最近あった良いことは、と尋ねられると独歩は間違いなく恋人ができたことだと答えるだろう。
 最近あった不安なことは、と尋ねられても恋人ができたことだと即答もするだろうが。
 残業続きでふらふらしつつ駅までの道を歩きながら、独歩は「やっぱり夢だったんじゃ……?」とここ二週間顔も見れていないちとせのことを思い浮かべていた。
 出会いは情けない話ではあるが、痴漢に遭遇した独歩をちとせが助けたところから始まった。
 まさか自分が痴漢に遭うはずがないと思い込もうとしたが、見たこともない小太りのハゲた中年男性は独歩の臀部当たりを撫で回しており、恐怖と気持ち悪さと情けなさに声も出せずにいたところをちとせが助けたことがきっかけである。
 警察官として当然のことをしたと言うちとせに会社まで送られ、あまりにも精神的にボロボロの独歩を──そもそもがハゲ課長のせいでボロボロではあるのだが──気にして意図的に同じ時間、同じ電車、同じ車両に乗るようにしていたらしいちとせと頻繁に顔を合わせるのは必然的になる。
 最初は観音坂さん呼びだったものが独歩さんになり、今では独歩くんと呼ばれる仲になっているのを思うと自然とにやにやと表情筋が緩んでくるが夜中ににやにやしている男がいるともなれば変態だと思われては困ると独歩は顔を引き締めた。
 ちとせは世界有数の富豪であるあの桐条の娘であるにも関わらず、明るく快活で、可愛らしい顔立ち。
 小柄でちまちまと忙しなく動く様子は小動物のようである。
 しかし独歩に合わせて穏やかに過ごしてみたり、独歩が一歩引いたらちとせから距離を詰めたり。
 そして独歩をことある毎に心配するちとせに惹かれるなというのが独歩からしてみれば無理な話である。
 ちとせを好きになるのに時間はかからなかった。
 そして好きになるにつれて不安になり、こんな年上に好かれても迷惑しかかけないんじゃないか、こんなネガティブなミジンコ野郎に好かれても気持ち悪いだけなのでは。
 と思い込んでしまい、その気持ちをどこにも持っていけず恥を忍んで寂雷に相談したこともあったほどだ。
 その独歩の一歩どころか何歩も引いてしまう壁をぶち破ってきたのもちとせのほうからだった。
 今思い返しても自分のちとせへの気持ちに引きに引きまくり、ちとせと会いたいが会うと迷惑をかけるのではそもそも自分の存在そのものが迷惑でキモイのではと思っていたところをちとせが「私の秘密も教えるからドン引きしたら教えてください二度と近づきません!」と男前に言い放ったのは記憶に新しい。
「はあ……」
 メッセージのやり取りはしているものの、付き合い初めて二ヶ月ほどである。
 いちばん楽しいであろう時期なのに二週間も会えていないともなれば、付き合うことになった流れ自体が独歩の妄想だったのではと独歩は思い始めていた。
 ため息が自然と出ていくのも仕方がない。
 ちとせも忙しい身であるため、お互い忙しなくなってしまえば予定を合わせなければ顔を見て会う回数など知れている。
 ちとせに至っては深夜まで働いていることもあるらしく、二週間前に会った時は「そういえば二日くらい家に帰ってないかも?」等と宣っており自分よりもちとせを心底心配したほどだった。
(会いたいなんてメッセージを送るのはあまりに女々しいしキモイのでは? そもそも俺が付き合ってると思い込んでるだけで実際付き合ってない可能性だってある。妄想を現実だと思ってるイタイオッサンになってるんじゃないか俺はもしかしたらあの痴漢と大差ないキモさなんじゃ)
「独歩くん!」
 ぐるぐるとネガティブな思考に飲まれかけた時、ちとせの声が後ろから聞こえた……ような気がした。
 会いたい気持ちが強すぎてついに幻聴が、と思うと独歩は乾いた笑みを浮かべて「はは」と肩を落とす。
 早く帰って深夜だが一二三の作ってくれている夕食を食べて早く寝るに限る、とまた大きなため息をついた。
「独歩くーん!」
 さらに聞こえたちとせの声に独歩は今度こそ立ち止まって頭を抱えた。
 路上、深夜ともなれば怪しい行動そのものだが独歩はそれどころではない。
「ちとせに会いたすぎて幻聴が止まらない……!?」
 キモイ上に妄想幻聴まで来たらもう人として取り返しがつかないのでは。
 もうちとせに向ける顔がない、とまで思った時。
「幻聴じゃなくて現実だよ?」
 ひょこ、と独歩をのぞき込むように視界に入ってきたのは心配そうな表情のちとせだった。
 それにしばし固まったあと、独歩は勢いよくちとせから距離をとり、その勢いのまますぐには立ち止まれず数歩ふらついてからやっと立ち止まった。
 あまりにも自分がちとせに会いたいがために作り出した幻覚幻聴の類ではないかとしばしちとせを凝視するが、当の本人は「幻覚でもないよ、ほら」と距離を詰めてきゅっと独歩の手を握って見せるではないか。
 その暖かく小さな手にやっと現実味を帯びた目の前のちとせに、独歩は「ちとせ……?」と絞り出すように声を出す。
「はーい! ちとせちゃんだよ、独歩くん! 今日も遅くまでお仕事お疲れ様、いや、ほんとに……終電近くまで……」
 にぎにぎと労わるように独歩の手を握るちとせは、未だ動かない独歩に気づいて独歩を見上げ、不思議そうにへにゃりと笑った。
「独歩くん?」
 実に二週間ぶりのちとせの顔に、独歩は握られた手を凝視し、ちとせの顔を見て、もう一度握られた手を見てからぶわ、と火がついたように頬を赤くしてしまった。
 付き合い初めて二ヶ月、未だ手を繋ぐ、抱きつかれる以上の接触はしていない二人である。
 独歩の自己評価の低さもあるが、ちとせから触れることが多くその度に独歩が照れてしまうため、ちとせも積極的に独歩に触れようとかそれ以上触れて欲しいだとか、そういうことはあまり考えていない。
 ちとせはちとせで恋愛経験など皆無ではあるが、ゆかりやりせに相談したところ「嫌がられてないなら思うまま行動して良し」と言われているため距離をはかりながらも思うまま行動している次第だ。
それが手を繋ぐだとか、抱きつくだとか、そう言ったスキンシップである。
 それさえも自分よりも照れている相手がいると不思議なことに積極的になれてしまうのがちとせにとって、最近の新たな発見だった。
 まるで野生動物と仲良くなるみたいだな、と楽しくなったのは付き合い初めて少し経った頃だ。
「駅まで一緒に行ってもいい?」
 きゅ、と握った手はそのままにちとせに尋ねられ、独歩は「えっ?」とやっと現実に戻ってきた。
「もっ、もちろん!」
 裏返った声に独歩は心の中で頭を抱えたが、ちとせは嬉しそうに「やったあ!」と笑うと手は繋いだままぎゅっと独歩の腕に抱きつくようにしてくっついた。
 世の中のいちゃつく男女に悪態をついていたこともある独歩だが、今はまさに自分は悪態をつかれる側である。
 付き合っていないかもしれないというネガティブ思考に飲まれかけていたと思えないほど、今の独歩は幸せが頭の中を埋めつくしていた。
 ちとせに思いがけず会えたことも嬉しい出来事なのに、こうして手を繋いでくっついて歩いて貰えるとは思ってもいなかったのだ。
 触れること、触れられることには照れのほうが勝るが、嫌な訳では決してない。
 ちとせから触れるのが気持ち悪いのではないか、というネガティブ思考は付き合う前に「気持ち悪いと思ってたら私から触らないよ!」と既にちとせに論破されている。
 手を繋ぐ度に不安になる手汗がすさまじい、という問題についてもちとせが「私もすごいけど気持ち悪い?」という質問に秒もかからず「思ったことない!」と答えたところちとせからも同じ気持ちだと言われ、こちらも論破されているため今の独歩にとって触れられること、手を繋ぐことへのハードルは低かった。
 相手が好いた相手である上に向こうも自分を好いているという自覚があるのだ。
 照れことすれ嫌なわけはない。
「あれ……、ちとせはなんでこんな時間まで……」
 そうしてちとせと手を繋ぎ腕を組む幸せを噛み締めたあと、ふと深夜近くにちとせがこんなところにいることが気になった。
 ちとせの、ペルソナ関連で秘密にしていた諸々は余すことなく聞いたし、今しているペルソナ関係の仕事もなんとなくは聞いた。
 しかしこんな深夜までかかるようなものではないと言っていたはずである。
 放課後の時間帯から夜にかけての見守りカメラだと当の本人は言っていた。
「私は書類整理とかで時間食っちゃって、ついでに他の課の応援に出てたらこんな時間だったんだよね。でも独歩くんに久しぶりに会えたからこんな時間まで働いてて良かった!」
 ぎゅっとさらに腕に抱きつくちとせにほわ、と独歩は癒されるのがわかった。
 先程までの心のネガティブさなどなかったかのような心持ちである。
「俺も残業して良かった……」
「独歩くんのは……あんまり良いとは言えないけどねえ……」
 ちとせの場合はやってもやっても終わらないペルソナ関連の書類整理があるため仕方がない部分もあるが、独歩に関してはパワハラまがいの残業でもある。
 ちとせもそれがわかっているため言葉を少し濁して苦笑いをした。


「独歩くんは……えーっと、一二三さんが晩御飯作ってくれてるんだっけ?」
 しばらく歩いたところで、ちとせが聞きにくそうにそう尋ねてきた。
 ちとせが一二三のことを尋ねるのは珍しかったが、全くない訳でもない。
 同居している幼なじみや、同じチームである寂雷の話題が独歩から出ることも少なくはなく、ちとせも一二三や寂雷の顔と名前やおおまかな性格は独歩に聞いているため知っている程である。
 独歩が一二三と暮らし始めて、家事関係は一二三に甘えている部分が多いのもちとせは把握していた。
 一二三に食事は頼んでいるし、一二三が仕事に行く前に独歩の分は作ってあるのがほとんど毎日である。
 一二三から作っていない等の連絡もないことから今日も変わらずそうだろう。
「ああ、うん。作ってないなんて連絡無かったし」
「だよねえ」
 少し残念そうなちとせにどうしたのかと視線を送ると、ちとせはその視線に気づいてか少し照れたように笑うと、恥ずかしそうに独歩から視線を逸らしてしまった。
「いや、あのね、折角会えたしもうちょっと一緒に居たいなって思ったからこれから私の家に来ないかなって思ったんだけどそもそもこんな深夜に家に来ないかなんて誘うの常識的じゃなかったし一二三さんのご飯無駄にするわけにいかないし明日土曜日だって言っても独歩くんも疲れてるからしっかり休んで欲しいからごめんねなんでもないから忘れてっ!」
 ほんの少し頬が赤く染っており、早口で言い切ってしまったちとせの言葉を独歩はしばらくぐるぐると頭の中で繰り返していた。
 ちとせの家。これから。誘われた。
 三つの単語だけがぐるぐる回り始め、やっと脳に届いた途端独歩は頬が赤くなるのと同時に「行きたい……」と小さく呟いて、そらから思わず自分の口を押さえていた。
 本音が出た、と。
 ちとせはその独歩の小さな言葉に「忘れてー! 一二三さんのご飯無駄にしたらダメ!」と一生懸命言っているが、年下の恋人からのもっと一緒に居たいというお願いのなんと可愛いことか。
「生きててよかった……」
 立ち止まって片手で顔を覆い天を仰ぐ独歩に、更にちとせは「忘れてー!」と独歩を揺すっている。
 横目でちらりと見たちとせは顔を真っ赤に来ていた。
「一二三さんのご飯無駄にしたらダメだし今日はもうお家に帰って休も!?」
「一二三の飯はいつでも食べれる」
「いやそれはそうだけど私のご飯だってそんなすごい腕前じゃないし……その、明日帰ってきた一二三さんが独歩くんいなかったらびっくりするかもしれないから!」
 一二三には連絡ひとつで片がつくが、ちとせの家に行く、さらにこの時間ともなれば泊まること前提で誘われているのに行かないという選択肢が独歩の中に存在していなかった。
 久しぶりに会えたのは独歩も同じであり、まだ一緒に居たいという気持ちもちとせと同じだ。
 食事の話が出たところから察するにちとせがなにか作ってくれようとしたのも推測できる。
 恋人の手作りを食べたくないわけもない。
 そもそも一二三が食事を一食無駄にしたからと言って気にするかといえば気にするような性格でもないのだ。
 冷蔵庫に入っているのだから翌日でも充分に食べられる。
 むしろ彼女の家に泊まるから、などと言えば大喜びする様が目に浮かぶほどである。
 明日あたり赤飯でも炊きだしそうな勢いで。
「ほらもう駅ついちゃったから! 家帰ってゆっくりして独歩くん」
「ちとせ……」
 しゅん、と肩を落とせばちとせはうぐ、と言葉に詰まったようにオロオロし始めた。
 こうして少ししょげて見せるとちとせが狼狽えるのが分かったのはつい最近だった。
 いい歳したオッサンがやる仕草ではないが、なりふり構っている場合でもないと独歩の中の無意識が独歩をそうさせた。
 しばらくおろおろしたあとに、ちとせは頬をまた赤くしながら「あのね」と小声になる。
「今度、ちゃんと予定合わせて泊まりに来て? そしたらもっと早い時間から一緒に居られるし、お話も沢山できるでしょ?」
「絶対に合わせるよ」
 即答である。
 それにちとせは頬は赤いままふふふと笑うと、独歩から手を離してしまった。
 路線が違うためここまででしか一緒に行動はできないのだ。
 改札は目の前だった。
「じゃあまた連絡するね。明日私の予定送るから、えっと……そうだ、独歩くんちょっと耳貸して欲しい」
 そういえば、という様子でちとせは独歩を手招きする。
 それになんの迷いもなく耳を近づけるため腰をかがめると、耳元に近づいてきたちとせは耳を通り過ぎて、独歩の頬に軽くキスをするとすぐに離れてしまった。
「……? ……??」
 突然の出来事になんのリアクションもとれずにいる独歩に、ちとせは「ゆっくり休んでねおやすみ!」と言って背中を押して改札の中に独歩を無理やり入れてしまった。
 ちとせがどんな表情をしているのか独歩が知る術はない。
 なにせ何をされたのかわからず思考は停止している。
 頭が真っ白になったままふらふら歩き始めた独歩だったが、しばらく歩き、無意識に電車に乗りこんだところでやっと頬にキスされたことに気づき、その場にしゃがみこんで声にならない声をあげていた。
 初めてのキスというものだったはずだ。
 頬ではあるものの、カウントとしてはキスでいいのに独歩はその時のこともちとせの表情もまるで覚えていない。
 嬉しいやら照れやらで声にならない声をあげた独歩は、しばらくして動けるようになってから、人気のない電車の中をふらつきながら座席へと腰かけた。
 しばらくそのまま放心状態でちとせの表情を見れなかったことやキスされた前後の記憶が曖昧なことを悔やんでいたが、ポケットに入れていたスマートフォンが振動したためのろのろとそれを見る。
 そこにはちとせから「ゆっくり休んでね。会えて嬉しかったよ」と最後にハートマークの絵文字がついたメッセージが送られていた。
 その一言だけで、悔やんでいたネガティブ思考からほわ、と癒されたような気がして独歩は「俺も会えて嬉しかった。おやすみ」とだけ返した。
 そのまま癒された気持ちで帰宅し、一二三の作った食事をたべ、シャワーを浴びベッドへ入ったところで、初めて恋人が送ってくれたキスになんの反応もないのは恋人として失格なのでは!? と思考がおおいに横に逸れた。
 そこから一二三の帰宅までネガティブ思考が再発し眠ることができず、一二三帰宅後に事のあらましを大雑把に説明したところ大笑いした一二三に「とりあえず寝ろってー!」と雑に朝食を口に入れられ無理やり寝かしつけられることになったのはまた別の話である。


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