病院の一室で、ちとせはだらだらと冷や汗をかいていた。
 目の前には少し心配そうに眉を下げる寂雷に、ちとせに怯えた一二三、そしてぽかんとした独歩である。
 なぜこんなことになったんだ、とおおいに焦ってはいるのだが、そもそもちとせが独歩に入院していることを言っていないのが問題だった。


 独歩の言う寂雷先生と、ちとせの主治医である寂雷先生が同一人物だとちとせが分かったのはごく最近だった。
 ディビジョンバトルにあまりにも興味がなく、独歩がシンジュク代表だということでたまたま調べた麻天狼のメンバーに見知った人物が居て気がついた、というのがここ最近の出来事である。
 知ってる人だったと独歩に言うタイミングもなんだかんだと逃していたが。
 桐条の事情やシャドウワーカーの事情などにも精通している医者は数少なく、その中でも信頼に足る人物である神宮寺寂雷という医者は桐条にとって大切な人材である。
 シャドウ関連で怪我をしたり、診断書が必要な時に頼るのはちとせはほぼ寂雷だった。
 そもそもが怪我をするなと美鶴やゆかりからは言われるのだが、そういう訳にもいかない。
 今回もシャドウ関係の少し大きな怪我を負ったのだが、診断も治療も普通の医者だと怪しまれるため、寂雷に依頼し、寂雷の居る病院に一週間程入院ということになった。
 メメントスに潜ればペルソナの力で回復することは可能なため、怪しまれない程度に治療と入院をして退院する手筈だったのだ。
 独歩としばらく会う約束はしていなかった為、入院していることも心配させるからと伝えずに居たのだが。
「じゃ、寂雷せんせ……? これはどういう状態で……」
 診察に来たと寂雷に言われ、はーい、と元気に返事をしたら寂雷に続いて部屋に入ってきた面々の中に独歩がいるではないか。
 怪我をしたことを伝えていない罪悪感と、わりと想定する中でも最低な形で怪我がバレたことにちとせの心臓は嫌な音をたてている。
 固定されたちとせの右手に独歩の視線が動き、唖然どしたように寂雷の後ろに立ちすくんでいるのを見て胸が痛んだ。
「独歩くんの恋人はちとせさんだと思ったから見舞いがてらと思ったんだけどね」
 まさか入院のこと言ってなかったのかい? と問われ、はいそうですとちとせは心の中だけで答えた。
 そもそもちとせが意識不明で運び込まれたのは昨日の夕方で、目が覚めたのは昨日の夜中。
 さすがに連絡するのも気が引けると思ってしなかったのだが、今朝しておけば良かったと心の中でまた思う。
 怪盗団が死神とかち合ってしまったため助太刀に入ったところ、なんとか勝てたが腕の骨折と頭の強打もあって意識を無くしたのだが。
 頭や腕はその場である程度ペルソナを使った回復が施されたため大事に至ってはおらず、現にちとせは腕の骨折以外はピンピンしている状態である。
「よ、夜中に起きたからまだ言えてなかったんですけど……」
「ああ、まあそうだね。今日は検査続きだったし……。一二三くん、ジャケットを……独歩くん?」
 病室の隅で怯える一二三にジャケットを渡す寂雷が、微動だにしない独歩に声をかける。
 瞬間、独歩の顔色がさっと青ざめ、ばたばたと足をもつれさせながらちとせのベッド横へ膝立ちになった。
「け、怪我、なんで……。腕の他には? どこか痛いところとか、歩けないとか、入院はどのくらいまでするんだ?」
 言いながらちとせの体をくまなく見て、オロオロと視線をさ迷わせる。
 不安だと顔に書いてあるそれに、やはりちとせは先に言っておけばよかったと心底後悔する。
「あ、歩ける、歩けるよ! 頭は打ってるけど問題ないし、腕の骨だけだし、寂雷先生が治してくれるから大丈夫! 入院も一週間くらいだから、ね?」
 安心させるように言うが、独歩の耳に入っているかは怪しい。
 おろおろしたままちとせの右腕や体の状態を確かめるように視線をさ迷わせているし、ベッドの上に所在なさげに置いてある手は震えていた。
 寂雷ではなくゆかりあたりにペルソナで治してもらうつもりだったが、一二三もいる為そんなこと言えるわけもない。
 独歩にもペルソナのことは言っているが、それで怪我が治ることまでは伝えていないのだ。
 動く左手で独歩の手を握れば、独歩は一瞬躊躇するような素振りを見せたが、さらにちとせが手を握ればそこでやっとホッとしたように息を吐き、ちとせの手に自分の額をつけた。
 そしてそのまま独歩はまた動かなくなってしまい、困ったようにちとせが視線を寂雷へ向けると寂雷が何か言うよりも早く、ちとせの視界に金色が入ってきた。
「ちとせさんかな。はじめまして、僕は伊弉冉一二三。独歩くんとは幼馴染なんだ。ごめんね、独歩くん、心配しすぎて動けなくなったみたいで」
 ジャケットを着た一二三の先程との違いように驚くものの、話はあらかじめ独歩から聞いていたためなるほど、と思う程度で済んでいる。
 ちらりと一二三は動かなくなった独歩を見るが、眉を下げて申し訳なさそうにするだけで独歩を離すつもりはないらしい。
「あっ、いや、私こそこんな格好でごめんなさい! 桐条ちとせです、よろしくお願いします。独歩くんからお話はたくさん聞いてたから初めましてな感じがあんまりしないけど……ええと、独歩くん?」
 再度声をかけるが独歩は身動きひとつしない。
 一応寂雷の診療時間のような気が、と思ったが、寂雷は苦笑をひとつ零すと「ちとせさんが良ければこのまま診ようか」とちとせを見た。
 検査結果と腕と頭の様子を聞かれるくらいなため特に問題はないが、独歩はともかく一二三はこんな所にいても暇なだけでは? と思うが一二三は独歩の斜め後ろから動くつもりはないらしく目が合うとにっこり微笑まれた。
 シンジュクナンバーワンホストだと言われているのが分かるようなとろけるような笑みである。
 これは確かにモテそう、とちとせは思った。
「私は大丈夫です。頭はもうなんともないし、腕以外は元気いっぱいなんで!」
「そうみたいだね。検査結果も特に問題は無いし、腕も綺麗に折れているから心配は無さそうだよ」
 綺麗に折れるとかあるんだ、と思ったがちとせは口には出さなかった。
 その変わりちとせの左手に額をつけて身動きひとつしない独歩の頭を右手で撫でようとして、そういえば固定されてるから動かせないんだと少しだけ不便を感じる。
「予定通り一週間くらいの入院で良さそうだね。検査結果に問題は無いけど、過労気味だと石動さんに聞いているからこの一週間でゆっくり休んでくれると嬉しいよ」
「うっ……」
 石動と繋がっている寂雷に、ちとせはむうと頬を膨らませる。
 美鶴かアイギスにノートパソコンを持ってきてもらってできることをしようと思っていたのだが、それすらどうも許して貰えそうにない。
「独歩くん、ちとせさんの診察終わったみたいだよ。離れられるかい?」
 一二三に肩を叩かれ、やっと独歩はそこでびくっと体を揺らした。
 焦点の合わない視線はしばらくぼんやりしていたが、再度一二三に肩を叩かれハッとしたようにちとせを見上げる。
「ちとせっ……、な、治る、んだよな? 入院も、どれくらいになるんだ? その間おれっ……」
 混乱の最中にいたのか全く話が耳に入っていなかったらしい独歩に、ちとせはそれだけ心配されていることに罪悪感と、ほんの少しの嬉しさを感じた。
 今度からちゃんと言おう、と決意し、するりと左手を独歩の手から抜いてそのまま独歩の頭をゆっくりと撫でる。
「治るし、一週間くらいで退院できるよ。それに怪我は……うーん……」
 さすがに一週間で自然と骨折が治るわけではない。
 一二三も怪我をしているちとせを見ているため、一週間後ピンピンしているちとせを万が一見ると不審に思うだろう。
 今後会うことがないなら特に問題は無いが、独歩の幼馴染であり独歩の大切な人なのだ。そういうわけにもいかない。
 ちとせにとってのゆかりや悠たちのようなものなら、一二三にもきちんと説明をしたほうがいいだろうことは分かるのだが。
「寂雷先生、今日火曜日だけど、土曜日退院とかダメ……? そしたらゆかりちゃんのところに、独歩くんと一二三さんも……もちろん都合が良ければなんだけど、一緒に行きたいと思って」
 どうかな、と不安そうな独歩に聞くと独歩は間髪入れずに「行く」と即答をして、一二三は不思議そうにしながらも「子猫ちゃんのためなら」とウインクをした。
 お、おお、ホスト……! と謎の感動を覚えたが、寂雷はちとせが何をしようとしているのか理解しているらしく、おっとりと微笑むと「それもいいだろうね」と言った。
「独歩くん、土曜日にね、怪我治るところ見てもらいたい。一二三さんも、巻き込んじゃって申し訳ないんだけど……多分、私このくらいの怪我結構するし、不審に思われるくらい治るのも早いから、独歩くんと、独歩くんの大切な一二三さんにもちゃんと知っててもらいたくて」
 だから一緒に来て欲しい、ともう一度言えば、独歩はこくりと頷いて、一二三ももちろんいいよ、と返事をした。



 ちとせが退院するまでの数日間、過保護と言っても過言では無いほど独歩とのメッセージのやり取りが続いていた。
 痛いところはないか、無茶をしていないか、利き手の骨折のため自分が仕事が終わったら世話に行きたい、顔が見たいととにかくちとせの安否を確認する連絡が頻繁に来ていた。
 それに大丈夫だよ、動かさなかったら痛くないよ、土曜日にはちゃんと治るよと都度送るのだが独歩の心配度合いが強すぎて「今すぐ会いに行きたい……」と、ともすれば熱烈なラブコールなのではと思うようなことも言われる始末である。
 一二三とも連絡先の交換をしたのだが、そちらからも来る連絡といえば独歩が観葉植物を眺めたまま動かないだとか、靴下を片方ずつ履き間違えて仕事に行っているだとかそういう連絡ばかりで随分心配させているらしかった。
 だが、ちとせにとって怪我というのは日常茶飯事である。
 独歩たちもディビジョンバトルでは満身創痍になることがあるため同じようなものだが、精神に作用するヒプノシスマイクと物理的に傷がつくシャドウとではわけが違うのだろう。
 ちとせからしてみれば精神的に作用するヒプノシスマイクのほうが心配ではあるのだが。
「私はヒプノシスマイク使うなって言われてるしなあ……」
 独歩からの「もうすぐ病院に着く」というメッセージを見ながら、ちとせはううんと唸った。
 退院する際独歩と一二三と合流し、桐条の家へ向かいゆかりに骨折を治してもらう算段なのだが、待ち時間にふと呟いたそれは近くにいた寂雷に「そうなのかい?」と拾われた。
「うわ、声にでてた……?」
「しっかりとね。それで、どうしてヒプノシスマイクは使ってはいけないのか聞いても?」
 寂雷にならいいか、とちとせはそれが、と続ける。
 独歩の、俺たちが行くまで待っててくれと言うお願いのため独歩と一二三が来るまでは病室で待機しているのだが、暇を持て余しているので丁度いいかと思ったのだ。
「私のペルソナ……ツクヨミのほうが感応型というか、相手と同調しがちというか」
「ほう?」
 すっと寂雷の目が細まった。
 興味を引かれたらしいそれに、ちとせは相変わらずだなあと苦笑する。
「私が使うと相手に効きすぎるというか……ラップとかにしなくても、マイクを通して話すだけで結構きついみたいです。その変わり私にヒプノシスマイクは全然効かないんですよねえ」
「それは……実に興味深い事象だね」
「私タイプのペルソナ使いは効きが悪かったりとかはあるみたいですよ」
 現にりせがそのタイプである。
 効きにくく、相手には効きやすい。
 新たに出てきたヒプノシスマイクをシャドウ討伐に使えないかと実験もされているようだが、そもそもが人間の精神体のようなシャドウに効果があるのかと言えばほとんどないため実験も難航しているらしい。
 武器完全廃止となったため、桐条でも対シャドウの武器を入手するのは骨が折れるようになったと美鶴が嘆いているためヒプノシスマイクに手を出したかったらしいが。
「例えばどんな効果があるのかな」
「うーん……私が例えば動くな、ってマイクを通して言うだけで全く動けなくなる、みたいな感じだったかな」
 きら、と寂雷の瞳が輝く。
 見てみたいと暗に訴えているその視線にぶんぶんとちとせは首を横に振った。
「無理無理無理! 誰に何を言えっていうんですか!?」
「私に是非」
「もっと無理!」
 寂雷にヒプノシスマイクを使って動けなくさせる。
 そんなことを美鶴に知られたら呆れられる上に寂雷共々お説教コースである。
 どうなるか分かっているのになぜ実際にやらないと気が済まないんだ、と脳内の美鶴がため息をついた。
 心底から残念そうにしている寂雷に、ちとせは医者ってみんなこんななのかな、と恐怖を覚えたところで、コンコン、と病室のドアをノックする音が響いた。
「はーい」
「ちとせ、遅くなってごめん」
 入ってきたのは慌てたような独歩と、今日は既にジャケットを羽織っている一二三である。
 お邪魔します、とウインクをしてみせた一二三に「こんにちは!」と返す。
「大丈夫だよ独歩くん、時間より少し早いくらいだし」
「腕の痛みとか、あとは頭とかの痛みもないよな? あ、荷物は俺が持つよ。ちとせは手ぶらでいいから極力何も持たないで……支えは? 歩く時必要なら俺が」
「だーいじょうぶ! 独歩くん大丈夫だよ。足腰元気だし、腕の骨折だけ! ジャンプも出来るくらい!」
 ほら、とその場でジャンプをしてみせると、独歩が見るからに狼狽えて「大人しくしててほしい」と切に訴えてきた。
 まだ数日前の恐怖から抜け出せていないようで、泣きそうに顔を歪ませるためちとせもおとなしくジャンプをやめる。
 さすがに恋人を泣かせて喜ぶ趣味は持ち合わせていない。
「ごめん独歩くん……でもほんとに元気だから大丈夫だよ、心配しないで。ちゃんとこの後骨折治るから、ね?」
 そんな二人のやり取りを、一二三が目を細めて優しく見守っているのに寂雷は気づいたが、寂雷も同じような顔をしている自覚があったため、ふっと息を吐くように笑うだけにとどめた。
 独歩も一二三も、このあと骨折が治る、と言われても何が何だか分からないだろうに、ちとせがきちんと説明してくれると信じているのだろう。
 この場でそれに対して深堀りをすることはない。
 独歩はともかく一二三もそこを掘り下げないのは、独歩が信頼しているちとせを信頼しているのか。
 それとも、独歩の大切な人と言われたことを深く受け止めているのか寂雷には分からない。
「二人とも、そろそろ迎えが来るんじゃないかな」
 二人のやり取りを見ているのは楽しいが、退院の時間も迫っている。
 それに桐条からの迎えの車が来るとちとせは言っていた。
「あっそうだった」
「迎え?」
 寂雷に言われ、ちとせは腕時計を見る。
「桐条に行くから迎え頼んでるんだけどそろそろ来ると思う。手続きとかも終わってるし行こう。一二三さんもよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げたちとせに、一二三は「こちらこそよろしくね」と片手を背中に回して礼をした。
「ざっくりした説明は車の中でします。じゃあ寂雷先生、また来ます!」
 元気いっぱいに言ったちとせに、寂雷は苦笑をした。
「病院には来ないに限るけどね」



 ペルソナのこと、シャドウのこと、ちとせがしていること。
 これからペルソナの力を使って怪我を治癒すること。
 移動中の数十分の間に、独歩には以前した説明を一二三にもざっくりと説明したのだが、神妙な面持ちの一二三が何を考えているかはちとせにはわからなかった。
 桐条の車にしては小さめのリムジンではあるが、向かい合わせて座れるのは顔が見えて都合がいいとちとせは思う。
 独歩も復習がてら聞きたいと言ってくれたため一緒に聞いてもらったが、独歩の表情は心配や不安や、そんな感情がごちゃ混ぜになっているもので本当に治るのか不安なのだろうことは見て取れるのだが。
 もうすぐ家に着く、というところであらかたの説明は終えたためなにか質問でもあれば、と思ってちらりと一二三を見ると、思いきり視線が合う。
 それにちとせがええと、と口を開くよりも、一二三が「そういえば」という方が早かった。
「ちとせさんの実家ということはご家族もいるということかな。僕たちがお邪魔してもいいの?」
「あ、それはもちろん。姉にも、ゆかりちゃん……私の事治してくれる人にも言ってあるので大丈夫です」
「それなら良かった」
 ぱっと笑顔になる一二三に、おお、輝いてる、とちとせは内心思う。
 もちろん声にも顔にも出さないが。
 次いで独歩にもなにか質問がないか尋ねようとすると、はっとしたように顔を青くすると「あっ姉!?」と叫んだ。
「ちとせの、かか、家族に会う……!?」
 真っ青で頭を抱えてしまった独歩に、なるほど確かに現状で家族に会うのは独歩にはハードルが高いかもしれないとちとせは思う。
 が、会うと言っても美鶴とゆかりである。
 独歩よりもどちらも年下ではあるし、彼氏とその友人を連れていくというのは予め伝えてある。
 美鶴からも分かった、としか言われていない。
「家族って言っても、私には姉さんしかいないし大丈夫だよ独歩くん」
 が、そこで美鶴もゆかりも女であることを思い出し、ちとせはちらりと一二三を見た。
 ジャケットを羽織れば女性に対しての恐怖心はなくなるのだと聞いていたが、それでも尋ねておいた方がいいだろうか。
「一二三さん、姉さんもゆかりちゃんも女の人だけど大丈夫ですか? 無理してるわけじゃ……」
「ああ、ありがとうちとせさん。僕まで心配してくれて。でも大丈夫だよ、君のお姉さんと友人に会えるのが楽しみなくらいさ」
 そういう一二三は無理をしている様子もなく、言っていることも本心らしい。
 ジャケットを羽織っていようといまいと、一二三の根本的なものは変わらないと言っていたのは独歩である。
 ならば一二三が今言っていることも事実本音なのだろう。
「無理はしないでくださいね。もしダメそうなら片手をこう、しゅっと上げてもらって! そしたら私が距離をとってもらうので二人に!」
 手を上げるポーズをとれば、一二三は一瞬ぽかんとしたあと、ふふっと笑った。
 可愛いね、ちとせさん。と言うリップサービス付きである。
 とろけるような笑顔と整った顔でそんなことを言われれば落ちる女性は少なくないだろうと、ちとせでも分かるような笑顔である。
 そんな笑顔のまま、一二三は頭を抱えたままだった独歩の肩をぽんと叩くと、やはりとろけるような笑顔で明るく「彼女の実家に挨拶ってことだね独歩くん」と言い放った。
 それは今の独歩には悪手では、と思うがもう遅く、それを聞いた独歩は頭を抱えたままぶるぶる震え始めてしまった。
「じ、実家に挨拶!?!? 俺みたいなミジンコセクハラ野郎がちとせのご、ご家族に挨拶……!?」
 未だに先日の抱きしめて眠ったことを引きずっていることにちとせは笑ったが、一二三は首を傾げて「セクハラ?」と小さく呟いた。
 さすがに言ってないのかと思ったがちとせから詳しく説明するものでもないだろう。
「妹さんとお付き合いをさせていただいている……? 不束者ですが……? いや絶対違う俺はミジンコセクハラ野郎ですがちとせさんは必ず幸せに……?」
 段々と雲行きが怪しくなっている独歩の独り言にちとせは思わず笑ってしまった。
 自己評価は低いがちとせと今後も付き合って行ってくれることしか言っていないあたり、好きだなあと再確認をしてしまう。
「独歩くん、独歩くん、今日は私の怪我を治してもらうだけだからそんなに話すことないと思うから安心して。そもそも多分私はお説教から始まると思う」
「え、あ……え? 説教……?」
「説教? どうしてだい?」
 自分の世界から現実に戻ってきた独歩はちとせの最後の単語だけ拾い、一二三も怪我をしたちとせを説教するというのが結びつかないらしい。
「行ったらわかるよ」
 それにちとせは苦笑を返した。



 桐条に着いてラボのほうに通されたはいいが、やはり挨拶もそこそこに落ちたのはゆかりからの雷である。
「何回怪我したら気が済むのちとせ。心配する方の身にもなってよね? ペルソナで治るからって自己犠牲しすぎ」
「はい、ごめんなさい……」
「今回は助けられたから良かったけど一人のときだったらどうするつもりだったの? 心配する人が増えてるんだから、ちゃんと自分のこと考えること! いい?」
「承知しております!」
 ラボの床に正座をしたちとせ、その前で仁王立ちをするゆかり、ゆかりの後ろで眉を下げ苦笑いをする美鶴、そしてちとせの後ろでおろおろと所在なさげにする独歩に、少し楽しそうに様子を見る一二三。
 異様な空間である。
「すみません、来て早々見苦しいものを。ちとせの姉の桐条美鶴です。よろしくお願いします」
 ゆかりが更にちとせに説教を始めた横で、美鶴が前に出て独歩と一二三に頭を下げた。
 それに先に反応したのは一二三で、スマートに美鶴の手を取ると少し持ち上げて腰を折る。
「こちらこそ急にお邪魔してすみません。伊弉冉一二三です。ちとせさんとは友人になれたらと思っています」
 ちとせからしてみればもう友人の枠に収まっていそうだなと美鶴は思うがそれは言わずに「ありがとうございます」と返した。
 次いで一二三に肩を叩かれた独歩が、緊張からか真っ青なまま前に出て腰を九十度に折り曲げる。
「ちとせさんとおっお付き合いをさせていただいております観音坂独歩と申します! この度はお招きいただきありがとうございました本日はよろしくお願い致します!」
 もはや職業病かと思うような口上ではあるが、美鶴は気にした様子はなく、寧ろ面白そうに眉をあげると「こちらこそ、ちとせをよろしくお願い致します」と頭を下げた。
「ちとせからある程度の説明は?」
「あ、ありました、その、ざっくりとですが聞いてます」
 美鶴の放つ圧倒的な上に立つ人間のオーラに負けそうになりながら、しかし独歩はちとせの家族なのだからきちんと受け答えをせねばと足を踏ん張る。
 ハゲ課長のパワハラのほうが心に来るだろ、と悲しい叱咤をしながら。
「なら丁度いいか……。怪我が治ったあと、シャドウとの模擬戦を見てもらいたいとちとせから希望があって」
「模擬戦……?」
 まだゆかりから説教を受けているちとせへ視線をやって、独歩は美鶴へと視線を戻した。
 その表情は心配やそういったものは一切なく、ちとせの気持ちを尊重しているような、そんな信頼感のある表情だ。
「ヒプノシスマイクでのバトルは衆人観衆で行われることがあるもので見る機会も多い。だがシャドウとの戦闘は見てみないと分からないことが多いとちとせから。自分がいる世界を見て欲しい、と」
「確かにラップバトルは娯楽としても楽しまれてはいるけど……その、シャドウ? との戦いを見れるんですか?」
 一二三の言葉に、美鶴は頷く。
 今いる場所はラボ内の擬似フィールドではあるが、意図的に影時間のような状態にすることは可能である。
 もちろんシャドウも現れ、ペルソナでの戦闘が可能な状態になるのだ。
 応接室での回復の予定だったが、ちとせが見て欲しいと訴えるため急遽ラボの調整をした。
「象徴化しないためにあなたたちには管理室のほうへ移動はしてもらいますが、しっかり見れると思います」
 象徴化。独歩や一二三には全く馴染みのない言葉である。
 しかし美鶴の言うことを推測するに、その象徴化というものをすれば身動きもできず、ちとせの見て欲しいものを見ることもできないのだろうことは簡単に推測できたため、独歩と一二三は真面目な顔をして頷くだけに留める。
「もう、じゃあ治すけどほんとに反省してよ?」
「ゆかりちゃんありがとう大好きー!」
「はいはい」
 話が途切れた時、そんな会話が三人の耳に飛び込んでくる。
 どうやらゆかりの説教とやらが終わったらしく、ちとせはゆかりに左手で抱きついているし、ゆかりもそれに対しては満更でもないのか仕方がないなという表情で受け入れていた。
「ちょうど良い。今から彼女が使うのがペルソナです」
 美鶴が小声で独歩と一二三に言えば、ゆかりは徐に拳銃を取り出してそれを額へ当てる。
 ぎょっとするような光景だが、独歩や一二三が何か言うよりも、もっと言えば引き金を引くのを止めるよりも早くゆかりはその引き金を躊躇なく引いた。
 目を閉じそうになったが、思ったような銃声はせず、かしゃん、と薄いガラスの割れるような音がその場に響く。
 ゆかりもその場にしっかり立っており、銃弾が打ち込まれたというわけでもないらしかった。
 そしてその音と共にゆかりの上に突如浮かんだのは両手を広げた女性の上半身のようななにかだった。
 顔を覆う仮面のような鎧のようなものは頭のうしろ、肩からすっぽりと上半身を覆うようで、そこから生えていると思わしき腕は羽の形状をしている。
 ヒプノシスマイクを使った際に出てくるスピーカーともまた違うそれは、独歩や一二三にしてみたら異質な存在だった。
 そのペルソナが出た瞬間、ちとせをきらきらした光が包みこむ。
 それにちとせが「本当にありがとうゆかりちゃん!」と土下座をする勢いでその場に両手をついたのを見た独歩が焦ったように「ちとせ」とちとせのそばへ行き立つのを手伝おうとする。
 それにちとせはきょとんとしていたが、そのまま独歩の手を借りて立ち上がり、まだ包帯は取らずにいる吊ってあっただけの自由になった腕を見せて「今ので治ったよ」と笑った。
「な、治った……?」
「私のペルソナの能力です。すみません、挨拶があとになっちゃって」
 おろおろとしはじめた独歩に、ゆかりが口を開く。
「岳羽ゆかりです。ちとせとは……うーん、姉と妹みたいな関係?」
 首を傾げて言われたそれに、ちとせは包帯を外しながらええ、と肩を落とす。
「そこは疑問にしないで言い切って!? えっとね、独歩くんにとっての、一二三さんとか寂雷先生みたいな人だよ」
 一二三さんにとっての独歩くんとか寂雷先生みたいな感じでもあるね、と付け足せば、一二三は驚きながらもなるほど、と返した。
 まだ混乱の最中にいるのか、独歩はちとせの言っていることよりも、とられていく包帯の方をじっと見つめている。
 それだけ心配されていたんだろうなとちとせは思ったためそのまま包帯を解いていく。
「僕は伊弉冉一二三です。それと……」
 ちら、と独歩を見る一二三は独歩がちとせから目を離さないのを見て苦笑をする。
 自己紹介ができるような状態では無いらしい。
「観音坂独歩……さんですよね。ちとせから惚気これでもかってくらい聞くから知ってます。それでなくてもディビジョンバトルとか出てるし。知らない人いないんじゃないかな……」
 独歩自身の自分の知名度など底辺だと思っているが、実際はそうではない。
 ディビジョンラップバトルで優勝してからというもの知名度も人気も右肩上がりである。
 そんな当の本人である独歩は、ちとせの包帯がやっと全て取られ、きれいな腕が見えたところでやっと体から力を抜いたらしかったが。
「見て独歩くん、ちゃんと骨くっついたし動くし大丈夫!」
 ぶんぶんと右腕を振り回すちとせに、焦ったように独歩がその右腕を優しく握って体の横におろさせる。
「わ、わかったから、ちとせ。治ったのは分かったけど、でも……」
 急に動かして大丈夫なのか、痛みは本当になかったのか、体に変化はないのか。
 尋ねたいだろうことが独歩の中にうまれるが、そのどれも言葉にならず飲み込まれていく。
 今この場で言うことではないと思ったし、そのどれも今のちとせにかける言葉ではないと感じたのだ。
 心配性の恋人にやはりちとせは嬉しくなってしまいふふふと笑うが、ちらりと美鶴を見て「姉さん、二人とも管理室にお願いしていい?」と独歩の背中を押した。
「えっ、ちとせは」
 話は聞いていたはずだが、独歩は心配そうにちとせを見る。
「肩慣らしがてらちょっとここで戦うから見てて。一二三さんも、分かんないかもしれないけど、私が戦ってるものとか、怪我の頻度が多い理由とか知ってて欲しいし。……独歩くんのためにも。付き合ってくれたら嬉しいです」
「その為に今日は来たからね。どこまでも付き合うよ子猫ちゃん」
「ありがとうー!」
 ぱち、とウインクをされちとせはぴょんとその場で飛び上がって喜んだ。
 そんな様子を見ながら、美鶴が一二三と独歩に目配せをして着いてくるように促す。
 未だに心配そうな独歩の背中を押して「ちゃんと見ててねー」と明るく見送るちとせに、ゆかりが眉を寄せた。
「私残るよ?」
「え、大丈夫だよ。シャドウのレベルは下げてもらうし……」
 それにきょとんとしたちとせに、やはりゆかりは眉を寄せたままちとせの頭をわしゃわしゃ撫でた。
「……怖いでしょ、自分の力見てもらうの。空元気なの心配だし。……好きな人なら尚更怖いよね」
 言われ、う、とちとせは言葉につまる。
 独歩にも薄々勘付かれていたのだが、それは違和感程度で言葉になって出てくることはなかったようだった。
 しかし長年ちとせを見ているゆかりや美鶴には空元気なのがバレていたようで上手く隠せなかった自分にも恥ずかしくなってくる。
「でもちょっと安心した。ちとせが彼氏のこと好きなのは分かってるけど、ちとせのことちゃんと好きじゃん、あの人」
「え?」
「空元気なの、何となくわかってたでしょ。ちとせの空元気って分かりにくいのに」
 説教しながらそこまで見ていたとは、と思ったがちとせは口には出さなかった。
 説教させるようなことするのが悪いんでしょと言われるのがオチなのは火を見るよりも明らかである。
「……んふふ」
 が、独歩から好かれているというのが他人から見ても分かりやすいのはちとせにとっては嬉しい事柄だった。
 自分ばかり好きなのでは、と思うことは独歩を見ていると滅多にないが、自分の好きが届いてないのではと思うことは多々ある。
 それでも独歩がちとせを好きだと、姉のようなゆかりから見てわかるというのは心底嬉しく思う。
「締まりのない顔しない。シャドウ弱いからって油断もしないこと」
「はい!」
 ぺし、と背中を叩かれてちとせはきゅっと背筋を伸ばした。



 擬似フィールドが一望できる管理室に案内された独歩と一二三は、美鶴に言われるがまま全面ガラス張りの場所へと案内された。
 独歩たちの隣には映画やドラマで見るようなボタンやレバーのたくさんついた機材があり、美鶴はそこへ立つとマイクのスイッチを入れて「なんだ、ゆかりも残ったのか」と一言。
 管理室は二階建ての建物程の高さにあるが、ちとせとゆかりが立っているフィールド自体は地面にある。
 その二人は二十メートル程先に居て、管理室を見て手を振った。
 ゆかりはいつの間にか弓を持っており、ちとせは自身よりも少し長い棒を持っている。
「あれは……?」
「対シャドウ用の武器です」
 独歩の呟きに答えたのは美鶴である。
 弓はともかくとして、ちとせの棒は一体なんなのかわからないが、あれもただの棒ではなくそれなりの武器なのだろう。
 武器といえばナイフや銃の想像をするが、二人とも弓に長い棒にと武器らしくない武器だ。
「準備はいいか? ゆかりは久しぶりの実戦だろう、注意してくれ」
 その言葉に二人は頷いたり両手で丸を作ったりと両者違う反応をした。
 あちらの声は聞こえない仕様らしく、美鶴は二人の返事を見るなり一際大きなレバーをいくつかのボタンを押した後にガシャン、と引いた。
 すると、途端にフィールド内が真っ暗とは言わないが薄暗くなり、先程までなかった血溜まりのような赤黒い水たまりがいくつかうまれた。
 ぎょっとする独歩と一二三に、美鶴が「フィールド内は影時間というシャドウが活動する時間になりました」と説明をしたが、そもそも影時間というものが分からないため返事もできない。
 分かるのは、異様で異質な光景であることくらいだ。
 しかしちとせもゆかりも当然のようにそこに立っているし、気味悪がる様子もまるでない。
 シャドウというものも二人にはまるで分からないため、シャドウとは何か、と一二三が尋ねようと口を開いた瞬間、独歩がひっと喉を引き攣らせるような声を出した。
「一二三、あれ……」
 震える声で指さしたのは、少し遠くの暗闇である。
 じっと一二三もそちらを見ると、暗闇の中、更に黒い何かが蠢いているような気がして、更に目を凝らしてみると、ぽっかりとその暗闇に水色の仮面が浮かび上がった。
 目の場所だけが真っ黒に塗りつぶされたようなその仮面は、ひとつ見えたと思ったら、ぎょろりと、まるで目のように数個暗闇の中に浮かび上がる。
 ぞっとするような光景である。
 遠くから見ているにも関わらず、背中を伝う冷や汗に、死を実感するようなその存在。
 ヒプノシスマイクを使ったバトルで感じたことの無いような、じわりとした気持ちの悪い焦りや恐怖を感じるあれが。
「シャドウです」
 ひやりとした温度で言われた気さえするその美鶴の言葉に、独歩はごくりと生唾を飲み込んだ。
「ちとせっ……」
 そしてシャドウにいち早く反応していたらしいちとせが棒を構えて駆けていく。
 それに窓ガラスに張り付くように独歩は近づいたが、ちとせは武器をシャドウの仮面に突き立てるとあっという間にそれを割ってしまった。
 すると闇に溶けるようにシャドウは消え、まわりのシャドウがちとせに怯えたようにざわりと蠢いた。
 が、逃げる素振りもなく、数匹のシャドウが一気にちとせへと向かいはじめたところで、それは風のようなものに全て飲み込まれ、闇に溶けるように消えてしまった。
 見れば、ゆかりは銃を自らに構えており、頭上に先程見たペルソナというものが浮かんでいた。
 シャドウが全て消えたのを見るとぱっとこちらも消えてしまったが。
 シャドウが消えるとその分シャドウは闇から生まれるように出てきて、ちとせたちへ向かっていく。
 ちとせが主に前で戦い、ゆかりが弓やペルソナで援護をしているらしい。
「ちとせには物足りないか。ちとせ、増やすぞ」
 その美鶴の言葉にちとせは少し離れた場所で大きく頭の上で丸を作る。
 表情ははつらつとしており、いつものちとせだった。
 ゆかりが嫌そうな顔をしたが、美鶴はふっと笑うだけだ。
 美鶴が先程引いたレバーではない小さなレバーを引けば、闇の中から先程とは違う赤い仮面のシャドウが出てきた。
 水色の仮面のものより大きく、よく見れば触手のような手が何本もはえている。
 それにちとせは駆け出していくのかと思えば、ゆかりと同じような銃を自分の頭に構え、躊躇なく引き金をひいた。
 そうすれば、ちとせの頭上には黄金の長い髪をした、こちらも目を閉じた仮面をつけた女性が浮かび上がる。
 頭の後ろには月のような大きな円のオブジェが浮いており、どこからが布なのか体なのかわからない、白と黄色の中間のような体の色と同じ色をした境目のない着物のような衣服の裾がふわりと揺れる。
 ぱきん、とすぐに割れそうな、薄いガラスの上を歩いているような、そんな儚い印象すら独歩は受けた。
 ぱっと目を引くその存在に、独歩はシャドウに対する恐怖とは違う「ちとせの気配」を感じ、素直にきれいだな、と思いそれは小さな独り言となって口から出ていた。
 それに美鶴は一瞬驚いた表情をしたものの、何も言わずにふっと口元をゆるめる。
 ちとせはくるりとその場で回転すると、ペルソナも同じようにくるりと回転して右腕を掲げる。
 シャドウのいる場所全体に大きな四角い光が現れると、シャドウ全てにぺたりと札のようなものが張り付き、次の瞬間にはぱっと光ってシャドウ諸共消えてしまった。
 何匹かは残っているが、それにもちとせは驚いた様子はなく、一気に消えた仲間に怯んだらしいシャドウの隙を見逃さず、ちとせは右手を自分の前に掲げた。
 すると先程までなかったカードのようなものがちとせの手の上に浮かび上がり、それを勢いよく握るとそのカードはガラスが砕けるように散ってしまう。
 その様も独歩の目には美しく見えたが、更にちとせの上に浮かんだのは先程とは違う様子のペルソナである。
 赤と黒の身の丈よりも長い髪に、髪とおなじ赤い肌。目は白目もなく全てが黒々としており、十二単のような着物だけは美しい夜空のような色をしている。
 その手に持つ反物は、見る角度によって色合いの変わる不思議な反物である。
 そのペルソナがゆらりと揺れた瞬間、残った数匹のシャドウに火柱が立ち、その火柱がおさまる頃にはシャドウは形もなく消え失せていた。
 圧倒的なその力に、一二三が「すごい……」と感嘆の声を漏らす。
「本来、ペルソナは一人につき一体が普通です。稀に、数体持つ者や、様々なペルソナを使える人間も出てくることがある。ちとせはその稀な例の一人になります」
 美鶴の淡々とした説明に、独歩はやはりちとせのペルソナに対してはきれいだな以外の感想は出なかった。
 隣で一二三が「寂雷先生は確かに好きそうだね」と小さく言っているのは聞こえたが、それには美鶴が呆れたように「あの人の興味は底を尽きません」と息を吐く。
 その後十分程シャドウと戦っていたゆかりとちとせだが、ゆかりが大きく腕でバツ印を作ったため、そこで戦闘は終了となった。
 美鶴がレバーを全て元に戻し、行きましょう、と再度フィールドへと案内される。
 管理室から出る直前、ガラス越しに見たちとせは不満げにゆかりに何か言っていたが、ゆかりがちとせの頬を引っ張っていたのを見て独歩は怪我は無さそうだと安心した。



「普段から戦ってる体力バカと一緒にしないでよね……普通にしんどいって……」
「あと三十分はいけるよ!」
「無理!」
「いひゃいいひゃいいはひひゃう!」
 びよ、とちとせの頬を引っ張っているゆかりに、ゆかりにじゃれているちとせ。
 どちらも怪我はないようだが、独歩はフィールドに降りた途端走り出してちとせの目の前でがっしり肩を掴んでいた。
 それに驚いたのはちとせで、ゆかりは何度か瞬きをしたがそれきりで一歩引く。
「ちとせ、怪我は? 腕も大丈夫なのか?」
「う、うん、大丈夫だよ。独歩くんこそ大丈夫? その……ペルソナとか、シャドウ……、こ……怖かったでしょ……?」
 まるで伺うように言われたそれに、独歩はきょとんと首を傾げた。
 確かにシャドウは気味が悪く恐怖を感じたが、それよりもちとせが怪我をしないかとそちらのほうが怖かったのだ。
「ちとせが怪我をしないかのほうが怖かったよ、俺は」
「え?」
 怪我が多くなる理由は、確かに独歩もきちんと理解したようだが、それとこれとはまた別の話である。
 怪我が多い理由が分かっても、怪我をするかしないかの恐怖に勝るものはなかったのだ。
「ちとせさんがとびきり強いのも、初めて見る僕たちでも分かったくらいだけど……独歩くんの気持ちも分かってあげて、ちとせさん」
 一二三に言われ、確かに逆の立場なら怪我が多い理由がわかっても、怪我をしたのかしてないのかの恐怖はあるかもしれない。
 ラップバトルでボロボロになった独歩が目の前にいたら、取り乱す自信がちとせにもある。
 怪我の度合いはとか、ヒプノシスマイクの後遺症はとか、治るのかとか、そっちを気にしてしまうのはちとせにも分かった。
「……怪我はないよ、独歩くん。ゆかりちゃんも居たし、シャドウも弱かったから。だから、大丈夫。今度から一人で戦うのは極力減らすようにするし、大怪我しないようにまわりのことちゃんと頼るようにする」
 そう言うと、独歩は目に見えてほっとしたように肩から力を抜いた。
 表情も強ばっていたものからへにゃりと優しいものにかわり、場違いではあるがちとせは嬉しさが胸に溢れていくのを感じていた。
 心底から心配されていたのだろうことが分かる。
「観音坂さんは、ちとせのペルソナを見て綺麗だと言っていたな」
「えっ」
「えっ!?」
 そんな二人を見ていた美鶴が、柔らかい声でそういうと、驚きの声をあげたのはちとせと何故か言った張本人である独歩だった。
 ちとせは嬉しそうにしており、独歩はおろおろと視線を彷徨わせはじめてしまったが。
 赤くなったり青くなったりする独歩はぶつぶつと早口で「場違いできれいなんて思ってごめんなさいでも気味悪いとか怖いとかじゃなくてほんとに綺麗だと思っていや俺みたいなミジンコ野郎にきれいなんて思われるのは不服かもしれないけど」と何事か言っているがちとせの耳には全く入っていない。
 怖がられるだろうと思っていたのだ。
 戦う姿を見せたら、怖がられるだろうと。
 恋人関係も終わるかもしれないと最悪のところまでちとせは考えていたのだ。
 空元気になるほど、ゆかりに心配をされるほどに。
 けれどきれいだと言われたというのは、ちとせにとっては完全に想定外であり、嬉しい誤算だ。
「独歩くん! 世界一大好き!」
「ぐえっ」
 カエルの潰れたような声を出したのは独歩である。
 そんな独歩に力の限り抱きついたのはちとせだが。
 人前だというのもあり独歩はやはり青くなったり赤くなったりと忙しなく顔色を変えているが、ちとせが離れる気もなければ独歩から引き離すこともできそうになく。
 おずおずとちとせを抱きしめ返そうとしたところで、ちとせの姉である美鶴の目の前だということを思い出して独歩は真っ青になりながら両手を上げて触っていませんのポーズをとった。
「セクハラ野郎でごめんなさいすみません!」
「いや、今のは完全にちとせがセクハラしてるでしょ」
 ゆかりの小声の突っ込みは独歩の耳にもちとせの耳にも入らなかった。

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