その日独歩は大いに浮かれていた。
 仕事中態度に出すことはハゲ課長からの諸々のお陰でなんとかなったが、それでも今日に限ってはハゲ課長から何を言われても広い心で概ね受け入れることができたほどではあった。
 ちとせの家に泊まる。
 その一点のみで今日を独歩は乗り切っていたのだ。
 仕事帰りに合流し、もういっそのことちとせの家にパジャマや日用品等いつでも泊まれるように物を置いておけばいいのでは? という話をちとせから言われたため、それらをちとせと一緒に買ってちとせの家に行く手筈になっている。
 いつでも泊まりに来ていいよ、いつでも来ていいよ、とのことで合鍵も受け取ってほしいとまで言われていた。
 前日にちとせからわくわくした様子で「独歩くんスペース作っちゃった!」と言われ、独歩自身がそわそわと落ち着かなくなる程に、やはり独歩は浮かれていたのだ。
 ディビジョンバトルの時ほど切羽詰まった気持ちはなく、けれど必ず定時で終わらせると意気込み、なんとか定時で仕事は終わらせた。
 押し付けられそうだった仕事も定時ですっぱり退社することにより逃れることができた。
 予定よりも少し早めに待ち合わせ場所である駅前につくと、そこにはすでにちとせが居て独歩を見つけるなり大きく手を振ってちとせのほうからも近づいて「おつかれさま!」と独歩を出迎えた。
「ちとせもおつかれさま」
「独歩くんが泊まりに来るのを楽しみにして切り上げてきちゃった」
 少し照れたように言うちとせに、独歩は謎の感動を覚えた。
 同じ気持ちであること。
 ちとせが独歩を同じだけ独歩を想ってくれていること。
 少し前までの、ちとせに片思いしていた時の独歩では考えられなかったことだ。
「とりあえず着替えとか買いに行く?」
「あ、う、うん」
「よーし、じゃあ行こー!」
 元気よくちとせは言うと、独歩の手を取り歩き始めた。


 結果的に買い物はあっという間に終わり、早々とちとせの部屋に行くことになった。
 パジャマや部屋着、下着。
 独歩はじわじわと泊まることを実感してきた緊張のあまり、何を選んだのか覚えていない。
 下着は見られる心配がないのでともかくとして、ほかの着替えはちとせが一緒に選んでくれたため下手なものは選んでいないはずだ。
 私もお揃い買おう、と言ってルームウェアに関してはちとせも同じものを買っていたのに言い知れぬときめきを感じたことくらいしか独歩は覚えていない。
「お、お邪魔します」
「どうぞ! あ、独歩くん、ご飯作ってる間先にお風呂入る? お湯ためるよ」
「えっ!?」
 声がひっくり返ったが、ちとせは特に気にした様子なく首を傾げているだけだ。
 独歩の脳裏に過ぎ去っていったのは、かの有名な「ご飯にする? お風呂にする?」という台詞だったが、ちとせは単純に疲れているであろう独歩を気遣っているだけなのも独歩はきちんと理解している。
 しかし何度も言うようだが独歩はおおいに浮かれているのだ。
 脳内で勝手に別のものに変換されかけてもおかしなことではなかった。
「い、いや、ちとせが良ければ、その、足手まといになる可能性しかないけど、俺も一緒に夕飯……作らせてほしい……」
 誤魔化すように言ったが、これも独歩の本音ではある。
 ちとせ一人に負担をかけるわけにもいかない。
 しかし自分が戦力になれるとは到底思えないのもまた事実である。
 そう思っての恐る恐るの提案に、ちとせは少し考えた後に「疲れてない?」と心配そうに独歩を見上げる。
「え?」
「仕事……独歩くん、疲れてるだろうから。今日は私が独歩くんの接待しようと思ってたんだけどな」
 と少し悪戯っぽく笑うちとせに、言い知れぬときめきを覚え、ぐぅ、と喉から声が出そうになるのを独歩はなんとか堪えた。
 リア充でごめんなさい年下の恋人が可愛くてすみませんいやむしろ俺とちとせが恋人なのは俺の妄想なんじゃ……と若干不安になってきた独歩はちらりとちとせを見た。
 ぱちりと目が合った瞬間にちとせに嬉しそうに微笑まれ、独歩はバッと視線を落としてしまったがちとせは気にした様子もなく楽しそうに笑う。
 ちとせに片想いをしていた時と同じような反応をしてしまったが、それが独歩が照れているのを知っているちとせはやはり楽しそうに笑うと独歩の手を取った。
「足手まといなんて思わないし、手伝ってくれるなら嬉しい! ありがとう独歩くん」
 急に取られた手にドッ、と心臓が動いたが独歩はなんとかそれだけは勘ぐられないように、ひゃい、と情けない返事をした。


 ちとせは普段あまり料理はしないと言っていたが、手際は良く作り慣れているようだった。
 今日はオムライスとだよ、と言うちとせを手伝い、独歩も調理を手伝ったが果たして自分は戦力になっているのかやはり疑問である。
 不揃いな玉ねぎのみじん切りに不格好な鶏肉たちがフライパンで炒められているのを見て独歩は手を出すべきではなかったのではと不安になっていた。
 それでも一緒に作りたいと言ったのは独歩なため、なにか力にならねば、と完成間近になってきたオムライスをそわそわと落ち着かず見ていたら、ちとせがそうだ、と声を上げた。
「独歩くん、お皿出してもらってもいい?」
「ど、どの皿?」
 意気込んだところにちとせからのお願いだったため声がひっくり返ったが、ちとせは気にした様子もなく皿のある場所を独歩へ教えながら卵を割っている。
 皿を出し、オムライスの片手間に作られているスープのためにその皿も出し、コップを出したところで独歩は、はたと気づく。
(新婚夫婦みたいな事してる……)
 が、気づいて理解した瞬間、独歩はその場に蹲って頭を抱えた。
(いやいや何気持ち悪いこと考えてるんだ俺! ちとせに失礼だろ未だに恋人なのも俺の妄想かもしれないのに、しん、新婚夫婦みたいなんて妄想どころか不敬罪でしょっ引かれてもおかしくないだろ!)
 と脳内で一気にまくし立てるが、不敬罪ってなんだよ、とツッコミを入れてくれる思考は独歩は持ち合わせていなかった。
 蹲った際に膝を床に打ち付けた音がかなり大きく、その音にちとせが「えっなに!?」と驚いたように手を止めて独歩を見た。
 独歩はその場に蹲りながら自分のした妄想を思考から追い出そうと頭を振り、息も切れ切れに「いや……ちょっと……猛省したところで……」と吐き出すように言う。
 が、独歩が自分の世界に沈み周りの声が聞こえなくなるのもいつもの事、とまではいかないがそれなりに見受けられることなので、ちとせはそれも特に気にした様子もなく火を止めると、にこにこと笑った。
「猛省するようなことなんかあったっけ? 独歩くん、ほらほら」
 もう出来るから立って手洗って、と言われしおしおしながらも手を洗い、スープくらいなら注げるはず、と皿にスープを注ぎ、ちとせに尋ねながらもコップに水を注ぐ。
 テーブルにそれらを出して行けば、ちとせがオムライスが乗った皿を二枚持ってダイニングへとやってきた。
「ありがとう独歩くん! お陰ですごく早く終わったよ」
「いや……俺は何も出来なかったし……」
「独歩くんが具材切ってくれてる間にサラダもスープも出来たんだしそんなことないけど……それに一緒に作るの私は楽しかったな。独歩くんは?」
 こてん、と首を傾げて言われてしまえば、是、と言うしか選択肢は残されていない。
 独歩の扱いが日々うまくなるちとせである。



 不揃いな野菜も肉も、ちとせの力によりかなり美味しく仕上がっていたオムライスもきれいに平らげ、言われるがまま独歩はちとせの家の風呂に入っていた。
 食事中に湯を貯め、食後少しのんびりした後に入れるような温度調整まで完璧に行われていた風呂ではあるが、独歩は落ち着かず湯船に浸かりながらもずっとソワソワしていた。
 自分の家ではない風呂というものにも緊張しているが、シャワーを浴びている時にふと思い至ったのだ。
 恋人と二人きりの夜である。
 下着を見られる心配などしていなかったが、万が一そういうことになった場合どうするべきなのか。
 そもそもそこまで独歩の考えが至らなかったため、備えも何も無い状態である。
 ちとせの家に泊まることで浮かれに浮かれたツケが回っているとしか思えなかった。
 普通を知らない独歩ではあるが、どう考えても男側が用意するものである。
 ちとせが備えているにしても、それを買う場面を想像するだけで申し訳なさで吐きそうだった。
 が、しばらくどうしようどうしようとぐるぐる考えていた独歩は、湯船の中でハッとする。
(そもそもこの考えがキモいんじゃ……!? そういうつもりじゃないのに俺がこんな不埒なことしか考えてないなんて気づかれたら絶対嫌われるしキモがられるに決まってるアラサーのオッサンがこんな思考でごめんなさいごめんなさいごめんなさい)
 と湯船に入っているのにブルブルと体の芯から震えが来た。
「独歩くーん? お風呂長いけど溺れてないよね?」
 しばらく思考が謝罪で埋められていたが、ふと耳に入ってきたその声で独歩は我に返った。
 控えめなその声は脱衣場のほうから聞こえ、独歩の返事がないため再度「おーい」と先程よりも大きめの声が聞こえる。
 思考がうまく動かず返事がすぐにできなかったのだが、それに危機感を覚えたらしいちとせが「恥を忍んで押し入るしか……」と呟いたところで独歩の思考は完全に動き始めた。
「あ、えっ……だ、大丈夫だから入ってこなくても!」
 生きてるから! と念を押せば、ちとせは安心したように「良かったー!」と脱衣場の前で声を上げている。
 墓に入るまで先程考えていた不埒なことは言わないようにしようと独歩は心に決め、のぼせ始めた思考と体のために風呂から上がることにした。


「今日は独歩くんをいたわる日だから、髪の毛も私が乾かしたいし、ヘアケアも僭越ながら私がさせていただきます!」
 罪悪感に苛まれた独歩が風呂から上がれば待っていたのはそう言ってドライヤーを構えるちとせだった。
 風呂から上がるなりちとせに土下座をしたい衝動に駆られていたのだが、その気持ちはちとせのその行動により宙ぶらりんになってしまった。
 座って座ってと言われ、ちとせの前、ふかふかしたラグの上に座るとちとせがいそいそとやってきて濡れた独歩の髪の毛をきれいに櫛でとかしはじめる。
 いつもであれば適当に乾かして適当に終わり、そのままベッドへダイブするのが日課だが、されるがままに独歩は髪を乾かされはじめてしまった。
 ちとせの家にあったちとせの髪と同じ香りがするシャンプーに、においのあまりきつくないヘアオイル。
 頭や髪に触れるちとせの指があまりに心地よく、独歩の先程まで感じていた罪悪感は霧散してしまった。
 美容院等でしか人に髪を触られることはないが、こんなに気持ちよくて幸せな気持ちになるのか、と独歩はうとうとしながら思う。
 髪を乾かしながらドライヤーの音の向こうでちとせが「お客さん髪の毛ふわふわできれいですね〜」や「寝てもいいよ〜」と言っている声が聞こえたが、眠気が強くなってきた独歩はその幸せな気持ちのままふっと意識を手放していた。


 ふっと意識が浮上したのは、近くにちとせの香りを感じたからである。
 あれ、今俺何してたんだっけ。ちとせが俺の家にいる訳ないよな。もしかしたら帰ってきた一二三の香水の匂いか。
 ならもう一眠りしてもいいな、と独歩は考え、寝返りを打とうとして自分が何か柔らかい枕のような、弾力のある何かを枕にしていることに気づいて寝返りをやめる。
 自分の枕ではない。
 寝ているであろうベッドも固く、床のような感覚だ。
 もしかしたら床で寝落ちたのかと思うが、その枕のようなものが少し動き「独歩くん?」と頭上から声が降ってきたことで完全に独歩の目は覚めた。
 そうだったちとせの家に泊まりにきてるんだった! と焦り、自分が髪を乾かされている間に寝落ちたことも当然思い出す。
 目を開けると眼前にあったのは薄いグレーのボタンである。
 そして起き上がろうと思って触れた枕は暖かく、触れた拍子に「寝てていいよ」と頭を撫でられたところで、独歩は冷や汗が背中を伝っていくのがわかった。
 さあ、と血の気が引くとはまさにこの事である。
 今触れたものが何か。
 目の前にボタンがついた服が見えるということはどういう状況か。
 床に寝ている自分。
 上から降ってきたちとせの声に、優しく撫でられた頭。
 要は、膝枕をされている状況である。
 触れたのはちとせの太ももで、見えたのは先程お揃いでと購入したパジャマのボタンだ。
 それに気づいた瞬間、眠気は一気に消え失せ、独歩はバッとちとせから離れ無意識のうちにその場に土下座していた。
「寝落ちした挙句セクハラ野郎でキモくてすみません!」
「なんで!?」
 驚いたような声をあげるちとせは、慌てたように土下座をする独歩に近づいて肩をぽんぽんと叩いた。
 とりあえず頭上げよ!? と言われるが独歩の耳には届かない。
「昨日からそわそわして落ち着かなくて浮かれポンチ野郎で寝れなかったからって寝落ちした挙句セクハラまでして訴えられても何も文句言えないそうだもうこのまま自首して詫びるしか……」
「待って待ってセクハラしてないから落ち着いて!」
 言わなくて良かったことまで暴露した気がするが、ちとせに少し強めに肩を叩かれ、独歩はハッと我に返る。
 そのままのそりと起き上がり、猫背になりつつも正座の形に収まれば、ちとせが膝がくっつきそうな位置に同じく正座をして独歩を見上げるように覗き込んだ。
「とりあえずひとつずつ言うんだけど!」
 ぎゅっとそのまま手を握られ、これはもう別れ話になるかもしれない、最悪セクハラ野郎として訴えられる可能性のほうが高い、と独歩は肩を落とすどころか溶けて消えてなくなりたい衝動に駆られた。
 俺みたいなアラサーのオッサンに無遠慮に触られて不愉快にならない訳がない、と。
 もはや気落ちどころか口から魂が半分以上出ている状態である。
「寝れないくらい楽しみにしてくれてすっごく嬉しいのがまずひとつね?!」
 ちゃんと聞いてね、とさらに手を握られ、思った内容ではないひとつめに独歩の口から出た魂が少しだけ体に戻る。
 はえ、だか、ひぇ、だかよくわからない声が喉から出た。
「で、寝落ちするくらい私の部屋が落ち着ける場所になってるならそれもすごく嬉しいよ! これふたつめね?!」
 ね? と握った手を上下に振られ、独歩はちらりと俯いて目にかかった前髪の隙間からちとせを見る。
 風呂上がりなのか少し頬が赤くなっているのが可愛いと思うが、思った瞬間にさらに「セクハラキモ男ですみません!」と心の中で叫んだ。
「で、独歩くんは私の彼氏なんだから、太もも触ったくらいじゃセクハラになんないよ! そもそも膝枕勝手にしてた私が痴女の可能性あるからねそんなこと言われたら」
「それは絶対ない」
 ちとせが痴女なら自分はどう足掻いてもセクハラ野郎である。
 思ったよりも早く否定の言葉は声になったが、ちとせは「だから独歩くんもセクハラじゃないよ」と念を押すように強めの口調で言った。
 握られた手も上下に振られる。
「だから訴えるなんてしないし、独歩くんも私を痴女として訴えたりしないでしょ? 恋人のスキンシップなんだからこれくらいは大丈夫! むしろ独歩くんは私のどこに触ったって訴えられることない権利あるくらいだからね?!」
 どこに触ってもいい権利があると言われて、ふらりとちとせを見ていた視線がちとせの胸元に移動しようとしたため、ハッとした独歩は慌てて目を閉じた。
 キモくてごめんと絞り出すような、蚊の鳴くような声が出たがちとせはちとせで「今のは私の発言がダメだったごめんなさい」と謝罪を口にした。
「とにかくね、私は独歩くんに膝枕できて嬉しかったし、気を許してもらえてるみたいで嬉しかったし、好きな人とちょっといちゃいちゃしてる感じがあって幸せだったから……謝らないでほしいな。私は全部嬉しかったよ」
「ちとせ……」
 膝枕をするくらいで幸せになれると言われ、独歩のネガティブだった心の中にほわりと暖かいものが生まれたような気がした。
 好きな人と言われたことも独歩の混乱した思考の中に静寂を取り戻す要因のひとつになった。
「もうちょっと膝枕したかったくらい。独歩くん撫でるのも楽しいし、寝顔見れるのも嬉しかったから」
 えへへ、と頬を染めるちとせに、独歩の先程までのネガティブ思考はスポンとどこかへ飛んでいく。
 なんでこんな可愛いちとせが俺なんかのこと好きになってくれたんだろう奇跡すぎる……、と完全に惚れた欲目なことを思うが顔はへら、と笑う程度で声には出さなかった。
「いや、でもさすがにこれ以上は折角誘ってくれたちとせに申し訳ないし」
「気を使うためにお泊まりするわけじゃないからいいんだよ。今日は独歩くんをいたわる日だし、お泊まりなんてこれから何回もできるしね」
 これから何回でもできる。
 なんでもない言葉だが、独歩の胸に深く刺さった。
 片想いの時も、両思いになってからも、こうしてちとせが言葉を沢山投げてくれる今でさえ。
 自分の気持ちの方が大きいのでは、ちとせの気持ちは好きではないのでは、と独歩は思うことが多いが、なんでもないちとせの言葉に救われる思いがすることも最近は多い。
 なんでもないように未来の話をするその未来のちとせの隣には、自分がいるのだ。
 それがどうしようもなく嬉しいと、そう思うことが増えた。
 診療時の寂雷にも、恋人ができて少し不安等落ち着いて来たんじゃないかと言われた程に。
「たくさん話したいし、いちゃい……くっつきたいなって気持ちはもちろんあるんだけど、眠いなら寝ちゃおう? 布団を敷……あっ……」
「……うん?」
 布団を敷くなら手伝う、と言おうと思ったがそれよりも早くちとせがぴたりと固まった。
 なにか思いついたが言うのが憚られる、というような表情のちとせはしばらく目を閉じたり口をぱくぱく開こうとしたり赤くなったりと百面相をしていたが、意を決したように握ったままだった独歩の手を握り直した。
 そこで独歩がやっと手を握られていたことに気づいてぱっと頬を赤くしたが、ちとせも独歩と同じく頬は赤い。
「ちなみになんだけど……これはもう痴女って言われても文句言えないこと今から聞いてもいい……?」
 何を言われてもちとせを痴女だと思うことはないが、頬を赤くしているちとせは大真面目に問うているため独歩も手を繋がれているという事実は頭の隅に追いやり、真面目に頷いてみせた。
 しばらくちとせは言いにくそうに口をもごもご動かしていたが、意を決したようにあのね、と言葉を続ける。
「断ってくれてもちろんいいのを前提としてね? 一緒の布団で寝たいなっていう私のわがままとか、言ってもいいのかなーって……もちろん何もしないから!」
 しばらく言われたことを飲み込む作業していた独歩だが、やっとちとせの言葉が頭に届いた瞬間に「いっ、一緒の布団!?」と叫んでいた。
 わがままなんて言われたことがないため少しの期待とかなりの不安が混じる気持ちでいたが、思わぬわがままに独歩の声はひっくり返った。
 正座している体も三センチ程浮いた可能性もあるほど驚いた。
 真っ赤になったちとせが可愛いだとか、一緒の布団に入って寝れる気がしないだとか、いやでも俺もそれはしたいだとか、何もしないからはこっちの台詞ではとか、完全にセクハラ野郎で社会的に終わるだとか様々な思考が一瞬で頭の中を駆け抜けていくが、ちとせの「だめかな……?」という首を傾げて眉を下げるというおねだりを無碍にすることもできなかった独歩は、顔を真っ赤にしたまま「俺も一緒に寝たいです」と先程よりもずっと蚊の鳴くような声でなんとか絞り出した。



 死ぬかも、と独歩はガチガチに固まった体と忙しなく巡る思考の中思っていた。
 ちとせのベッドは大人二人が眠るのには充分すぎるほど広く、なんなら独歩一人大の字で寝てもちとせのスペースがある程大きなベッドだった。
 実家から持ってきたらしいベッドの大きさにそういえばちとせはお嬢様だったなというのを思い出した程である。
 そんな大きなベッドの中、独歩はベッドから落ちるのではないかと言うほど隅に寄っていたのだが、さすがにちとせが看過できず「落ちちゃうから真ん中まで寄って独歩くん!」と言うためやや真ん中まで寄ったのはいいのだが。
 やや真ん中では満足できなかったらしいちとせに引っ張られるように真ん中まで寄せられ、引っ張られた格好──要は後ろから抱きつかれているような体勢のままベッドの中で過ごすことになっている。
 独歩は身動きひとつ出来ず、背中側が柔らかい感触がするのと、セクハラ野郎にはなりたくないという謎のネガティブさと、布団からちとせの香りがするため抱きつかれているのもあって何もしない自信がない緊張感で吐きそうになっているが、わがままと独歩は思わないがそれを言った本人であるちとせは「独歩くん背中広い!」だとか「こうやって並ぶの初めてで新鮮!」だとか「身長差すごい」だとかで終始楽しそうにしている。
 寝落ちするほどだった体と脳は今はもう完全に覚醒している状態だった。
「ちとせ、あ、あの、抱きつかなくても落ちないから大丈夫……」
「あ、独歩くん私が離した瞬間端っこに寄りそうだからつい……」
 鋭いその発言に、独歩はぐぅと喉を鳴らす。
 ちとせが寝た瞬間か離れた瞬間に端っこに戻り安息を手に入れたかったのだが、先読みをされているらしかった。
 私が抱きつくのいや? と聞かれ「それはない」と即答した数分前の自分のせいでもあるかもしれないが。
 抱きつかれることは初めてではないが、それはベッドの中という特殊な場所ではなく別れ際や、外でも二人きりだったりと、当たり障りのない時でしかない。
 普段でさえ緊張で吐きそうになる程なのに、ベッドの中でこの状況ともなれば死ぬかもしれないと思うのは仕方がないだろう。
「端っこで寝られると寂しいから真ん中にいて欲しいな。そしたら抱きつかずにちゃんと寝るから」
 言われて、たしかに寂しさは感じるかもしれないと独歩も思う。
 ちとせと逆の立場で、ちとせが端っこで寝て自分が真ん中で一人で眠るというのはこの状況ともなれば寂しさは覚えて当然かもしれない。
「それか独歩くんが私の事抱きしめて寝てくれたらいいのかも? なんていうのはまあ冗談だけど」
 ぐるぐると混乱した思考の中に飛び込んできたその声に、独歩は混乱したままの思考でたしかに、と思う。
 抱きつかれるのが緊張するのは自分主体ではないからでは。
 自分主体で抱きしめればこの緊張と諸々から解放されるのではないか。
 ちとせからの提案を良いもののように感じた独歩はむくりと片肘をついて起き上がり、ちらりとちとせへ視線をやる。
 そのまま体を反転させれば、腕を緩めたちとせが目に見えて頬を赤くして、照れたような表情をしたのが目に入った。
 が、とりあえず抱きしめて己を落ち着かせようとしか思っていなかった混乱した独歩はそのままぎゅっとちとせを抱きしめる。
 思ったよりもちとせは小さく細く、そして思ったよりもずっと柔らかく、体温を感じる体は暖かく気持ちがいい。
 幸せかも、とほわ、と心が解れる。
 ああ、癒されるのってこういうことか、と思った瞬間、腕の中のちとせが身動ぎをして独歩の心臓はその一瞬でドッ、と変な音を立てて止まった気がした。
 完全にセクハラ野郎逮捕待ったなし社会的に抹消される男の行動である。
 ちとせから言い出したことというのは完全に忘れている独歩は、抱きしめたちとせから手を離し両手を上げて何も触ってませんのポーズをとった。
 が、体は密着しているためあまり意味はない。
「すみません俺が犯人です!」
「待って待ってセクハラじゃないし犯人でもないし私が抱きしめてって言ったほうだから!」
 逃げ腰になってベッドから飛び降りそうになる独歩をガシッと抱きしめたちとせにより独歩のベッドからの逃走は阻止された。
 ひぃ、となんとも情けない声を上げる独歩に、ちとせは我慢できないと言わんばかりに吹き出すと、ごめんね、とふふふと笑う。
「私がいちゃいちゃしたくて急ぎすぎちゃったね。で、でも犯人ですって言われると思わなくて、ふふふ」
 さらにツボに入ったのかくすくす笑うちとせに、独歩はやっと混乱した思考が落ち着きを取り戻すのを感じていた。
 もはや自分がどんな発言をしたか覚えていないが、ちとせは楽しそうに笑っているので数秒前の自分に感謝をしてもいいかもしれないとまで思う程である。
 楽しげに、同じ布団の中で笑っているちとせを見ていると、無性に触れたいと思った。
 心臓はうるさいしドキドキしすぎて思考もうまくまとまらないが、ちとせが可愛くて、触れたくて、こんなに近くに居るのに少しでも近くに行きたいと思う。
 こんな自分でも楽しそうに笑ってくれるちとせが好きだな、と心の底から思えば、自然と独歩の手はちとせへと伸びていた。
 笑いすぎて涙の浮かんだちとせの目尻を指で撫でると、笑っていたちとせは不思議そうに独歩を見上げる。
 それにもやはり可愛い、触れたい、と思い、思うまま目尻から頬を親指で撫でる。
 すべすべとした肌が途端に真っ赤になるが、それさえ可愛いとしか思えなかった。
 どうやったらもっと近づくことが出来るのか。
 同じ布団の中に居るのに傍に行くことができるのか。
 考えるよりも前に、独歩は先程と同じように、けれど全く違う心持ちでちとせを抱き寄せていた。
 頭の中は凪いでいて、ただ目の前のちとせに近づきたい、触れたい一心でその小さく柔らかい体を腕の中に閉じ込める。
 緊張したように体を固くするちとせに、やはり思うのは可愛いな、だった。
「あぁ……、可愛いな……」
 思わず声に出たが完全に無意識で、その声にすらびくりと体を固くするちとせは可愛いを通り越して愛おしかった。
 自分の一挙手一投足で反応を返されるのは愛おしく、それが自分を好きであるが故だとわかるのがまた愛おしさに拍車をかけるのだ。
 腕の中にある暖かな体温に、柔らかな体に、ほっと息を吐く。
 心臓がうるさいのは変わらないが、それよりも安心する方が勝り、どこかに行っていた眠気がまたやってきた。
 うとうとと微睡んでいく思考の中、控えめにちとせから自分の体に腕が回された気がして、ああ、好きだなあ、と思ったのを最後に独歩は意識を手放した。
 翌朝、かつてないほどすっきりと目覚めた独歩は、しっかりと自分が抱きしめて眠っているちとせの寝顔を見て思考が止まったあと、声にならない声を上げベッドから転落したのは言うまでもないだろう。

 

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