キバナの膝の上に座ったなまえは、甘えるように目を閉じた。
白い頬に影を落とすまつ毛すら愛おしく思って、キバナはその白い頬に指を滑らすと、これもまた甘えるようになまえは頬をキバナの手に擦り寄せてくる。
そのままキバナの手のひらに頬をおさめて、とろりととろけるような笑みを浮かべて「あのね」と口を開いたなまえに、キバナは「うん?」と首を傾げる。
思ったよりも随分甘く飛び出した自分の声にキバナは内心苦笑をする。
なまえの細い指が、なまえの頬に触れているキバナの手に重なり、ゆるゆると手の甲をなぞっていく。甘えるような仕草に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚をキバナは覚えた。
「私ね、キバナが──」
そこで毎回目が覚める夢を連続で見ることはや四日目である。
さすがにあの夢の空気と、己の情けなさ。
前回見た、人に言うのもはばかられる夢との落差にキバナはナックルジムの事務仕事中に大きくため息を吐いた。
なまえに、要約すれば「キバナ以外に思わせぶりなことはしない」と言われた日から一週間経っているが、キバナとなまえの関係は全く変わっていない。
あの後も、結局ケーキを食べる流れになり、そのまま何事もなく解散しキバナは自分の家に帰ってきた。
なまえからはまた遊ぼうねとメッセージは来たがそれきりである。
あの態度で!?!? と帰ってからキバナは膝から崩れ落ちたものの、好きだと言われたわけでも、自分から言ったわけでもないので進展が何も無いのは当たり前だった。
好きなのはキバナだと言われたも同然ではある。
一週間キバナは毎日考えていたが、今までのような幼なじみだから、では説明できない部分しかない。
そう、それは理解しているし、概ねなまえから向かってくる気持ちも理解はできているはずなのになまえがあれきり何も音沙汰がないのがキバナを落ち着かなくさせていた。
普通を装って連絡してみると「色んな予約が山ほどあってそろそろ死にそう」と返ってきたためどうやら忙しいらしいが、それにしたって、である。
「オレがおかしいのか……?」
書類をあらかた片付け、椅子の背もたれにもたれてキバナは天井を見つめた。
ギイ、と背もたれが静かな部屋に鳴る音だけが嫌に耳につく。
そもそもいつからなまえは自分を好きだったのか。
昔から今まで、態度が一貫しており変わったことは無かったのだ。
それが最近、どころかこの一ヶ月程で急に変わった。
そうなると最近好かれたのかと考えるが、好かれる要素など何も無く、そもそも特別頻繁に会っていたわけでもない。
そうなるとキバナと同じように昔からかとも考えたが、それもどうもよく分からなかった。
なまえのみぞ知る、である。
仮に昔から好かれていたのだとすれば、なまえはキバナと同じように自分の気持ちを誤魔化し続けていたことになるが──。
そこまで考えて、キバナはもう一度大きくため息をついた。
考えたところで出口などあるはずがない。直接本人に聞くしかないのだ。
そもそも、まだキバナとなまえは幼なじみから抜け出せていない。まずはこの関係を変えるために頑張るか、とキバナは自分の両頬をぱちんと叩いた。
「店長! 結婚お祝いのケーキ受け取り来られました!」
「向こうの冷蔵庫の一番上右側のピンクと白のやつ!」
「なまえさぁん! 取材って言ってテレビ局来てます!」
「対応出来る人対応していつも通りご案内よろしく!」
「誕生日ケーキのご予約入りました!」
その日、なまえの仕事場であるケーキ屋は戦場だった。
記念日ケーキの予約も重なり、客も多く、朝早く、そして夜遅くまでなまえは永遠にケーキを作ったり予約を受けたり日程の調節をしたりケーキの打ち合わせをしたりと息付く暇もなく働いていた。
それがもうここ数日毎日である。
キバナとの一件の余韻に浸る暇も何も無く、馬車馬のようになまえは日々仕事に追われていた。
キバナに女の子扱いされたかも! ついでにキバナを好きな事もなんとなく伝えられたかもしれない! この勢いのまま押すしかない! 嫌がられてないし!
と意気込んでいたのが、一気に萎んでしまった。
怒涛の忙しさで、キバナと会うことはおろか連絡すらもままならないのだ。
もっと言えば、睡眠時間もかなり削っている状態である。
キバナから「最近見ないけど仕事忙しいのか?」と連絡が来たのが唯一の救いではあったが、そのメッセージに返事ができたのも深夜になった。
もっとキバナとのやり取りを深く考える時間も欲しかったが、そんな時間はなまえにはない。
そのため、好きなことを伝えられたかもしれない、ではなくキバナに抱きしめられたことやもっと別のことを考えることも出来ていなかった。
しかし怒涛の日々もあと二日ほどで終わりである。
一息つける上に、二日後、仕事が終わり次第ナックルスタジアムで最推しであるカブも参加するジムリーダーたちのエキシビジョンマッチが開催されるのだ。
カブの参加が決まった時点でチケット争奪戦に身を投じ、見事チケットはなまえの手の中に入ってきた。
カブの名前しか見えていなかったが、後日しっかりと概要を見たところ、チャンピオンのマサルや前チャンピオンのダンデ、それにキバナも参加するという中々に豪華な顔ぶれでなまえのテンションも上がったというものである。
なまえはすすんでポケモンバトルをすることはない。キバナの練習相手くらいはしているが、それでもバトルはする方よりも見る方が好きだった。
そのためカブが推しではあるものの、他のメンバーにしても見ているのは楽しいし心が踊る。
連日睡眠時間も削って頑張った自分へのご褒美だと、なまえはナックルジムから謎に大量に予約されていたショートケーキを作りながら「頑張らなきゃ!」と気合を入れた。
なまえの忙しさがキバナが考えるよりも多忙で、結局頑張るかと思ってから会えずじまいだった。
うまくいかねえもんだな、と思っていた矢先、なまえから今日で仕事が落ち着きそうだとメッセージが入り、ついでのように今日のエキシビジョンマッチ見に行くねとも付け加えられていた。
一瞬それに喜んだが、ふと今日のメンバーを考えてキバナは喜びの感情が一気に萎む。
カブさんか、と小さく呟いてなんともいえない複雑な気持ちを大きく溜息に乗せて吐き出した。
自他ともに認めるほど、なまえはカブが好きである。やれトーナメントだエキシビジョンマッチだなんだと、カブが出るイベントごとには毎度繰り出しているほどに。
カブのファン層がどちらかといえば男性が多いため、若く見目も整っているなまえの存在はかなり異質ではあるが本人にその自覚は全くないらしい。
もちろんカブの女性ファンもそれなりにはいるのだが。
どうせならなまえには自分だけ応援して欲しい、とちらつく思考にキバナは首を振った。
カブを好きになってから、なまえは炎タイプであるガーディやロコンを手持ちに入れ、作るケーキもカブイメージのものが多くなった。
店先に並べるものはきちんとしたものではあるが、個人で作って店のSNSにカブ推しだと隠す様子もなく上げる画像や動画は新作ケーキの宣伝以外だとほぼほぼ炎ポケモンモチーフのものだ。
カブの誕生日にはカブとカブの手持ちポケモンたちのアイシングクッキーを作り、それを特大のケーキに載せたものを店のSNSにあげて大きな反響を産んだ。
ケーキも美味しく見た目も良く、そして店長本人が可愛い女性ともなれば人気店になるのも時間はかからなかった。
なまえの店の作りも面白く、ケーキや菓子を作っている様子が店の中や外から見える仕様になっている。
ガラス張りの部分があり、なまえが細かい作業をしている様子や飴細工など芸術作品のようなものが生み出される手元がしっかりと見えたりするのも人気店になった要因のひとつだろう。
そして店の仕事が一段落する夕方あたりになると、パフォーマンスや試作も兼ねてケーキやアイシングクッキーやマカロン、とにかくそれらに炎ポケモンも紛れさせカブ関連のものを作っていることも多い。
そこまでカブを応援しているなまえが、カブ以外を応援するところなどさすがにキバナにも想像がつかなかった。
「まあ、情けないとこ見られないようにだけするか……」
とは言ったものの、バトルの最初はともかくとして、始まってしまえばなまえがどうだ、まわりの客がどうだと考える余裕はなくなってしまうのだが。
とりあえず今回のエキシビジョンマッチが終わったあとにでも、どこかで予定を空けて二人で出かけるか、とキバナは息を吐いた。
「ま、間に合った……!」
仕事が予想以上にまたもたてこみ、退勤時間がギリギリ間に合うか間に合わないかの瀬戸際になってしまったが滑り込むようになまえは会場へ入ることが出来た。
寝る間も惜しんで仕事をしていたなまえを知っている店員たちに「早く帰ってください!」「カブさんで癒されてください!」と半ば追いやられるように出てきたのが気がかりではあるが、閉め作業だけのためなまえもその言葉に甘えることにしたのだ。
間に合わず走ることも想定していたため今日の服装はパンツスタイルにTシャツとラフではあるが、カブイメージで買っていた赤いピアスはしっかりと身につけ、なまえは自分の席へつく。
かなり前であり、ちょうど真ん中あたりという言うなれば「神席」になまえは仕事頑張ってよかったあ! と心の中で大喜びをした。
全速力で走ってきたため息切れとめまいがしていたが、興奮の息切れとめまいにすり変わった気さえするほどである。
ちらりとまわりを見渡せば、客先は当然のように満員で、それぞれがわくわくした表情で今か今かと開始を待っているようだ。
久しぶりの生で見れるカブに、なまえは「き、緊張してきた」と小さく呟いた。
結果として、優勝者は現チャンピオンであるマサルだった。
キバナ経由でなまえはマサルともダンデとも顔見知りではあるが、やはりバトルの場となれば二人とも表情ががらりと変わるのはさすがだなと思う。
決勝ではマサルとダンデが戦い、準決勝ではキバナも善戦していたが一歩及ばずマサルに敗退となっている。
カブとキバナも戦っていたが、惜しくもカブの負けになってしまった。
しかしなまえの席からカブはよく見え、普段遠ければ見えない表情すらも肉眼で見えるレベルだったため悔しくはあれどなまえは大変に満足していた。
(真剣な表情も笑った顔も悔しそうな顔も全部最高だった……!)
キバナ相手でも引けを取らず、キバナのポケモンも何匹か落としたカブになまえは大声援を送った。
あまりの格好良さに「結婚して欲しい……」とオタク丸出しで呟いたほどである。実際結婚してほしいわけではないが、極まったら自然と出てくる言葉のため止めることも出来なかった。他の客の声援に消されてしまったが。
イベント開始前に並べなかった物販で、なまえはせめてパンフレットだけでも買って帰るかとパンフレットを買い、目に付いてしまったカブのブロマイド写真も全種購入した。
キバナの写真もあったが、散々悩んで全種類購入しスタジアムを出ようとしたところで「なまえさん!」と誰かに声をかけられなまえは立ち止まった。
すでに人もまばらになっているスタジアムの玄関ホール内で、スタッフの札を下げた見覚えのある顔になまえは「あれ」と首を傾げた。
「やっと見つけた……!」
「リタくんどうしたの?」
ナックルスタジアム勤務である職員に声をかけられ、なまえは体ごとそちらへ向き直る。
よく差し入れを持ってくるため、なまえはスタジアム職員とはほぼ顔見知りでもある。
が、こうしてイベントのあとに話しかけられるのは初めてだったし、探されていたのも初めてだ。
「スマホ見てないですか?」
「え? あ、見てないかも」
言われてスマホを確認すると、キバナからメッセージが入っていた。
イベントのあと裏口から入ってこい、とのことだが一体なぜ。
それが顔に出ていたのか、慌てたようにリタが「あ、あの、何か用事があるみたいで」と付け足す。
用事? と思うが、全く身に覚えがない……と思ったものの、先日の一件だろうかと一気に冷や汗をかいた。
つい、キバナが好きだとは思わないのかと詰め寄ってしまい、逃げようとしたところキバナに捕獲され抱きしめられるというとんでもない事態に陥ったのだ。
キバナ以外には思わせぶりなことはしないともしっかり言い、だいぶ早いキバナの心臓の音になんとなく満足して擦り寄ったりもしている。
えっもしかしてフられる!? と嫌な汗をかくが、リタはなまえの背中を押してスタッフルームのほうへと誘導を始めてしまった。
スマホをしまう暇もなくぎゅっとそれを握りしめると、ロトムが居心地悪そうに「ロト……」と一言鳴く。
「ま、待って待って今日に関しては私絶対部外者でしょ!」
「ダンデさんも会いたいって言ってたし大丈夫ですよ」
「ダンデくんが!? なんで!?」
もしやダンデくんが久しぶりに私に会いたくてキバナを通して呼ばれたとか? となまえは一瞬考えたが、ダンデがそんなまどろっこしいことをするはずがないと思い直す。
ダンデなら近くに来たからと店に顔を出すくらいは普通にしそうである。
そもそもそこまで、ダンデとは顔が見たいと言われて会うような関係ではないのだ。
確かに仲は悪くは無いが、ただの友人でしかない。キバナが居なければ会うことも話すこともなかった関係である。
「って、ま、待ってほんとになんで……」
言いながら、ずるずるとされるがままなまえはキバナがいるらしい控え室へと押されて行った。
「これから打ち上げあるんだけど行かねえ?」
「……ええ?」
キバナの控え室に入るなり言われたそれに、なまえは眉間に皺を寄せた。
一体どれだけ大切な用事なのかと思ったが、とんでもなくどうでもいい用事だったではないか。
何を言ってるんだ、と表情に出すなまえを手招きし、キバナは自分の座るソファの横をポンポンと叩く。
それには素直に応じ、キバナの横に腰掛けると何故か渋い顔をしているキバナがなまえを見ていた。
「ちゃんと食ってないだろ」
「えっ……」
「帰って寝ろって言いたかったけどこのまま帰っても寝れねえだろうし」
「いや、まあ、そうだけどなんでそれで打ち上げに」
キバナが伸ばした指がむに、となまえの頬を摘む。
と思えば労わるように目の下から目尻をなぞり、そのまま落ちてきた髪を耳へとかけられた。
え、何? と思う前にぐっと身をかがめたキバナがなまえの顔をのぞき込んで「顔色が悪い」と一言言った。
睡眠不足ではもちろんある。それに加えて食事の時間を削り睡眠のほうにあてたり仕事をしたりしていたため、なまえがまともに食事をしたのはもはや数日前だったのだがそれを見破られるとは思ってもおらずぐっと言葉を飲みこんだ。
どうやらこのまま帰ってもパンフレットを読み込み食事もそこそこに寝落ちすると思われての誘いらしいが、それにしたって完全に部外者であるなまえが打ち上げに混ざるのは絶対におかしいのはさすがになまえも分かる。
「や、私どう考えても部外者だってば」
「別にいいだろ。ダンデだって弟呼んでるし、他のスタッフも家族とか恋人とか呼んでるし」
「いやそれでも私立ち位置何? ってなるでしょさすがに!」
キバナの幼なじみですー、と打ち上げに混ざるのは気が引けるどころの話ではない。
キバナはなまえにきちんと食べさせたいのだろうが、それとこれとは話がまた別である。
「ちゃんと帰ったらごはんは食べるから──」
「なまえが来てるんだって?」
「だ、ダンデさん待ってください!」
だから気を遣わなくていい、と続くはずだったなまえの言葉は急に部屋の中に入ってきた男性の声にかき消された。
えんじ色のジャケットを暑いのか手に持っている来訪者──もといダンデは、なまえを見るなりパッと笑うと「久しぶりだな!」と大股でなまえに近づいた。
その後ろを気まずそうに入ってきたのは現チャンピオンであるマサルだが、こちらもなまえを見ると少しはにかんでこんばんは、と挨拶をする。
「ダンデくんにマサルくんも。久しぶり……あっバトルお疲れ様! 二人ともかっこよかったよー!」
座ったままも、と思い立ち上がって言えば、ダンデは目を丸くしたものの慣れているのか「ありがとう!」と返し、マサルは少し照れたようで頬を赤くしながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
それを見ていたキバナが面白くなさそうに「オレにはなんもなかった」とぼやいたが三人には聞こえていない。
そもそもがなまえが何か言う前にキバナが話しかけたため言うタイミングがなかったのだがキバナは分かっていながらそれを棚に上げたのだが。
「マサルくんのゴリランダー相変わらず強くって見てる方がわくわくしちゃった! ダンデくんとリザードン、押されてるのに二人とも楽しそうにバトルしてるし私まで楽しくなっちゃってね!?」
キバナから訳の分からない打ち上げの誘いを受けたためテンションは平常に戻っていたが、先程まで拳を握るバトルを見ていたなまえである。
誰かに感動を伝えたかったのだが、一人で来たため伝える相手はおらず、明日にでもクッキーかケーキを作って発散するかと思っていたところに興奮の原因である三人が揃ったのだ。
伝えずにはいられないという心理になり、なまえは先程感じていたままに本人に感想を述べ始めた。
手に握ったままだったスマホをぶんぶん振ってしまったが、気持ち悪そうに鳴くロトムの声はその場の四人には届いていないようだった。
感想を述べるなまえのあまりの褒めたたえっぷりにマサルが本気で照れ始め、ダンデも多少照れのまじる表情になり、キバナが心底面白くなさそうになり、スマホロトムがそろそろ限界が近くなってきた頃、コンコン、と開けっ放しだったドアを控えめに叩く音でなまえの感想がぴたりと止まった。
そういえばここ控え室だった、と慌てて口に手を当てようとしたなまえはキバナの「あ、カブさん」という声に体の動き一切を止めた。
「ダンデくん、それにマサルくんも。ホップくんが探してたよ」
「ここにいたのか二人とも! あ、キバナさん……あれ? なまえさんも」
ホップの声が、なまえを読んだ瞬間にマサル、ダンデ、キバナの視線がカブへと向いた。遅れてホップもおそるおそるといった調子でカブへと目を向けて、それからゆっくりとなまえへと視線をやるが、そんな様子はなまえには分からなかった。
なんと言ってもドッ、となまえの心臓が一瞬動きをとめた──ような気がしたのだ。
映像でもスタジアムでも何百回と聞いた声である。聞き間違えるはずがない。
ホップの声など耳に入らなかった。
いっそのことこのまま何も無かったように目を合わせずこの部屋から出ていきたい衝動にかられたが、万が一にも思い通りの人物だとしても、そうでないにしても、目も合わせずに無視をするように部屋を出るのは失礼すぎやしないだろうか。
どこか理性的な部分が働いてしまい、なまえはギギ、と音がしそうなくらいぎこちなく、自分の視線をダンデたちではなくドアのほうへと向けた。
その場にいる当人とカブ以外全員が、なまえはカブを最大に推していることを知っていたため成り行きを静かに見守るという不思議な光景が拡がっているが、それに気づかないのもまた当人たちだけである。
足元から視線を上げ、ようとして、つま先だけでなまえは視線を上げられず固まった。
舐めるように映像を見ているなまえである。先程まで肉眼でしっかりカブを見ていたなまえである。
つま先だけでもはやカブ以外の誰でもないと判断してしまった。
思わずぎゅうっと握っていたスマホに力を入れると「ロト……」と苦しそうなロトムが鳴いたが心配そうな視線をよこしたのはマサルだけだった。
ドッドッ、と心臓が耳元で鳴り続けているが、思考は固まったままだ。
どうしよう視線が上げられない、とあまりの緊張に固まるなまえに、呆れたようなため息が後ろから聞こえた。
次いでぽんと背中を撫でられ、そのまま少しだけ押し出された。
キバナだ、と思った時には既にキバナがなまえの横に立ちへらりと笑って「こいつ」とカブへと向けて言葉を発していた。
「カブさんのファンすぎて声も出ないみたいで」
「なまえ、深呼吸だ」
ダンデに苦笑しながら言われ、なまえはふっと息を吐いた。どうやら呼吸すら止めていたらしい。
と、同時に現状が頭の中に一気に入ってきた。
今まさに自分が暫定カブに対して失礼な態度をとっているのでは!? せめて挨拶だけでもしなくちゃ! と顔を上げようとした瞬間、カブから漏れるような小さな笑い声が聞こえた。
「ええと、なまえくん? いやあ、こんなに緊張されるとぼくも緊張するなあ」
その瞬間、なまえの握っていたスマホロトムがなまえの手から滑り落ち、なまえのつま先にあたってそのままカブの足元までグルグルまわりながら滑って行った。
ロトムからは「ロトーーー!!」という悲痛な叫びが聞こえたが、その声の後は何も聞こえず画面も真っ暗になる。
さすがにマサルだけではなくホップも「あ」とスマホの滑る様を視線で追ったが、そのスマホがカブのつま先に当たり止まったのを見てさらに「あ」と声を漏らした。
なまえはカブから名前を呼ばれたという事実に心臓がばくばくと耳元で鳴り始めたのをどこか他人事のように聞いていた。
スマホの滑った先に目をやる余裕はない。
「なまえ」
もう一度、今度は優しげにキバナから声をかけられはっとなまえは顔を上げた。そうだった失礼な態度をとってはいけない!
社会人でありカブのファンを名乗るならきちんとしなくては、という妙な気持ちに突き動かされたなまえは、ばっと顔を上げてカブと視線を合わせると、そのままばっと頭を下げた。
「あ、あの、なまえと申します! 昔から大ファンで、あの、今日のバトルもすごく感動しました!! ありがとうございます!!」
なんのお礼なのかなまえ本人も分からずだが、どうやら熱意は通じたのかカブがはは、と楽しげに笑う声がなまえに届いた。
「こちらこそありがとう。昔からなんて、若い女性なのにありがたいな」
そしてカブのつま先がなまえの視界に入ったところで、カブから「はい」と差し出された見覚えのあるスマホになまえはやっと顔を上げる。
「あれっ……スマホ……」
「ロトムが気を失ってるみたいだけど、一応確認してあげてくれるかな」
そう言われ、なまえは反射でスマホを受け取る。その際カブの指に触れてしまい、そこでバチンとなまえの頭の中でなにかが弾けた。
ぶわ、と頬に熱が集まり、スマホを受け取った手がぶるぶる震え始める。ひえ、と喉から変な声が出たが、カブは「大丈夫かい?」と心配そうになまえに声をかけた。
成り行きを固唾を飲んで見守る面々は助けを出すか出すまいか悩んでいるが、それよりも早くなまえがぱっと赤くなった頬を両手で覆うように隠した。ちなみにスマホは握ったままである。
「す、すみません、あの、き、緊張がすぎて手の震えが、あの、ほ、本当に大好きで、まさかこんな、夢みたいなことが起こるとは思ってなくて。私、その、今の仕事につくまで挫折したことが何度もあったんですけど、その度にカブさんに励ましてもらってて、あの、もう、なんて言うか、す、好きすぎてすみません……」
真っ赤な顔で涙目で、頬を一生懸命隠そうとしているなまえはダンデやマサルたちから見ても恋する乙女そのものである。
片思いしていた相手から告白でもされたのかというレベルの照れ方に、ホップとマサルが釣られて頬を赤くするほどに。
ダンデは面白そうに見守っているが、キバナはなまえのそんな表情を見て面白くなさそうに少しだけ眉を寄せた。
カブはカブで真っ直ぐすぎるなまえの反応と言葉に少し照れくさそうにして「キバナくんの彼女は随分可愛い人だね」と眉を下げた。
なまえの耳には混乱が極まって可愛いと言われたという内容しか入ってこなかったが、キバナはそのカブの言葉に「まだ彼女じゃないんで」と肩を竦める。
今度はそれに対してホップとマサルが「わあ!」と言いそうな顔で頬を染めたが、やはりこちらもなまえには気づかれなかった。
「まだ付き合ってなかったのか」
と驚きの言葉を発したのはダンデだが、やはりこちらもなまえには届かなかった。
「今日の打ち上げのケーキ、なまえの店で注文したやつなんすよね。だからなまえも打ち上げに誘ってんだけど……なあ、自分の新作がどういう反応されるか知りたくねえの?」
ケーキの話を出され、そこでやっとなまえの思考が働いた。
まだ赤みと涙目の残る顔でキバナを見上げ、しばし考えた後に「気になるけど」と絞り出すように小さく言った。
「へえ、パティシエさんなのか! それなら是非なまえくんもおいで。堅苦しくないものだし、人数は多い方が楽しいからね」
「はい喜んで!」
まるで居酒屋のような受け答えではあるが、キバナがあれだけ言っても渋っていた打ち上げへの参加を鶴の一声ならぬカブの一声で即決したなまえにやはりキバナは面白くなさそうに唇を尖らせた。
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