なまえはトーマと会ってから三日後、神里家へとやってきていた。
 大きな紙袋を一つと小さな紙袋を一つ。大切そうに抱えてやってきたなまえに、綾華は変わらず笑顔で「ようこそ」と言っただけで終わる。
 綾華にとってなまえは幼なじみであり、そしてなまえの片想いを長年見守ってきた親友でもあった。
 すぐそ傍にいるのだから会えばいいのに、と常日頃思っていたのだが、つい先日会ってしまったとなまえから泣きながら報告があり綾華は喜んだほどである。
 トーマからは世間話程度ではあったが蓮見のお嬢様に会ったと、味気のない報告だけが入っただけだったが。
「ふ、震えてきた……変な汗もかきそう……」
「大丈夫ですよ、なまえ」
 なまえから、トーマに会いたいという連絡を貰って直ぐに綾華は動いた。といってもトーマの休暇日をなまえに教え、トーマにその日はなまえがトーマに会いに来ることを伝えただけではあるのだが。
 綾人が面白がっていたが、綾人の仕事が立て込んでいる日らしく見に行けないことを非常に残念がっていたのは綾華の記憶に新しかった。
 ややこしくなりそうだった為、見に来なくて良かったと思ったのもつい先程である。
「トーマはここにいます。ごゆっくり、なまえ」
「は、はいっ!!」
 まるで武闘大会にでも挑むのではないかという気迫さえ感じるなまえの背を撫で、綾華はふふ、と笑いながら自分の仕事へと戻る。
 常であればなまえが尋ねてくるのは綾華か、滅多にないが綾人である。屋敷にいる間は共にいることの多い幼なじみを案内して離れることに、綾華はなんとなくくすぐったさと少しの寂しさを感じた。
 ちらりと後ろを振り返ると、桃色の髪が部屋に消えていくのが見えて綾華はまた笑う。背中から緊張が伝わってくるようで、微笑ましかった。



「わざわざありがとう、なまえ」
「い、いえ、その、お時間を作っていただいてありがとうございます」
 深々と頭を下げるなまえが持つ大荷物にトーマは一瞬面食らうが、持つよ、と言うのもまた違う気がしてそのまま応接間へとなまえを招き入れた。
 さすがに部屋に入れるのは申し訳ないとトーマも思っていたし、未婚のなまえが男と二人きりというのも外聞が悪いだろう。ということで神里家の応接間を借りることにしたのだ。
 綾華もなまえも最初からそのつもりだったらしく、なまえからも綾華を通してそのつもりでしたと返事はもらっていたが。
 向かい合うように座布団に腰掛けたところで、なまえが真っ赤な顔で再度頭を下げた。
 太陽の光の下で見るなまえはさらに春の色をしており、日に透けた髪の毛は透き通って白にも見える不思議な色合いになっている。
 まわりにホタルでも飛んでるんじゃ、と疑うほどにきらきらしているようにトーマの目には映った。
「先日はありがとうございました。と、とりあえずこちらを納めていただきたく」
 空色の瞳はトーマを見ず、うろうろとせわしなく動いている。どうもトーマ相手だと緊張してしまうらしい、というのはトーマにも理解はできるが、その瞳が自分に向かないことには少しの寂しさを覚えるのもまた事実だ。
 震える手で差し出されたのは、小さな紙袋から取り出された箱だった。そしてその箱に入っていたのは、知る人ぞ知ると言われている菓子屋の焼き菓子だ。
 一日に売るのも数量限定で、滅多に手に入らないと言われている部類のものである。
 しかも店主が気に入った客にしか売らないこともあり、その焼き菓子の存在すら知らない人間も多いのだ。
「うわ、これ滅多に出回らない焼き菓子じゃないか?」
「そうなんですか? 私が行く時はわりとおじいちゃ……、んん、ご主人が今日はあるよ、と教えてくださるんですけど」
 タイミングがいいのか、と思ったが頑固ジジイで有名な店主である。単純になまえを気に入ってのことなのだろう。
「ありがとう、こんな珍しいものを貰って俺の方が嬉しくなるよ」
「良かった……」
 ほっとしたような声にトーマがなまえへ目を向けると、胸をおさえて大きく息を吐き出していた。どうやらかなり緊張していたらしく、小さく「ひとつめ突破」とため息と共に聞こえた。
 空色の瞳は相変わらずトーマへは向かず、今はじっと傍らに置かれている大きな紙袋を見つめているところだった。
 それも何かお礼と称したものなのだろうとトーマはしばらくなまえの行動を見守っていたのだが、視線をさ迷わせたり顔を赤くしたり青くしたり、指を組んだりと落ち着きなく動き始めたため気づかれないように笑ってしまった。
 何度かなにか話そうとする素振りはあるのだが、その度になまえは口を閉じてしまい視線を紙袋とトーマの手元の往復へと向けてしまう。
 いちいち動きが飽きずずっと見ていられるのだが、さすがになにか言ってやらないと可哀想になってきたトーマが「それは?」と尋ねると、びくりと肩を揺らしたなまえが視線を上げた。
 困ったように下がった眉に、不安げな瞳。真っ直ぐトーマを見つめてはいるものの、顔色は赤と青を行ったり来たりしている。
「そ、その……」
「うん?」
 たっぷり数十秒時間をあけて、なまえが目元に力を入れたのがわかった。
「あ、綾華から、トーマさんはモンドの出身だと聞いて」
「うん」
「その、お、大きなお世話かなって思ったし、もしかしたらあまり興味がないかなって思ったり、押し付けがましいかもしれないんですけどっ! 母からモンドの人はみんな大切にしてるお祭りだったって聞いて、その、こ、これを」
 一気に早口でまくしたてたなまえは、大きな紙袋の中からふたつ、丸いオレンジ色の塊を取り出した。
 それはゆらゆら揺れると空中へ浮かび上がり、なまえが持っている紐がぴんと真っ直ぐなったところでぴたりと浮上をやめる。
 オレンジ色をしたそれは浮かんだままゆらゆらと揺れ、なまえが少し動く度にくるりとまわる。真ん中に大きく花の描かれた、トーマにとっては慣れ親しんだものだった。もう、長い間見る機会もなかったものではあるのだが。
「風花祭の……」
 どうして君が、と、思わず声が震えた。声になったかもわからなかったが、なまえはさっと顔色を変えると視線を下に落とす。
「わっ私の父はこういったものが割れる音というのがとても苦手らしくて!」
「え?」
 急に始まった話に驚きも隠さず目を見開くと、なまえは下を向いたまま肩さえも小さく丸めて口を開いた。
「母が花嫁道具の中にたくさん、本当に沢山詰め込んで来たらしいんです。夫婦喧嘩をした時に目の前で割ってやると言って! で、でも使うことも無く夫婦喧嘩をした時は無視をするのが一番だと言ってて、いらないからとしまいこまれていたのを持ってきたんですけど余計なことをしてっ……」
「ま、待って、そうじゃなくて、なまえ落ち着いて」
 慌ててなまえの隣へ座り小さくなってしまった肩に触れると、なまえははっとトーマを見上げた。
 涙目になり今にも涙が落ちそうになっているのを見て、ひゅっと喉の奥が鳴る。心臓が嫌な音を立てた。
 どうやらトーマが呆れたか怒ったかと思ってしまったらしいことを瞬時に理解し、どう落ち着かせるかトーマの頭は一気に動き始める。
「君のお母さんはモンドの生まれなのかい?」
 極力優しい声を心がけて聞くと、なまえはこくんと頷いた。それだけの行動でも涙が落ちそうでひやひやするが、焦る心の隅できれいだなと思う自分が居てトーマは自身に落ち着け、と言い聞かせる。
 涙が落ちる心配をしながら、泣きそうな女の子を見てきれいだと思うのは明らかにおかしいだろう、と。
「この風船はどう使うかは知ってる?」
「……空に、飛ばすといいと。母にはふたりで飛ばしておいでと言われました」
 飛ばしてもいいのか、となんとなく嬉しくなってしまい、トーマはなまえが握っている風船を見上げた。
 昔は母親と祭りの度に飛ばしていたな、と思うと懐かしさがこみあげてくるようだった。
 それと同時になまえに感じていた、なまえの瞳に感じていたモンドの色も間違いではなかったのだと思うと嬉しくなる。
 まあ確かに、稲妻人が夜中に家出をするという娘を引き止めず許可を出すというのは考えられない。モンドでもなかなか居ないタイプではあるかもしれないが。
 自由な母親から生まれた自由に育てられた娘、と思えば納得はいく。
「なら、オレとで良かったら飛ばしてみようか」
「え?」
 いいんですか? と涙目の瞳がトーマを見上げた。ぱちぱちと何度か瞬きをした瞳からはぱたりと溜まった涙が落ちたが、当のなまえは気にした様子もない。
 涙が落ちたことにトーマのほうが内心焦っているほどである。
 けれど一瞬ののち、ぱあっとなまえは表情を明るくさせると「はい!」と嬉しそうに頷いた。
 が、なまえも落ち着いたことにより、トーマの手が自分の肩に触れていること。そして至近距離からトーマに 覗き込まれていることに気づき、ぶわ、と一気に頬を赤くさせトーマから人ひとり分飛び退いてしまった。
 その拍子に離れた風船はぽこん、と天井にふたつぶつかり、ゆらゆらと揺れる。
 トーマからしてみれば年頃のお嬢さんに破廉恥なことをしたのかも、と冷や汗をかいたが、あわあわと混乱しているなまえを見てまた照れているのだろうと少し安心はできた。そこまで過剰に反応されるとは思ってもみなかったのだが。
「すすすすみませんあまりにも素敵で!」
「……えっ?」
 だが勢いよくなまえから飛び出してきた言葉に、間を置いてトーマは首を傾げた。
 聞き間違いかな? むしろなにが? と顔に出ていたのか、なまえはますます慌て出すとぱたぱたとせわしなく手を動かして謎のジェスチャーを始めてしまった。
 挙動不審、という言葉がこんなにも似合う人がいるとトーマも思わないほどに、挙動不審の一言に尽きる動きだ。
「あっ!? いえ違っ、いえ違わなくないんですけどっ、トーマさんは常に素敵なんですけどあの、そうじゃなくて……いえ、ち、ちが……うぅっ……」
 と思えば、今度は真っ赤な頬で泣きそうな表情のまま、小さくなっていく声と前のめりになっていくなまえのからだ。
 正座をしたまま畳に頭をつけるように折りたたまれたなまえは、桃色の髪がすっぽりとなまえをおおっているように見えるためもはや桜餅のようである。そしてそのまま微動だにしなくなってしまった。
「なまえ?」
「……消えたい……」
 か細く聞こえてきた声に、なまえはそれどころではないのだろうがトーマはぶふっと吹き出してしまった。
 くっ、と腹に力を入れて笑わないように努力をするが、一度入ってしまった笑いのスイッチが切れるはずも泣く。
 若干抑え気味にはなったがくつくつと喉の奥からどうしても笑いが漏れてしまう。
 どうやらトーマを褒めたようではあるが、心の声だったのだろう。それを本人であるトーマに聞かれてしまい大混乱の末での発言らしい。
 ひとしきり笑った後にさすがに申し訳なくなってなまえのほうへ視線をやると、なまえは少し頭を起こして泣きそうな顔でトーマを見上げているところだった。
 真っ赤な頬のまま、空色の瞳はトーマを見上げている。泣きそうではあるものの、じっとトーマを見つめる瞳は少しだけ眩しそうでもあった。
「なまえ?」
 謝ろうと思って開いた口ではあったが、先に出たのはなまえの名前である。それになまえはのろのろと体を起こすと、正座をしたまま視線だけを気まずそうにトーマから逸らしてしまう。
「……笑った顔が、その、見たくて。思わず見てしまいました。すみません、……いえ、そのために笑わせたかったわけじゃなくて、あの、怪我の功名といいますか。私が発言したことは全て私の気持ちですけど、あの、わ、忘れて欲しいです」
 恥ずかしさが限界突破したらしいなまえは小声と早口で一気にそう言った。
 が、トーマもトーマで笑った顔が見たかったなどと言われたのは初めてだった。巷で出回っている恋愛小説でも見ないような言葉に、トーマのほうが照れてしまいそうになるのは仕方がないだろう。
 生ぬるい空気がなんとなく流れたところで、ふと頭上から垂れ下がっている紐がトーマの目に入った。ゆらゆらと揺れている風船の紐を引き、トーマはなまえの前にひとつ、それを差し出す。
「飛ばしてみよう、なまえ」
「はっ、あ、風船……」
 おずおずと緊張したように風船をひとつ受け取り、なまえはトーマが立ち上がった後にゆっくりと立ち上がる。
 照れからか目を合わせまいとしているらしいなまえは、一向にトーマを見ようとしなかったが部屋を出る前にはっとなにかに気づいたように、先程まで風船が入っていた紙袋から少し大きめの巾着を持つと大人しくトーマについて来た。
 なにか入っているらしいが、外から見えるわけもなく。
 なまえを待って庭へ出ると、珍しく誰もいなかった。慣れ親しんだ庭へ降り、屋根にかからない場所へ移動するとなまえが視線を上げて空を見上げる。
 初めてなまえを見かけた時、大きな桜の木の下で海を見ていたような、そんな瞳だった。
 なんとなくそれをじっと見ていたが、ふとなまえの視線がトーマへと動き、目が会った瞬間に少し慌てたように頬を赤くしてギュッと目を閉じてしまった。
 先程の本音がこぼれた時から、素のなまえが見え隠れしている様子がおかしく、そして可愛いと素直に思ってしまい、トーマはふと笑みをこぼしていた。すんでのところで可愛い、という単語はなんとか飲み込むことは出来たが。
「じゃあせーの、で飛ばそう、なまえ」
「は、はい」
 少し緊張しているらしいなまえが、巾着をぎゅっと抱きしめた。再度瞳が空に向いたのを確認して、トーマは「せーの」と掛け声をかける。
 ぱっと同時に離した風船は、くるくるとまわりながらも上空にゆっくりとのぼっていった。
 上空を吹いている風に吹かれながらも、ふたつの風船は遊ぶように上へ上へと飛んでいく。
 かつてモンドで見ていた風景に重なり、なんとも言えない気持ちになった。寂しさ、哀愁、愛しさ。全てひっくるめて固めたような気持ちでのぼっていく風船を見ていたトーマの耳に、弦を弾く音が飛び込んできた。
 え、と思って音のした方──なまえを見ると、その手の中にはライアーが。
 そのライアーの音色は空の彼方にまで届きそうな腕前であり、風を運んできそうな程に自由な音だった。選曲も、モンド人であれば皆が知っているような、明るく楽しい時に弾かれる曲だ。
 数多くの吟遊詩人が歌い、弾き、語り継いできているような有名なものである。
 けれど一朝一夕でできるようなものでもないため、昔からなまえは、なまえの母親にそれを叩き込まれたのだろうことが伺えた。
 空に飛ばした風船が割れたのか、流されたのか、もう見えないところまで行ってしまったのか。姿が見えなくなった頃、なまえの演奏も止まる。
「本当に、オレがずっと嬉しいだけの日だ」
「今日はお礼に来たので、そう言っていただけると願ったり叶ったりです」
 胸が詰まるような気持ちでそれだけ伝えると、なまえはライアーを抱きしめたまま目を細めて笑った。
 照れもせず、困惑もせず、なまえの心からの笑顔だった。
 さあ、と風が吹いてなまえの髪を柔らかく揺らしていく様は、春のようというよりも、トーマにとっては風のように見えた。




「今日はありがとう、なまえ」
「い、いえ、拙いものを聞かせてしまい……! 今後も精進致します!」
 玄関先でぐっと拳を握るなまえに、今後ということはまた聞かせてくれるのかな、と少し嬉しく思ってしまった。
 と、はた、とトーマは先日拾ったブレスレットのことを思い出す。
 今日会うのならと渡そうと思い、懐に入れていたのだ。怒涛の時間だったせいですっかり忘れていた。
「で、ではトーマさん、失礼いた」
「この間の夜に」
 別れの挨拶をいい切る前に言葉を重ねたが、なまえは不快がることもなく「は、はい」とトーマの次の言葉を待ち始める。
「……多分君の落し物を、拾ったんだけど。刺繍糸でできたブレスレット……君のものかな」
 聞けば目に見えてなまえの表情が明るくなっていった。無意識だろうが左手首に右手の指が触れ、するりと何も無いそこを滑っていく。
「そ、そうです!桃色と若草色の?」
「ああ。それで今日はそのブレスレットを……」
 一瞬だけ迷うが、トーマはぐっと拳を握る。嘘をつくことになるが、これきりにしよう、と心に決めて。
 もちろん嘘をつくことへの後ろめたさはあるが、それ以上に次の約束が欲しかった。
「今日は、持ってくるのを忘れていて。オレの部屋に置いてきてしまったんだ」
 持ってきていないと伝えているのに、なまえはずっと明るい表情のままトーマを見上げている。そしてばっと頭を下げると「ありがとうございます!」と叫ぶように言って、すぐに頭を上げた。
「大切なものだったんです。なくしたと思っていたから……!」
「あ、ああ」
「あ、そうだ、トーマさんが都合の良い日に私が取りに……」
「なまえ……その、ごめん」
 急に謝るトーマに、なまえは首を傾げる。何に対して謝られているのか分からず、なまえはそのままトーマを見つめて固まっていた。
「今日、君と会うから持ってこようと思っていたんだけど。わざと、置いてきてしまって」
「……? わざと、ですか?」
 なまえの表情に嫌悪も何も浮かんでいないのを確認して、トーマはふうと息をつく。ドッドッ、と心臓がいやに鳴っているのを聞こえないふりをすることにした。
「その、次に君に会うための……約束が、欲しくて」
 これは嘘ではない事実であり本音だった。
 言ってしまってからさすがに引かれたのでは、となまえを確認すると、首を傾げたまま固まっている。
 真っ白、という表現が似合うようなそれにじっと反応をうかがっていると、急にぼん、と爆発しそうな程になまえの首から上が真っ赤になった。
 抱きしめるようにしていたライアーが力が抜けたせいで落ちたが、それはトーマがなんとか落ちきる前に拾うことに成功した。
 稲妻ではかなり貴重なライアーである。それも綺麗に整備はしてあるが、かなり使い込まれている大切なものだろう。
 先程とは違う嫌な心臓の音を聴きながら、ライアーをなまえの腕の中へ戻してやると、そこでやっとなまえの時が動き始めたらしくぎこちなくそのライアーを抱きしめた。
「は……はひ……、わ、わたしで、よければ……ぜひ……」
「なまえ以外には渡せないよ」
 苦笑を漏らすと、なまえは真っ赤な顔のまま「そ、そうですね」と返事をした。よく分かっていないらしいなまえの、ひと房落ちてきた髪を耳にかけてやると、びくりと目に見えてなまえが体を揺らす。
 その小さな反応ひとつとっても、もはや可愛いという気持ちしかわかず、トーマは自身の気持ちに困惑こそすれ、動揺はしなかった。
「オレは四日後に仕事が休みなんだ。なまえの都合はどう?」
「あいてます! あいてなくてもあきます!」
 前のめりすぎる答えにトーマは笑うが「ほんとに何もありませんから!」と必死のなまえに時間と場所を指定すると、なまえは何度もそれを復唱して「わ、わわわわ、わかりました」と震える声で返事をした。
 少なくとも嫌われている訳ではなく、容姿もきっと気に入ってくれているのだろうことはなまえの態度からもわかる。
 照れたり赤くなったり緊張したりが男性に全く免疫がないご令嬢のそれかもしれないが、だとしてもそれで充分だろうとトーマは思った。
「じゃあなまえ、また四日後に」
「は、はい!」
 ぺこ、と勢いよく頭を下げると、なまえはふらつきながらもみょうじ家のほうへと歩いていった。送ると言ったのだが休みを満喫してほしいとそこだけははっきりと断られてしまっている。
 なまえの姿が見えなくなった頃、トーマはとん、と柱に肩を付けてそのまま脱力した。
 ドッドッ、と早鐘のように打つ心臓をおさえて、はあああ、と誰もいないのをいいことにため息もついて。
「すごいな、心臓って」
 なまえの前ではそれなりに格好をつけたが、約束を取り付けられなかったらどうしようかと、嫌がられたらどうしようかとずっと心臓はうるさかった。
「すごいなあ」
 ひとりの少女に、自分ではままならない感情を感じて直ぐにこれである。四日後までに精神統一でもしたほうがいいんじゃ?と本気でトーマは考え始めていた。
 


20211224

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