マルクト帝国、伯爵家の長女として産まれたなまえ・メイ・ホワイトは、伯爵家とは名ばかりの貧乏貴族だった。
グランコクマでも貴族ばかりが住む居住区のある街に屋敷はなく、グランコクマ内でも静かな──長閑な場所に屋敷はあった。
古くからある、言うなれば由緒だけしかない家柄であり、父親は王宮勤めではあるものの屋敷の維持費だけで精一杯のような下っ端である。
それでもなまえが小さな頃はまだ貴族らしい暮らしはできていたのだが、いつしか父親は重要な部署から左遷され、いつの間にか下っ端におさまっていたらしい。
貴族ながらも贅沢な暮らしはせず、目立ちたがることもない血筋のホワイト家である。真面目で、忠誠もあつい家系のため左遷の理由は未だに分かっていないのだが、お人好しのホワイト伯爵は自分がなにかしてしまったのだろうと追求することはしなかった。
下っ端としての雑用も、それなりに楽しくこなしているのだと言う。
伯爵家には使用人もおらず、家のことは母親となまえ、それに弟であるキースが回している、そんな家だった。
母親は週に何度かはレストランで働いており、家にいないことも多い。
そして弟のキースも最近は譜術と剣の腕を買われ、軍人になるための訓練で家を空けることが多い。
早く姉様と母様に楽をさせてあげたいからとやる気満々に出かけていく弟を見送るのは、最近のなまえの楽しみでもあった。
そうなると家のことをするのはなまえ一人になってくる。
無駄に大きな屋敷の修繕から、無駄に大きな庭にスペースが勿体ないからと作った自給自足のための畑の管理。
貧乏ではあっても貴族であるが故に稀に届くお茶会の誘いやパーティーの誘いへの断わりの手紙を書く。
貴族の集まりや会議などは父親が出てくれているためスケジュールの調整、その他諸々。
弟と分けてしていたことが最近なまえ一人ですることになり、忙しさは目が回るほどであった。
「綺麗なトマト!」
が、それも慣れてしまえばどうということはなく。
なまえは腰まである黒髪をひとつにまとめ、それをつばの広い帽子にしまい、長袖長ズボンという貴族令嬢としてはあるまじき出で立ちで屋敷の庭にある畑の真ん中でトマトの収穫に勤しんでいた。
太陽を浴びて瑞々しく育ったトマトの葉のような翠色の瞳を輝かせ、今日の夜はトマトソースパスタでも作ろうかなあなどと鼻歌でも歌いそうなほどに機嫌よくトマトを籠に入れていく。
貴族たちからは遠く離れているが、ご近所である住民たちからは野菜を分けてもらったり値引きの情報を聞いたりとかなり良くしてもらっていた。
野菜の育てかたもご近所のおじいちゃんたちからなまえが聞き、試行錯誤して育て始めやっとそれなりに食べられるものが作れ始めている。
農家としてやっていけるかもしれないと自画自賛するほどには野菜作りは軌道にのっていた。
「農家としてもやっていけそうな気がするなぁ」
そのうち結婚するなら農家の人でもいいかも、となまえは思う。
貴族としては結婚も婚約もしていない二十歳などは遅すぎるのだが、一般市民からしてみればこれからである。
自分が貴族という概念はもはやなまえの頭の中にはなく、どちらかといえばなまえは自分のことを一般市民だと思っていた。貴族らしい振る舞いも教わってはいるが、そんなものは遠い記憶だ。
トマトやキュウリ、ついでにバジルも収穫して足取りも軽くキッチンへと野菜を置きに行けば、バタン! と勢いよく玄関が開く音がしてなまえは首を傾げた。
そしてバタバタと慌てるような足音と「なまえ! なまえ!」というなんとも情けない父親の声で更に首を傾げる。
父親が帰ってくるような時間ではない。まだ日は高く、なんなら先程勤めに出たばかりだ。
「お父様?」
キッチンから廊下に顔を出して父親を呼ぶと、足音がキッチンに近づいてきて、半泣きで真っ青な顔をした父親がひとつにまとめた黒髪を振り乱しながらなまえの前にぐしゃ、と崩れ落ちた。
背も高く顔も良く、なまえの父親は見目だけは悪くないのに中身が完全に小心者だ。
これだけ慌てふためき真っ青になって飛んで帰ってくるということは、何かがあったのだろう。
左遷された時もこんな顔をしていなかったな、となまえは思う。
それでも父親にうわ、と若干引いたなまえだが、息切れする父親が何かを必死になまえに差し出しているのに気づきそれを手に取った。
「手紙?」
白い封筒に書いてあるのはなまえ・メイ・ホワイトの文字だ。
自分宛の手紙をなぜ父親が、と思ってそれを裏返して、なまえの喉はひゅっと縮んだ。
封蝋は青、押してある紋章は明らかに皇帝のそれだった。
嫌な音をたてる心臓をおさえ、なまえはそっとその手紙を父親の手に戻す。見なかったことにしたい、とじりじりキッチンの中に体を引っ込めようとするが父親に足首を掴まれ「逃げないでよぉ!」と叫ばれた。
「嫌です!! なんでそんなもの持って帰ってきてるんですか!? 私何かしました!?」
皇宮から公式文書が届くなどただ事ではない。
それでなくとも貴族意識などほぼないなまえである。とんでもないところからの手紙を持って帰ってきた父親に罵倒のひとつでも言いたいほどだった。
「来月のパーティーの招待状だからぁ!」
「なんでそんなものが」
ホワイト伯爵家など、貧乏貴族だ。同じ伯爵家同士ならまだしも、国のトップである皇帝から呼び出しがかかることなどほとんどない。
父親が呼ばれることはままあるし、次期伯爵であるキースが呼ばれるならまだわかる。それがなぜ自分なのか。
なんの取り柄もなく、なんならデビュタントすら出ていないなまえが呼ばれる意味がわからなかった。
しかも皇帝からの招待状ということは、断ることはできない。
「お父様これ説明してください」
「と、とりあえず、水……」
ぜぇぜぇと肩で息をする父親に、なまえはむっと頬を膨らませたまま、とりあえず水の準備をすることにした。このまま話を聞くことは無理だろう。
この国の皇帝であるピオニー・ウパラ・マルクト九世は未だ婚約者がいない。
聞けば好きな相手もおらず、結婚の話を出してものらりくらりかわされどうにも話が進まないという。
世継ぎもおらず焦り始めた家臣たちが、なんとかピオニーを説得しお見合いのような、せめて年頃の娘も参加可能のパーティに出席してくれと懇願したのが最初だったらしい。
最初は小さな規模で侯爵家以上の年頃の娘とその家族。何度か開催したものの、ピオニーの目に通る娘はおらず。
そして今度は有力な伯爵家。次は有力な男爵。そして有力な子爵。段階を下げていったがやはり目に通る娘はおらず。
こうなったらもう貧乏だろうがなんだろうが爵位のある家柄の娘は全て呼べ、となったのが今回。
そして税金の無駄だとピオニーから言われたため、今回の見合いパーティで最後だというそれの招待状だと言う。
「……お父様、これ三日間開催と書いてありますけど」
「そ、その間は皇宮に泊まれるから」
「じゃあ誰が家のことするんですか! 野菜の世話は!? 屋敷の掃除は!? 来月は植えたいものがたくさんっ……! それにそんなところに着ていくドレスなんて」
「ちゃんと貸出があるから! 頼めるから! お化粧もしてくれるって!!」
貧乏貴族へのケアが整っているあたり、家臣たちの本気をなまえは感じた。
たしかに国の世継ぎ問題は大きいが、そんなものなまえにはあまりにも遠く、そして関係ないことだ。
見初められたいと思うよりもまず野菜の心配が先にたつ。なんなら行くのすら面倒だとも思っているくらいなのに。
「母さんが帰ってきたら相談しよう? 三日間なら父さんと母さんとキースでなんとかするから」
たしかに母親が世話をするなら三日間くらいなら、と思わなくもないが。それでも行くこと自体億劫だ。
きちんとした令嬢のように肌も白くなく、手は家事や畑仕事で荒れている。髪の毛も長いだけで綺麗な訳では無いし、容姿も整っているとは思っていない。年齢も、招かれる令嬢たちの中では上だろう。
完全に気後れしてしまっているのに。
「行くだけで恥になりそうです」
「なまえは世界で一番可愛いよ」
わりと真面目なトーンで言われたそれに、なまえは苦笑をした。完全に親の欲目である。
しかし相手が相手なだけに断るという選択肢は存在しない。
なまえはまだ開けていない招待状を見て、はあとため息をついた。
時が経つのは早く、あっという間になまえはパーティー当日を迎えていた。
あまりにも行きたくなくて母親に泣きついたが「美味しいものが食べれるわよ!」「姉様お肉もありますよ!」と母親と弟に食べ物で説得され、泣く泣く皇宮へとやってきていた。
貴族の年頃の娘がそんなに多いわけでもなく、一人一部屋与えられた部屋でなまえはメイドたちの手によってきちんと貴族の令嬢に見えるように仕立てられた。
最初は派手なドレスを合わせられていたのだが「歳もそれなりなので地味めでお願いします! ほんとに!」と懇願し、なんとか紺色のドレスと地味めなハーフアップという髪型を一日目の夜は勝ち取った。
アクセサリーもヘアメイクも質素にしてもらい、出来るだけその他大勢に混ざれるようにも頼み込んだため、なまえはどこからどう見ても地味な令嬢に見えるだろう。
──ここでなまえが想定していなかったのは、他の令嬢たちは派手なドレスを着ているということだ。地味な出で立ちということはそれだけで目立ってしまうのだが、パーティーなどに参加したことの無いなまえは知る由もない。
日焼けはもうどうにもならないため諦めていたのだが、メイドたちに「せめてきちんと肌のケアはなさってください!」と女として叱られ、お高そうなよくわからない水を身体中に塗りたくられたが概ね順調である。
日程としては、一日目の夜に立食パーティーという名の見合い。
二日目は昼、夜とお茶会という名の見合い、立食パーティーという名の見合い。
三日目は朝に朝食会という名の見合い、そして昼夜共に前日と同じで、三日目の夜に解散という流れだ。
選ばれた令嬢は追って連絡が来る、という。
全部食事会かあ、と若干わくわくしたのだが、要はその間にピオニーにお近付きになりお眼鏡にかなえということだ。
なまえにとっては興味もなく近づく予定も気もないため、出がけに言われたように美味しいものを三食お腹いっぱい食べに来た、くらいの認識である。
肉など高価なものは、食卓に並ぶことなどほぼないのだ。
そう思うと、きれいなドレスを着て美味しいものを食べられ、城も自由に出入りできるところは見て回っても良いと言われているこの三日間は有意義なのでは? と考えを改めた。完全に観光の気持ちだった。
コルセットもきつく締めるのはやめてもらい、緩めにしている。
メイドたちに「ご飯食べに来ただけなので!」と言えば苦笑を返され、まあそんなご令嬢もいるわよねという空気でコルセットを緩められたのだが。
広間につくと、きゃあきゃあとはしゃぐ少女たちの声で埋め尽くされていた。
色とりどりの鮮やかなドレスになまえは若干目をチカチカさせるが、そっと気配を消して壁際へと移動する。
エスコート役の男性──主に父親や兄だろう──はいるが、声の主役は完全に少女たちだ。
ピオニーが会場に入ってからが本格的にパーティーが始まるのだろう。料理はまだほとんど出ておらず、あるのはケーキや果物といった軽食ばかりだった。
近づいてきた使用人からグラスを受け取り、ちびちびそれに口をつける。あまり飲みすぎて食事が入らなくなったら本末転倒だ。
しばらくきゃあきゃあと賑やかな声を聞きながら料理が出るのを待っていたら、さあっと少女たちが静かになった。
ん? と思って広間の真ん中を見ると、遠くに長身の金髪が見えてなるほどあれがピオニー陛下かあ、とぼんやりと思う。
例に習って頭を下げ、そのままピオニーの挨拶を聞き終える。通るいい声だなあ、と思うが顔をあげた時に見えたのは少女たちのドレスだけだった。もちろん挨拶の内容など覚えてもいない。
「わあ、すご……」
ドレスが広がっているためそれなりに距離はあるが、あれだけひしめきあっていたら熱量もすごいだろうなと完全になまえは他人事だった。絶対に近づかないようにしよう、と心に違う。
それよりも、となまえは視線を出てきた料理に向けた。なまえにとっての本番である。
あれよあれよという間にいくつもあるテーブルを埋めつくした料理たちに、なまえは目を輝かせる。
見たことも無いものから、食べてみたかったものなど様々なものが並んでいるのだ。
せわしなくメイドたちが動いている中に自分を着飾ってくれた顔を見つけなんとなく嬉しくなってそちらへ行くと、メイドのほうもなまえに気づき「なまえ様」と微笑んだ。
「本当に陛下にご興味がないんですね……」
「ご飯には興味あります!」
「ふふ」
伯爵家のなまえよりもよほど品のある笑い方をするメイドは「できたてのローストビーフがもうすぐ来ますよ」となまえに耳打ちするとあいたテーブルを指さして広間を出ていった。
「ローストビーフ……!」
食べたことの無い未知の料理である。
ビーフを買えるほど家に余裕がある訳ではなく、臨時収入などがあっても家の修繕に消えていく。
いっそ屋敷を手放してしまえば楽なのだが、貴族という名を冠しているが故に中々転居手続きというものが面倒であり、新しく家を買う余裕もないのだ。そうなると今の生活を続けていくしかない。
野菜中心の生活をしていると肉を食べることはほとんどない。父親は仕事に行けば皇宮でのまかないがあり、母親もレストラン故にまかないがある。
最近ではキースも訓練に出かけているため訓練所で昼食がふるまわれる。外に出ている家族は肉を食べる機会はあるのだが、家の中の仕事ばかりしているなまえは肉など食べることはほぼ皆無だった。
ローストビーフが来る前に適当にサラダでも取って待とう、と意気揚々と皿を取り、色鮮やかなサラダや前菜を皿に乗せていく。
いざローストビーフがメイドのさしたテーブルへ出てきた瞬間、なまえは一番にローストビーフを皿に乗せ、隅に設置されていた椅子に腰掛け食事を堪能することにした。
「お、おいしそう……! 野菜もつやつやだしどうやって育ててるんだろ……何使ってるのかな……」
食べるとなると、もはや周りの音など完全になまえの耳に入ってこなくなる。
皿に自分で盛ったサラダの瑞々しさに目を輝かせ、シャキシャキの野菜たちの育てかたに思いを馳せ、ローストビーフを口に含んだ瞬間の幸福さにはあああとため息をこぼした。
屋敷の畑は心配ではあったが、こんなに美味しいものを三日間も食べられるのだからもう気にすまい、とローストビーフを食べた瞬間に完全になまえは三日間ここで過ごすことを受け入れた。
そして次々に出てくる料理に目移りしながら、なまえは数々の料理を一人でパーティーの間食べ続けていた。
そんななまえを、他の令嬢たちが「下品な方がいらっしゃるわ」とひそひそと噂をしていることには幸いにも気づくことは無かった。
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