「ティナリさーん!」
 遠くから聞こえてきた少女の声に、ティナリは耳をぴくりと動かし、はあ、とため息をついた。
 家の裏手で薬草の選別する手はとめず、ここ数ヶ月で聞き馴染んでしまったその声の遠さからあとどれくらいでティナリのところにたどり着くか予想を立てる。
 まわりを通る村人たちは微笑ましそうにティナリを見たり、声のする方へ視線をやったりしているが、不思議そうにする村人もいない。
 それくらいに、もういつもの光景になりつつあるその少女の、これからティナリに言うであろう言葉と行動はこの村には馴染んでしまっている。
 なんとなく村人たちからの生暖かい視線に居心地の悪さを感じながら薬草の選別をしていると、小さな足音と共に、腰まである黒髪をひとつにまとめた少女がひょっこりと顔を出した。
 その茶色の瞳はティナリを見つけるなり嬉しそうに細まり、唇は笑みを作る。
 ぱっと頬も赤くして「ティナリさん今大丈夫ですか?」と少し距離をとった場所へぎこちなくしゃがみこんだ。
 左膝が痛むのか、動かしにくそうではあるが危なげなくその場へしゃがみこんだ少女を見て、ティナリは心の中で安堵の息を吐いた。
 怪我の調子は悪くないらしい。
 会えたことが嬉しいと言わんばかりの少女の姿に、ティナリはやはり薬草を選別する手は止めずに視線だけを少女──なまえへやると、なまえは更に嬉しそうに笑う。
 飼い主をしっぽを振って迎える犬を彷彿とさせるその姿に、なんとなくむずがゆくなってティナリの耳がぴくんと動いた。


 なまえがガンダルヴァー村へやって来たのは、もう数ヶ月前である。
 やってきた、と言うよりも、ティナリが死域で見つけた、と言った方が正しいのだが。
 突然現れた死域の処理のため向かったその場所で、少女が血溜まりの中に倒れていた。
「ティナリさん! 誰か倒れてます!」
 切羽詰まったようなレンジャーの声に、ティナリは舌打ちをする。
 遠目でもわかるほど血の気が失せた青白い顔に、ピクリとも動かない体。艶があるはずの黒髪も血まみれで、既に血液も固まっているようだった。
 息をしているかさえ分からず、ぴくりとも動かない少女は死んでいるとティナリも思ったのだが、死域の処理を終わらせて急いで確認をすれば、まだかろうじて息があったのだ。
 人を呼び、応急処置だけ施しとりあえず村へ搬送し、体の状態を確かめたティナリは「ひどいな」と呟いた。それほどに、少女の状態は酷かった。
 数箇所の骨折に、頭の数センチの怪我が数箇所。骨にヒビもいくつか入っているかもしれなかったが、反応のない少女では細かいことまでは分からない。
 足や体にも擦り傷や切り傷もあり、出血はかなりしていた状態である。
 死域で襲われた、というのもあるだろうが、それよりも、どちらかといえばどこか高い場所から森の中に落ちたような、そんな傷が多い。
 だが見つけた場所は比較的開けた森の中で、落ちる崖もなければ木もない。そんな場所なのだ。
 着ている服も血まみれではあったが見たことの無いもので、脱がすのに随分苦労したため仕方なく切らせてもらったが。
 近くにちらばっていたらしい少女の荷物も一緒に持ってきたものの、こちらも見たことの無い鞄に、さらに小さな小物入れや見たことの無い文字で書かれた書物。
 触ったことの無い質感の紙や、文字を書くための棒状の何か。それにひび割れていたガラスのような板。
 どこから来たのかさっぱり分からず、けれど怪我をしている人間を放っておくことはできるわけもなく、命のある限りは看ようと少女の世話を始めたのだ。
 名前が無いのは不便ではあるが、全く起きない少女はいつしか村人たちに、少女を見つけた場所に咲いていた花の名前で呼ばれるようになっていた。
 森の中に咲いているのを見たこともなかった、その場に咲いていた花からとって、なまえと。
 ティナリも付きっきりで世話をする訳にもいかないため、村人に任せることもあったのだがいつしか「なまえの女の子」と呼ばれ、それが結局定着してしまったのだ。
 生きるのが難しいと思っていた怪我だったが、なまえはティナリたちの治療のおかげで一ヶ月ほど経つ頃には随分状態は落ち着いていた。
 これで目が覚めれば、と全員思っていたのだが、なまえが目を覚ましたのはそれから一週間後で、コレイに世話を頼んでいた時である。
 ティナリはパトロールのため村にはおらず、合流のため村からやってきたレンジャーから「そういえばなまえが起きましたよ」と神妙な表情をされたのだ。
 喜び半分、困惑半分のその表情に「何かあったの?」と尋ねると、言いにくそうにそのレンジャーは実は、と切り出した。
 その場の全員が興味深げに耳を傾ける中、一泊置いて「なまえの記憶が無いんです」と一言。
「記憶が?混乱している、ではなくて?」
「はい。自分の名前も分からず、どうしてあんな怪我をしたのかも分からないそうです」
「そう……」
「ただ……記憶とは違うらしいんですが、ここは私が生きてた場所じゃない気がする、と」
 妙な言い回しである。が、しかし本人もいないのに悩んでも仕方の無いことだろうと頭を切替える。
 そのレンジャーが言うには、動けこそしないものの意識レベルも状態も比較的落ち着いているらしかった。
 そのため予定通りに見回りを終わらせ、村に帰ったティナリは自己紹介もそこそこになまえの診察をはじめたのだ。
 なまえは確かに記憶喪失で、何も覚えていなかった。ただレンジャーから聞いた事と同じようなことは言っていたが。
 言葉をかなり選びながらではあるが、自分の生きていた場所ではない、と。
 怪我の程度、新たな痛む場所、動く範囲。
 なまえがどの程度生活できるのか等諸々の把握のため、パトロールの日もなるべく村には早めに帰るようにし、なまえの世話をメインでティナリが出来るようにした。
 その間に、なまえはまるで鳥のヒナのようにティナリに懐き、動けるようになってからもティナリの後ろを追いかけるようになった。
 そして現在なのだが。



「おはようございます! 今日も世界で一番大好きです!」
 なまえが毎日のように言うようになったその告白も、もはや聞きなれたものだった。
 はいはい、と適当に流したとしても、なまえは嬉しそうに笑うため、最近ではどう返答をしたものか困ってしまうものの一つだ。
「おはよう。……それも毎日聞かされてるから誰よりも知ってるよ」
 呆れたように言われたにもかかわらず、なまえはにっこり笑うと「はい!」と元気よく返事をする。
 やはり耳の付け根あたりにむずがゆさを感じ、誤魔化すようにティナリは「今日は何をするのか聞いてもいい?」となまえへ問うた。
 そうするとなまえは再度はい! と返事をし、指をひとつ立てる。
「まず、日課の散歩をします!」
「注意事項は?」
「走らない。柵のない場所を通る時は真ん中を歩く。川辺には行かない。無理せず辛くなる前に帰るか休む、もしくは誰かに頼る。帰ってきたらティナリさんに報告、もしくはお手紙を家に置いておく!」
「うん、よろしい」
 少し前に、なまえは散歩中に川を見ようとして、川辺でバランスを崩し川の中に落ちたことがあった。
 そこまで深い川ではなかったが、なまえの体の調子が万全ではないことや、そもそもなまえが泳げなかったらしいことが原因で溺れかけたのだ。
 すぐに騒ぎを聞き付けたティナリがなまえを救助したものの、塞がりかけていた足の傷は開くわ新たに切り傷を作るわで、その日から三日ほど発熱したこともありティナリから散歩に関しての条件が出された。
 それが先程なまえが空で言っていたものなのだが、今のところきちんとなまえはそれを守って日々の散歩という名のリハビリをしている。
 他のレンジャーや村人たちは過保護すぎるんじゃ、とも思っているのだが、確かになまえは村人たちとは違いひ弱だった。
 村の中を歩き回るのも一苦労で、怪我をしていたことを差し引いても最初の頃は一人で歩かせるのが不安になるほどに転んでいたのだ。
 世情にも疎く、何も知らない赤ん坊かと思うこともあった。
 詐欺師にでも引っかかったらたまらない、とティナリがぼやくほどに。
「お昼までには帰ってくるので、村の端っこ……から少し出て、外まで行ってみてもいいですか?」
「外? どのあたりまで?」
 思わず低くなってしまった声に、ティナリは表情はそのままぱたんと尻尾を一度大きく動かした。
 完全に無意識ではあったが、声のトーンを低くしたことに少し後悔したらしい。
 が、なまえは気にしていないのか西側のほうへ指を向ける。
「西側です。あっちはまだ行ったことがないので。西側の橋を渡って村からでたら少し行ったところに丘があって、このあたりが見渡せる場所があるって聞いたので、そこまで」
 確かにあるが、なまえがあの橋を渡る? ぞわ、としたものを首の後ろあたりに感じたが、なまえ本人は行く気満々である。
 端を歩かなければ転ぼうが何をしようが落ちることはないが、川に落ちたなまえを引き上げた時の腹の奥が冷える感覚を思い出すと色良い返事を口から出すことがティナリは中々できなかった。
 あの橋から落ちたら溺れるだけでは済まない。確実に命は奪われるだろう。
 今まであそこから落ちた人間はいないが、なまえを行かせるには不安しか残らなかった。
「ちゃんと真ん中を歩くし、ダメそうだなって思う前にちゃんと帰ってくるから大丈夫ですよ!帰ってきたら、文字の勉強をして、また夕方にはいつもの散歩コースをまわります!」
 ね? と首を傾げるなまえに、ティナリはしばらく考え込んでいたが、はあ、と息をついて「いいよ」と頷いた。
 回復のために歩くのは悪いことではないのは確かだ。治療している側があれこれとやる気を削ぐのは全くよくないことだろう。
 ティナリから出た許可にぱあっとなまえは瞳を輝かせると「やったあ!」と立ち上がった。
 その拍子に足が痛んだらしく顔を歪ませてふらふらとその場でたたらを踏むが、なまえ本人はえへへと笑う。
 思わず支えようと浮かしかけた腰を、ティナリはもう一度落ち着ける。
「急に動かない、も追加の方が良さそうだね」
 半眼になりつつティナリが言えば、なまえは肩を竦めてはあい、と小さく返事をした。
 西側に行かせる判断は早まったかもな、と不安で胸を埋めそうになったティナリに、そうとは知らないなまえは腰をかがめてティナリと視線を合わせる。
「じゃあティナリさん、いってきます」
 にっこりと嬉しそうに笑うなまえは、そう言うとティナリに背中を向けて家の表側へと回って行った。
 あまりに帰ってこなかったら迎えに行くか、とまた薬草のより分け作業に戻ろうと視線を下げかけたら、ひょいとなまえがこちらへ顔を覗かせて「そうだ、ティナリさん!」と声をかけた。
「どうしたの?」
 何か言い忘れかと思って聞き返すと、なまえは少し頬を染めてへにゃりと、先程とは違う顔で嬉しそうに笑った。
「心配してくれてありがとうございます。そういうところも大好きですよ!」
 じゃあ! と、まるでいい逃げするように見えなくなったなまえのいた場所をしばらく見つめていたティナリだが、はああ、と大きく息を吐き出して片手で顔の半分を覆う。
「照れるなら言わないでいてくれたらいいのに」
 言われた方も羞恥でどうにかなりそうだ。
 ぱたんぱたんと動く尻尾を空いた手でおさえて、赤みがあるであろう頬を誰にでもなく誤魔化すように、もう一度大きく息を吐いた。

 

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