あの盛大なプロポーズ事件以来、ちとせは貴臣に会わず二週間が経過しようとしていた。
 というのも貴臣の仕事も立て込み、ちとせはちとせで普段の業務に加えて、別の部署への手伝いという名の派遣も増えたためなのだが。
 ちとせの課のメンバーも、必要なフィールドワークに最低限を割き、それ以外はちとせと同じく他の課へ派遣へ出されている。
 もちろんシャドウの気配を逃さないための情報収集ではあるが、必要があれば潜入から情報収集から銃撃戦からとなまじ優秀な人間が揃っているが故に一から十まで駆り出されるのだ。
 そしてその事後処理をし、自分たちの本来の仕事もこなし。明らかなオーバーワークである。各々の睡眠時間が三時間ほどしかとれていない状態だった。
 ちとせのデスクの周りに散らかる栄養ドリンクやカロリーのとれる菓子、ミントガム等を見ては、同じく顔色の悪い石動が「ちとせちゃん今日はもう帰りなよ……」と言う日々だったのだ。
 そんな日々の中、派遣されている課のおつかいとして、Revelからの情報受取にちとせが抜擢された。
 貴臣と婚約者、というのは使える場所ではないとは予め伝えているため、単純にその時間出払っていないのがちとせだけだったという話なのだが。

「……?」

 指定された会員制のバー──いつもとは違う場所だが──に入ってすぐ、じわ、と違和感を感じ、ちとせは一瞬足を止めた。
 幸いにも薄暗いバーの中でちとせを気にとめる者はいなかったが、席を探すふりをしてぐるりと店内を見回してみる。何度も来たことのあるバーだが、ここも常連が多く、見たことの無い客は数人、カウンターに座っているだけだ。
 スーツではなく少し良い普段着に着替えてきて正解だったかも、と思いながら滑るように奥へと足をすすめる。店員もちらりとちとせを確認し、軽く会釈をすると仕事に戻っていった。
 奥まったところにあるテーブル席。今回受け取る情報の担当は羽鳥と慶太のため二人しかいないと思っていたが、見知った顔を四つ見つけて、ちとせはなんともいえない気持ちになった。この状況では良し悪しである。
 が、貴臣がいるとなれば、情報を受け取る云々ではなく、こういう場合にのみ、婚約者だからこそ使える技もあるのはまた事実だった。

「貴臣"さん"もみなさんも、遅れてすみません」

 ぴたりと令嬢の笑みを貼り付けて、ちとせは六人がけであるテーブル席、空いていた一人がけソファではなく貴臣の横に座った。
 仕事の場合、普段ならちとせは一人がけのソファに座るようにしているため、そこで四人がふっと空気を変える。何かあるのか、と。
 それから四人を見回し、羽鳥で目を止めて驚いたように口に手をやった。

「羽鳥さんもいらっしゃったんですね。羽鳥さんは今日都合がつかないと聞いていたのに、会えて嬉しいです。お久しぶりです」
「ちょうど抱えてた案件が片付いてね。久しぶりにちとせちゃんの顔が見たくてさ」
「ほんと悪趣味」

 吐き捨てるように亜貴が言うが、すっと視線を横に滑らせる。
 羽鳥、慶太共に合点がいったようにちとせを見遣り──違和感のない程度ではあるが──「遅くまでお疲れ」と声をかけた。
 ちとせが言わんとすることを察したらしく、亜貴は変わらず不機嫌そうに、慶太は顔色を変えず、羽鳥も変わらずにこにこと愛想良く会話を繋げていく。

「ちとせ、顔色が良くないな」
「すみません、少し仕事が立て込んでいて」
「食事は?」

 化粧で完璧に隠しているはずのそれを短く指摘され、ちとせは笑顔の裏で冷や汗をかく。
 食事を抜くことは働きだす前もしばしばあったことだが、だからこそわかるのだ。これは怒られるパターンだというのは、長年の経験から学習している。

「最近の栄養補助食品はすごいよ」

 演技も忘れて素で答えたが故か、貴臣の温度がすっと下がった。
 人一倍どころか五倍以上食べるちとせが食事を栄養補助食品で補っているというのに納得がいかないらしい貴臣が、ぐっとちとせの腰を引いてそれは麗しく微笑む。いつもの三割増である。

「俺の可愛い婚約者は随分無理をするらしい」
「はっ、入ったばかりの新人ですし、多少は無理しないと追いつけませんから」

 声が裏返った。例のプロポーズ事件があった手前、これがリップサービスではなく本気で口説いているというのを身をもって感じているのだが、今はそれどころではないだろう。
 と思うが、ただタチの悪い人間がいるだけの場合もあるため、普段通りにすることも必要ではあるのだが。しかし仕事の話はできないただの飲み会になる。
 風花が入る前のタルタロス探索では、外から美鶴がナビをしていた。中からちとせがなんとなくまわりの状態が分かったために、美鶴の力も借りて遠くまで見えているような気がしていたが、ちとせ一人での探索能力というものの精度は低いのだ。
 ツクヨミも、言ってしまえば支援が主なペルソナであるが戦いのほうが向いていた。
 挙句今いるのはメメントスでもテレビの中でも影時間でもないので、ちとせの感じる違和感などはもはや勘の域である。
 が、それでもRevelの四人が話を合わせたのは、毎度ちとせのその勘が当たるからだった。
 それはそれとして、いつもなら適当にあしらっている貴臣のリップサービスという名の本気の口説きをあしらえないちとせに、羽鳥が面白そうに口角を上げたのをちとせは見逃さなかった。

「何かあった?」
「い、いえ?」
「桧山くんこの子に何したの?」
「いや、ただ今後は気持ちを素直に伝えていこうと」
「み、みなさんもうお酒は頼まれてますよね。私も頼もうかな!」

 余計なことを言い出しそうだった貴臣をなんとかおさえ、適当なカクテルを頼みちとせは乾杯、とグラスを持ち上げた。
 お酒を飲みながらも、ちとせ個人にちらちら視線を感じはするものの、桐条絡みでもなければ警察関係でもないだろうと踏む。そういう類の視線ではなさそうだった。
 女の客はちとせ以外にもいるが、上等な服とアクセサリー、それに品の良さそうな演技をしているためどこかのお嬢様だと思われているのは事実だろうと思う。
 うーんこの感覚強盗とかそっち系かな、などと以前たまたま立ち会った銀行強盗に思いを馳せた。

「徹夜しといてルシアン頼む女初めて見たんだけど」
「これ飲んだら出た方が無難かな」

 亜貴が心底呆れたように言うが、ちとせは令嬢の笑顔を顔に張りつけたまま小さく言った。
 慶太にはノンアルコールにしたほうが、と言われたが折角なので一杯くらいはとお気に入りのカクテルを頼んだのだ。それを亜貴は心底嫌そうに見ているが。
 大立ち回りするつもりもなく、桐条関係でも警察関係でもなさそうなのであれば楽しく一杯引っかけて別のところに行くに限る。
 幸いなことに今日は家に帰って寝ることが出来るのだ。石動からもいい加減に帰ってくれないと誤魔化せなくて労基にひっかかる、と切実な訴えがあった。実に二週間ぶりの我が家である。

「徹夜で栄養補助食品しか食べてない酒は結構こたえるんじゃないか?」
「前は大丈夫だったけど……」

 変わらず顔と声には大人しく令嬢ぶったものを貼り付けているが、先程よりもちとせがリラックスした態度を見せたため、ほか四人も自分たちが警戒すべきものではないのだろうと察したらしい。
 前は、という単語に貴臣がはあ、とため息をついたがちとせは聞かなかったことにした。ちとせのオーバーワークを気にしたところでどうしようもないのも、貴臣は分かっている。




 しばらく雑談をしながらカクテルを飲み、グラスも空になったところでもう一度、今度は貴臣の家に集合するという話になった。
 先にちとせと貴臣が店を出て、そのあと三人が出ることにしたのだが、ちとせがカウンター席を通り過ぎた瞬間、ぐっと何かに腕を引っ張られ、あっという間にカウンターへと押し付けられた。
 貴臣はまだ他の三人と何か話していたためちとせのそばにはおらず、ちとせも徹夜明けと飲酒で反応が多少遅れてしまった。
 押し付けられた拍子にがしゃがしゃとグラスがいくつか割れ、カウンターに酒がこぼれ、ちとせの服にもその酒がべったりとついてしまっている。
 割れたグラスがいくつかちとせの下敷きになったのか、じく、とした痛みを一瞬遅れて胸に感じた。
 お気に入りの服は基本的に破れるか血まみれだな、などと呑気にぼんやりと意識を飛ばしてしまう。
 きゃあだとかうわあだとか言う声をどこか遠くで聴きながら、ちとせは苦い顔をした。出るの遅かったかあ、と。
 怪我をしているであろうことや備品を壊したことも気まずくはあるのだが、もっと早く帰ってればな、とちとせは気づかれないようにため息をついた。
 そうすればRevelの四人を目立たせず、自分も目立たず帰れたのだが。
 カウンターに押し付けられ、腕はうしろでひとつにまとめられている。ちとせを押さえつけた男が後ろで何事か叫びながらちとせにナイフを当てているが、うーん、と呑気にちとせは見える範囲で周りを見ていた。

(お客さんはみんな遠いけど外に出るドアに仲間が一人……多分あっちのトイレ側の人も仲間。お客さんはどちらとも遠……うわっ!?)

 鬼の形相とはまさにこのことである。
 いや、見た目が良すぎるために怒っていても表にわかりにくいのだが、ちらりと視界に入った貴臣の顔が無、だった。美形の無表情ほど怖いものはない、と体の芯から震える思いをちとせは押さえつけながら味わうなどと思いもしなかったのだ。
 亜貴や慶太、それに羽鳥が貴臣を止めているらしいが、俗に言うガチギレというやつでは、と一気にちとせの頭は冷えた。
 徹夜で飲酒したとはいえ曲がりなりにも警察官。そして人よりもだいぶ戦いの中に身を置いてきたちとせである。
 人間三人くらいであればすぐに昏倒させるのは容易いため客と店の被害を考えていたのだが、店の被害を最小限におさえようと考えている間に貴臣が酒瓶でも叩き割って犯人の頭を殴りかねなかった。騒然としたバーの一角は、まさに戦場さながらのそんな空気だった。
 桧山グループとしても一般人としても、そしてこの場にいる警察官としてもそれはまずい。
 そう思ってからのちとせは迅速だった。
 まず最初に自分を押さえつけている男の股間あたりを後ろで蹴り飛ばし、床に蹲って身悶えている間に素早く自分のスカートをガラスの破片で切り後ろ手で縛りあげた。心底からひらひらしたサテン生地のスカートで良かったと思う。

「バーテンさん警察とあと紐用意して! それでこの人の手と足このまま縛って!」

 言いながら出口とトイレ前にいた男たちがなにごとがわめきながらちとせのほうへナイフをちらつかせて走ってきたので、転がる男を邪魔にならないところに蹴飛ばし、バーテンが荷造り用の紐を持って出てきたのを横目に確認する。
 そのまま向かってくる男二人を相手にしようと、ガラス片は持ったまま立ち上がった。
 それに少なからず動揺したのが一人、もう一人は逆に怒りをあらわにしてちとせへ近づいてきた。
 それなら、と怒っている男に向かって走りながら、目の前になりナイフを振りかぶられたところでぐっとしゃがみこみ足をひっかけてやった。
 そうすれば思わぬちとせの動きに男はそのまま足をもつれさせ顔から転倒。ナイフはちとせが蹴り飛ばすことも無く落ちてどこかへ転がっていく。
 もう一人もナイフは持っているが、股間を蹴られもんどりうっている男──男性客に取り押さえられている──と、今ちとせが転がして、スカートを破き手を縛りちとせが背中に乗っている男を見て、オロオロとしだした所を別の男性客に取り押さえられた。
 客の援助があると思わなかったためなんとなく手持ち無沙汰になったが、ふと我に返る。早くしないと警察が来る。
 スカートでは心もとないのでちとせが動けないようにと乗っている男も手と足を縛ってもらい、何とか立ち上がった。
 視界の隅に入った貴臣の顔は未だに無である。早いところ出て犯人と引き離さねばとちとせは謎の使命感に燃えた。

「警察が来たら私の名前出してください。監視カメラもあるし」
「え? で、でも」

 馴染みのバーテンに言うが、バーテンは視線をおろおろと泳がせている。
 桐条ちとせだということを知っているため渋っているのだろうが、監視カメラがあればいずれ誰がやったかはバレる。隠せないのは仕方ないことだ。わざわざ映像もあるのに自分の存在を隠してもらうわけにもいかない。

「あ、でも取材とか記者とか来たらそれは内密に。もうみなさんで倒したことにしてください、今日は怪我しちゃったし彼も友人もいるので帰ります明日ちゃんと出勤した時に事情は説明しますから」

 段々と早口になり言いたいことだけ言ったちとせは、貴臣たちのところへ戻り「撤退! 撤退しよう早く!」と貴臣の手を引いた。
 警察とも会いたくなく、貴臣をこの場に置いておくのは危険だと思ったが故だ。戦う意思のない三人の誰かの頭でもカチ割らんばかりの空気である。
 羽鳥だけは楽しそうにしているが、他のメンバーは貴臣のあまりの無感情さに多少なりとも怯えているらしく、転がるようにバーを出て人目につきにくい路地裏へと入った。
 と、ふわ、と知った香りの何かが肩へかけられた。それが貴臣のジャケットだと分かるのはすぐで、そして同時に自分に酒と血がついていることにさあっと青くなった。
 心無しか気分も悪くなってくる始末である。

「ま、待って私お酒被ってるし血もついて……あれっ思ったほど出てないな良かった……。いやでも血もついてるしこれジャケット死ぬほどお値段するやつでしょ!?」
「さすがにスカートは隠れないか」
「え!?」

 慶太に改めて言われる。
 改めて見ずとも、ちとせの格好は悲惨である。
 スカートはビリビリに破け、太ももはおろか下着あたりまで丸見え状態。ブラウスは酒が付いているためピンクや水色に染まり、そして下着も透けている始末である。挙句血液もついているためパッと見暴漢にでも襲われたのではという見た目だった。
 身長差があるとはいえ、さすがに貴臣のジャケットではスカートまでは隠れない。が、ジャケットが肩にかけられた分下着あたりまでは隠れるためちとせとしては充分である。

「いやでも隠したいとこは隠れ……ちょっと!?」

 家に帰るまでは全然大丈夫、と言おうとしたところで前から慶太のジャケットを腰に巻かれ、後ろからは羽鳥のジャケットを腰に巻かれた。
 全員良いジャケットを羽織っているのは目に見えてわかるため、ありがたさよりもちとせはその高級さにひえ、と体を震わせる。感覚としては一般的な庶民であるちとせにとって、そのジャケットの値段を考えるとめまいさえしてきそうな勢いだ。

「待って……私ドロべちゃでこれは大変申し訳なく……」
「なら大人しくしとけば良かったでしょ」
「いやでもそれは、警察官としては……、だめ……、……?」

 亜貴に苦々しく言われ、それに反論したところでちとせの視界がぐにゃりと歪んだ。気分も悪く、さあっと血の気が引いていくような感覚さえする。めまいがするのジャケットのせいじゃなかったのか、とぐらぐらする頭でちとせは考えた。
 これ倒れるんじゃ? と思ったのと、貴臣の「ちとせ!」という声を最後にちとせは意識を失った。





 目が覚めて一番に思ったのは、二週間まともに睡眠を取らず食事もままならない状態でカクテルを飲んだ後に激しく動くべきではない、だった。
 目が覚めたのはよく見る部屋ではあったが、自分の部屋ではない。貴臣の家に泊まる時に通される部屋だ。
 よく寝たからか頭は妙にスッキリしており、倒れる直前のこともすぐに思い出せる。
 貴臣の家にいるというのも予想の範囲内だった。あれで倒れておけば運び込まれるのは病院か貴臣の家くらいなものだろう。
 とりあえず起き上がり、サイドテーブルに置いてあったスマートフォンの確認をする。石動からは「三日間休んで」とこれもまた切実なお願いのメッセージがつらつらと届いていた。
 あとはちとせの体調を心配するものが数件。そのなかに貴臣のメッセージを見つけて読んでみれば「目が覚めたら連絡を」と一言だけ書いてある。

「う、うーん……」

 時間の確認をすると、ちとせが倒れた日の翌日、十五時である。連絡したところで貴臣は帰ってくる訳でもないが、早く帰ろうとするだろうことは目に見える。
 それは無理をさせることになるため、しばらく悩んでから今起きたこと。どこも痛くないこと。今から馴染みの喫茶店へ行くこと。今日も泊まらせてもらうため明日の朝は食事を一緒にとりたいことを簡潔に書いたメッセージを送った。
 備え付けのクローゼットをあければ、一着だけワンピースがかかっていたためそれに袖を通す。ご丁寧にストッキングや靴まで一揃えあるのでありがたく着ることにした。
 今まで着ていたものはワンピース型のナイトウェアで、新しい下着だったが貴臣が着替えさせたわけはないので特に何も思わず洗面所へと入った。
 泊まることが多いため、ちとせの私物もいくつか置かせてもらっている。化粧品からスーツ、シャツ等仕事に行くためのものばかりではあるが。
 着ろと言わんばかりにあったワンピースはもちろんぴったりだったのだが、用意したであろう貴臣を思ってちとせは複雑な気持ちになる。
 普通に考えると置いてあるスーツ等からサイズを測ったのだろうが、一人の女としてはかなり複雑だった。

 ルブランでカレーを食べ、体調がすこぶる良かったため公休の千歳を拉致しメメントスへ潜った。
 戦闘面でも調子が良く、いつもよりもメメントスの探索と怪盗団の調査も進みちとせは気分よく貴臣の屋敷へと帰ったのだが。
 時刻は二十一時。ちとせにしては驚く程に早い帰宅だった。だがメイドたちがちらちらとちとせを見ていくのに一抹の不安を抱きながら部屋に戻ったところ、部屋に入ってすぐのソファに魔王の如き空気を放つ貴臣が座っていた。

「た……貴臣くん……? 早くない……?」
「ちとせ」

 穏やかな声である。貴臣の放つオーラは魔王の如きだが、その声はどこまでも甘ったるく、そして有無を言わせない響きだった。成熟して腐り落ちる前の果物のような、そんな甘ったるさを恐ろしさをはらんでいる。
 ぽん、と貴臣は自分の横をたたくともう一度、とびきりの甘さと危うさの「ちとせ」を放つ。
 ちとせは色んな意味での白旗をあげた。
 言われるがまま隣に少し距離をとって腰掛けると、貴臣がぐっとちとせに寄り、そして腰を引き寄せた。
 あっという間にゼロになった距離にちとせが喉の奥で唸るが、貴臣は気にした素振りもなくそのまま黙り込んでしまう。
 そうなるとちとせも黙らざるを得ず、しばらく沈黙が続くことになった。
 その間腰にある手が動くことも無く、ただただちとせの心拍数だけが無駄に上がっていくだけなのだが、耐えかねて身じろぎをしたところ、貴臣がますますちとせを引き寄せ、ひえ、と喉から引きつった声が出た。

「た、貴臣くん……そのう……」
「……正直なところ」
「は、はい」
「何に腹を立てているのか自分でも分かりかねている」
「うん……?」

 ちらと横目で見た貴臣の表情は、先程の魔王のような甘ったるい笑顔ではなく、困ったような、怒っているような、複雑なものになっている。

「昨日、ちとせを押し付けた男には心底腹が立った。正直なところ社会的に抹消しようと思っているところだが……」
「うんそれはやめよう!?」
「……と言うと思って特にまだ何もしていない」

 貴臣が言うと洒落にならない。先程とは違う甘くない心臓の疼きを感じ、ちとせは冷や汗をかいた。やりかねない、ではない。貴臣は確実にやるという確信がちとせにはある。
 挙句まだ、と言ったあたり諦めていないのがひしひしと感じられるのだ。
 貴臣が諦めないと、相手は徹底的に社会から消えてしまうだろう。それはちとせの望むところではなかった。

「それと同時に守られた自分にも腹立たしかった」
「いや貴臣くん一応一般人枠だから私が守るのは当たり前というかね!?」
「だからこそ、だな。ちとせと俺の差が見えた気がしたし、ああやって悪意のあるものと戦う姿は……洗練されていたから、余計にちとせの過去も、今も感じた」
「それは……」

 洗練されていた、という言い方をしたが、貴臣の言わんとすることはなんとなくちとせにも分かった。
 貴臣はそれなりに喧嘩には強いし殴り合いになったとしても強いほうだが、それは一般的な部分からは出ない。言わば素人である貴臣から見ても、ちとせの動きは警察官になりたての、しかも女がするものではないのだ。
 貴臣は桐条の事情を知っている。ちとせがしていることも。やりたいことも。
 けれどちとせも貴臣を深くかかわらせようとは思っておらず、ふんわりした情報しか伝えていない。
 頭の回る貴臣だからこそ、様々なことを推測して、調べて、ちとせや桐条を見て事実として受け取ってはいるのだろうが。

「ああいうのは、私の領分だから」
「ちとせ」
「だって貴臣くん。私がたとえば貴臣くんの領分……うーん、勝手な噂話流されたりよくわかんない情報に踊らされそうになったり、ピンチになったら助けてくれるでしょ?」
「当たり前だろう」
「でも私がその中に入って力を貸すって言っ」
「断る」

 ちとせが言い切る前に貴臣がきっぱりと言った。
 それに苦笑をもらし、ちとせは腰にある貴臣の手をそろりと撫でる。そういうことだよ、と。
 多少なりともちとせも気になる相手の情報を集めるようなことはしているが、それはRevelの比ではないだろう。微々たるものである。しかもシャドウやその類に関してのみだ。

「私は警察官になりたかったし、姉さんの助けにもなりたくてこの道を選んだよ。まだそりゃ……やらなきゃいけないことはたくさんあるけど、貴臣くんが桐条ちとせのやることを手伝うって言うと絶対断ると思うし……何より巻き込みたくないんだよねえ」

 一度撫でた貴臣の手を、もう一度そろりと撫でて、きゅ、と指先を握る。
 貴臣は何も言わずにちとせを見ているが、握られた指先はそのままに、絡めるようにしてちとせの腰ごと引き寄せた。

「えっと、それで、ですね……?」
「ああ」
「そ、その理由というのがまあ、なんと言いますか」

 ぼそぼそと言いよどみだしたちとせを、貴臣は目を細めて見つめている。
 これから言わんとしていることよりも、戯れるように握られた指先だとか、解かれない手だとか。そちらに気を取られているらしい。ちとせからの接触は稀であり、この二週間は、貴臣はちとせに会ってすらいなかった。
 そのため無理やり昨日羽鳥についてちとせとの情報受け渡しに同席していたのだが、それをちとせは知る由もない。
 ちとせからしてみれば二週間前のプロポーズ事件で言えなかったことを言うチャンスが巡ってきたためになんとか伝えようとしているのだが、いかんせん様々な経験値が足りていなさすぎるのだ。
 空気を読んで貴臣の手を握ったのが最早仇になっているのか、心臓がすごい音をたてはじめていた。
 ちとせの指を弄ぶようにたまに貴臣の指が滑るだけで、心拍数は上がっていく。

「た、たぶん、貴臣くんが、その、私を巻き込みたくないと思ってる理由と同じ理由で、私も貴臣くんを巻き込みたくない……です……。べ、べつにこの間のことがあるから言ってるわけではなくて、ええと、ほんとに、何年も……巻き込みたくないとは……思ってて……」

 かなりの遠回りな言い回しである。
 貴臣に顔を見られないように真っ赤になったそれを隠すように俯いたが、先程まで動いていた貴臣の指先も、体も、なぜか時が止まったように固まってしまった。
 しばらく待っても特に貴臣が身動きしないため、ちとせは赤い顔をしたままそろそろと貴臣を見上げると、ぽかん、という表現が似合うような顔をしていた。
 処理中、という言葉が似合うような珍しいその様子に、ちとせは何度かまばたきをしてじっと貴臣を見つめてしまう。
 そしてまたしばらく経ち、ちとせの腰を支えていない方の手で、貴臣が撫でるようにちとせの頬に触れた。まるで何かを確認するようなそれに、頬に集まる熱を隠せるわけでもなくちとせはされるがままになることにした。
 自然と重なる視線に、ちとせは逸らしたくなる気持ちをおさえてしっかり貴臣の目を見つめる。
 まるで自分の耳元に心臓があるような感覚になり、これが口から心臓が出てくるって感覚かもしれないな、と謎の感動を覚えた。

「た、貴臣く」
「もし俺の勘違いなら、嫌なら、殴ってでも逃げてほしい」
「へ?」

 腰から体の線をなぞるようにして頬まで上がってきた手と頬を撫でていた手に、頭を固定される。息すらまざりそうな近さで、貴臣はじっとちとせを見つめていた。
 キスでもされそうな程の距離に、ちとせはふと二週間前のことを思い出す。
 次に俺の目の前で目を閉じたらキスをすることにする。
 鮮明に思い出された貴臣の声に、ちとせはおろ、と一瞬視線をさ迷わせた。
 勘違いでも、嫌でもないため、殴って逃げるという選択肢は頭の中にはなかったが、どうしたらいいのか分からず、しばらくおろおろと視線をさ迷わせ、けれどこれ以上言葉で伝えるというのはあまりにハードルも高く、ぐっとちとせは拳を握った。やれば出来る為せば成る、と心の中で唱えながら。
 さ迷わせていた視線を貴臣の視線と合わせ、それからゆっくりと閉じた。貴臣が息を呑み、ちとせの頬を固定している指がそろりとちとせの後頭部を支えるようにして動いていく。
 ちゅ、と口角のすぐ隣に感じたやわらかさに、ちとせはたまらず目を開けた。情けなく真っ赤になっているだろう自分の頬の熱を感じるが、だからといって貴臣の手があるため隠せない。
 何かを確かめるようにちとせを見ている貴臣の視線にまた耐えかね、ちとせは再度ゆっくりと目を閉じた。至近距離に顔があるだけでも沸騰しそうなほどだったのだが、貴臣は頬を支えていた手をずらし、親指でちとせの唇をなぞる。
 心の中であまりにもな展開にひい、と叫ぶが目は閉じたままじっとしているしかできなかった。

「ちとせ」

 掠れるような声だ。何かをこらえるように、確かめるように。貴臣自身の奥にある熱を逃がすような、確かめるような、そんな声だった。
 眼前に居る桧山貴臣という人間が男の人だというのをそれで改めて感じ、胸の奥がざわざわするような感覚になる。
 唇に触れていた貴臣の指の代わりに、別のやわらかいものがちとせの唇に触れた。何度も触れては離れて、角度を変えて。
 最初こそ確かめるように恐る恐るだったものが、しばらく経つと気持ちをぶつけるようなものに変わる。
 いつの間にかソファに押し倒されるような形になってしまっていたが、貴臣はやめるつもりはないらしく何度も振れるように唇を重ねた。
 が、ちとせのほうが限界値が来てしまった。ドッドッド、と鳴り続ける心臓と自分の精神が心配なほどにガタガタである。

「た、貴臣、くん」
「うん?」
「げ、限界、恥ずかし」
「俺は足りない」
「たっ足りてるよ私は!! もうあの、心臓がすごいのと、あの、諸々が限界でっ、し、死んじゃうからね!?」

 貴臣との間に手を入れて胸を押すが、その力は弱い。いざとなれば貴臣からすぐに逃げられるであろうちとせがそれをしないことに、貴臣は言いようのない気持ちになる。
 今の行為が拒絶されている訳では無いことを如実に語っている気がして、胸の奥にわくのは愛しさだった。
 真っ赤な顔をして大人しく押し倒されているちとせは、限界だと言ってはいるものの逃げるつもりは無いらしい。
 だがあまりに触れすぎるとちとせは嫌がるかもしれない、と貴臣は思い離れようと最後に一度だけ軽く触れるキスをして、ちとせを押し倒した形から先程と同じ隣に座るような形に戻す。
 肩で息でもしそうな程赤い顔をしたちとせは、けれどされるがままに起き上がった。

「ご存知の通りなんだけど……」
「?」
「こ、こういう、恋愛的なものは慣れてないから……ほんとに、その、いろいろと少しずつでお願いします……」

きゅ、と貴臣の指先を握るちとせに、もう一度キスをしたいと思う気持ちをおさえて貴臣は抱きしめるだけでとどめることにした。

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