中学、高校、大学、そして社会人になってからも。
ちとせは、圧倒的に恋愛という部門の経験値が足りていないことを、婚約者である桧山家主催のパーティのあと通された貴臣の部屋で痛感することになった。
元はと言えば家同士の繋がりのための、形だけの婚約である。いつ破談させてもいいようなものだ、というのは初めて貴臣に会う時に美鶴から聞いていた。
そのためちとせは滅多に麗しすぎる婚約者──貴臣に会うことはなかったし、正式に婚約して八十稲羽へ行ってからも月に一度会えばいいほうだった。貴臣は忙しく、ちとせのための時間の捻出もままならなかったのだ。それにちとせもちとせで、貴臣に使う時間は、学生時代はあまりにも少なかった。
おかげで高校、大学共にペルソナ関係の事件に費やせたり警察官になるための勉強に費やせたりと身勝手に過ごせていたのだが。
「た、貴臣くん……そのう……」
「ああ、すまない。紅茶をいれさせよう」
「あっいや、それは私がいれるけどね!?」
さすがに黙ってこの空間を二人で過ごすことが耐えられそうになく、ちとせは通された貴臣の部屋で聞きたいことも聞けず、紅茶をいれることにした。
動くのに邪魔だったのだろう、貴臣はパーティ用である高価そうなジャケットを脱いでソファの背もたれへ無造作にかけ、動きにくそうなワンピースを着たままのちとせへ視線をやる。
なぜ貴臣の部屋に共に通されたのか。なぜベッドの上に男性用と、女性用らしきパジャマがあるのか。そしてソファに座っている貴臣とちとせの距離がどうしてこんなにも近いのか。
貴臣の部屋自体は何度も入ったことがあるが、夜、パーティのあとというのは今までにないことである。
破談させてもいいはずの婚約者、の距離感ではない。真隣に腰掛けている貴臣は、ちとせの作業を興味深そうに見ているだけでそこに色っぽいものがあるわけではないのだが。
いかんせん経験値がゼロのちとせは夜、婚約者の部屋、二人きり、近い距離、というだけで妙に緊張してしまうのだ。いくら貴臣がドのつく天然だとわかっていても、である。
そもそも破談させるはずの婚約が、約五年も続いていることにいくらちとせでも疑問を抱いている。
抱いているからこそ美鶴に聞いたこともあったのだが、それについては苦笑されて終わるだけだった。
そろそろ解消してもいいんじゃ? 貴臣くんは私みたいな似非お嬢様よりもっとちゃんとしたご令嬢をお嫁さんにする方がいいんじゃ? と思っていても、姉の美鶴にすら苦笑されて終わるために言えないちとせである。
紅茶を淹れ終わり、貴臣の前にカップを置けばありがとう、と一言返ってくる。
そして普通に紅茶を飲む貴臣の横に、ちとせはおずおずと腰かけた。さすがに隣に座っておいて、場所を変えるのもおかしな話だと思ったのだ。
「えーと……貴臣くん、私なんでここに連れてこられたんだろう」
ちとせがようやくそれを言えたのは、パーティの話や当たり障りのないいつも通りの会話をしてしばらく経ってからだった。
あまりにもいつも通りすぎて一瞬流されそうになったものの、ふと我に返った自分をちとせは褒める。
貴臣もそれで気づいたように、ああ、と返事をするとカップをテーブルへ置いた。改まった話だろうか、と肩に力を入れるちとせだったが、貴臣はじっとちとせを見つめ、そうだな、と謎の納得をした。
「……?」
「婚約もそろそろ五年になるな」
「あ、うん」
「いい加減結婚に向けて動いた方がいいだろうと思っている」
「ああ、なるほど……、……えっ!?」
破談の話か、と思ったのも束の間である。予想外の言葉を吐かれ、ちとせは目を丸くした。
貴臣は驚くちとせに首を傾げているが、首をかしげたいのはちとせのほうだ。
「け、けっこん!?」
「不仲でもない婚約者で結婚を視野に入れるのは当然だろう?」
「そ、そりゃそうだけど!」
ド正論である。
しかし婚約はいずれ解消を、と聞いていたはずだ。それは桧山、桐条共に合意していたはずだった。
そのため麗しすぎる婚約者からの、愛しい婚約者という役をするちとせへのリップサービスや、勘違いしそうな諸々、を飲み込んできているのだ。好きになるな、と思っている時点で負けているのもちとせは重々承知である。
そもそもちとせは誰とも結婚する気がないとはいえ、貴臣は違うだろう。早いところ本当に好きな人を探して一緒になった方がいいとちとせも常々思っているのだが。
それがどうして結婚の話になっているのか、ちとせはぐるぐると考えるがいかんせん情報が少なすぎてどうしようもない。
「え、えっと、……こ、婚約した時、ほら、最初はなんか、いずれ解消するとか言ってなかったっけ?」
「あれは……、いや、きちんと伝えていない俺も悪いのか」
「え、ええ?」
何かちとせが聞いていない重大なできごとでも桐条に起きたのではないか。少し不安になったのだが、貴臣の表情はそういった類のものではない。
穏やかで、どこか少し緊張したようなそれになんとなく緊張して、ちとせもぐっと拳を握った。
「俺が」
「……貴臣くんが?」
「ちとせを手放すのが惜しくなった」
「…………えっと」
ともすれば告白にもとれる発言だ。
しかし相手はあの貴臣である。仕事上では先の先まで計算をして発言することはあるものの、少々どころかドのつく天然、ましてや仕事相手ではない小娘のちとせ相手である。
真意をはかりかねてしまう。
真摯な表情で、ちとせの手を握り、真隣で訴えるような視線をちとせへ送っていても、だ。
「桐条の当主にも、もう伝えてある。さすがに日取りまではまだちとせと話す必要があるとは思って何も伝えてはいないが」
「エッいや待って! お、おち、おちつこう貴臣くん、なんで急にそんな話に!?」
確かにちとせは桐条の令嬢である。
が、恋愛感情もなく、会うのは桧山に誘われる食事や義務的なデートのようなものに、エスコートが必要なパーティ。
仕事柄深夜まで働いているちとせを貴臣が迎えに来て家に放り投げて帰ることや桧山家に連れてこられ甲斐甲斐しくメイドに世話をやかれることもあった。
貴臣の所属しているRevelのメンバーともしばしば酒の席を囲んだりもしていた。
だが、そこにそういった、婚約者特有のいちゃいちゃ甘々したものはなかったはずである。ちとせから貴臣への気持ちはどうあれ、貴臣からちとせへの気持ちは妹をかわいがっているものだとずっと思っていた。
挙句ちとせが深夜の公園で幼なじみたちと無邪気に遊んでいるところも見られたこともある上に、巻き込んだこともあった。余計なところしか見られていないのに告白などありえないだろう。
言葉の意味が知りたくて、思わずギュッと握られた手に力を入れると、貴臣はふっと花がほころぶように笑った。
ちとせが密かに心の中で呼んでいるキラーイケメンスマイルである。
婚約してしばらくしてから頻回に見るようになったその顔で笑われてしまえば、あまりのイケメンぶりになんでもイエスと答えてしまいたくなると、ちとせの中で最も注意すべき表情だった。
もはや惚れた弱みだ。
「そばにいて欲しいからだが」
「うっ……」
とびきりの笑顔で言われ、喉からうめき声が出た。仰せのままに、と言いたいのをなんとか我慢して、ちとせはいや、あの、と恥ずかしさのあまり視線をうろうろとさまよわせる。
エスコートするための接触ではなく、手を握られる、というのも滅多にないため恥ずかしさで頭が沸騰しそうになっていた。
「いや、貴臣くん、それじゃなんか告白みたいになっちゃってる……」
否定の言葉がほしくて言ったのだが、ちとせの予想に反して貴臣から返ってきたのはちとせの期待した反応ではない。
「そのつもりだった……いや、伝わらなかったのなら謝罪しよう。ちとせを好きだから、俺のこともひとりの男として見て欲しい。ちとせが大切だから離れがたく、破談なんてもっての外だと思った」
「えっ」
まさかの肯定に、ちとせの開いた口が塞がらなくなった。おまけに肯定以上のものを全力でぶつけられ、オロオロとちとせの視線はまたさまよい出す始末である。
「隠すつもりは無いからてっきりこちらの気持ちは筒抜けだと思っていたが……やはり言葉にしないと伝わらないことも多いな」
「た、たか」
「ちとせの仕事も、ちとせのしていることも、大切にしたいものも理解している。自由奔放なところも、自分の抱えるものへの強さも、弱さも。これでもそれなりに長く見てきたからな」
きゅ、と握った手に力を入れられ、穏やかできらきらした笑顔を向けられ、ちとせの頭がついに沸騰した。
顔と言わず全身真っ赤になっているであろうそれを気にすることもできず、ちとせは真っ白になった頭のどこか遠く片隅で、己の恋愛経験のなさを呪う。
今まで生きてきた二十年やそこらの人生ではあるが、ほとんどを戦いの中で生きてきた。恋愛など挟む余地もなく、である。
あったとしても、今の自分の年齢でここまでのプロポーズまがいのことをされるとも思っていなかった。
目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので。
貴臣の目が、愛おしそうに細められたのを見てしまい、ひゅ、とちとせは変な息をする。ここ最近よく見るようになった目だった。
「た、貴臣くん、あの、ちょっと待って私の頭がついてかない!」
「赤いな」
空いた手で赤くなった頬を撫でられ、ちとせはやはり喉からひゅ、と変な呼吸音を出した。が、それさえも貴臣は笑顔で見ているだけだ。
「俺はちとせ意外と結婚するつもりはもうないし、ちとせも最初言っていたように誰とも結婚をする気がないのなら俺にすればいい。不自由はさせない。……俺が本当にただ兄としか見られていないのならそんな反応もしないだろう? 男として見て欲しいし、好きになってほしい。ちとせがイエスと言うまでは……そうだな、好きになってもらうように動こう」
握った手をゆるりと解くと、貴臣はそのちとせの左手を持ち上げて、薬指の先に軽く唇を寄せた。
イケメンじゃなきゃ様にならない、とドラマで見ながら思っていた行動を目の前の見目麗しい婚約者がしていることに、ちとせは言葉も出ず。
ドラマの俳優なんて目ではないほどに様になりすぎているのだ。なんなら貴臣のほうが似合っているような気さえしてきている。
「まだ学生だったちとせにRevelのことで情けないところも見られているし、助言までもらったこともある身としては……いい所だけを見せたいというのももう難しいか。俺自身のことでも随分世話をかけている」
情けないところってどれだ!? と思うが混乱した頭では考えられるはずもない。
世話をかけられたと思ったことなどほぼほぼないため、そもそも該当する事柄が頭の中で何もヒットしないのもあるのだが。
愛おしそうにもう一度薬指へ唇を落とされ、貴臣の視線がちとせへと固定される。
が、ちとせの表情といえば、真っ赤になって口をぱくぱくとさせているだけだ。
「……ふっ、はは」
「……!? わ、わら、笑いごとじゃないから!」
「いや、あまりにも可愛くてつい」
みっともない顔をしている自覚はあるため、それを可愛いと称されちとせは右手で心臓をおさえる。
今まで受けてきたリップサービスでもここまでの破壊力はなかった。まだ、節度を保った婚約者、という枠を出ていなかったリップサービスだったのだと今、ちとせは身をもって自覚をすることになっている。
しかも今の話を聞き、リップサービスではなくわりと真面目な婚約者への口説きだったのだと知り、余計に混乱しかしていない。
そしてそれもあるため、自分も好きかもしれないとは言い出せない空気だ。そもそも自制していたため、ちとせの気持ちもひどく混乱していてそれどころではない。
「帰したくないな」
「え」
「いつものように泊まっていくといい。部屋は用意してある」
そこで言葉を切ると、貴臣はちらりと自分のベッドの上にある服を見て目を細めた。
それと同時にちとせの手を引き、腰を引き寄せる。一瞬何が起きたのかわからず、そのまま密着する形になった。
「いや、この部屋に泊まってもいいが、どうする?」
至近距離にある貴臣の目が、じわ、と細まる。その奥にある熱に、ちとせは一瞬呼吸を忘れたが、ぐ、と腹の奥に力を入れた。
本気で落としにかかっている。と頭の片隅の冷静な部分で考えるものの、九割以上が混乱しているために表に冷静さが出てくるわけもない。
「つ、つつしんで、べつのおへやをおかりします……」
ぎゅっと目を閉じて言えば、今度は貴臣のほうが言葉に詰まったように無言になった。腰を引き寄せている手には一瞬力が入ったが、それだけだ。
おそるおそる目を開けると、少し不機嫌そうな貴臣がそこにいた。
えっなんで!? さすがにこの部屋に泊まれは冗談だったでしょ!? と心の中だけで叫ぶ。
ちとせが混乱していてもわかる程度の、タチは悪かったが冗談だったはずだ。ちとせを帰らせないための、貴臣から掲示されたふたつの選択肢である。
その程度はわかる年数は付き合ってきているつもりだったが、わりと本気だったのだろうか。いやそれでもこの部屋に泊まるのはちょっと、などと考えている間に、貴臣はすっと立ち上がって、ちとせの手を引き立ち上がらせた。
それはいつもと変わらないエスコートの形だ。
「部屋まで送ろう」
「いや、すぐそこだから別に、あの」
「……次に俺の前で目を閉じたら、キスをすることにする」
「は……えっ!?!?」
「無防備なのはいいが、あまりしないようにしてほしい」
そんなつもりは微塵もありませんでしたが!? という叫びはちとせの心だけで叫ばれることになった。
キスしたいのを我慢してるのが不機嫌に見えただけのことであるが、一瞬可愛いな、と思ってしまったちとせも大概である。
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