「店長、そろそろ閉めます?」
 テーブルシティの通りも人がまばらになってくる時間にさしかかり、なまえは店先でレジをしている店員──ミナに「そうだねえ」と答えて空を見上げた。
 既に星が空に輝き、月が浮かんでいる。時刻は二十一時前である。
 アカデミーの夜間授業に参加する生徒たちも、仕事終わりに弁当を買って帰る社会人も、そして家族のために一品でもと惣菜を買っていく主婦ももう店に来る気配はない。
 そして商品である弁当や惣菜も、もうほとんど残っていない。
 閉店作業をするスタッフがまかないよろしく持って帰ってくれたり、なまえが持って帰って自分の夕食にしたりはするのだが、それでもいくつかは廃棄処分になるため、あまり残らない方がなまえとしても嬉しい限りである。
 本日の閉店業務をするミナも、なまえよりも年若く母親が家で食事を作って待っているらしいので、惣菜はともかく弁当を持って帰ることはあまりないため、今日はなまえが食べられるぶんだけ持って帰り残りは処分になるだろう。
「ちょっと早いけど閉めよっか、ミナちゃん」
 今日は夕方がかなり混雑したが、その後はなまえが出なくとも捌けるほどの客が来ただけで、明日の仕込みも全て終わっている。
 閉店間際になれば来る客もいないだろう。
 そう思ってミナに言うと、ミナは、はあい!と元気よく店の奥へ入っていった。
 掃除道具を持ってくるのだろうと思い、なまえも片付けを始めるかとショーケースの中に残っている惣菜をまとめるかとケースを開けようかと視線を下に向けたところで、ふと、ショーケース越しに人が立ったのが分かった。
「今日はもう閉店ですか?」
「あっ、はい……いえ! まだ大丈夫で……す……」
 黒いスラックスがケース越しに見えて、低めの男性の声にささっと頭をあげる。
 と、そこにはあまりものが残っていないショーケースをじっと見つめる、見たことのありすぎる男性が立っていた。
 思わずなまえはヒュッと息を飲むが、叫び出さなかったことを心の中で盛大に褒める。
 ショーケースの向こう側に立っているのは、なまえが弁当屋を出すきっかけにもなったジムリーダー兼、リーグ四天王のアオキその人である。
 オールバックにした黒髪に、少し混じるはねた白い髪。スーツ姿に無表情が常であり、淡々とした喋り口調。
 リーダー業務や四天王業務をしている時よりも、食べている時が心底幸せそうであると以前SNSで大バズりして以来女性ファンがドドンと増えたアオキだ。
 細身なのにたくさん食べるというギャップや、ジムと四天王でポケモンを使い分けている二面性も大ウケしている。もちろん現在進行形でファンは増えている、となまえは思っているのだが。
 なまえも幸せそうに食べるアオキを見てそこからファンになったのだが、あれくらい幸せそうに自分の作ったものを食べてくれる人がいるのかもしれない、と料理を作る仕事を選んだのだ。
 元々料理を作るのが好きで、もちろん食べてもらうのも食べるのも好きだった。
 たくさんの人にあんな顔をしてもらいたい、と思い切って自分の店を持ち、結果中々に繁盛することになっている。
 今となってはなまえも立派なアオキファンで、トーナメント戦があればチケットを取り、アオキの手持ちポケモンのグッズがあればひっそりと購入し、テレビでアオキを見れば一日幸せでいられるほどだ。
 ポケモンリーグでの仕事終わりなのかアオキは少しくたびれた様子だが、惣菜を選ぶ目は真剣そのもの。
 それに変な呻き声を出さないように、なまえはなんとか営業スマイルを顔に張りつけた。
 ファンの心理と店員としての心理が心の中で殴り合いである。
 ファンです、と声をかけたい自分と、プライベートなのだから店員として接した方がいいと思う自分。今のところ店員としての理性が働いているが、細い糸の綱渡り状態だ。
「すみません、あまり残ってなくて」
「いえ。私ももう少し早く来る予定だったので、まだ少しでも残っていて良かったです」
 私アオキさんと喋ってる!? 生きてる!? と心の中で叫ぶが、答えてくれる人はいない。
 戻ってくるであろうミナは客の気配を感じてか、店の奥から出て来るつもりはないらしかった。
 奥の閉店作業をしているのか、掃除をする音が小さくなまえに届く。
 これ心臓の音聞こえてない? 大丈夫? と己の心臓を違和感ない程度におさえるが、おさえたところで異常な脈がなくなることはない。
 今日命日かもしれない、と営業スマイルの下でなまえは喜びに咽び泣いた。
 しばらくショーケースを見ていたアオキだが、ふと横のカウンターにちまちま並んでいる弁当を見て、少し眉を動かした。
 真っ直ぐカウンターに近づくと、しばらく弁当を眺めた後、残っていた弁当六つを抱えレジに戻って来る。
 時間が遅いため半額シールの貼られたそれだが、アオキの手に自分の作ったものが握られていると思うだけでなにかの財宝なのではと思えてくるから不思議なものである。輝いて見える。
 アオキが見た目のわりに大食いだと言うのはファンの間では有名で、今持っている弁当も全て食べれるのだろうとなまえは嬉しくなってしまった。
「時間も遅いですし、半額の半額にしますね!」
「……ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げるアオキに、営業スマイルを顔に貼り付けて「いえ!」と笑う。
 少し嬉しそうに視線を動かすアオキに、なまえは緩みそうになる頬をなんとか引き締めて、出された金額での会計をアオキでいっぱいになっている思考とは別のところで無意識に終わらせていた。
 手早く仕事を終わらせられる自分が憎いと思ったことは今までないが、会計が終わってしまえばアオキが帰ってしまう。
 せめてファンですだけでも、いや今はプライベート! いやいやそれでもなにかサービスくらい、と笑顔の下で理性と欲望が殴り合いをし始める中、会計をすませたアオキが紙袋を持ち、そのまま動かずになまえへと視線を向けた。
 しばらく脳内で戦っていたせいですぐに反応ができなかったが、一向に動かないアオキに気づき「? どうか……?」と口を開けば、アオキが少し言いにくそうに視線を落としてしまう。
 ま、まさかなにか粗相でも!? ファン心理がにじみでてた!? と不安になるが、アオキはなまえをもう一度見て「先日」と口を開いた。
「ここの弁当を食べて、美味しくて。もう一度食べたくて伺ったんです」
「え?」
「次は、早い時間に来ます」
 全制覇でも目指すと言わんばかりのその目力に、なまえはぽかんと口を開けて、それから言われたことをなんとか頭に詰め込んでいく。
 美味しかった? わざわざ、閉店間際でも買いに来るくらいに?
 きっと言うか言うまいか悩んだのだろうアオキが、美味しかったから買いに来たとなまえに言ってくれたことが嬉しくて、ありがとうございます、という言葉よりもその感情が先に表情に出てしまった。
 緩む頬を両手で押さえて、なまえはひええと声にならない声を上げる。
 きっかけをくれた本人が買いに来てくれたことが奇跡だというのに、そもそも味を気に入って来てくれたというのがまるで夢のようだった。
「あ、ありがと、ございます」
 泣きそうだ、と思うのと同時に、ファン心理を出さないようにしていたが、ファンであることを伝えるくらいならいいのではないかと考えを変える。
 弁当が好きだと言われて嫌な気持ちがしないように、ファンだと言われて嫌だとはきっと思わないだろう。
 本当にまた来てくれるかもしれないし、という下心はあるが、なまえはぐっと足に力を入れて「あ、あの!」と真っ直ぐアオキを見つめた。
 心臓はドキドキ音を立てているし、手が震えてきてしまい、ぐっとなまえは自分の手を握る。
 今になって緊張が体に出ているらしく、がんばれ私! となまえは心の中で叫ぶ。
 視線を合わせたアオキは、少し驚いたような表情をしたが、それでも「はい」と淡々と返事をした。
「わ、わたし、アオキさんの、だ、大ファンで! この道を選んだきっかけが、あの、アオキさんみたいに幸せそうにご飯を食べる人が沢山居たらいいなって思って! それで、あの、だ、大好きなアオキさんがお店に来てくれるなんて、夢みたいで……あの……す、好きです……」
 もはや告白だが、何を言いたいのか分からなくなった結果である。
 重いファンだと思われたくないが、今の発言は完全に重いファンでしかないのも自覚済みだ。最後の方は小声になっていったが、アオキにはしっかりと聞こえていたらしくふっと口元を緩め、目元を和らげた。
 滅多にお目にかかれないアオキの笑顔に、なまえはその場で卒倒しかかった。
 しかしその笑顔を向けられているのが自分しかおらず、カメラがあるわけでもない。ならば自分の網膜に焼き付けておかねばという重いファン心理が働いた結果、なんとか倒れることはせずに済んだ。
「失礼しました」
 ごほんと咳払いをするアオキに、なまえはブンブンと首を横へ振る。
「死んでもいいです」
「いえ、死なないでください」
 真顔で言われ、もはや店員としてのなまえは心の奥底へ追いやられているため「はいぃ」と半泣き状態で間抜けな声を出してしまうが、アオキは気にした風でもなく、見る人が見れば少し楽しげな様子ですらある。
「ありがとうございます。あなたの夢がかなって良かったです」
「神ファンサ……」
 一度店員としての自分がいなくなってしまえば、もう残るのはただの重いファンのなまえだけだ。
 つい口から出てきた言葉に、やはりアオキは少し面白そうに眉を動かすと両手を組んで涙ぐんでいるなまえを見て先程と同じように目元を和らげた。
「では、また伺います」
「は、はいっ! ありがとうございます! お仕事お疲れ様でした!」
 一礼して去っていくアオキの背中になまえは叫ぶ。足取りも軽くタクシー乗り場へと去っていくアオキの姿を、なまえは客の気配がなくなって表へやってきたミナに声をかけられるまで、夢だったのではとぼんやり眺めていた。
 閉店作業中に、ゾロアにつままれたんじゃなくて!? と何度もミナに確認したが、ミナも「ちゃんと四天王のアオキでしたよ! 良かったですね!」としか言わないためどうやら夢ではなかったようである。
 その日、家に帰り寝る支度を終わらせ、寝る前の日課になっているSNSチェックをした際、アオキが先程購入した弁当六つの画像付きで「美味しかったです」と一言添えている投稿を見てあまりの喜びでなまえは床を転がり、一睡も出来ずに翌日仕事へと向かうことになった。

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