからいいんですけど」
「え?」
「命の危険があるのなんて、風見さんたちだって同じだし、"そのせい"でだれかを亡くしてしまうのだって同じだし。なんにも、大したことはしてないんですよ」

 だから調べなくても、悪さなんてしませんよ。言いながら、残ったビールを一気にあおると、桐条さんは「ぷはー!もう一杯!」と呼び出しのボタンを押した。
 いつも通りの桐条さんだ。けど、どこかさっきの言葉は、自分に、桐条さん自身に言い聞かせているような、そんな気がした。

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