トーマがその少女を見たのは、稲妻に来てすぐの頃だった。
 トーマの体が回復してすぐの頃、稲妻城内にある大きな桜の下でその少女はぼんやりと海を眺めていた。
 ゆるくウェーブのかかった長い桃色の髪に空色の瞳。まるで春のような女の子だと思ったのが最初である。
 けれど話しかけることもなければ、それから会うこともなく。
 たまに桜の木近くを通りかかった時は木に視線はやっていたのだが、その少女を見ることはなかった。
 それからは少女のことを思い出すこともなく、忙しく働くようになりすっかりとそのことは忘れてしまっていた。
 が、目の前でガタイのいい男数人に囲まれている桃色の髪を見てふと、あの時の子だ、とその少女のことを思い出したのだ。
「私忙しいんです」
「そうは言ってもよぉ! あんたが俺たちにぶつかっただろ。痛ぇなあ、骨でも折れたかもしれん」
 時刻は深夜に近い。トーマは立て込んだ仕事と交渉のせいで遅くなってしまったが、トーマにとっては出歩いているのもさして珍しくもない時間である。仕事次第ではもっと遅くなることもある。。
 だが、男であり成人も過ぎている自分はともかくとして、夜中に出歩く成人前の少女というのは明らかにおかしい。
 酔っているのであろう男数人で少女を取り囲んでいる様というのはもっと異常である。
「私程度にぶつかって骨が折れるのなら、それはもうなんらかのご病気では? 良いお医者様の紹介を致しますけど」
 トーマからは後ろ姿しか見えないが、少女は酔っ払い相手に怯むことも無く嫌味ともとれる言い回しをした。
 あれじゃ逆上されて手を出されてもおかしくないだろうと思うが、少し少女の体が動いた時に少女が帯に着けている緑色の神の目が見えてなるほど、と納得する。
 神の目を持っているのであれば普通の人間よりもずっと強くあるだろう。例えそれが自分の倍大きな、神の目を持たない男数人だとしても。
「んだと……!?」
「下手に出てりゃ好き勝手言いやがって!」
「いえ、下手には一度も出ていらっしゃいませんが」
 まさに正論である。思わず吹き出しそうになったものの、トーマは身を隠していた場所から出ていき少女の手をぐっと自分のほうへ引いた。
 それに驚いたらしい少女はひゃあだかなんだか、先程までの堂々たる言い回しとは別人のように可愛らしい悲鳴をあげトーマの腕の中に収まる。
 もっと抵抗するか暴れるかするかと思ったため拍子抜けしたが、下手に変なことを言われて助けられないよりはマシである。
 香った甘い香りと柔らかな髪の毛の感触に、キュッと心臓を掴まれたような気持ちになったが、トーマは酔っ払いに対してにこにこと人好きのする顔を向けた。今はそれどころじゃない、と内心思って。
「この子に何か?」
 借りてきた猫のように大人しくトーマに背中を支えられている少女からの視線は感じたが、男たちから視線は逸らさなかった。
 じっと自分たちを見つめるトーマに何かを察したらしい男たちは、口々に文句を言うとトーマが来た道とは反対側へ、転がるように逃げていった。
 女だからと下に見ていたことがありありと分かるその姿にため息をつきたくなるが、少女が見ていると思いぐっとこらえる。
 そしてトーマ自身は特にすごんでみたわけでもないのだが、酔っ払いたちが逃げてくれて心底助かったと息をつく。こんな夜中に街の真ん中で大立ち回りをするのも乗り気ではなかったし、後の処理が面倒だったのも確かだ。
「君、大丈夫?」
 未だ腕の中でおとなしくしている少女に目を向けると、少女はぽかんとした顔でトーマを見上げていた。
 薄暗くはっきりと色彩まで見える訳でもないが、その空色の瞳はどこか遠い故郷であるモンドの空を彷彿とさせる。風が吹き抜けていくような、そんな瞳だった。
「……? 大丈夫かい?」
 しばらく待っても少女からの返事がなく、トーマは再度同じことを尋ねる。と、びくりと少女の体が揺れ、じわ、と頬に赤みがさしていくのが分かった。
 空色の瞳には困惑や動揺が見て取れたため、トーマはそっと少女の背中から手を離すと安心させるように微笑んでやる。おびえているわけではないだろうが、急に現れた見知らぬ男に密着していたのはそれなりに恥ずかしく、警戒すべき出来事だっただろう。
 なんなら酔っ払いよりもトーマのほうが不審者扱いされても文句は言えない。
「だっ、だだ、だいじょぶ、です」
 真っ赤になって絞り出すように言う少女。手は体の前で組まれていて、せわしなくうろうろと視線は泳いでいた。
 茹でたタコのようだと思うが口には出さず。露骨すぎて分かりやすいくらいの照れている様子に、かわいいな、なんて思うと胸の奥が暖かくなりトーマは笑みを深くした。
「なら良かった。こんな時間にどうしてこんなところに居たんだい? さすがに女性の一人歩きには向かないと思うけど……」
 言うと、少女は目に見えてむっと頬を膨らませた。けれどそれはトーマに怒るというよりも、別の誰かを思い出しているような表情である。
 トーマになにか言おうと口を開こうとするが、少女は何度か口を開いては閉じてを繰り返す。それでもトーマもしばらく待っていると、あきらめたように少女は小声でつぶやいた。
「……ち、父と兄と喧嘩をしたので……」
「うん」
「今夜は家出をする、と言って出てきました」
「うん……?」
 視線は相変わらずトーマとは合わず、うろうろと気まずそうにさ迷っている。もう一度こっちを見ないかな、などと心の隅で考えている自分に驚いて、けれどうーん、と首を傾げた。
「あっあの、きちんと母には了承はとってまして」
 母親から深夜に家出の許可をもらう家って一体……? と更に首を傾げることになるのだが、トーマはまだ何か一生懸命言いたそうにしている少女の言葉をじっと待つことした。
 真っ赤な頬のまま話す少女を見ていて楽しいという気持ちもあるが。
「あっいやそうじゃなくてっ、その、あの、あっ、さ、先程は助けていただいてありがとうございました!」
 ばっと頭を下げると、ゆるくウェーブのかかった桃色の髪がふわりと少女の肩を落ちていく。そこだけ春の洪水みたいだな、と思っていたら、無意識にトーマの手は少女の肩に伸びてしまっていた。
 あ、と思った時には春の洪水が起きていると思っていた肩に触れていて、思ったよりも華奢だったそれにトーマのほうがびくりと体を硬直させる。
 主人である綾華に触れることは緊急時以外まずないし、触れたとしても主人以外の何かを綾華に対して思う訳でもない。春のようだ、華奢だ、なんて。
 少女も驚いたのかぱっと顔を上げると、今度は真っ直ぐにトーマを見上げた。
 至近距離で見つめられ、少女が思いのほか真っ直ぐ自分を見てくるものだから思わずトーマのほうが一歩下がってしまう。
 次いで、先ほどまで気にならなかった、大きくあいた少女の首元に視線が行きそうになりトーマは眉間に力を入れる。稲妻の衣装ではあるのだが、雷電将軍と似たり寄ったりなほどに胸元が見えるのだ。稲妻人にしては珍しいな、と思うだけにとどめて、ううん、とトーマは咳払いをした。
 この国で珍しいだけで、モンドでは普通にこんな格好の人たちはいただろう、と自分に言い聞かせる。
「いや、頭を上げて欲しくて。たいしたことをしたわけじゃないし」
「……いえ、助けていただいたことは事実です。本当にありがとうございます。……えっと……お名前を、その、お聞きしても……?」
 前半は堂々としていたものの、名前のくだりになるともじもじと指を組むその様子に、トーマはふっと笑ってしまった。
 落ち着いていた顔色も真っ赤に戻ってしまっているし、視線はまたトーマからそらされてしまっている。
「あっ私が名乗るのが先ですね!? 私、蓮見なまえと申します!」
 蓮見なまえ、と聞いて自分が名乗る前に、自分の記憶にその苗字が引っかかった。
 神里に行ってからよく聞くようになった名前である。蓮見家。
 神里と並ぶほどに稲妻での影響力のある家が確か蓮見というのだ。雷電将軍直属で働くような、政に深く係わり、ある程度は口も出せる立場にある家の名が蓮見という。
 たしかそこの娘は綾華と懇意にしている、とも綾華本人からトーマは聞いたことがあるのだが、そういえば顔を見たことは無かったなと思う。綾華に会うために何度も神里家へは来ているというのに。
 言うなれば蓮見家とは、綾華と同等、もしくはそれ以上の貴族である。
「俺はトーマと言います」
 さすがに正体に気づいてしまえば使わざるを得ない丁寧な口調を使うと、なまえはむっとトーマを見上げた。
 今度こそトーマに対して不満があるらしいそれに、思わず緩みそうになる頬にトーマは力を入れた。あまりにも感情が分かりやすすぎる。
「その口調はやめてください。私はなんの力もないただの小娘ですから」
「さすがにそれは」
「なまえ、と呼んでいただきたいです」
 先程とは打って変わってじっと見上げられ、トーマは反応に困った。空色の瞳は臆することなくトーマを見上げ、真っ赤だった頬は多少赤みを残すものの、照れているというよりも一生懸命に訴えているという方がしっくりくるような様子だ。
 しばらく見つめあっていたが、根負けしたのはトーマだった。わかった、と小さく言えばぱあっとなまえの表情が明るくなる。
 嬉しい、と溢れるその表情にやはりトーマは頬を緩ませてしまった。
 神里や蓮見といった影響力の大きな家は、感情を表に出すことを良しとしない場合も多いという。なのになまえの表情はころころ変わり、感情を隠すなどという芸当がまるでできそうにもない。
 思ったことをそのままの態度で言っているような気さえする程だ。それがどうにも好ましくトーマの目にはうつってしまう。
「ありがとうございますトーマさん。後日必ずお礼をさせてください」
「いや、気にしないで」
 肩を竦めて言えば、なまえはじっとトーマを見上げ、照れたようにはにかんだ。
「もう一度会うための口実なので、お礼はさせてください」
 どっ、と心臓が大きく音を立てたのがトーマ自身にも分かった。すぐに胸をおさえるが、その一瞬だけで今、トーマの心臓は正常に動いている。
「……?」
「では、また後日伺いますね」
 なまえはトーマの混乱もよそにそう言うと、お辞儀をしてくるりと体を反対へ向けた。浜があるだけの方向である。
「ま、待った! こんな時間にどこに行くつもりなんだ?」
 思わず手首を掴んだが、やはり細く華奢なそれに胸の奥がざわついた。しかし離すとこのまま夜の浜へ出ていきそうだったため離す訳にもいかない。
 稲妻城の周りとはいえ、巡回の役人がどこにでもいるわけでもない。ヒルチャールやアビス教団なども少なくはないのだ。
「家出をしてしまったので、父と兄の頭が冷えるまでは城外で見回りがてら体を動かそうかと……」
 心底不思議そうになまえは言うが、トーマはいやいやいや、と首を無意識に振っていた。深夜に少女一人を浜辺に見送るほどにトーマも人でなしではない。
 ましてや蓮見家のご令嬢である。虫も殺せぬような見た目で見回りをすると言うことにも驚いているが、それをさも当然だと言わんばかりに首を傾げられているのもトーマは驚きを隠せなかった。
 そもそも一晩家出をするというのも、中々に令嬢らしくないのだが。
「さすがにこんな深夜に行くのは危険だよ」
「……!」
 注意をしているのだが、なまえはぱっと頬を染めると嬉しそうに笑う。一瞬それに絆されそうになったが、危険だろう? と今度は質問してみる。
「すみません、心配していただいたのが嬉しくて」
 あまりにも素直な物言いに、注意する気力をごっそり持っていかれたような気分になった。
 心配されていることは理解していながら、心配されていることが嬉しい、なんて。しかも初めて会った見知らぬ男相手である。警戒心があまりにもなさすぎではないだろうか。
 自身の主である兄妹を思い浮かべたトーマだが、身分が高い故に警戒心もしっかりと持っている。だから一人でどこかへ行っても心配することはそうないのだが。
 先程酔っ払いに絡まれていた時は持てていた警戒心が、今はなまえに微塵も感じられなかった。これを心配せずにいろというのは、トーマには難しい話だ。
「でも慣れていますから」
「慣れてる?」
「はい。……えへへ、でも、心配していただいたので見回りはやめて海でも眺めに行きます」
 口元を隠して微笑む姿は、暗がりの中でもまさに春の精霊のようだった。
 が、そういうことではなくおとなしく帰って欲しいのだが、家出ということもあるのか帰るという選択肢はなまえの中にどうやら存在すらしないらしい。
「……そこまで送るよ」
「ほんとですか!」
 またもぱっと明るくなった表情に、やはりトーマの心臓がおかしな動きをする。ぐっと己の服を握りこんでなんとか落ち着けと心の中でとなえるが、トーマが一歩なまえに近づこうとした時に「でも」となまえが少し寂しそうに笑った。
「明日もお仕事ですよね? それにこんな時間ですから」
「それは俺からなまえに言うべきことなんじゃないかな」
「たしかに。でも大丈夫ですよ、早く帰らないと綾華も綾人も心配するでしょう? 報告しなきゃいけないこともあると思うし」
 確かに報告は必要だけど、と思ったところでトーマは自分の帰る場所をなまえに言っていないことに気づく。
 トーマという名前だけで神里の人間だと分かったらしいが、トーマも有名ではないとは言えないのでなまえが知っていてもおかしくはないかと納得した。
 そもそも綾華や綾人と仲がいいのであれば、トーマという名前を聞いていてもおかしくはないだろう。
 トーマもトーマで、蓮見という苗字だけでなまえがどの家でどんな身分であるのか理解したのと同じだ。
 けれど自分の仕事の件とは別で、少女ひとりを夜中に置き去りにはできそうにもない。せめて海を眺めるという場所まで送らせて欲しいとなおも食いさがると、なまえはくすくす笑いながらある方向を指さした。
「あっちに大きな桜の木があるのは知ってますか? あそこに行くだけです」
 目と鼻の先でしょう? と笑うなまえに、ふと初めてなまえを見た時のことをトーマは思い出していた。
 指さされた方向にあるのは、トーマが初めてなまえを見た場所である。春のような女の子だ、と思った最初の場所だった。
「私の秘密基地ですからついて来たらダメですよ。じゃあまた、トーマさん。おやすみなさい!」
 腰を折って頭を下げると、文字通り風のようになまえは薄暗い中走り出してしまった。あ、と手を伸ばすもののその頃には既になまえは暗闇の中に消えてしまっていた。
 今から追いかけたところで既に桜の木になまえはついているだろう。それくらい近い場所にあるのはトーマもよくわかっていた。
 しばらくその場に佇んでいたが、何も騒がしい音も聞こえないため、後ろ頭をかきながらトーマは踵を返す。帰ろう、と一歩進んだところで自分の服、左胸あたりの飾りになにか引っかかっているのに気づき、指でそれをつまんでまじまじと見た。
 薄い桃色と若草色の繊細な刺繍糸で作られた、どうやらブレスレットのようである。刺繍で花が形作られている、それは美しいものだった。
 少しほつれているが、引っかかってできたものというよりも長く愛用していて出てきた味のようなものだろう。
「すごいな、刺繍のブレスレットか」
 引っかかっているのを取り外し、てのひらの上に置いて見る。作れそうだな、とまず一番に思うが、持ち主であろう先程まで自分が支えていたなまえを思い出し、ふっとトーマは笑った。
「似合ってるだろうな」
 手首についているのは確認できなかったが、安易に似合うのが想像出来てしまう。
 さてどうしたものか、としばしトーマは手のひらの上のブレスレットを眺めていたが、ぐっとそれを握り込むと懐のポケットへと丁寧にそれをしまい込んだ。
 今なら渡すこともできるだろうし、もしも大切なものなら今すぐに渡してやるのが一番いいのだが。
「……また会うための口実、か」
先程はにかんで言われた言葉を繰り返して、トーマは神里家への帰路へとついた。



20220330

戻る.